世に隠れたる人の御護

ひかりちゃん

世に隠れたる人の御護

 今は昔のこと、都の外れの人気のない山中に、小さな庵を結んで暮らしている者があった。その眼はぎょろっと飛び出しており、大きな口からは牙のような犬歯が覗き、顔色は悪く、うっすらと緑色に見えるほどだった。彼の名はもはや知られていないが、ここでは便宜上「落蹲らくそん」と呼ぶことにしよう。雅楽の落蹲の舞で用いる面に彼の顔は瓜二つだった。

 落蹲は背の低い坊主頭の従者と二人で、世を忍んで暮らしていた。もっとも、彼もはじめからこのような暮らしをしていたわけではない。彼は近江国おうみのくにで先祖代々農地を領有してきた、豊かな家の生まれだった。彼には学がなかったが、持ち前の世渡り上手によって一時はそれなりの財を築いた。京に大きな屋敷を建て、数々の宝を所有して蔵に蓄えていた。

 落蹲の没落が始まったのは、とある友人の知人からの頼まれごとを引き受けたのがきっかけだった。彼には少々虚栄心が強いきらいがあり、一代で成り上がった自らの有能さを周囲に見せつけたいという気持ちが強く、益のない依頼を受けてしまうことも多かった。それが人からいいように利用されているというだけならまだよかったが、その日、彼は悪事の片棒を担がされることになった。あそこにある荷物をあちらまで運んでほしい。今は持ち主がここにいないが、自分が代理で頼まれている。これだけのものを運び出すのは大変だろうが、たくさん人を使えるあんただから頼むんだ。落蹲はこうした頼まれ方に弱く、頼もしいところを見せようと、わずかな報酬で意気揚々と荷物を運ばせた。ところが依頼人は荷物の持ち主の許可など得ておらず、落蹲は人の荷物を勝手に持ち出させたことになった。早く荷物を返してくれと言われるも、依頼人の姿はもはやどこにもなく、落蹲は盗人に手を貸したということで捕らえられた。彼は何とか逃げ出したが、その悪名は都中に知れ渡っており、彼はもはや日の当たる世を生きていくことはできないと悟った。かくして落蹲は自らが早死にしたという噂を流させ、都の外れに庵を結び、風貌も変わり果てて、世に隠れたる人となった。

 落蹲にはひとりの妻とひとりの娘がいた。落蹲が捕らえられたとき、娘はまだ幼く、妻は、落蹲が盗みをはたらいて捕らえられた挙句逃げ出して死んだという噂を耳にして、心を病んで早くに死んでしまった。それでも京には落蹲の残した屋敷があったから、娘はそこで暮らしていくことができた。屋敷には多くの女房や小舎人童ことねりわらわが仕えており、娘は日々の生活に不自由することがなかった。落蹲はそうした娘の成長を陰ながら見守っていた。

 落蹲ははじめはひとりで暮らしていたが、やがて彼を援助する者が現れた。それは都で財を築いていたころの落蹲に仕えていた人で、人相も変わってしまった落蹲を鋭く見分けて近づいてきたのだった。この落蹲の従者となった人は、不思議と以前から落蹲の人柄に心酔していたらしく、落蹲が財も名誉も失ったのちもその支えとなりたいと言ってきた。かつて自信家であった落蹲にとっても、この従者の献身的な態度は流石に腑に落ちないところがあったが、ともあれ従者が都への遣いなどを買って出てくれたことは落蹲にとって大きな助けとなった。落蹲は従者を通じて都の様子や娘の近況を知ることができた。

 やがて娘が年ごろになると、落蹲は娘の夫となる人が欲しいと思うようになった。しかし娘はあの屋敷から出ることもなく、身よりもない中暮らしており、そのままでは娘を尋ねてくる人などいないように思われたので、落蹲は従者を通じて噂を流させた。都の屋敷にたいへん美しい娘がひとりで住んでいる。しかもその屋敷ときたらたいそう立派らしい……。

 そうして娘を援助しながら暮らしている中、落蹲は時にひどく虚無的な気持ちになることがあった。公には死人となった自分にはもはや世においてなすべきことはなく、ただ忘れ形見の娘を陰から支えて生きていく。それはいい。だが、そのようにしているおれとはいったい何なのだろう? もはや自分の生には成長もなく、対峙するべき敵もいない。落蹲の世界には従者と、守るべき娘しかいない。

 娘の噂を流させてしばらくして、ある男が娘に求婚したとの知らせがあった。それを狙って噂を流させたのだから、落蹲にとっては願ったり叶ったりの出来事であるはずだった。従者も喜び、今や世に隠れている落蹲だが、自分の聟となる男にくらいは姿を見せてもよいのではないかと提案した。しかし落蹲は首を縦に振らなかった。落蹲が従者に調べさせたところによれば、男は早くに両親を亡くしており、困窮した幼少期を過ごした。だから男が娘に財産目当てで近づいてきたということは十分考えられる。姿を見せるにしても、男がどこまで娘に対して本気なのかを見極めてからだ。落蹲は従者に対してはそのように言って男に会うのを拒んだ。だが内心、別の種類の不安が落蹲にはあった。男の前に姿を見せるとして、そのとき、部分的にせよ、自分はふたたび世に出ることになる。その際、おれはいったい誰なのだろう? もちろん、娘の父であり、また、その際は男の義父だ。しかしそれはどんな? そうした立場で姿を現したとして、おれは何をする?

 ともあれ落蹲は従者を通じて男を見張り続けた。そのうち夜離よがれするだろうという落蹲の予想に反して、男は娘の元へ通い続けた。それを見た従者は、やはり男は娘の夫になるのにふさわしいのではないかと言ったが、依然として落蹲は男の前に姿を見せようとはしなかった。

 ある日、従者が一通の文を持って来た。これまで落蹲が従者を通じて文を人に送ることはあったが、落蹲宛に文が届けられることは、落蹲の正体を知る者は従者以外にいないはずだから、もちろんなかった。そのため、自分への文というだけで落蹲は訝しがったが、差出人を見てさらに驚いた。文は娘からのものだった。曰く、娘も最初は父が盗人の罪で捕らえられた挙句に逃げ出して死んだということを信じていた。しかしここ数年、自分を陰から見守る視線があることに薄っすらと気づき始めた。そして、自分を見張っている従者の顔も次第に憶えてきた。それで従者の裏には父がいるのではないかと思い、あるとき、従者に自ら声をかけ、文を渡したのだという。――もっとも、これは従者の方便であった。実際のところは、従者の方から娘に声をかけたのだった。妻があれほど追い込まれても家族のもとに姿を見せようとしなかった落蹲のことだから、従者が自ら娘に正体を明かしたとあれば激昂するのは目に見えていた。従者はそのようにして多少強引にでも娘に父のことを知らせたかった。

 娘からの文には次のようにあった。亡くなったと聞いたお父様がまだ生きているのだと知り、たいへん嬉しく思う。ご存じだろうが、いま私のもとに足繁く通っている男がいる。彼はとても良い人で、私は彼と一緒になれればいいと思っている。そこでどうか、彼の前に姿を見せてほしい。お父様は長らく世を忍んで生きてきたと聞く。盗人の罪状がある以上、再び以前のように世間に戻るのは難しいだろうが、せめて私たち家族の間でだけでも、お父様にはあるべきところにいてほしい。お父様には私の夫を認め、夫の義父となってほしい。

 その文が届いてから間もなく、落蹲は娘が身籠ったという報せを受けた。男の前に姿を見せることに関して迷う必要はもはやないように思えた。自分は聟を迎えるのだ。世間では失った立場というものを、自分はこの家族の中で取り戻す。それでいいではないか。心を決めた落蹲は、男に会いに行くと従者に告げた。

 いざそう決まると、様々な段取りが必要となる。娘と男の前に姿を見せるのはよいが、屋敷に仕える女房らに姿を見られるのはまずい。いくら娘が自分のことを認知しているといえども、盗人の罪で捕らえられた男が父だと知れたら、娘の評判が危うくなる。そうだ、自分は前科者なのだ。娘は落蹲が男の義父になることで役割を得ることができると言った。しかし、それにしても世に知られてはならない父なのだ。そんな自分が男の前に姿を見せて何になるだろうか。

 逡巡しているうちに、従者が二通目の手紙を届けてきた。再び娘からだった。お父様が会いにきてくださらないのは、夫の真心を疑っているからだろうか。夫は素晴らしい人で、はじめてのときから私を変わらず愛し、今も身重の私を気遣ってくれている。お父様も会えば分かるはず。だからぜひ会いに来てほしい。

 なるほど、たしかに自分は男が聟としてふさわしいのか試す立場にある。男が娘のもとに通い続け、子までもうけたのは事実だが、聟としてふさわしいかどうか判断するにはそれだけでは足りない。実際に会って、難題を突き付け、その後の行動をみなければならない。自分は男の前に立ちはだかる壁となろう。いや、自分はただの義父ではない。世を忍ぶ死人だ。であればこそ、自分は本当に打ち砕かれる壁になることができる。自分は男を追い詰めよう。追い詰めて、男が本当に見込みのある奴であれば、自分に立ち向かってくるはずだ。そうして自分を殺すことで、男は本当の意味で娘の夫、自分の聟になれる。そのような役割を買って出ることができるのは、自分が世に隠れたる人だからだ。

 腹が決まると、落蹲は男の前に姿を見せる計画を詳細に立てた。日中、女房たちが身籠っている娘の介抱をしており、男もそこに立ち会っている。やはり娘と男以外の者に姿を見られるわけにはいかないから、ここは従者を通じて人払いをさせることにした(どのようにかは分からないが、従者はそのような仕事を日ごろからよくやってのけた)。そして、娘と男だけが残されたところで、自分は姿を現すのだ。なるべく男に恐怖を抱かせるような風貌がいい。落蹲の人相は変わり果て、まさに落蹲の舞におけるようであったから、すでに威圧感を与えるには十分であった。また、落蹲は日ごろから髪を後ろで結い、烏帽子もせずに歩いていたが、このままの姿で行くのも男にただならぬ印象を抱かせるはずだ。蘇芳染めの水干を身にまとい、北面から近づいて障子を引き、手をぬっと出せば、男は昼盗人かと思って怯えるだろう。そして自分はうんと男を脅して、他方で試練に耐え抜いたときの報酬も仄めかしつつ、去っていくのだ。

 実際、その対面は奇妙なほどに落蹲の思い通りに進んだ。男は屋敷に突如現れた落蹲に恐怖し、娘は落蹲を父と認めて、衣で顔を隠して泣いていた。落蹲はそこで改めて男の顔を見た。なるほど、顔つきからして自分とは正反対の気性であるらしいことが分かった。近江国の豊かな家に生まれ、一代で京に財を築いた自分と、早くに親を失い、食うものに困らない暮らしを求めて、その財に惹かれて娘に近づいてきた男。それではいけない。だが、男は曲がりなりにも娘の元に通い続け、今のところ娘のことは大切にしているようだ。だから試練を与えれば、こいつは娘に相応しい者になれるかもしれない。自分が京で所有している蔵の鍵をやろう。近江の領地の券をやろう。それらを使って、娘と気ままに暮らすがよい。ただし、もし娘を見捨てたり、娘の父親が自分のような者であることを口外したらただでは済まない。「世の中に生きめぐりておわしまさむずる者とな思し召しそ」。

 こうまで脅されて、男が大人しく落蹲の言いなりになるはずがない。娘を見捨てず、娘の父親たる自分のことを口外せず、与えられた財を自由に使っていれば、男は悠々自適の生活を送れる。しかし、それでよいはずはないのだ。どこかで義父のことについて口を滑らせないかと常に怯え、義父の脅しによって妻とともに居続けるというのは、いくら豊かであっても耐えがたい暮らしであるはずだった。そこには生きがいがない。自らの手で勝ち取ったものがない。だから、男は落蹲を殺すしかない。それ以外に彼が自由になる方法はない。落蹲さえ殺せば、その財はそのまま手に入るし、日々の見張りにも怯えずに済む。そして落蹲はもともと死人なのだ。殺してしまっても誰に咎められることもない。そのうえで、義父からの重圧からではなく、自ら選んで妻と添い遂げるのだ。なるほど、男は優しい心の持ち主であるかもしれない。しかし、その生い立ちから、何かを自分の力で勝ち取ろうという気概に欠けているところがあった。これはそんな男への試練なのだ。男は落蹲を殺すことで、そうしたかつての自分の弱さから解き放たれるのだ。

 それから落蹲はより厳重に男を見張らせた。従者の顔は娘に割れていたから、従者にさらに人を使わせて、昼も夜も男を監視した。また、自らの身辺にも注意を払った。男はまず、自分の居場所を探ってくるだろう。庵に帰るときにあとをつけてくる者はいないか。従者をどこかから見張っているものはいないか。

 男は一見、落蹲の言いつけを忠実に守っているように見えた。彼は妻を愛し、落蹲に渡された鍵で蔵を開け、近江の土地を領有し、豊かな暮らしを送っていた。時折人目を気にするような素振りを見せたけれども、それも落蹲のことが誰かから漏れてはしまわないかと警戒してのことのようだった。なるほど、いずれは歯向かうにせよ、ある程度従順な振りをしておく必要はある。そうして落蹲が男の振る舞いに満足し、油断したところで刺客を遣わすのだ。男は落蹲を陥れるために抜け目なく行動している……。

 そのようにして歳月は流れた。男は相も変わらず落蹲の言うとおりにして生きているようだった。落蹲の身が脅かされることもなかった。ひょっとして、男には自分に歯向かおうという気が本当にないのではないか。そんな危惧が落蹲の胸をよぎった。そんなはずはない。ただ義父から与えられた財を使うのみで、日々どこかで見張っている義父の目に怯えて生き続けるなど、いくら豊かであっても耐えられるはずのない暮らしだ。そんなことを続けていたら、自分が何者なのか分からなくはなってしまわないか。そして、それとともに、落蹲自身、己が何をしていたのか理解することができなくなってしまうのではないか……。

 落蹲の変化は従者の目にも明らかだった。ぎょろっとした目は小さくすぼみ、大きく開いた口は閉じがちになった。初めのころは意気込んで男を見張る指示を出していた落蹲だが、ここのところは従者の尋ねる声にも上の空で返すことが増えた。従者にはこの変化の理由が分からなかった。大方、聟が自分の望みを全て叶えてくれたので、娘を守るというかつての生きがいを失い、腑抜けてきたといったところだろうか。何にせよ、あまり深刻にとらえるべきことにも思えなかった。

 そもそも、男に父殺しの試練など必要だったのだろうか。落蹲はやがてそんな風に自問するようになった。男はたしかに頼りないところがある。娘に求婚したのも、もとはと言えばその財に惹かれたからであるはずだし、今だって義父から一方的に与えられた財を使って、自らはほとんど何もせずに日々を過ごしている。しかし、それは悪いことだろうか。男は娘を愛している。求婚してからというものの、休むことなく娘の元へ通い続け、子をもうけ、今もこうして妻を大事にしている。その妻の父親である自分に対しても、約束を守り、その正体を言いふらしたりせず、与えられた財を自らと妻のために使っている。これは立派なことではないか。ただ、男はその生まれからして困窮していた。だから、男がその優しさと器量を発揮できるためには、自分のような者の助けが必要だった。男にとっての試練とは、落蹲から与えられた財を適切に使うことであり、その財を与えた義父の秘密を守ることだった。男はそれを十分に成し遂げたのだ。

 それにしても、娘を愛して財を使うように促すためとはいえ、落蹲は随分な脅しを男に対してかけてしまった。もはや男は十分なことをやり遂げた。それなのに、いつまで経っても自分のような者が見張っているとあれば、男は娘との暮らしを不自由なものと感じるだろう。このあたりで、男は自分との約束を果たしたのだと言ってやる必要がある。落蹲は久々の筆をとり、仮名交じりの文をしたためた。自分が近江国に生まれ、領地を有していたこと。都で人に騙され、盗人の片棒を担がされて捕らえられ、命からがら逃げ出すも、もはや世間に居場所はなく、自らを死んだことにして娘を陰から見守り続けてきたこと。そんな自分もかつてはそれなりの富を築いており、いま男に使わせているのはそのころの財であること。娘を大切にし、自分との約束を守ってくれたことにたいへん感謝していること。それらを美しい紙に包み、従者づてに男に届けることにした。

 従者が落蹲から文を渡されたのは、何かただならぬ感じのする夕暮れ時だった。最近の落蹲の様子の変化に気づきつつもたいして気に留めていなかった従者であったが、この日は何か嫌な予感がした。なにか変わったところがあるかと落蹲に尋ねると、落蹲は、男が娘を幸せにしてくれるので自分も幸せなんだと答えた。それだけとはどうしても思えなかったが、急ぎ文を届けよとのことだったので、従者は落蹲に背を向けて歩き出した。これが、彼が主人の姿を見た最後であった。

 落蹲は自らの住居である庵を通り過ぎ、山の奥の方へ分け入った。かつて、世に隠れて娘の援助をしていたころ、落蹲はよく虚無感に襲われた。おれはいったい何なのだろう? 今となっては、その自問への答えは決まっているように思えた。自分は娘を世の裏から支える者だった。そして、自分との約束を果たした聟のことをも影から助ける者となった。ただ、やはり、それはどうしても、世を離れて生きる者が、世を生きる者にわずかに干渉しているにすぎなかった。それは人の生き方ではなかった。だから、落蹲はふたりの守り神になろうと思った。気づけば山もだいぶ高くまで登ってきた。落蹲は切り立った崖の端に佇んだ。空は薄曇りで、日は背の方にほとんど沈みかけていた。落蹲は地面を蹴り、先刻男へ送った文に書いた一文を思い起こした。「死にさぶらいなば、御護おまもりとぞ罷りなるべき」。

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