光源

惟風

逃さない

 マンションの非常扉は重く冷たい。俺は慎重に押し開いた。音を立てないよう、細心の注意を払って。閉める時もたっぷり時間を使った。

 目の前に伸びた外廊下は、向かって左側に扉が並んでいる。右側は屋外に面しており、道路を挟んで小学校の校庭が見えていた。

 両膝に手をついて息を整える。九階まで階段を上がるのは少しキツかった。深呼吸をしてから身体を起こす。目当ての部屋は目の前にあった。

 角部屋に住んでくれていて助かった。他の住民達に物音を聞かれる可能性は低いほど良い。

 時刻は零時を回っている。外を走る車はまばらで、人気は無い。

 左肩にかけたトートバッグに手を入れる。鍵を取り出す、たったそれだけの動作にひどくもたつく。

 カバンを探りながら玄関扉に近づいたところで、ふと頭上の灯りが瞬いた。常夜灯の電球が切れかかっているのかもしれない。不安定に光量の変わる視界に心がざわついた。

 ――消えるなよ。

 人目を避けるために暗い時間帯を選んだというのに、反射的にそう思った。数あるうちの一つが消えたところで周囲が見えなくなるわけではないが、闇が増すことが怖かった。今の自分の行動と矛盾しているとわかっていても、明るさが欲しい。スマホで照らそうか。でも、誰かにライトの光を目撃されるかもしれない。

 右手はまだ鍵を探していた。


 思えば、いつも光を求めていた。

 我ながら、羽虫みたいな人間だと思う。ふらふらと光源に群がっていく、ちっぽけな存在。

 物心ついた時から、暗がりを彷徨っているような不安がずっと背中あたりに居座っていて、周りの様子を盗み見てはその場の正解を探った。

 教室では、大抵“正義”とされる者が一人や二人はいる。そいつの挙動、一挙手一投足を道しるべにして従った。

「コウキ君はお友達の良い所を見つけるのが得意だね。コウキ君がすごく優しい心を持っているからだと先生は思う。それがコウキ君の長所だし、これからも伸ばしていってほしいな」とは、小学四年の時の担任の言葉だ。何と先生なんだと思った。

 誰からも攻撃されないように、身を守るのに必死だった。何をするにも自信が持てなくて他人を羨んでいたら、褒める要素を見出すのが上手くなった、それだけだ。クラスメイトのことは嫌いだった。

 特に、マイペースに過ごす奴が鬱陶しかった。

 例えば後ろの席の山橋やまはしは、背が低くて勉強も運動もパッとしないくせにずっと楽しそうにしていて友達が多かった。俺が必死にヘラヘラしている横で、リーダー格の栗田くりたと対等に喋っているのが憎たらしかった。

 山橋はどうしてそんな風に顔を上げていられるのか。喧嘩になったら身体の大きい栗田にぼこぼこにされてしまうのに。

 俺の方が山橋より背が高くて足も速いのに、俺の方が中身はいじけていて憐れだった。

 自分に何かあるとすれば、運くらいだ。両親は穏やかで、担任の教師はみな親身だった。同級生達にも飛び抜けて理不尽な奴はいなかった。おかげで、神経質で不安症な自分でも生き延びることができた。


 それでも長じるにつれて、怯えは膨らむばかりだった。世間を知るほど、自分の矮小さと未来の不確かさがはっきりした。生きることが心底恐ろしかった。目隠しをされて歩かされるような心許なさがついて回って、強い何かに縋っていないと一歩も動けない心地でいた。


 明里あかりは、そんな自分にとって正に“明かり”だった。やはり俺は運が良いのだ、とその時は思った。大学のサークルで出会った。学部も同じで、すぐに意気投合した。

 明里は、快活でよく笑う女だった。その度に、肩まで伸ばした髪が軽やかに揺れた。彼女が笑い飛ばしてくれると、胸に渦巻く恐れが薄らいだ。闇夜を照らしてもらえたようだった。暗闇で立ち往生しているような心細さが消えた。

 明里と一緒なら歩いて行ける。自分は虫なんかじゃない。一人の人間として、足を踏み出せると思った。

 そう、夢見ていられたのが数年も続いたのは、俺にしては幸せなことだったのかもしれない。


 明里に突然改まった口調で呼び出されたのは、新卒で就職して、二年目のことだった。

「好きな人ができたの」

 卑屈な性根は隠していても滲み出てしまうものだ。彼女がそんな俺を励ますことにんできていることは薄々勘づいていた。それでも、彼女の心を取り戻す努力もせず気づかないフリをしていた。

 申し訳無さそうに眉根を寄せる彼女の視線は、俺ではなくカフェのテーブルに注がれていた。

 明里の笑顔が好きだった。でも、その日はちっとも笑ってくれなかった。惨めな俺を「大丈夫」と笑い飛ばしてはくれなかった。

 心の灯は消えた。明るさを知ったからこそ、再びの暗闇はむごさと恐ろしさを骨まで染み渡らせた。

 俺は別れ話を受け入れた。ごねることなどできなかった。虫風情が、分不相応に光に憧れたのが悪いのだ。


 でも、一寸の虫にも五分の魂がある。


 明里を殺そう。

 これまで何一つ大きな決断をできなかった俺が、初めて一人で決意を固めた。

 部屋の合鍵を返す前に、こっそりスペアキーを作った。大人しく身を引く俺に、明里は別れ際に以前と同じ微笑みをくれた。

 振られたというのに、どす黒い計画を立てているのに、心が躍った。それはやはり、光に焦がれる虫の性分なのだと思う。


 指がようやく鍵に触れた。手袋をしているせいで感触が鈍い。恐る恐る取り出したは良いものの、手が震えて上手く鍵穴に挿し込むことができない。つくづく小心者だ、いつの間にか額に汗が浮いている。

 これ以上手間取るのはまずい、決心が鈍ってしまう。俺なんかに大それたことなどできないという気になってくる、呼吸が荒くなる。

 その時、ジッという無機質なノイズと共に常夜灯が消えた。

 指先を見失う。

 自分が闇に溶け出す気がした。自分という形がなくなって曖昧になって、決死の思いが流れ出していきそうだ。

 瞬きをする間に照明が復活する。

 視界がはっきりする。

 ホッとする。心の輪郭までくっきりと濃くなる。怒り、憎しみが鍵の形に象られる。あの女に思い知らせてやれ。

 鍵が揺れる。

 またかげる。

 揺らぐ。本当にやるのか。人の道を外れるのか。

 鍵が見えない。

 光る。何が人の道だ。そもそも俺は“人”なんて上等なモノじゃない、取るに足らない虫だ。

 明滅と自問自答を繰り返す。点くとも消えるともつかない灯りはまるで自分のようだった。なにもかも半端で、ふらついて、頼りない。

 叫び出しそうだ。汗が目に入る。涙が出る。この数滴に滲み出た感情の名前がわからない。もはや明里への殺意があるかどうかも怪しかった。だが強く刻みつけてしまった執着はこのままにはしておけない、立ち行かない。

 行くか、戻るか。この期に及んで決められない。誰かに決めてほしかった。いつだって、強い言葉を欲していた。

 芯の強い誰かに寄りかかって、成功も失敗もその誰かのせいにしてしまえば安心なのに。

 俺には導いてくれる光が必要だ。たまらなくなって固く目を閉じた。

 光った。

 目を開けると、ちらつきは収まり廊下は視覚の静けさを取り戻していた。

 意を決して鍵を握り直した時、トートバッグの中で何かが点灯した。サイレントモードにしていたスマホへの着信だった。

 放っておいても良かった。時期に先方は諦めて切るだろう。

 でも、できなかった。

 己と対峙する暗がりで、その煌めきは常夜灯よりも明るかった。

 俺は、虫なのだ。

 強い光に惹きつけられてしまう、ちっぽけな存在だ。

 扉から身体を離し、スマホを取り出す。発信者の名前を確認する。


「そうか、お前……」


 画面に表示された文字を見て、頭の中で何かが弾けた。

 黒い霧が晴れていく。

 そうだ。昔から、人との巡り合わせに救われてきた。俺は本当に運が良い。おかげで今日もまた間違えずに生き延びることができる。そして、これからも。

 画面をスライドし、耳にあてる。


『もしもし、起こしちゃったあ?』

 間延びした低い声が響く。

「……いや、大丈夫。どうしたこんな時間に」

 話し声が明里に聞こえてしまうかもしれない。いや、そんなことはもうどうでも良い。俺はこれから帰るのだから。

『いやあ、来週の連休にそっち帰るから久々に飯とかどうかなってー』

 SNSでも事足りるような用件を、深夜帯に電話で告げる。こいつらしいな、と苦笑いが漏れる。非常扉をそっと開けながら、俺は返事をする。

「いいな。積もる話もあるしゆっくり話そうや」


 能天気な同級生、山橋やまはしは明るい笑い声をあげた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

光源 惟風 @ifuw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ