はなびし

押田桧凪

第1話

 焼ける匂いが好きだった、と言えば縁起が悪く聞こえるかもしれない。でも、俺にとっての始まりはそれだった。


 陸上部に入っていた俺は競技会で使われるスターターのピストルがパンッと鳴る瞬間、わずかに焦げつくようで、でも痛切に視界に火花を散らすが如くゴーサインが出る快感と匂いに脳が支配されていた。


 あれを鳴らす側に回りたい。いや、「打ち上げたい」という気持ちが高まって、俺は花火に興味を持った。競技人生には早々に別れを告げ、人に見せるものを作り上げたいと思った。見せるっていうのは簡単じゃない、見たいように楽しませることは誰にでもできて、でも本当に楽しんでるのかっていうのを俺は知りたい。


 例えば、映画館に行った時に、俺が座るのいつも前の方で、エンドロールが流れ始めたら気づかれないように、そっと振り返って観客の表情のさまざまを見渡す。あの瞬間を体験するというようなことだ。


 屋上階の窓の桟に頬杖をついて花火を見上げるカップル、自転車を漕ぐのをやめて花火に見入る男性、それを手で押しながら進む時のチェーンの空回りする音、軌跡を背に「さよなら、花火」と呟く子どもの声……。人が花火を見ているところを、見る。それが俺にとっての花火の醍醐味でもあった。


 そんな誰かにとっての思い出を作ることになるかもしれない一夏を担うのが、俺の役目だった。茹だるような暑さを吹き飛ばす、火付け役だった。


 大学で学んだのは、火薬の「合色あいいろ」について。どんな試薬のどんな反応で色を作るかを俺は研究した。しかし、三沢花火工業に入社して配属されたのは、『音物・ポカ物』を作る部門だった。「ケッ、せめてハート型やドラえもん、ミッキーなんかの形が作れる『型物』ならまだしも、音? ありえんわ」と俺は耳を疑った。ぴぃーやらひゅーぱらら、どん、なんて音は誰も期待しやしないのに。


 もちろん、色をつくるのも好きだった。バケツの中で絵の具を溶いた時の変化して広がる水面を眺めるように、あるいは交配して生み出される新種の花のように、その組み合わせでしか作り得ない色があるからだ。硝酸ストロンチウムの赤は特にきれいで過塩素酸カリウムと一緒に用いる。それに硝酸バリウムは……なんて語りだしたらキリがない。


 そんな光に憧れていた。打ち上がる光を、俺はずっと夢見てきた。



 そんな折に、妹の真理から突発性難聴になったと言われた。俺は見せたかった花火を、妹や大勢の人に光を与えたくて打ち上げる。だけど、真理には聞こえないかもしれない。演出として今年は夏にちなんだ名曲に合わせて仕掛け花火を行うプログラムだって用意されているのに。


「耳が過敏になっちゃってて。ほら、あたし昔からゲームとか音を出さずにプレイするタイプだったじゃん。だから疲れるの。周りの声聞いてると」


 大学には通えているらしいが、イヤホンをつけて講義を受けているので先生から不真面目な生徒認定されているらしく、友達に板書で分からなかったところはLINEで教えてもらっているという。水の中に入るみたいな感触、と真理は笑った。


「なんかプールで頭を傾けたときにぬるい水が抜けていく感覚みたい。それがないバージョン」


「それって、だいぶ深刻なんじゃ……?」


「いーのいーの。なんかピーってなったらボタンを押すんだけどさぁ、耳鼻科って。つまんないもん、通いたくない」と真理は俺に愚痴をこぼした。


 一昨年はコロナ、去年は雷で中止になり、たくさんの期待と地元企業の後援を背負って祭りが始まる。光が主役で、俺の担当は音だけど。それでも、いいよ。真理が見てくれるなら。また来年もある。俺は今の精一杯を注ぎ込みたい。そう思った。


 花火の打ち上げは、コンピューターの制御で自動点火できる。点火時刻の精度は0.1秒以下だが、花火が開くまでの時刻を計算する必要がある。大事なのは体感だ。打ち上がる時と開く時の音の相性が重要になってくる。例えば、運動会を知らせるのに発注があるのは三段雷とかで、導火線の長さを調節して音物を何段階かに分けて鳴らしたりするのだが、それを俺が担当していた。真理にも聞こえますように、と俺は祈る。



 花火大会当日、真理は浴衣を着て、めかし込んで、友達と早い時間帯から外に繰り出した。処方された薬で耳の症状はいくらか緩和しているらしい。特定の高い音が聞こえにくくなるのはストレスが原因ではないか、と父は疑っているようだった。


 人口四万人のこの街で三年ぶりの開催となった花火大会に、浮き足立った様子の人々で会場は賑わいを見せている。歩行者天国になった大通りには焼き鳥屋、イカ焼きなどの露店が立ち並ぶ中、俺は筒を設置し、配線準備を終えた海沿いの打ち上げ場所へと車で向かった。


 辺りはすっかり暗くなって、そこに光が散る。ひゅうううと萎むような音の後に大輪を咲かせて様々な色が夜空を覆う。「あれは俺が作ったやつだ」と言い張りたい。でも、そこに俺はいない。裏方にまわって舞台を整え、光が主役であるうちは俺は影に忍ぶ必要があるからだ。そこでふと俺には必要とされた経験があっただろうかと思った。


「お兄ちゃんが取ってくれた金魚逃がしちゃった、ごめんね」と真理が謝る。「買ってくれてありがとう、はぐれちゃってごめんね」と光るうでわを迷子にならないよう、そして遠くからでも見つけやすいように俺が買った時に真理が謝る。「重かったよね、ごめんね」と背伸びしようとした真理を花火が見えるよう脇を持って持ち上げた時に真理が謝る。謝らなくていいのに。そんな思い出ばかり思い出してしまうから、俺に何かできていただろうかと不安になる。


 ポンポン、ポンと四散する青、緑、紫が柳になって空に垂れ下がる。この後は、葉落ようらく、ダリヤ、千輪菊といった流れになっている。


 仕組まれたプログラムを知って、しかも誰よりも間近で見る花火は虚しかった。だけど、記憶の灯し火となる光を生み出していることの実感を、俺は確かに得ていた。花火は終盤に差し掛かっている。いずれは塗り絵のようにまだらに消えていく色も、真理にとっては……。


 そう考えながら天を仰いでいると、ピコン、と通知が来た。すんませんと隣にいた現場監督に告げて、画面に指を沿わせると、サイレント表示の花火の動画がメッセージに送りつけられていた。いや、サイレントというよりは、Live Photo機能で撮っているらしく、打ち上げ前後を切り取ったように再生する静止画もどきのようなものだった。送り主は、真理だ。


 俺はそれを見て、花開く瞬間と後で確実に音を聞いた。動画には音が記録されていないはずだから、経験から感じた音なのかもしれない。だけど、そこには音があった。


 光が必要とされていた。俺は真理の光になれただろうか。もし、そうなら良かったと思った。夕風に呑まれたとしても、人混みに紛れたとしても、雑踏にかき消されても、花火の音は幻聴のように再生する。どんな音で鳴っていて、それがどう空間を震わせたか。そんな光だけ見れば耳奥で流れる音を頼りに、俺は生きていく。


『大きかった!』とメッセージには一言、添えられていた。それがサイズなのか音のことなのか、迫力、光なのかは分からない。だけど、その全てを飲み込んで今ここに立っていることに爪先から全身にかけて喜びが満ちていくのを俺は感じた。花火を見る人の喜びがそのまま俺の喜びになる。


 ドーン、と最後の一発が夜空に放たれる。

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