尊敬ごっこ

草森ゆき

尊敬ごっこ

 入社した個人経営の小さな工場には寒野さむのさんという人がいて、経理や営業をほとんど一人でやっている恐ろしく仕事のできる人だった。でも役職も何もないただの社員らしくて驚いた。その能力だったら完全に経営者だしこの工場を離れて起業しても絶対にうまく行くと思う。なんせみんな寒野さんに物凄く懐いていた。みんなというほど人がいない職場ではあるのだが、工場長やアルバイトやら事務員やら所属している人間はとにかく寒野さんに頼り切っていたから、起業して辞めると言い出されればついていくしかなかった。寒野さんを中心に全てが回っていた。

 そんなふうにみんなの光であるんだけど寒野さんは案外とネガティブで、営業先から帰ってくると本当にもう無理かも、というような話を暗い顔でし始める。営業先でもやはり気に入られているらしく、帰りが遅いなと思う時は大体捕まって引き抜きの打診だとか共同経営の持ち掛けだとかをされているようなのだ。

 いなくなられては困る。誰よりも社長がそう思っていることだろう。案の定寒野さんのネガティブが始まればそそくさとそばに行き、何やら話し掛け、どうも居酒屋に引きずっていって、君だけが頼りの職場なんだよ寒野くんと説き伏せているようだった。

 何というかこの時点でかなりおかしくて、いや寒野さんに双肩をかけすぎだろうと入社半年の俺は思って寒野さんの負担をどうにか減らそうと思いつき頑張り始めた。とは言ってもたかが半年、全然役に立てている気配はなかったけれど、営業先についていったりギリギリ出来そうな経理の作業を引き受けたり本来の寒野さんの仕事である工場での現場作業を全力で行ったりと、俺なりに頑張った。

 その甲斐があったのか寒野さんはちょっと顔色が良くなった。俺にコーヒーを買ってくれたり、簡単な経理の仕事を教えてくれたりした。現場作業も効率のいい動きをアドバイスしてくれて俺は自画自賛ながらどんどん仕事ができるようになっていった。

 もうほんと俺は、寒野さんみたいになりたかった。なんでもこなせて、みんなに頼られて慕われて、でも全然自分はすごいって自慢なんてしなくて、兎にも角にも常に謙虚で、尊敬しない方が無理な相手だった。視界には彼しか映っていなかった。

 寒野さんが無断欠勤したのはそんな時だ。

 もう当然のように社内はメチャクチャになった。今日提出する書類は寒野さんのデスクにあって探そうにもデータがありすぎて見当たらない。取引先からひっきりなしに電話があるけど寒野さんじゃないとわからない。寒野さんにはみんながみんな何度も電話しているけど一向に出ない。というか十回をすぎたあたりでみんな着拒された。もう普段全員で飲んでいる玄米茶すら寒野さんが用意してくれていたからどこにあるかわからなくて探し出すまでに二十分ほど消費した。

 大混乱でメチャクチャだった。そんな中で俺だけはどうにか仕事をこなしてどうにか取引先に行ってどうにか事務作業を行った。その合間で寒野さんにメッセージを送った。返事はなかったけど既読がついて俺の電話だけは着拒されなかった。取ってももらえなかったが着拒されないだけでよかった、今まで一生懸命後をついていって色々教えてもらって他のやつよりは可愛がってもらっていて本当によかった、俺は寒野さんが戻って来る日のために万全にしておくことが使命だと感じ、てんやわんやの中で仕事を続けた。


 でも寒野さんは来なかった。


 一週間来ない、二週間来ない、一ヶ月来ないのところで速達で辞表が送られてきた。もうこの頃には社長はすっかり諦めていて辞表は何事もなく受理された。てんやわんやはじわじわと落ち着いていたしなんせ俺がいた。俺が寒野さんのような位置にいる状態になっていた。

 はじめは俺がやるぞって思いはしたけど全然良くなかった。この会社のやつ本当にとにかく寒野さんに依存してたんだなってよくわかった。あの人が出来すぎるわけではなくて他がやらないからやり続けていていつの間にかみんながキラキラした眼差しで寒野さんはすごいみんな助かってるって言い出して後に引けなくなっていって、でもこんなんじゃ駄目なんだと思ってネガティブが加速していったんだって今の俺には死ぬほどわかった。殺して欲しいくらいわかった。重圧に耐えられなかったし寒野さんはマジですごいんだって俺だけは本質的なところで理解した。俺だけがあの人のことをわかってあげられた。

 半年ちょうどに俺は辞表を出す決心をした。そう決めてさえしまえば何かの意地でまったく連絡していなかった寒野さんに電話をかける気になれた。

 出てもらえないだろうなと思っていたけど三コール以内に彼は出た。

『半年かあ』

 とまず言われた。

「寒野さん、え、半年って」

『うん、いや、僕の代わりに君が色々やらされたでしょ?』

「それはもう、それは、はい、俺は緑茶派だったので寒野さんの玄米茶を緑茶に変えたりですね」

『僕が相手してた取引先も君が?』

「あ、はい」

『引き抜きたいって言われた? でしょ?』

「はい、断りました」

『じゃあ僕の気持ちわかるんだ』

「わかります。引き抜かれてこの会社出て行ったら絶対に崩壊する俺のせいで全部終わる、そう思ったら断るしかなくてでも俺だけ頑張っててもマジで無意味で、それでも会社帰っていつもありがとうとか君はすごいねとか見習いたいとか、そういうの言われると俺がやらなきゃいけない俺がみんなの光にならなきゃって思ってしまって、慢性的に地獄でした、地獄です」

『おお、すごい、うん、わかるよ僕には。そんでこんなに頑張ってるのに全然現状が良くならないって病んでくるでしょ』

「さ、寒野さん……そう、そうなんです、俺本当に、寒野さんみたいになりたくてめっちゃくちゃ頑張ったんですけどでも、少しも前に進んでる気がしなくって」

『僕みたいになれないなら無理してならなくていいんだけどそうもいかない気持ちになっちゃってるだろうね』

 ぱっと手を離すような口調だった。返事に困っていると笑い声が聞こえてきた。あれもしかして俺、寒野さんの笑い声って初めて聞くかもしれないってここで気付いた。寒野さんは笑ってなかった。いつも苦しんでいた。その裏側のぬるま湯でみんな楽してニコニコしてて、つまりこれは生贄だった。

『僕、精神科に通うことになってたんだ』

「せいしんか」

『そう。詳細は言えないけど、だから辞めた』

「いやでも、寒野さんのおかげで俺は」

『僕の代わりに犠牲になって半年で力尽きたんだよね』

「……俺はでも、俺は」

『君が僕に色々とついてくるようになって、いろんな仕事を覚えてくれるようになって、これはなんですかあれはどうやるんですかって質問たくさんしてくれて、目の前がぱっと開けたんだ。ちゃんとした後輩ができてよかったっていう嬉しさもあったけど、それよりもこれで僕は助かるって気持ちが俄然強くて、とにかく君には仕事をなんでも教えたつもりだよ。君は可愛かった。なんでも頑張ってくれた。もうこれで僕が会社に行かなくなっても代わりに業務をこなしてくれる人ができたって思って本当に……本当に嬉しかった。君は僕のために磨かれて光ってくれた、ありがとう』

「寒野さん」

『僕は今すごく穏やかなんだ。お金使ってる暇なかったから貯まってたし、通院しながら好きなことしてゆっくりしてるよ』

「寒野さん、あの」

『僕の代わりにそのまま地獄にいなよ。僕の後ろついてきて色々教えてもらえて、特別扱いされてると思って嬉しかっただろ?』

 脳の真ん中あたりが恐ろしい勢いで軋んだ。痛いとかではなく、真っ白になった感覚だった。押しつぶされるような気持ち悪さはじわじわ虚しさに変わっていって、ああ図星だと思い浮かべた頃には電話が切れていた。みんなに慕われて頼りにされる寒野さんが俺には色々教えてくれていた状態は途方もない優越感をもたらしていた。規則的な終話の音が白いままの脳味噌を突き刺していった。寒野さんは俺を着拒した。俺は辞表を握り潰した。


 数ヶ月経って新入社員が入ってきた。眩しい真っ直ぐさで俺を褒めて、仕事を教えて欲しいなんでも手伝いますと意気込まれた。

 俺は頷いた。寒野さんの気持ちが今度こそ全てわかって、もう嬉しくはなかったけれど安堵がゆっくり込み上げた。

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