1−5 コモン

 紗江と出会ったのは、その頃であった。

 2学年の始業式、晃と紗江は初めて共に言葉を交わした。言葉を交わしたと言っても、晃が読んでいたヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を彼女も読んだことがあるというだけの会話であった。中学生の頃もそのような経験はよくあったため、これっきり彼女と会話を交わすことはない、そう思っていた。

 その日の放課後、晃はカンディンスキーの展覧会を見に、諏訪市から南東にある茅野市の美術館に訪れた。

 絵を描くことや絵画を鑑賞することも昔から好きであった。特に抽象画には目がなく、東京でピカソ展が行われた時は学校を休んでまで見に行ったりもしていた。中でもカンディンスキーの『コンポジションVIII』を初めて見た時にはその表現と絵画に対する解釈の奥深さに、心を奪われた。そのカンディンスキーの展覧会が長野県で行われるのを知り、すぐに行く計画を立てた。


 美術館に到着し、フロアマップらしきものを見ていると、何やら聞き馴染みのある声が聞こえた。声の方に目を向けると、そこには先ほど軽い会話を交わした、木村紗江の姿があった。

「お、今井くん」驚いた様子で紗江が言った。

「木村さん、だよね」晃は頬を撫でながら続けた。「どうしてここに…」

「カンディンスキー、好きなの?」紗江は『いくつかの円』を指差して言った。

「うん、結構好き」頭をかきながら続けた。「木村さんは」

「好き。結構どころの話じゃない」

「僕も実は結構どころの話じゃなくて、滅茶苦茶好きなんだよね」晃は焦って訂正した。

「さっき『結構』って言ってたじゃん」紗江はうるさく論った。

「さっきのは間違い。今のが真実」そう言って2人は微笑した。

 その後は紗江と共に約2時間ほど一緒にカンディンスキーの作品を鑑賞して解散した。紗江はどうやら絵画を鑑賞するのは好きだが描くことは好きではないらしい。紗江はそのような状態のことを〈見る専〉と言っていた。未だにその言葉についてはよくわかっていない。

 紗江と共にした2時間はあっという間であった。今までこれほど趣味の合う人間は会ったことがなかった。厳密に言うと会ったことはあったのかもしれないが、そんな人間と話したことはなかった。自分の思想や考えを他人と共有することが、これほど楽しい行為であったのか知ることができた。

 「この自由だけど自由じゃない感じがいいんだよね」紗江は『ムルナウの家』を見ながら言った。

「自由に描く方が何かと自分のこだわりだったり、プライドが絵に出やすいんだよね」

「〈自由〉によって〈自由〉を拘束する絵画、ってことか」

「人生と同じだよ」晃はぶっきらぼうに言った。「自由であればあるほど自分がこれから何をしたら良いのかわからなくなる。人は失敗を嫌う生き物だから、結局他人の模倣をするだけの人生になって、自由なんてものはすっかりどこかへ消え去ってしまう。〈自由〉って1番簡単そうだけど、1番難しいことなんだよ」晃は瞬きひとつせず落ち着いた様子で語った。

「今井くんって、面白いね」紗江は晃の方を見ながら言った。「今度、絵見せてね。描いてるんでしょ」

「わかった。見せられるほどのものでもないけど」

「見せられるようになったら、教えて」

「うん」晃は俯きながら言った。


 「また話せたらな」晃は先程の出来事を思い返しながら、小さな声で言った。時刻は18時を過ぎていた。髪の長い少年は寄り道をせず、茅野駅の改札を通り抜けた。

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異物  琥臥 @Kuga5260

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