第2話 後編
ある日、同業者の集まる研修で西條と久々に会った。地元の狭い世界なので、そういう場で会うのはほぼ必然だ。
最近は毎日西條と連絡を取り合っていて、仕事や結婚への悩みを相談するようになっていたのだ。だから、久しぶりという感じはしない。
研修後、二人で飲みに行った。一軒目は居酒屋。二軒目はピアノの生演奏があるバー。カウンターに隣合って座った。あんなに毎日やりとりをしているのに、よくもまあ、まだこんなに話せるもんだと思う。
西條の会社は大手で、情報量も経験値も違う。羨ましい。こんな弱小の会社で手探りな仕事をしている自分がちっぽけに感じた。
「もし、”ウチに来ないか”って言われたらどうする?」
と、西條が言った。要は引き抜きだ。
「……断りますね。大手でやれる自信がないから」
今ですら上司に噛み付いて、社長に対して不満をぶちまけている。気に入らない人間とは一緒に働けない。大手で人間関係が複雑になったら、私は怒りで燃え尽きてしまうだろう。
「そうか……話を聞く限り、全国表彰レベルだよ。給与だって、今の比じゃなくなる。それでもやっぱりその会社で働くのがいいの?」
「……好きにやらせてもらってるのがいいので。結果を出してれば、何でも自分で決められるし。まあ、上からしたら、こちらが何をしてるかなんて、微塵も理解してませんが」
「俺が言うのもなんだけど、現場と経営のバランスが悪いじゃないか。そのしわ寄せを受けているのは聡子さんだ。だいぶ無理をしているように見えるよ」
エリアマネージャーの西條は、経営寄りの仕事をしている。こちらがおままごと経営であることは見抜かれていた。
「まあ……ダメになったら、辞めますよ。自分は不器用な人間なんで、そうそう自分らしくいられる場所なんてないんです。だから自分で作らなきゃいけない」
本社からパート従業員の労働時間を削減するように通達が来た時は、上司に食ってかかった。元から低い賃金で、彼らが善意でサービス残業をしてくれているところがあるのだ。そんなところをチマチマ削ったところで、焼石に水。会社の根本的な事業の組み立てに問題があるのだから、経営そのものの失敗なのだ。現場のやりくりでどうにかなる次元は終わっていた。
「そう……。自分の思い描く仕事を実現できてる人間なんてそうそういないから、羨ましいね。聡子さんに比べたら、俺は何をやってるのかな、って思う時がある」
西條はウイスキーのグラスを見つめながら言った。
「西條さんも、そんな風に思う時があるんですか?」
「結婚してから守りに入ってるな、って感じるんだ。会社員の収入なんて、これからどれくらいもらえるかわかってしまうじゃないか。その中で暮らしていかなきゃいけない。贅沢をしたいわけじゃないけど、まあ、つまり会社に養われているって現実をひしひしと感じて、それをまだ受け入れ切れていない青臭い俺がいるんだ」
「意外ですね。もう会社に忠誠を誓っているのかと」
「この仕事も会社も好きだから、感謝はしているよ。でも、この間、大学の同期で学生起業していた奴と久々に飲んでね。かなり苦労はしたらしいんだが、ちゃんと社長をやってたんだ。頭のデキが違うし、俺なんかには到底できない人生送ってるから羨ましくはないけれど」
「……けれど?」
言葉尻を拾う。
西條は一度チラリと私を見て、またグラスを見つめた。
「彼が未来のことを話す姿が本当に若々しくて。夢を実現させる人間って、違うんだなって思った。その様子が聡子さんに似てるんだよ。聡子さんは従業員やお客さんのことを楽しそうに話すよね。俺は、自分の部下とそういう関係になかなかなれないんだ。夢を語り合いながら働くってどういう感じなんだろうって、不思議だし、それは羨ましいと思ってる」
「……楽しいですよ、それだけがあの会社の唯一のいいところで」
「はは。聡子さんを抱えるのは大変だな。ちなみに、聡子さんの夢は何なの?」
「私の夢は、気に入らない人間を全員ぶちのめしていけるくらいの権力とお金を手に入れることです」
「物騒だね。気に入らない人間って?」
「人の言葉をしゃべらなくて、話を聞いていない奴です」
「怖すぎるな。俺は大丈夫? ぶちのめす前に一度警告してね」
「西條さんは大丈夫です。主に、うちの会社の役員の話ですから」
「夢について聞いたはずだけど。まあそういうところが現場を楽しませているんだろうね、うん。なんか酔いが醒めたな」
西條は追加のお酒を頼んだ。
♢♢♢
バーを出ると裏路地で、人気はなかった。
西條は私の隣を歩き、バーの入り口から少し離れた所で、私の頭を撫でた。抱き寄せられて、私たちはキスをした。西條の唇は案外冷たく、無味だった。何度も唇をはんだが物足りはしない。
最後に、西條が私の額にキスをした。西條の唇はやっぱり冷たかった。
私は、西條の肩に頭を寄せた。
どうして今までこうしなかったのか。私たちは、こうあるべきなのに。そう思っていたが、今、わかり切った。そして猛烈な悲しみが込み上げてくる。
私たちはホテルに行き、言葉も交わさず互いの体を貪った。不思議と、西條と体を重ねることは初めてではないように感じた。
体の重み、体温、鼓動、汗の臭い。
これほど近づいて肌と肌を密着させてもまだ遠い。
粘膜で感じてもまだ遠い。
お互いに”この人だ”と確信できたのに――私たちは、不貞を働く非倫理的で断罪されるべき存在なのだろうか。
♢♢♢
私は、西條が曖昧な物言いをしないところが好きだった。必ず自分の意思がある。世界から見たら個人の意思などか細い糸のようなものだが、その糸で織られた布は、その人だけの模様を浮かび上がらせる。思考の軌跡と集積。人生のタペストリー。その模様に憧れる人がいて、励まされる人がいる。そんな話ができる相手は、彼しかいなかった。
「聡子さん、もう、ちゃんと休んだ方がいい」
西條は、いつも私にそう言う。西條の言うことは正しいとはわかっていても、もう休み方がわからない。ウリアゲウリアゲと、狂ったオウムのようにしか言わないアイツらのことを考えると、はらわたが煮え繰り返って夜も眠れない。
毎日、スケジュールは分刻みで決まっている。時々、真由美は私の代わりに営業の仕事もしてくれた。
「差し出がましいとは思っているんですが、聡子さんに休んでほしくて……」
差し出がましいなんてとんでもない。彼女は十分一人前だった。
休日の会社のイベントに、パートの奥様が私の代わりに出てくれることになった。あんなクソイベにわざわざ申し訳ないと言った。
「私でできることなんて、これくらいですから。聡子さんは、休めるときに休まないと……」
私は、周りが積極的に配慮しないといけないほど、自分をコントロールできなくなっていた。社会人として失格だった。
唯一安らげるのは、西條とベッドで過ごす二時間程度だけ。西條のセックスは、私に溜まった不安と悲しみを引き取ってくれた。
心の底から泣き叫びたい。
私は孤独だった。
どれほど尊敬されようと、どれほど期待されようと、どれほど結果を出していようと。
私は孤独だった。
その孤独に寄り添ってくれる西條とは、祝福される関係ではない。
私は、世間から石を投げられる存在なのだろうか。
よくもまあこんな情緒不安定な女を構っていられるな、と思った時があって、なぜ私に優しくするのかと訊いた。
「ずっと昔から、聡子さんと一緒にいたような気がするんだ。放っておけないんだよ」
彼はそう言って、ベッドに丸まって横たわる私の頭を撫でた。
♢♢♢
西條との関係が一年経とうとしたとき、私は高校時代の同級生と再会した。とんとん拍子で交際が始まり、結婚することになった。
西條は、おめでとう、と言ってくれた。
交際が始まってからは西條とは会っていない。
彼には転勤があるので、私は会社を辞めることにした。それと同時に真由美も退職するという。真由美は会社から散々引き留められたが、退職の意思は固かった。
「聡子さんがいないこの会社じゃあ、居る意味がないからね」
真由美は出会った頃と比べて、見違えるほど明るく笑った。
システムもマニュアルも作ったが、そもそもの仕事が属人的だからきっと無駄になるだろう。優秀だったあの人たちも給与の折り合いが悪くなり、辞めていってしまった。そのくらいの人たちでも、やりがいだけでは働けない時代になったのだ。
「聡子さんがいなくなったら、私たちはどうすれば……」
パートの奥様が言った。
「なんとかなりますよ。新しい人たちと、一からやるつもりで。きっと、いいものができますよ」
慰めではない。要は覚悟だ。みんながみんな正解を知っていて、スマートにやってるわけじゃないんだから。
あれほど頑張って作った職場も、仕事も、泡のように消えて無くなった。少し寂しかったが、人生は続いていくし、待ってはくれない。むしろ、自分には出来すぎた経験をさせてもらったと、会社に感謝した。
西條に、退職をしたとメッセージで報告をした。
『仕事はどうするの?』
『しばらくは適当に』
『家庭に収まる人とは思えないけど。旦那さんをぶちのめしてはだめだよ』
『カレーライスとハヤシライスの違いもわからない奴だと、怒る気にもならない』
『まあ、なんか丁度いいところに落ち着いたみたいで良かったね』
『お世話になりました』
本当に。
『いいえ、こちらこそ。本当は、一緒に働いてみたかったです』
その一文を見て、思わずスマホ画面に涙をこぼしてしまった。
そうだね、そういう未来も良かったかもしれないね。
西條とは、きっと来世でも会えるだろう。
(完)
タペストリー 千織 @katokaikou
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