人魚の恋の殺し方
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001
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水泡が上がってゆくのを見ていた。
お日さまの光は波間から水中へ射し入り、やがて小さな粒となって深海へ沈んでいく。その光の粒ひとつひとつを追いかけ続けたのが我らが親戚たちだとすると、海面から飛び出し陸へ上がりたくなってしまったわたしは変異種なのだろう――と思う。
初めて恋をしたのは五歳の時で、あれから十一年が経った今でも結局同じ人間へ恋を続けている。シャチやイルカが相手でもよかったところ、どうして人間なんかに、とイソギンチャクにくねくねされたのは一度や二度ではなかった。それでも、異種に恋をするのはある種わたしたちの特権でもある。
シーラカンスに恋をした祖母や深海ナマコに恋をした父と対照に、わたしは水上を目指した。
海水を呑みこんで喉の掃除をしながら、大きくヒレを蹴って上がるための推進力を得る。砕けた小泡の群が東の方角に見えたのを一つの合図にして、していない待ち合わせ場所へと急いでいた。
といって、小泡の主が彼であるとは限らない。この海域を通る船は他にもいくつかあって、中には銛を投げてくる者もある。寄せる波影に隠れながら、頭を出して水上の様子を窺った。カニのように、目が身体の一番上についていたら便利なのに。
――いた。
どうやら彼で間違いはないようだった。波に割れて砕けてしまいそうな素朴な船の上で、網を手繰っている。大きく手を振っただけで、彼はすぐにこちらに気が付いたようだった。
「やあ、おはよう」
彼の挨拶に微笑みで返事をした後で、船縁に手を掛ける。藻でぬめついた木の感触に力を込めて、一度だけ大きく深呼吸をした。
「ねぇ、船の上に乗ってもいい?」
「いいけど、上がれる?」
船上に上がったことは、これまで一度もなかった。腕だけで人魚の身体を持ち上げるのはなかなか難しいし、彼が海のなかに下りてくるほうが簡単だから。
以前よりは軽くなった下肢を持ち上げて、二人乗ればもう満員になってしまう船へ上がる。
彼は、わたしの両足を見てひどく驚いたようだった。
「人間になったの?」
「まさか」
異種になることはできない。でも、わたしたちと人間は『半身』以外はよくよく似ているところもあるから、彼がそう誤解したのも不思議ではなかった。
「ヒレを新しくしただけ」
「……どうやって?」
どうやって、と聞かれても、どうとも言いづらい。なぜ髪が伸びるのか、爪が伸びるのか、やけどをすると赤くなるのか、恋をするとヒレが新しくなるのか――どうしてか、どうやってか、と聞かれても、なんとも答えられない。
だが、異種からはヒレの交換について理由や背景を聞かれることがとても多いのだと、伝聞で知ってはいた。
「わたしたち、元々そういう生き物なの。ヒレの部分は、好きな種族のものに変えちゃうの」
恋をしている間、父のヒレは深海ナマコのものになったのだろうし、祖母のヒレはシーラカンスのものになったのだろう。彼ら異種と人魚は寿命の長さが違うので、わたしが物心ついたころには二人の恋は尽き果てていて、元に戻ってしまっていたけれど。ただ、人と人魚はせいぜい数十年の寿命差しかない。もしかしたら、わたしは死ぬまで恋を尽かせず残しておくことができる珍しい人魚になれるのかもしれなかった。
「好きな種族のものに……って、なんにでもなれるってこと?」
「ううん。恋をした相手だけ」
まだ上半身と完全に馴染まず、すこしむくんでいるような気のする足を揉んでみた。元々のヒレよりも大分やわらかくて、貧弱な気がする。特にヒレ先がそうだ。彼は服や靴でこれらを保護しているらしかったので、陸に上がってついていくならそういう準備品が必要になるだろう。
服の作り方を聞いておいたほうがいいだろうかと顔を上げれば、目を真ん丸にした彼のびっくり顔がそこにあった。
「……どうしたの?」
「恋って、まさか僕に?」
「当然」
五歳のころからあなたのことが好きだった。改めて言ったことはなかったかもしれないが、こうもしつこく追い掛け回しているのだから当然分かっているだろうと思っていた。昨夜十六歳になった瞬間に、わたしのヒレは、生まれた時から決まっていたみたいに自然に人間の足に変わった。
「……驚いた。正直、君たちにそういう感情があるとは思っていなかった」
「それは嘘でしょう。笑ったり泣いたり、今まで色んな喧嘩をしてきたと思うけど、わたしたち」
「僕からすると、君はまるで魔女みたいに見えるんだよ。僕らのことなんて、寿命の短い子どもか何かだと思っていて、とても相手にしてもらえていないような気がしていた」
彼の混乱はなかなか解けていないようだった。人魚の半身が変わったからといって、こうも驚き戸惑う異種も珍しいだろう。兄は数年前に半身をタコにしたが、相手からは特に何ひとつ言葉をかけてもらえなかったと、いっそ不満そうにしていた。
「たまに分からなくなる時はあったんだ。君は人間を超えた生き物だな、と思う時もあれば、なんというか……いや、これはあくまでも僕らにとっての、という注釈を前提にした話ではあるけれど、物知らずな感じもあったりして。そりゃあ、人間の世界のことを君が詳しく知るはずもないけど」
「今日は随分お喋りね。何が言いたいの?」
その後に続く沈黙がずいぶん長かったので、わたしのほうも少し覚悟はできていた。
「うん、言おう。僕、婚約してるんだよ」
「コンヤクってなんだっけ?」
「結婚の約束をしている相手がいるんだ」
結婚制度については、さすがに知っていた。
「そんな話、聞かせてくれたことなかったじゃない」
「漁業組合に入った時も、成人式を終えた時も、特に君にはそうとは言わなかったよ。世俗のこと……というと変だけど、人間の世界の話をしたってつまらないだろうな、と思ってた」
「わたしは人間の世界とは関係ないから?」
「まあ、そうだ。海に生きるきみたちに、海域の制限がどうとか、今年の税金のパーセントがどうとか、そんな話をしたってしょうがない感じがして」
ようやく、彼にとってのわたしという存在がどういうものだったのか、少しずつ理解ができてきた。わたしは、一歩距離を置いた空想か幻想か何かであり、絵本の中の生き物で、決して現実ではなかったのだ。だが人間の足を得たことで、突然彼の目の前に姿を現してしまった。
「では、わたし、あなたとは結婚できないの?」
「そうなんだ。まさかそういう風に思ってくれているとは思わなくて」
「じゃあ、どうだと思ってたの?」
「正直なところ、僕とは別の生き物だと思ってた。まさか人間になれるだなんて」
わたしは決して人間になったわけではないのだけれど、正しい説明はどうも難しそうだ。
「……僕が断っても、ヒレは戻らないよね?」
まだ立つことはできない足を、座ったままに掲げて見せた。これが人魚のヒレに見える?
「まだ、恋が尽きていないんだと思う」
「そのままじゃ困るよね?」
実はそんなに困らない。ヒレの形状がすこしぐらい変わっても、他の器官が変わったわけでもないし、十分泳げる。けれどわたしは黙っていた。そうすることで彼に憐れんでほしがっているのだと気づき、ようやく羞恥を覚えた時には、彼はすでにわたしの手を握っていた。
「なんと言えばいいか」
「いいの。なにも言わないで」
「そんなわけには」
「人間って言葉重視だものね。ごめんね、もうちょっと早く言えばよかったかも」
まるで自分のせいみたいにおさめようとする自分の、あるいはこの気弱さを、清廉さや純粋さと呼んでもらえたこともあったような気がする。このままヒレが人魚のものに戻ってくれたら、もういいよって言葉にせずにあなたに伝えてあげられるのに、足は依然としてそこにあった。その翌日も、その数年後も。
彼にとってのわたしは絵本の中の存在であり続け、日々の漁の合間に会う生活には、驚くほど変化がなかった。次の日からはもう会えないかもしれないと大量の涙で海の嵩をすこし引き上げたのが恥ずかしくなるほどに、彼は仕事場を変えなかった。わたしが船に近づくのも、この足で船に上がるのも止めなかった。
遠目で見れば、わたしはただの人間の娘のように見えるだろう。だからあまり誤解されるようなことは慎んだほうがいいだろうか、と聞いた時にも、「君が人魚であることは、僕の知り合いはもう皆知っているよ」と言っただけだった。
「奥さんも?」
「そりゃあ、もちろん」
言った後ですこし気まずそうにした彼の表情の機微について考えながら、足を見る。まだ恋心はしぼまない。とっくの昔にシャチに乗り換えたっていいところ、何故こんなにも頑なにこの恋を守ろうとしているのか、よく分からなかった。ただ、目の前には人間の半身がある。まだ自分が何一つ諦めていないことの証跡がここにある。
もはや彼もわたしの足について話題にあげることはなかった。わたしの方だって、特にこの恋について何かを言うことはなかったけれど、言葉以上に純然たる事実として、足がここにある。毎度この人間の半身を見せるのは未練がましく見えるだろうとは思いつつ、以前のように船縁に引っかかって下半身を見せずにいるのも、それはそれでどうだろうという気がしていた。父や兄に、彼に会いに行くのを止められたことはなかった。わたしの足が人間である限り、止めようとする人魚はきっといない。
彼が結婚式を挙げたらしいこと、子どもが産まれたらしいこと、その子がどうも男の子であるらしいこと、などなどは、実際にそれらが起こってから暫くあとになって、何かの話題の折りになんとなく察することができた。そういえばこの情報は伝えていなかったんだった、とハッとする彼の横顔に気付きながら、人間という生き物の迂闊さを楽しんでいた。奥さんのほうにも、同じように、人魚について曖昧な情報伝達を続けているのではないかと思わされた。
彼の言った「知り合いはみんな人魚のことを知っている」という言葉が決して嘘ではなかったと分かったのは、恋を始めてから二十一年が経った頃だった。
「へぇ、その子が人魚か!」
いつものように彼の船へ上がろうとしたちょうどその時、少し遠くから声を掛けてきた者があった。よくこの海域を通る船だ。遠目から、何度も見たことがあった。
彼はすこし慌て始めていたが、声を掛けてきた船はぐんぐんと近づいてくる。なんとなく足を見せるのが憚られて、わたしは船縁にしがみついたまま半身を水中に沈めて待っていた。砕けて寄せる波が、船の壁にわたしの身体を打ち付けている。少し痛いな、と思った。
二艘の船が並んだ。声を掛けてきた者は、彼と同じ年頃の青年だった。身長は彼よりも少し高く、声は彼よりも少し低い。
「こんなに近くでは初めて見たな」
一応挨拶をしておこうかと、わたしは口を開く。
「はじめまして」
「……喋るのか?」
あら失礼な、とは思ったが、きっと彼が「人魚は喋る」ということを周囲に伝えていなかったのだろう、と思い至った。
「なんでここに? こっちの海域は、お前の担当じゃないだろう」
と、彼がすこし責めるような口調で言った。
「たまには小魚が取りたくなった。邪魔したか?」
「いや、そういう訳じゃないけど……」
「お前と人魚って、なんか合うよなぁ。イメージの問題かな。いや、悪く言っているんじゃないけど」
その後も、来訪者は軽口をたたき続けていた。わたしと話している間も常に手を止めない彼とは対照に、来訪者は一度網を投げた後は手繰って感触を確かめることもせず、ひたすらお喋りに興じている。たまに、わたしにも声を掛けてきた。
「人魚って、何食うの?」
「小魚と貝。あと海藻かしら」
「あんまり俺たちと変わらないな」
「オレタチ、って?」
「え? えーっと、人間たちってこと」
人間のことをオレとも言うのだろうかと考えながら話を聞いていると、どうやら自分のことを「僕」といったり「わたし」といったりするのと同じく、「オレ」という言い方があるらしい。
「いつもこいつと何の話してるの?」
なんと言えばいいだろうか。彼が代わりに答えるだろうかと思ったが、いつもより汗を出して網を手繰り寄せているばかり、特に口を開く様子もなかった。自分なりに、人魚らしい答えを考えてみるしかなさそうだ。
「……お天気の話とか、魚の話」
「へぇ! だからお前、いつも大漁なのか。こう見えて、腕の良い漁師で有名なんだよ、こいつ」
「そう、お役に立てたならよかった」
「俺にも今度教えてくれる?」
「そう出来たら嬉しいけど、実は、漁に貢献できそうなことは大して知らないの。わたしたちは沢山取ったりしないし」
「あはは、そりゃあ、そうだ。海の中で魚屋を開くわけでもないもんな」
陸上には、人間の食料をたくさん売る店があると聞いたことがある。自分の食べものを、自分で取らなくてもなんとかしていけるのが人間という生き物なのだ。
暫くなんともない話を続けた後、来訪者は漁を終えるために網を上げた。お世辞にも大漁とはいえない釣果だったが、特にそれを気にする様子もない。最後に来訪者は船縁にまでしゃがみ込んで、琥珀色の瞳でわたしを覗き込んだ。
「ねぇ、また話しかけてもいい? いつか俺は、人魚が泳ぐところを見たい」
「いつでもどうぞ」
今、わたしのヒレは人間のものなのだと伝えたら、さぞかしがっかりされるだろう。彼のイメージの中では、「人魚」の半身はあの生来の魚らしいヒレの形をしているに違いない。
大きく手を振って去っていく彼が見えなくなったころ、恋をしていた人の漁も終わった。船に上がるかい、と聞かれたので、少し悩んだが、たしかに見せておいたほうが良いだろうと思い、船縁に掛けた腕に力を込めて下半身を引き上げた。
「……それは?」
恋をしていた人の目が、まんまるになる。そりゃあ、そうだろう。
足は、人魚のヒレに戻っていた。どうして、と思う気持ちと、もったいない、と思う気持ちとが混ざり合いながら、しかし深く納得もしていた。
「ねぇ、少し昔の話をしない?」
「昔って?」
「わたしがあなたに初めて足を見せた時、あなたが、悪かった、みたいな感じのこと言ったでしょう」
「悪かった、とは言えなかったと思うけど、まあ、気持ちの上ではそんな感じだった」
丁寧で繊細な回答だ、と思う。いつだってそうだ。この人は自分の気持ちの正確性というものを大切にしていて、嘘を吐くことを極端に恐れている。まるで、絵本に出てくる主人公の少年みたいに。
当時のことを思い出す。ただそれだけで、人魚の半身はゆるく解け、再び人の足の形を取った。それを見て、彼はますます慌てたようだった。
「今、ヒレに戻ってたよね?」
「そう、うん。もしかしたら少しずつ、あなたのことを忘れられるのかも」
「……ってことは、会わないほうがいいのかな」
「いいえ」
恋を殺す方法が、わたしには分かり始めていた。なぜあなたに二十年以上も恋を続けられたかというと、理由は一つしかない。あなたのことを、大して知りもしなかったからだ。
「人間は陸にたくさんいるって、前に言ってたわね」
「言った」
「一度、陸に連れて行ってくれない? たくさん人がいる場所に」
服を着て、靴を履いて、そうしたら陸場を歩いても、あまり目立たないかもしれない。いや、人魚だとすぐにバレてしまうかも。でも、全てに幻滅して海に戻ることになったって、ここにはシャチだってイルカだってタコだってシーラカンスだっている、なんだっているのだ。
彼は少し顔を傾けながら、絞り出すように言った。
「あの、こう言うのは本当になんだけど。あいつも既婚者だよ」
「キコンシャって?」
「すでに結婚している人のこと」
「そう。でも、そういうことじゃないと思う」
半身は、人の足のままだった。でも明日の朝起きた時にどのようになっているのかは、自分でももう分からない。
ワカメで作ったポーチの中から、今まで拾い続けていた人間の道具をいくつか取り出してみる。これだけあれば、街へ行けるだろうか? 特に気になっていた道具を船の縁に置いて、彼を見上げる。
「靴をね、履いてみたいんだけど、どう持ってきたらいいのか分からなかったの。左右の色が違うの。わけわかんないでしょ?」
きっと内心バカにされるだろうと分かりながら、そう言った。人の世界に行くにはわたしは物を知らなさすぎると、あらかじめ分かっておいてもらったほうが良いような気もしていた。
あなたは何も言わず、でもわたしをバカにすることもないまま、靴を見つめていた。さっきまでここにいた怠け者の方の彼なら、そんなのいいから俺が新しい靴を買うよ、と言ってくれそうだと思った。
彼は言った。
「じゃあ、僕はその左右違いの色を目印に、君を探すとするよ。人間ってね、君が思うよりたくさんいるんだよ。すぐ迷子になっちゃうからね」
「そう。それはそれで嬉しい」
「それはそれで、って、何?」
「この靴を目印に探すって言ってもらえて、嬉しいってこと」
あふれる涙で彼の姿が歪んでいく、頬を伝って口端に触れる涙が、海そのもののようにしょっぱい。やっぱり失敗だったかもしれない、と思いながら、色の食い違う靴を抱きしめた。
ヒレは依然として、五本指の人の足の姿をしていた。
<了>
人魚の恋の殺し方 mee @ryuko
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