忘却の海
虹のゆきに咲く
忘却の海
「グサ」という鋭利な刃物で刺されたような音が僕の胸に響いた。しかし、それはどうやら夢であった。何とも言えない不思議な気持ちに襲われた。青と白のコントラストが美しい、雪を知らない潮風の香りが漂う小さな沖縄の津堅島に、酒浸りの父、家政婦との三人暮らしだ。母は既に他界していると聞いた。高校を卒業し小さな印刷会社に就職したばかりの僕と無収入の父であるが、生活には何故か不自由していない。
津堅島は沖縄県のうるま市に位置しており、人口600人、周囲7キロメートル、那覇港までフェリーで15分という距離であり、本島へは近いが、生活していく場としては決して便利だといえる町ではない。しかし、島から広がる海は扇形に広がり、僕の家は島の海側の小高い丘の上にあるため見渡しが良い。
父は白髪で腰も曲がっており、やせ細っている。そのうえ酒浸りで朝から飲む始末だ。酒は決まって沖縄の青いラベルの泡盛を中くらいのコップに並々と次いで、一気に飲み干す。その姿を毎朝、家政婦は見ては子供を窘めるように注意していた。
「ご主人様、朝からお酒を飲んでいたら、肝臓を壊しますよ」
毎朝の日課のようにも思え、僕からしたら、哀れみを通り越して滑稽にも思える。顔色といえば、通常ならば紅色に染め上がると思えるが、青白く見ている方もそのようになりそうな父の表情を見ては、軽蔑の気持ちが積みあがっていく。しかし、今日は異なっていた。それは家政婦の叫ぶような声が家の中に響き渡った。父の部屋は2階にあり、階段を駆け足でかけのぼり、ドアをぶち壊すような勢いで僕は入っていった。
父は左手に酒の入ったコップを持ち、右手には対になっていると思われるペンダントを握りしめ、テーブルにもたれ意識がなかった。何故かペンダントの近くには、白い一輪の百合の花が、何かを訴えかけるように置いてあった。家政婦は取り乱していたが、僕は普段の父のだらしない生活を見てきたせいか、動揺はしなかった。すぐさま救急車を呼び寄せたものの、病院に着くとすぐに死亡が確認された。どうやら、救急車の中では息絶えていたようだ。死因は特に外傷もなく遺書もなかったため、急性アルコール中毒が原因であると診断された。しかし、果たしてそうだったのだろうか? 疑問が残った。就職が決まった時の笑顔がいつになく温かく優しかったからだ。確かにそれは理由にならず、直感的なものであるかもしれないが、ただの病死とは思えなかったからだ。
父は地域の人々との関わりが薄かったため、小さな葬儀で済ませ、遺品整理のため部屋を片付けていた。部屋は父の印象と異なり、清潔感が漂い上手く整理されていたが、一枚の写真と手紙の切れ端のようなメモ用紙が見つかった。それは机の引き出しの中に大事にしまってあった。若い頃の両親ではないかと思われるものであり、モノクロの写真には海を背景に潮風の香りが漂ってくるようで、二人の幸せそうな笑顔が映し出されていた。なぜか写真のガラスケースは割れていた。メモ用紙には次のように書かれていた。
愛している。愛している。それなのに君は何故だ。何故だ。
百合の香りが俺の体に染みついている。
手のひらの乗るようなメモ用紙はなぜか破り捨てられ一部は部屋にはなかった。何かしら違和感を覚えたのは気のせいだろうか? 僕は家政婦に心当たりがないか尋ねてみた。色白でふくよかな体系の家政婦は、父の若い頃の話をし始めた。当時は病院にて医師をしており、活躍していたとのことであった。現在の様子を見ていた僕は驚きを隠せなかった。家政婦は京子という名で若い頃は父の病院の看護師長を長年していたとのことだ。しかし、なぜ、この島に父は住み、家政婦として共に来た理由について、僕は聞いていない。
家政婦に、写真に写っている、若い頃の両親と思われる男性と女性について、尋ねてみた。写っている男性はやはり父であり、女性は僕の母であるとのことであった。幸せそうに写っていたのに、なぜ、写真カバーのガラスが割られていたのだろうか? そして、僕には双子の妹がいるという事実も聞いた。いわゆる二卵性双生児というもので、夢にも思っていなかった。どうして、父も家政婦も妹がいるということを隠していたのだろうか? 僕は気になり、早速、市役所に伺い関係書類を取り寄せたが、初めて見る戸籍謄本には香澄という妹の名が確かに記載され、母の死の記録も残されていた。
「健作君、お父さんが亡くなられたのね、何も言葉をかけてあげられなくて、ごめんなさい。私も何と声をかけてあげればいいかわからなくて……」
「いや、気にすることはないよ。僕も今日から仕事をがんばるよ」
「健作君は繊細だけどカッコいいし、早く元気になって頑張ってね。応援しているから。そういえば、健作君のお父さんは素敵な人なんでしょ。母から聞いたけど、一度でいいから会いたかったな」
そう、突然、会社にて僕の肩に手を置き言ってきたのは、友達であり、僅かながら女性として魅力を感じている、正美さんだ。彼女からの口からは意外な言葉がでて、僕は驚きを隠せなかった。彼女は優しいけれど、八方美人的なところがあって、心を寄せたわけではない。しかし、笑顔にいつも癒されていた。周りの同僚も心配してくれた。この島は人口は少ないけれども温かい人ばかりだ。
僕には友達は多くはなかったが、孤独感が常につきまとっていた。最近よく思うことがある。それは、何故生きているのだろうかということだ。家政婦が作る食事も美味しい、小さいながら、就職したばかりの同僚や上司も優しく、職場環境も恵まれている。そう考える理由は恋人がいないからだろうか? それとも、今まで父を見てきたからだろうか?
父はどうしようもなく、酒に溺れていた。そして、夕方になると海に出かけることが多かった。何故、海に出かけていたのだろうか? それがとても気になり、僕も出かけることにした。島から見える海は夕暮れ時の美しさが僕の心に突き刺さった。まるで、白い砂浜に漂う波は何かを訴えているようにも感じられた。父はここに来て何を思っていたのだろうか? そういえば亡くなる前日も海に出かけていた。しかし、いつもなら、寂しげな表情で帰ってくる姿を見るのだが、そうではなかった。姿をみせずに、食事もせず、自室で相変わらず酒を飲んでいたと思われる。
親子は当然ながら遺伝というもので、似てくると聞く、子は親の背中を見て育つとも言う。僕もいずれはそのようになるのであろうか? そう思うと複雑な気持ちになる。しかし、時折見せる、愛情に溢れた笑顔の真意は何であったのだろうか? あれほど、軽蔑していた父が、何故か今になって愛おしくなった。父は間違いなく死んだのだ。この世にはいない。でも僕の中に感じられるのだ。生とは何だろう? 死とは何だろう? 僕の存在とは? 父の若い頃と異なり、僕は人の役にもたっていない。誰かのために生きているのだろうか? 自分の欲望を満たすだけに過ぎないような気がする。もう一つ父と異なることは僕には愛する人がいない。僕はまぎれもなく父と亡くなった母の子供だけど、そもそも、父は母を愛していたのだろうか? そのように思う僕は考え過ぎなのだろうか? もっと楽に肩の力を抜いて生きればいいじゃないか? しかし、僕はそうは思えなかった。
会社から、休みをもらい、父が活躍していた東京に行くことを決意した。父が歩んだ道を探せば、自然と生きている意味がわかるような気がした。解決はしないかもしれないかもしれないけど、せめて、きっかけくらいは掴めるのではないかと思ったからだ。那覇空港から宝石のように青く透き通る海を背景にして、僕は向かった。果たして何が待っているのだろうか?
機内で僕は父の姿が目に浮かんだ、微かに残る記憶をたどると、幼い頃は絵本を読んでくれたり、肩馬をしてくれていたりして、とても優しかった。僕が病気になった時はおんぶして病院にも連れていってくれた。しかし、いつの頃からか、いつも寂しげな表情で酒を飲んでいた。暴言を吐くわけでもなく、静かに飲んでいたのだ。時々、僕が話しかけると優しい表情に変わった。もう少し孝行してあげてもよかったと思った。小学校の運動会では父が一生懸命に走ってくれるなど親子らしい関係はあった。でも、僕は寂しかった。周囲の同級生は母親がいるのに、いつも、僕と父と二人きりだったからだ。父もきっと寂しかったに違いない。悲しみが次第にわいてきたのか、僕は自然と頬を伝わるものがあった。後悔しても遅い。そう思いながらも到着した。
初めてみる東京の空気は味気なかった。当然ながら潮の香りはしない。代わりに汗の匂いのする満員電車に乗り、家政婦から教えてもらった父の勤務していた病院へと向かった。
父の勤務していた病院は、巨大な樹木が天に向かって、そびえ立つというような雰囲気の、総合病院であった。事前に手紙を書いていたので、受付を通し当時において、同僚であった斎藤氏が面会をしてくれた。柔和な雰囲気を醸し出していたが、僕が当時のことを尋ねると、一変して表情が変わった。そして、重々しく語り始めた。
「彼は、つまり、彼とは君のお父さんの幸樹君だ。奥さんの出産について悩んでいてね、僕に打ち明けたよ。たまたま、僕は産婦人科の専門だったからね。僕は、恵子さんには出産に立場上、中絶を勧めることはできなかった。しかし、リスクが大きかった。それは、妊娠してからの恵子さんの精神状態に問題が生じたからだ。彼とは親しかったから、個人的には中絶を勧めたよ。しかし、彼は彼女の嬉しそうな顔を見ていると簡単に反対をして、中絶の説得をすることが出来なくてね。すると、案の定、問題が発生した。恵子さんの精神状態が極めて不安定になったんだ。妊娠すると、稀にあることだが、特に酷かった。そして出産後も、ただでさえ、精神状態が一時期、悪化することが多い。僕はさっきも言ったように、あいつに出産を反対した。彼も同じ気持ちだった。そして、彼は悩み苦しんでいた。一方で恵子さんは中絶する意思はなかった。正確に言うと、判断できる精神状態じゃなかった。中絶というのはね、母親の承諾がないとできないんだよ。考えてごらん。確かにまだ人間にはなっていないかもしれないけど、一つ、いや、二つの生まれてくるべき子供を殺してしまうことと同然なんだ。恵子さんの両親は当然ながら出産に反対した。出産は帝王切開にて無事成功した。しかし、恵子さんの精神状態は想像していた以上に悪化した。そして、病院のビルから目を離した隙に飛び降りたんだ。悲惨な結末だった。僕は彼に言葉をかけることすらできなかった。そして、彼は悩み抜いて病院から去った。思うに、病院で勤務すると思い出して忘れられないだろうからね。それ以降は連絡が途絶えた」
斎藤氏はため息をつき、僕は事実を知り呆然となった。そして、さらに当時の父の様子を詳しく尋ねると、懐かしむような表情で答えた。
「ああ、幸樹の若い頃の姿を聞きたいんだね。それはもう、時の人だったよ。そういえば、やはり、君はお父さんに似ているな、君みたいに長身でハンサムだったよ。それに加えて、振舞いもカッコいいし、ファッションセンスも抜群だったな。何と言ったって、数々の難しい脳外科のオペを成功させ、カリスマ医師として、テレビでも引っ張りだこだったよ。まあ、君は大人しそうだが、彼はトークも上手く社交的だったね。しかし、恵子さん、つまり、君の母だね、彼女と知り合ってからは芸能活動も一切しなくなったな。それほど、彼女を愛していたんだ。いやあ、彼女もまた、美しかった。僕も正直、幸樹が羨ましかったよ。そういえば、当時、うちの病院の看護師長も彼の熱烈なファンで、恵子さんと交際するようになってから、ショックのあまりに病院を辞めたんだったな、それほど、人気者だったんだよ。今頃彼女もどうしているのかな? 彼女だけでなく、他の看護師達もファンが多かったからな。まあ、そんな感じだよ」
今までの父親の姿とのあまりに違いに驚いた。そして、京子さんが家政婦までして、ついて来たのは父を愛していたからだろうか? もしかして、父の死と関係があるのだろうか? 僕は気になり仕方がなかった。その夜に夢を見た。それは両親と僕と妹の4人で手を繋いで歩いている夢だった。突然、雷がなる大雨の中で僕と父だけになり、遠くで妹が泣いていた。まだ見ぬ妹の顔は写っていなかった。気づいた時は体中汗だらけだった。夢は現実を物語るのだろうか。まさに今は僕の気持ちを象徴しているような気がした。
妹はどうしているのだろうか? 僕は早速、妹の所在を調べて伺った。どうやら、祖父母と生活しているようで、立派な門構えに三階建ての豪邸だった。恐る恐る、玄関のチャイムを鳴らすと、一人の女性が現れたが、すぐに、妹だとわかった。なぜなら、写真で見た母親と瓜二つだったからだ。妹は輝きを放っていた。その時、僕は僕でなくなったような気がした。そして、父の死を告げるとその場で泣き崩れた。僕はどうしてあげることもできなかった。泣き声が響いたのか祖父らしき人物が現れた。事情を話すと神妙な表情で応接室まで案内してくれた。そして、僕に優しく話しかけた。
「君が健作君だね。私は君の母の父、祖父になる。わざわざ、沖縄から大変だったね。今、思えば彼も可哀そうだったよ。恵子、君のお母さんだ。出産には私は反対した。そして、お互いに話し合ったよ。彼は出産について、やむを得ないと主張した。それは、その通りだった。私も随分悩んだ。しかし、母体が心配だったんだ。結局話し合った結果、彼は出産をすることを決断して、私は反対し続けた。その結果、君は聞いているかね?」
「はい、聞いております」
「そうか、それは君も辛かっただろう。私は幸樹君を憎み、彼には冷たい態度をとったよ。今思えば、可哀そうなことをした。私の責任でもあるよ」
祖父は次第に頬を伝わるものがあり、遠くを見ているような表情に変わった。僕は不思議な感情に襲われた、それは自らの存在についてだ。矛盾しているような気がして複雑な気持ちになったからだ。僕はつい、感情的になり祖父に言い放ってしまった。
「それじゃ、僕は生まれてこなければよかったのですか?」
「それは…… 健作君、申しわけない…… これ以上、何も言うことはないから、今日はお引き取りください」
祖父は悲し気な表情で僕に伝えた。妹は泣き崩れていたままだった。複雑な思いでホテルへ帰ることにした。考え過ぎなのだろうか? 外は雨が降っていた。傘をさすことさえ忘れていた。そして、涙混じりの雨音が聞こえた。気が付くと雨が上がってホテルの方に虹がかかっていた。理由はわからないが印象的であった。しかし、虹はすぐに消えて無くなっていった。その場に立ちすくんで動けず、空を見上げると母が優しく微笑んでいるような気がした。何かを見出すこともなく、失意のまま、島に帰った。なぜか、心の中には妹の姿が残った。母親に似ているからかもしれないが、少し違う感情のようで戸惑いを感じた。
僕は会社に復帰した。会社は小さく、仕事といえば、簡単な事務作業であった。また、家から近く、自動車の免許を持っていないため、バスで通う事とした。時間にして5分という距離だ。バスの中の窓を開けると潮風の香りと緑と青の混じりあった美しい海が見える。それが、楽しみの一つだ。すると、バスの中に白いワンピースを着たひとりの女性が乗ってきた。それは偶然にも妹であった。事情を尋ねると、父の住んでいた町を一目見たかったからだそうだ。そして、線香をあげたいからだと言う。僕は父の死という空の雲から、微かに木漏れ日のような光を感じていた。
仕事に向かう途中だったので、妹には島の名所を地図で案内してあげて、帰社のタイミングを見計らい、共に自宅へ向かうことにした。家で線香をあげると僅かながら笑みを浮かべていたのが印象的であった。妹なりに気持ちの整理がついたのだろう。自室へ仕事の用をすませて、部屋へ戻ると家政婦と談笑していた。妹はさぞかし、悲しみを抱えているだろうと思っていたので一安心した。
妹は僕を海に誘った。父は海が好きだったことを僕が告げたからだ。彼女は何事もなかったかのように、美しい海に感嘆し、海の中に入っていった。僕は未だに心の整理がつかない。あれだけ父を軽蔑しておきながら、突然悲しみが舞い降りてきたようで、彼女同様、素直に喜べなかった。しかし、輝くような妹の姿に魅入られていた。彼女は膝がつくくらいまで、海の中に入っていった。その様子をしばらく眺めては、自分の割り切れない思いが複雑に交錯していた。どうして、彼女みたいな気持ちになれないのだろうか? 父はもう亡くなっているから、気持ちを切り替えないといけないのに、僕は何故か出来なかった。海が泣いているようにしか見えなかった。それなのに、どうして、彼女は子供のように、はしゃぐことができるのだろうか?
「グサ」という鋭利な刃物で刺されたような音が僕の胸に響いた。
どうして、妹が美しく輝いて見えるのだろうか? 父の死に戸惑う僕の心と裏腹に何とも言えない安らぎを感じるのは何故だろうか? 僕達はまぎれもなく、父、幸樹の子供。何故だろう?
妹に、どうして、そこまで、元気に振舞うことが出来るのかを聞いてみた。すると微かな笑みを浮かべて話し始めた。
「あれから、私は色々考えました。祖父から母が亡くなった理由を初めて聞きました。あまりにも悲惨で母の死と父の死を受け入れるまでに時間もかかりました。でも、私の事を想って産んでくれたことを考えると、嬉しかったです。そして、母は父と新婚旅行で津堅島をはじめ沖縄に行き、特に津堅島の美しさに感動したということでした。母もこの島で父と楽しく過ごしたということを考えると、つい、はしゃいでしまいました。両親の気持ちがわかったような気がして、それに母が父のことを愛している理由がわかったような気がするのです。健作さんは父に似て素敵です。私は……」
妹はそれ以上は言わなかったが、僕も妹も事実を今頃知ったのか不思議に思った。傷つかないように配慮してくれたのだろうけど、何故かそうは思えなかった。
血の繋がりとは何だろう? 僕は妹が愛おしく感じた。それは妹であるという感情と異なっていた。いくら今まで遠く離れていたとしても、このような気持ちになれるはずがないのに何故? 彼女は海から帰るときには僕に肩を寄せて「お兄ちゃん」と呼んでいた。それについても不思議な響きとして聞こえた。
正美さんに、淡い憧れを抱いたことがあるが、恋愛感情とは異なっていた。もしかしたら、これが、恋愛感情というものかもしれない。でも、兄妹じゃないか? そんなはずがない。あってはならないことだ。そう思っていたところ、彼女が僕の手を握ってきた。僕は思わず彼女の手をしっかりと握りしめた。目を彼女に向けると風が一瞬吹いて、髪が流れ、透き通るような、うなじを見ては胸が張り裂けんばかりだった。どうして、そういう感情を持つのだろうか? 彼女が美しいから、それとも血の繋がりが何かしらの影響を与えているから? 妹はぼくのことをどう思っているのだろう? それが気になって仕方がなかった。遠くから聞こえる波の音がざわつくように、僕の心もざわついていた。ざわめきは留まることを知らないようであり、父も母に対してこのような感情を抱いたのかもしれない。僕は父の子だから、母に瓜二つの妹に対してそう思ったのだろうか?
僕達は家に帰り着き、家政婦と食事をしていると、家政婦は突然、遠い記憶をたどるように、当時の様子を僕達に話しかけてきた。
「実は、お父様とお母さまのことでお話したいことがあるのです。今でも目を閉じるとあの時のお二人の会話が焼きつくように思い出します」
「幸樹さん、幸樹さん、驚かないでね。実は……」
「ああ、わかっているよ。俺たちの子供が出来たんだろう。おめでとう。良かったね」
「どうして、わかったのですか?」
「これでも医師だからね。恵子の最近の様子を見て気づいたんだ」
「でも、幸樹さん、もっとびっくりしますよ」
「それは何かな?」
「なんと、双子なのです」
「それは…… どうかな?」
「どうしてですか?」
「だって、恵子は体が生まれつき弱いだろう。ただでさえ、出産は大変なんだぞ」
「いえ、大丈夫です。幸樹さんの子供を産みたいです。どうかお願いします」
「わかったよ……」
家政婦はため息交じりに話を続けた。
「そして、お母さまの喜びようと言ったら…… 言葉で言い表せないほどでした。しかし、幸樹さんは出産について戸惑いを感じていらっしゃったようでした」
「幸樹さん、幸樹さん」
「どうしたんだ、俺の名前を呼ぶのは一回でいいぞ」
「ほら、赤ちゃんがお腹を蹴っているのです。触ってください」
「本当だね。僕も恵子の出産に全力を尽くすよ」
「お二人の会話は微笑ましかったです。でも……」
「京子さん、それ以上言わなくても……」
「そうですね。その後の話は聞かれたのですね」
「はい」
「ご主人様は必死に健作さんを育てようと、慣れない会社で頑張っていました」
「どうして、酒に溺れたのですか……?」
「それは……」
「お兄ちゃん、わかるような気がする」
「どうして?」
「だって、辛かったからでしょ」
「それなら、最初から酒に溺れているはずだよ」
「それも、そうね……」
「ご主人様は、健作さんの成長ぶりを、嬉しそうに、いつも私に話してくれたのです」
「そうでしたか……」
「しかし、本心は辛そうでした……」
僕達が生まれるために、母親は亡くなってしまった。そう思うと父も複雑な気持ちだっただろう。
家政婦はため息をつきながら話した。
「ご主人様が酒に溺れてしまったのは、何もかも忘れてしまいたいと、思ったからかもしれません……」
「そうよ、きっとお兄ちゃん」
「そうだね……」
僕はそう言いつつも割り切れない思いでいっぱいだった。生とは死とは? いまだ、その意味がわからなかった。
妹はしばらく滞在することになった。どうやら、大学の夏季休暇を利用して、元々、沖縄に観光も兼ねて来たとのことだったが、津堅島で父のことを感じながら過ごしたいという気持ちになったようだ。僕は心が躍るようであった。何より、妹が近くに感じられて、まるで恋人ができたような気がしたからだ。ガラス箱に入った人形のように思えた。妹が歩く音、微かに漂う香りが気になって仕方がなかった。僕は初めて恋というものをしたのだろうか? それとも、妹という今までなかった存在があったため、そう感じたのだろうか? しかし、僕はいずれにしても愛おしいという言葉しか見当たらなかった。妹は僕のことをどう思っているのかということも気になった。
再び父がよく行っていた、海辺に行きたいと言い出した。僕は心が躍った。到着すると、今度は二人して、浜辺に置いてあった樹木の上に腰かけて話をした。時は父が訪れていた、夕暮れ時であった。妹は父が何を思っていたのかが知りたかったようだ。すると、妹から思ってもいない言葉が発せられた。
「お兄ちゃん、私は思うの」
「何を思うのかな?」
「どうして、私は存在するのかなって、どうして生きているのかなと最近になって思うの」
やはり、兄妹なのだろうか? 僕が最近、感じていたことと全く同じだ。僕もそれに当然ながら同調した。その日は二人で話し合った。妹も孤独であったとのことだった。そして、再び、「お兄ちゃん」と言いながら、僕の手を握ってきた。僕は今度は戸惑った。どうも、単なる兄妹だからという理由とは思えなかったからだ。そして、妹は僕の胸に飛び込んできた。倫理に反するじゃないかと思いながら、僕は優しく抱きしめた。両親もそういう体験をして、そう思ったのだろうか?
夕暮れ時は優しく感じた、僕は壊れてしまいそうだった。愛おしい、愛おしい。そういう感情しか僕の中には存在しなかった。鼓動が感じられた、優しい香りも感じられた。海の波音もまるで、僕達を許してくれているようにも思えた。時が止まってしまえばいいのにとも思った。それ以上のことはなかったけれども、触れ合う時は長く感じられた。しばし、時を過ごし、僕達は手を取りながら、自宅へと帰った。
そして、別れの時が来た。僕は妹と再会を誓い、津堅島から那覇までのフェリー乗り場へ向かった。乗り場は沈む夕日に包まれていた。妹はフェリーに乗り込み、柵に乗り出し、僕に懸命に手を振っていた。髪は黄金色の光を受け、赤く染まっていた。フェリーは別れの余韻を残したまま、出発した。僕は必死に手を振った。それは妹も同様であった。遠く見えなくなるまで振り続けた。
何事も無かったかのように日常生活が始まった。僕は会社で一生懸命に働いた。同僚の正美さんは相変わらず可愛らしかったが、妹のような感情にはなれなかった。家の中も落ち着きを取り戻したかのようだったが、突然、家政婦の声が響いた。
「健作さん、遺品を整理したら、この二つのメモのような手紙がでてきました」
「どうして、今頃……? あれだけ父の部屋を整理したのに」
僕は急いで、目を通した。
幸樹さんへ
この間はありがとうございました。
幸樹さんと出会えて幸せです。
今更、何をなんて言われるかもしれませんが、愛しています。
幸樹さんのことを愛しています。
そして、あの時の百合の花を大事にしまっています。
幸樹さん、狼が毎日のように襲ってくるのです
助けてください 助けて
幸樹さん、可愛い子供が産まれてきましたね。
幸せです。
幸樹さん、幸樹さん、どうして 私に冷たくするのですか
幸樹さんは優しいですね
幸樹さんの優しい笑顔が大好きです。
どうして、幸樹さんは空の上に行ってしまったのですか
私をおいて お空の上に行ってしまったのですか
幸樹さん、きっと可愛い子供が 生まれてきますね。
男の子だったら、健作、女の子だったら、香澄がいいです
生まれてきたらみんなで遊園地に行きましょうね
どうしてか、わかりますか?
家族みんな、カ行なのですよ。いいでしょ?
幸樹さん、二人のためにペアのペンダントを買ったのよ。きっと、無事に産まれてきますよね。
幸樹さん、助けてください。また 狼が襲ってきます
蛇もいます 助けてください こわいです
幸樹さん 空の上に行ってしまったのですね
空の上からピアノの音が聞こえてきます
幸樹さん、幸樹さん
私も空の上にいきます
待っていてください
幸樹さん
もう一枚は父が書いたと思われるものだった。
何故だ。
無事に産まれてきたじゃないか
生まれてきた時のあの安らかな恵子の笑顔
なぜか、父の書いたものは途中で終わっていた。理由はなんとなくわかった。その理由は僕と妹が過ごした時に感じたものと共有するような気がした。僕はその後、妹に何度か手紙を送った。しかし、返事はなかった。何故だろうか? 僕との時間を後悔したのだろうか? わからない、その言葉しか思いつかなかった。恋人でもできたのだろうか? また、再会できるのだろうか? その時も同様に同じ気持ちでいられるのだろうか? そう思った時だった。突然どこからか、声が聞こえてきた。
私がいけないのです。私が…… そうだよ…… こんな手紙をあいつに見せてしまって。
どこからか、突然に不気味な声と笑い声が響き、僕は恐怖に包まれた。しばらく動く事が出来なくなった。
気が付くと夕暮れの海を一人で歩いていた。結局、父の死因はわからなかった。けれど、何となくわかったことがある。それは、百合の花が海の上に美しく浮いているのを見てしまったから、そして、ゆらゆらと揺れる百合の音と香りが、優しく僕の胸に響いた。だから、生きているということだ。
忘却の海 虹のゆきに咲く @kakukamisamaniinori
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