ソナタハ短調
増田朋美
ソナタハ短調
その日も大変暑い日で、うなぎ屋ばかりが繁盛して、ほかはあまりという現象があちらこちらで起きていた。その日も杉ちゃんは、水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になったり、おだててなんとか食べさせようとしたりしているのであったが。
「こんにちは。」
製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いた。
「おう、いま手がはなせないの。上がって来てくれるか?」
と、杉ちゃんがいうと、
「言われなくてもそうしますよ。」
と言いながらやってきたのは、植松淳さんであった。やはり夏の着物をきているけれど、左腕がついていないために、杉ちゃんからフック船長という渾名をつけられてしまっているが、そんな名前の悪役とは正反対で、正直で真面目な顔をしていた。
「なんだ、フック船長、また曲が採用されなかったの?」
杉ちゃんが苦笑いを浮かべてそういうと、
「はい、そうなんです。だから僕、作曲の仕事は向いてないのかなあと思いまして。気がついたらここにきてました。」
と、植松さんことフックさんは答えた。
「今回は、どんなご依頼だったんですか?」
水穂さんがそうきくと、
「はい、子供さん向きのピアノソナタを書いてくれと言われたんですが。楽譜はこれ何です。」
フックさんは、持っていた風呂敷包みを開いて、楽譜を取り出した。
「はあ、子供のためのピアノソナタ。はいはい、でも植松さん、子供さんのためのピアノソナタにハ短調という調性は果たして向くでしょうか?」
「やっぱりそうですか。」
水穂さんにそう言われて、フックさんはいった。
「そうですかというか、まずいでしょう。子ども向きのソナタを書くのだったら、ハ短調というのは暗すぎますし、重たすぎますよ。ベートーベンのソナタだって、悲愴ソナタは、決して夢のある曲ではないでしょう。そうなると、子供さんには向いていませんね。弾きたがる方もほとんどいないじゃないですか。これではまずいですよ。」
水穂さんが、楽譜を読んでそういうと、
「そうですか。それは申し訳ありません。やっぱり変でしたよね。こうなると、やはり作曲家という仕事は向いてないのかなあ。」
フックさんは肩を落として言った。
「向いてるとか向いてないとかより、注文者の言う通りに曲を書くのが作曲家です。それに反してはいけません。」
水穂さんは、そういった。
「だから、子供さん向きのピアノソナタを書いてくれと言われたのだったら、子供さん向きの調性とか、曲調とか、そういうことを考えるんですよ。」
「そうそう、甲乙善悪はつけなくていいんだよ。ただ、事実がどうであったか、だけを考えればいい。暑いのなら、暑い対策考えればよいのと同じだと思えばそれでよいのさ。まあ、それに向きも不向きもいらないよ。それで良いだろ。」
杉ちゃんがカラカラ笑いながら、フックさんの左手のない肩を叩いた。
「しかしですね、これ以上どうしたらよいかなんて、なんにも思いつかないですよ。具体的にどこを直せばよいのですか?」
フックさんは、申し訳無さそうに言った。
「そうだねえ、まあ、自分でわからなかったら他人にアドバイスもらうしかないかな。ほんなら一度曲を誰かに公開したら?」
杉ちゃんは、単純に言った。
「そうですね。いまはSNSもあることですし、誰かがアドバイスしてくれるかもしれませんよ。」
水穂さんが優しくいう。
「フリーソフトでも、自動で演奏してくれるものはあるようですから、一度やってみてはいかがですか?」
「そうですか。SNSは、そんなに役に立ちますかね?」
フックさんが聞くと、
「やってみなきゃわからないから、まあ、とりあえず、アップしてみることじゃないのかなあ?」
と杉ちゃんが言ったため、フックさんは、わかりましたと言った。
「使い方とか、あんまり詳しく知らないですけど、やってみますよ。」
それから数日後のことであった。フックさんが杉ちゃんたちと、曲のことについて話をしていると、
「ごめんください。」
と、一人の男性と、一人の女性が、製鉄所にやってきた。
「はい、どちら様でしょうか?」
杉ちゃんが応答すると、
「あの、失礼ですが、こちらに植松淳先生はいらっしゃいますか?私、池江と申します。住所は、富士市の中里に住んでおります。」
と、男性はいった。
「中里の池江さん。そんなやつが何しにきたんだよ。」
杉ちゃんがいうと、
「はい、実は先生がアップされた子供さんのためのピアノソナタですけど、あれをこちらにいる池江瀧子がどうしても弾きたいと言い出しましてね。」
と、池江さんは言った。
「池江瀧子?それはだれですか?ちょっとプロフィールと言うか、そういうことを話してみてくれ。」
杉ちゃんが聞くと、
「はい、音大をでたとかそういうわけではないのですが、4歳からピアノを始めて、一度も途切れることなくやっていて、私が医療関係の仕事をしていることもあり、すでに、病院などで、オリジナルの曲を弾いておりまして。」
と、彼はこたえる。杉ちゃんは隣で立っている女性をみた。なんだか、立っているのがやっとというか、周りの事象にも関心がなく、自分の中だけに居るような、そんな雰囲気がある女性である。そんな人が本当に、ピアノソナタを弾くのだろうか?
「それで、植松先生に可能であれば、楽譜を譲っていただきたいと思いましてね。一度ご自宅に伺いましたが、奥様から、こちらの施設に言っていると聞いたものですからね。それで、こさせていただきました。」
池江さんは、そう状況を説明した。
「はあ、そうなんだね。池江瀧子さんね、じゃあ、こっちにきてくれ。一度、覚えている箇所でよいから、弾いてみてくれよ。」
杉ちゃんが、そういうと、瀧子さんと呼ばれた女性は、表情一つ変えず、ぼんやりしたままであった。杉ちゃんにしても誰にしても、知的障害があるんだなと言うことがわかるひとであった。杉ちゃんがまあ上がってくれというと、池江さんが、瀧子さんに靴を脱ぐように言った。それもどうやら、介添えがないとできないらしい。瀧子さんはどうにかこうにかして、靴を脱いで、製鉄所のなかに上がった。池江さんに手を引いてもらいながら、部屋の中にはいり、水穂さんたちがいる、四畳半へ向かっていった。とりあえず杉ちゃんの先導で四畳半へ到着すると、
「お前さんの作った曲を弾いてみたいやつがでた。ちょっと事情があるやつだが、それはそれで良いだろ。名前は、えーと、」
「あ、あ、あ。」
たぶん自己紹介をしたのだろうが、瀧子さんは言葉になっていなかった。水穂さんが、隣にいた池江さんに、
「何か、知的障害がお有りなんですか?」
と聞いた。
「ええ、幼児程度の知能しかないと。」
池江さんはそう答える。
「そうなんですね。そういう人の中には、すごい演奏能力をしめしたりする人もおられますよね。それなら、一度弾いてみていただけますか?」
フックさんがそういうと、
「了解しました。」
と池江さんは、瀧子さんにピアノを指差し、一つうなづいた。瀧子さんは、それがわかったらしく、ピアノの前に座って、ピアノソナタを弾き始めた。確かに、曲の解釈もこれでいいのかなと思われる箇所もあるが、指はきちんと動いているし、非常に上手だった。
「ほう、なかなかいけるな。うまいとは言い難いが、フックさんが描いた曲に命を吹き込んでくれたのは疑いない。うん、なかなかよい演奏じゃないか。」
と、杉ちゃんがいった。
「そうですね、確かに演奏はよくできていますけど。」
水穂さんもそれは認めた。
「それでは、今度行われます発表会で、演奏させてもらってもよろしいでしょうか?瀧子はこの曲を、とても気に入って居るようですから。」
池江さんがそういうと、
「そうですね。それは無理だとおもいます。」
と、水穂さんは言った。
「きっと、瀧子さんにとっても負担がおおきくなり、良い方にはすすまないのではないでしょうか。たぶん瀧子さんには、いつもと同じ生活するだけで精一杯なときもあると思います。それを、ピアノで壊してしまうのは、酷というものです。」
「まあそうだけどねえ、水穂さん。」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「でもさあ、せっかく弾いてみたいって出てきてくれたわけだからさあ。それを、可哀想だからとか、そういうことで止めてしまうのもどうかと思うぞ。だって瀧子さんはできないわけではないでしょ。ちゃんと演奏できてるじゃない。それなら、一度大舞台に出させてやっても良いんじゃないかと思うがな。」
「いいえ、そんなことは決してありません。瀧子さんのような人は、ただでさえ日常生活を送ることでさえも難しいんです。そんな女性が、世の中へ出たらどうなります。それが原因で精神不安定にでもなったら、より負担がかかるのは本人だけでは無いんですよ。それを考えるなら、今のままでずっといさせてやるべきなのではないかと思います。」
杉ちゃんがいくら説得してみても、水穂さんの意見は変わらないようであった。確かに、水穂さんの言うことも一理あるが、それでも、このソナタを弾いてくれる人物が一名現れてくれたと言うことは、フックさんにしてみたら、嬉しいことでもあった。なので、一度だけでいいから弾いてほしいと思ってしまうのだった。
「それでも良いんじゃないですか。一度やってみたいと言う気持ちがあるんだったら弾いてほしいですよ。作曲者としては、その曲にどんな解釈が入るのか、見てみたい。」
フックさんは思わず自分の本音を喋ってしまった。
「でも、そのせいで、又瀧子さんが不安定になってしまったら。」
水穂さんがそう言うが、
「だから、そうならないようにレッスンとか、そういうものがあるんじゃないのかな?確かに、瀧子さんが安定するのも大事だけどさあ。それだけでは、ちょっと意味が違うんじゃないの?」
杉ちゃんがそういった。
「水穂さんも、あんまり格式とか、そういうことに縛られすぎず、彼女にレッスンしてやればいいじゃないかな。」
そういうわけで、水穂さんは、池江瀧子さんにピアノのレッスンをすることになった。瀧子さんは、一度もサボることなく、週に一回レッスンにやってきて、一生懸命ピアノを弾くのであった。演奏技術もよくあるし、音色も少しづつ美しくなった。もともと、音楽性の良い女性なのだろうか。上の音をよくひびかせると専門用語ではいうが、しっかりと高音部というか主旋律を響かせることができるようになっている。
「なかなか、よくできているじゃないですか。それではもう少し、ピアノで歌うことを覚えましょうね。ピアノとは、弱くと言う意味ですよね。それで、歌うようにというか、ピアノの部分を響かせて、静かに歌うことです。それをやってみましょうね。」
水穂さんは、そう瀧子さんに言った。瀧子さんは、わかりましたと言って、とりあえずソナタの一部を弾いてみたが、
「そうですね、そこをですね。歌うような感じで弾いてほしいということです。」
水穂さんが言った。
「はい。」
瀧子さんは、小さな声で言った。そして、そのとおりにピアノを弾いてみたのであるが、
「もう少し、穏やかに弾くことはできますか?」
と、水穂さんは言った。瀧子さんは、もう一度弾いてみたが、
「それでは、静かにひくというか、そうですね。左手を少し抑えるというところです。」
水穂さんがもう一度言った。
「そう。」
瀧子さんは、そういって、そのとおりにしようと思ったけれどできないのであった。水穂さんはできるだけ感情的にならず、
「それでは、もう少し小さく弾いてみてくれますか。左手を。」
水穂さんはそう言うと、
「わからない!」
と、瀧子さんは言った。水穂さんはそれに対して感情的になることもなく、
「それなら、僕が弾くような奏法で、弾いてみていただけますか?」
と静かに言って、左手を静かに弾いて手本を示したのであるが、
「わからない!あたし、どうしたらいいのか!」
瀧子さんは、素っ頓狂な声で言った。
「大丈夫です。僕が、やってることを、真似すれば良いのです。それだけのことです。」
水穂さんは優しく言うのであるが、
「わからない!あたし!」
と、瀧子さんは、そう言ったのであった。
「大丈夫ですよ。本当に真似すればいいだけの話ですから。それだけの話しです。」
水穂さんは優しくそういうのであるが、
「わからない!」
と瀧子さんはそう言って泣き出してしまったのであった。水穂さんは、そっと瀧子さんの肩を叩いてやって、
「大丈夫ですよ。」
と、声をかけてやった。
「あたし、あたし!」
瀧子さんは、そう言って涙をこぼしているのであるが、
「いえ、大丈夫です。大丈夫。ただ僕のすることを真似すればそれで良いんです。ピアノの演奏は、まず初めに、尊敬する人の演奏を真似ることから始めるんです。」
水穂さんは静かに言った。
「それでは、やってみましょうか。パニックすることはありません。僕がしている演奏をそのまま真似れば、演奏できるようになります。やってみてくれますか?」
瀧子さんは、水穂さんのことを、一生懸命見た。水穂さんが、左手をワンフレーズ弾くと、瀧子さんは、そのとおりにした。
「その通りですよ。よくできてますね。上手ですよ。それを何回か繰り返してみましょうか。それが、定着すれば、又演奏が変わってきます。そうすれば、又演奏が変わってきますよ。そうやって、少しずつ、演奏を修正していけば良い。レッスンとは、その繰り返しです。」
水穂さんが瀧子さんにいうと、
「そうなんですか。」
瀧子さんは、小さな声でそういった。
「ええ、そういうことですよ。そうやって、少しずつ修正していくことだと思います。」
水穂さんが、細い声でそう言うと、
「あたし、そんなことしてもらえなかった。」
と、瀧子さんは言った。
「してもらえなかったとは、どういうことですか?」
水穂さんがそう言うと、
「みんなあたしのこと、大きな声でだめだとかそういうこというから。」
瀧子さんはそういった。
「そういうこと?」
水穂さんが繰り返すと、
「みんな、私のこと、いけない人だと言うの。あたしのことを、愛してくれているのは私だけだって、そういうの。」
瀧子さんはそういうのであった。
「そうなんだね。それは、大変だった。きっと、瀧子さんは、行けない人でも無いし、だめな人でも無いと思います。」
水穂さんは、そういったのであったが、
「そうかな?」
と、瀧子さんは、そういうのであった。それは、なんだか本当のことを言っているのか、なにか重みがある言葉で、なにか真実を言っているような言葉だった。
「そうなんだね。確かに、瀧子さんは、そんなことを言われるかもしれないですし、辛いことでもあるのかもしれないけれど、それでも、瀧子さんは、瀧子さん何だから、そのままでいてくれればずっと良いんですよ。」
水穂さんはそう言った。
「そうなの?」
瀧子さんは生まれて初めてそういう言葉を聞いたと言う顔をしている。
「ええ。だって変えられない事実だってあるわけだし、変えられる事実のほうが、殆ど無いと思うんです。だから、もうそのままで行くしか無いでしょう。」
水穂さんが静かに言った。
「そうなの?」
もう一度瀧子さんは聞く。
「ええ。」
水穂さんが一番わかり易い答えをいうと、
「そうなんだ。」
瀧子さんは、そう答えるのであった。
「じゃあ、レッスン続けましょうか。もう一度、左手を静かに弾いてみてくれますか?」
水穂さんがそう言うと、瀧子さんは、ハイと静かに言って、ピアノを弾き始めた。その日のレッスンは無事に終わった。お父さんの池江さんが迎えに来たとき、瀧子さんは、これまでになかったような笑顔を見せた。
「一体どうしたんですかね。瀧子が、こんなに嬉しそうにしているのは、始めてみました。」
と、池江さんが驚いた顔でいうと、
「きっと、本人に話を聞いてみてくれればわかると思いますよ。」
水穂さんは、静かに言った。池江さんは瀧子さんを見るが、瀧子さんは、何があったか説明する気持ちにはならないようで、ただ嬉しそうに、空を眺めているだけであった。二人が、にこやかに帰っていくのを見て、水穂さんは、ほっと小さくため息をついた。
それから、又何日かたって、製鉄所に、手紙が届いたのだった。杉ちゃんが水穂さんに手紙を渡して、誰から来たのか読んでくれと水穂さんに頼むと、水穂さんは、布団の上に座って、
「えーと、池江瀧子さんからですね。この間はレッスンしてくださりありがとうございました、もうすぐ本番、頑張って見ます。よろしければ先生方も来てください。」
とひらがなだらけの文章を読んだ。それと同時に、3枚の紙切れが布団の上に落ちた。発表会のチケットであった。しかもご招待と書いてある。本当にやるつもりなんだなと、水穂さんも杉ちゃんも、驚くばかりだった。
そして発表会当日。体調を崩してしまった水穂さんの代わりに、杉ちゃんと、フックさんが発表会の会場に到着した。二人は、ご招待券を受付に渡して、会場係に案内されて、指定された席に行った。まず初めに主催者が挨拶して、それから一人ひとりの発表が始まる。ピアノ教室ではなく、ピアノサークルと呼ばれるピアノを愛好する人たちの集まりであった。みんな、それぞれの持ち曲を中には間違う人もいたけれど、一生懸命弾いている。五人ほど演奏が終わって、
「六番、池江瀧子さん、ソナタハ短調。」
というアナウンスが流れた。そして、舞台袖から主催者と一緒に瀧子さんが出てきて、静かに舞台の中心に一礼する。そして、瀧子さんは、ピアノの前に座った。主催者が瀧子さんの前に楽譜を置いてくれて、瀧子さんはピアノを弾き始めた。水穂さんに教わった通り、静かにピアノで歌い上げた演奏になった。演奏が終わると、みんな大きな拍手をした。又主催者に連れられて舞台の中心に立った瀧子さんは、深々と頭を下げるのであった。
「いやあ、こんな演奏をしてくれるとは、思いもしませんでしたよ。」
作曲者であるフックさんは、杉ちゃんにそういったのであるが、
「本当は、普通のやつにやってほしかったのと違う?」
と、杉ちゃんに言われて、
「そんなことありません。」
と、しっかり答えたのであった。
「まあねえ、お前さんの曲がまともに上演されたのは初めてだもんな。今までいろんな形で演奏者に断られてきて、嫌だったでしょ。」
杉ちゃんがいうと、
「いいえやっていただければ、それで十分過ぎます。」
フックさんはにこやかに言ったのであった。
ソナタハ短調 増田朋美 @masubuchi4996
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