そのあだ名、下品につき

そのあだ名、下品につき

「あだ名!?」

 俺と織島おりしまが校内のトラブルシューターみたいなことを始めてから3人目の依頼者となったのは、同じクラスの委員長・佐伯真奈美だった。

 放課後、3人だけの教室で思い詰めた表情で切り出された用件が「あだ名」だったせいで俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまったのだ。

「そう、あだ名。ニックネーム。……玉木くんのあだ名を皆に呼ばせないようにして欲しいの」

 玉木も同じクラスの男子だ。俺も玉木のことはあだ名で呼んでいた。

「玉木のあだ名って、タマキン……だよな」

「……そう」

 その言葉を聞くのも嫌だというように、佐伯は顔を歪めて頷いた。

「なんで呼ばせたくないんだ?」

「それ、本気で言ってる?」

「……つまり金玉を想起させるあだ名を聞くのが嫌だと」

 確かにその言葉自体は金玉を想起させるとはいえ、イントネーションは「HIKAKIN」と同じではなく「ワトソン」の方だ。気にし過ぎじゃないか、と俺は思ったが問題はそこではないらしい。

「もちろんそれもある。だけど、一番は玉木くんの気持ち」

「気持ち?」

「毎日毎日、人からそんな下品なあだ名で呼ばれ続けることがどんなに辛いか、想像したことは無い?」

「……ごめん。無かったな」

 俺は織島の顔を見る。織島は首を横に小さく振った。

「僕たちは男だからっているのもあるかもしれないけど」

「多分、佐伯が思っているよりも金玉っていうのは男にとって身近な存在なんだ」

 佐伯は俺の言葉を無表情で受け流してこう言った。

「そんなことはどうでもいいの。例えば、邑崎むらさきくんがもしそのあだ名だったら私もこんなこと頼まない」

「その場合、俺が金玉由来のあだ名をつけられる原因の方が気になるけど」

「例えばの話って言ってるでしょ! 玉木くんの場合……ほら、あの……」

 言いづらそうにしているものの、彼女の言いたいことは手に取るように分かった。あえて俺は無感情に言語化してやることにする。

「顔が金玉に似てる、ってことだろ」

「……うん」

 佐伯は金玉を見たことがあるのか、と言いかけて辞めた。織島は嘘を見破れる。言葉を色として認識できる織島に嘘を吐くと、言葉が赤く光るからだ。この事は学校で俺と織島しか知らない。

 俺がもし金玉について質問をしてしまったら、佐伯がどう答えようと金玉を見たことがあるかどうかが確定する。クラスメイトのそんなセンシティブな情報を得るのは俺の望むところではない。

「確かに玉木のあだ名を呼ぶ時、脳裏に金玉が過ることは否定はできないが……」

「……僕はあだ名で呼ぶほど親しくはないけど、誰かが呼んでいるのを聞く度に少し過るよ」

「でしょ? もちろん、みんな悪意があって玉木くんをあのあだ名で呼んでるなんて思わない。でも呼ばれる方はどう? そうやって名前を呼ばれる度に少しずつアレが想起されてるってきっと本人には分かるだろうし、それって凄いストレスだと思う。私はずっとそれが心配で……」

 織島の顔を見ると、小さく頷いた。彼女の言葉には嘘はない。他の意図があるわけでもなく、彼女なりに純粋に玉木を心配してのことなのだろう。

「……分かった。あだ名を呼ばせないようにする方法ってのは今のところ思いつかないけど、依頼を受ける方向で考えるよ」

「ありがとう」

「ただ、あくまでもあだ名を呼ばれているのは玉木だ。あいつに自分のあだ名について実際どう思っているのかを確認してから、その後のことを考える。それでいいかな?」

「……そうだね。分かった」


 次の日、放課後に少し話がしたいと玉木を屋上に誘った。少し不審な表情を見せたが、何かを察したのだろう。玉木は快く申し出を受けてくれた。

 3人で屋上へ向かう途中、自販機で飲み物を買った玉木は取り出し口からペットボトルを取り出して、

「お前たちも買っといたら? 少し話が長くなりそうな気がするから」

 と言った。誘ったのは俺たちで、何故玉木がそう思うのかは分からなかったが、結局俺たちは玉木の言葉に従うことにした。


 空は青かった。夏をほのかに感じさせる5月の空の下、俺達3人はしばらく無言で景色を楽しんだ。それから、他愛もないやりとりを二言三言挟んでペットボトルのコーラに口を付けた後、俺は本題を切り出すことにした。

「タマキン」

「うん」

 柵に寄り掛かって景色を見ていた玉木が振り返る。玉木の顔を見て、俺は改めて金玉に似ていると思った。ゆるくパーマをかけたようなくせっ毛の髪、やや下膨れの輪郭に加えて、つるりとした肌質、口元の微かな弛みはいかにも金玉らしさを備えていた。実際の金玉と見比べてどうということではない。みんながイメージする金玉……いわば概念の金玉と似ているのだ。

「タマキン、っていう自分のあだ名について、玉木的にはどう思ってる?」

「どうって?」

「……そう呼ばれて辛いんじゃないかって心配してる人がいるんだ」

「それは、俺が金玉に似ているから?」

 あまりにも核心を突いた返しに、俺と織島は怯んだ。俺たちのリアクションが想定通りだったのだろう。玉木はゆっくりとした口調で俺たちに問いかけた。

「お前らはさ、金玉と本気で向き合った事ってある?」

 かつてない質問だった。

『金玉と向き合う』という言葉の意味についての考えがまとまらない内に、玉木は言葉を繋いだ。

「俺はあるよ。というか、そうせざるを得ない人生だった」

 金玉と向き合わざるを得ない人生。男である俺でさえ、とてもではないが想像できない。素朴な質問が口を突いて出た。

「それって一体、どういう事なんだ?」

「……自分が金玉に似てると気付いたのは5歳の時だった。気付いてしまったら、向き合わざるを得ないだろ? それからずっと、俺の心は金玉と共にある」

「金玉と共に……」

 フォースみたいなことを言うな、と喉まで出かかったが何とか我慢した。

「タマキンと呼ばれて辛くないか、って話だったよな。全く辛くなかったと言えば嘘になる。辛い時期もあった。ただ、それは俺の『金玉と向き合ってきた人生』でいうところのフェーズ1だよ。序盤も序盤、東京発の東海道新幹線なら品川駅だ」

 例えが分かりやすい。おそらく自分の中で何度も繰り返し反芻はんすうしてきた議題なのだろう。

「子供というのは良くも悪くも正直なものでさ、俺が金玉に似ているばっかりにそれが理由でいじめられたことだってある。だけど、大きくなるにつれて『金玉に似ている』ってだけの理由でいじめる事に、まともな奴は耐えられなくなってくるんだ」

「そういうものなのか」

「ああ。頭が悪く見えるからな」

 実際に金玉に似ていないと出来ない経験に裏打ちされた言葉だ。重かった。

「とにかく、中学に上がる頃には俺は金玉を完全に受け入れた。他人が俺の顔を見て、そして名前が玉木であること、あだ名がタマキンである事を認識した時に出す特有の表情についても、もう何も思わなくなった」

「……やっぱり分かるんだね。そういう時の顔って」

 織島はやはりどこか玉木に共感していたのかもしれない。織島にとって言葉の色が見えることと、玉木にとって顔が金玉に似てることは本質的に同じことのように思えた。

「例えば、名前が玉木じゃなかったら少し違ったんだろうか? 顔が似ていることと名前が似ていること、この2つが揃っているのが問題じゃないのか」

 ここまでの話で玉木が金玉を受け入れているというのは理解できた。だけどもう少し玉木が金玉と離れられる世界線もあったはずじゃないのか。思春期を前にして金玉を受け入れる人生を、せめて思考実験の中でだけでも救いたかった。

「実は俺もそれを考えたことがある。完全に受け入れる少し前に」

「そうなのか?」

「中学入学を機に母方の旧姓を名乗る作戦を思いついたんだ。それで、母に旧姓を尋ねた。……母の旧姓は幸福の福に里と書いて『福里ふくり 』だった」

「!!」

 それを聞いた俺たちはあまりの衝撃に固まって言葉を発することができなかった。

「……母方の旧姓を名乗っていたらあだ名は「ふぐり」になっていた可能性が高い。ふぐりはもちろん知ってるよな? そう、金玉のことだ。つまり……」

 そこで一呼吸おいて、玉木は真っすぐに俺の目を見てこう言った。

「どんな世界線であれ、俺は金玉から逃れられない」

「……受け入れるしかない、そういう状況だったのか」

 俺の言葉に、玉木は少し寂し気に頷いた。

「そう言うとネガティブに聞こえるな。むしろ俺は運命を感じたんだ。『そうか、俺は金玉なんだ』と。金玉として生きていくべきなんだとね」

「金玉として生きていく、か……」

「それに金玉に似ていることは悪いことばかりじゃないんだ。何より覚えてもらいやすいし、親しみを感じるとよく言われるしね。ほら、俺の顔を見てくれ。金玉のテクスチャーがよく再現されていると思わないか?」

「金玉のテクスチャー……」

 テクスチャーとは質感や感触を指す言葉だが、金玉と同時に提出されたのはこれがおそらく世界初だろう。『金玉のテクスチャーがよく再現されていること』が良い事なのか悪い事なのかも分からない。世界初の言葉を前にして、俺は咄嗟とっさにどう答えるべきか分からず黙ってしまった。

 すると玉木は別の言葉で同じニュアンスを伝えるかのようにこう言い直した。

「割と愛嬌のある顔をしているだろう?」

「……ああ。それはそう思うよ」

 俺がそう答えると玉木はやっと笑顔を見せた。

「名前やあだ名を変えたところで、俺が金玉に似ているっていう事実は変わらない。その事実を受け入れ、共に歩む覚悟をした俺にとってあだ名がタマキンであることなんて、さして重要じゃないんだ」

 深く実感のこもった語り口だった。諦観というより悟りに近いものを感じる。紆余曲折を経て辿り着いたであろうその結論に、俺が口を挟む余地はなかった。

「……話を聞いて、よく分かったよ。俺たちが金玉と全然向き合えてないってことも」

「僕らももう少し、真剣に金玉と向き合ってから話を聞いた方が良かったかもしれないね」

「いや、そんなことはない。金玉と向き合うことなんて無い方がいいんだ、本当は。……ただ、話が出来て良かったよ。こんな機会でもないと俺がいかに金玉と向き合ってきたかなんて語ることはできなかっただろうから」

 この長いようで短い時間に、俺達は何度金玉と言っただろう? 数える必要はないし、数えたくもなかった。

 ここまで話し終えた玉木は、これまで自分の中に溜まっていた金玉への想いを吐き出したこともあってか、どこかスッキリしているように見えた。

 スッキリした玉木は風呂上がりの金玉に似ていた。

「じゃあ、これで話は終わりってことで大丈夫かな」

「ああ。あだ名の件を心配してた人にも説明しておくよ」

「ちなみに誰がそんな心配してたんだ?」

 俺は少し悩んで、答えることにした。

「委員長の佐伯」

 それを聞いた玉木は少し驚いた表情を浮かべた。

「へぇ……そう。実はあいつ小学校から一緒でさ。そんな心配してたのか。金玉について話したことなんて一度もないのに」

「女の子と金玉について話すほうが珍しいと思うよ」

 珍しく織島が食い気味にツッコむ。

「昔っから何かアイツ、おせっかいなところあるんだよな。……はぁ、嫌いだわー」

 そう言って残っていたペットボトルの紅茶を飲み干すと、玉木はさっさと帰ってしまった。


 二人きりになった屋上で、俺は織島に確認する。

「どうだった? あいつの言葉に嘘はなかったか?」

「うん。綺麗な青の光だった。冷静で、正確で、迷いのない言葉の色だよ。……たった一つを除いてだけど」

 玉木がさっき話した言葉の中に、一つでも嘘が混じっていたのだろうか。少なくとも俺には気づくことが出来なかった。

「何が嘘だったんだ?」

「……最後の『嫌いだわー』ってやつ。え、あれはでも普通に聞いてても分かるかと思ったよ」

 思わず俺は噴き出した。金玉の話に気をとられて、人間の感情の機微のようなものをすっかり見落としていたのだ。

 瞬間、爽やかな風が吹き抜けた。

 俺は柵に両肘を載せ、見慣れた景色をもう一度眺める。織島は何も言わずに俺の隣に来ると、同じように柵に両肘を置いた。良く晴れた空に大きな白い雲が一つだけ、ゆっくりと動いている。

 遠くの山に落ちた雲の影を見つめながら、俺はこの件を佐伯に『金玉』という言葉をなるべく使わずにどうやって報告しようかと、そればかり考えていた。

















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