「石亭」余話④―曹休

 曹休は「石亭の戦い」から程無い「庚子」に薨じており、これは十月庚子(十四日)、遅くとも十二月庚子(十五日)の事であり、敗北から一月乃至三月に満たない時期である。そして、「因此癰發背薨」とある様に、その死は「此」、「石亭」での敗北が原因となったとされる。


 生前の曹休は大司馬であったが、魏に於ける大司馬は曹休を含めて宗室の三名のみ、曹休に先立つ黃初二年(221)に大將軍から進められた曹仁と、太和四年(230)に同じく大將軍から進められた曹眞である。

 この三者は曹仁が「太祖從弟」、曹休・曹眞が「太祖族子」と、共に宗室であるだけでなく、何れも大司馬として在官で卒している。更に、彼等はその死の直前、半年以内に大司馬として軍事行動を主導している点でも共通する。

 曹仁の場合は黄初三年(222)十月から翌年三月に掛けて行われた征吳の戦役であり、これには曹休、曹眞も參陣している。曹休が張遼・臧霸と共に洞口へ出で、曹眞が夏侯尚・張郃・徐晃と共に南郡を囲んだのに対して、曹仁はその中間、濡須を目指すが、その攻略に失敗し、黄初四年三月、全軍帰還の直後、或いはその最中に薨じている。

 曹眞は太和四年(230)七月から九月に掛けて、大將軍の司馬懿と共に伐蜀の戦役を起こすが、「大霖雨三十餘日」という大雨によって撤兵しており、その死は半年後の太和五年(231)三月である。


 曹眞の場合はやや間が空くが、何れも自らが主導した戦役の敗戦直後、或いは撤兵後程無く死去しており、三者が奇妙な符合を見せている。

 戦敗が原因と明記される曹休に対して、曹仁・曹眞の死因は明示されていない。曹仁の場合は戦傷による死も考えられるが、彼は「天人」と称えられた武勇の持ち主であり、大司馬自らが陣頭に立ったとも考え難いから、その可能性は低いだろう。曹眞は長雨によって、体調を崩した事なども考えられる。

 何れにせよ、直近まで戦陣に在った事を思えば、単なる老衰死とは考え難い。戦役での敗戦・不首尾が彼等の心身に与えた衝撃を考慮する必要が在るだろう。


 ここで想起されるのは、彼等の傳が有る『三國志』卷九諸夏侯曹傳の筆頭に立傳されている夏侯惇の死である。その死は延康元年(220)四月であるが、この年の正月、改元する前の建安二十五年正月には曹操が死去している。

 武帝紀(『三國志』卷一)に引く『曹瞞傳』と『世語』に依れば、夏侯惇は桓階が曹操に「正位」即ち帝位に即くよう勧めた際に、先ずは蜀を滅ぼすべきであると述べたが、曹操が死去してしまい、前言を後悔して「發病卒」したとされる。

 この話自体は孫盛が「世語爲妄矣」と云う様に、信頼性の低い記事である。だが、この話が流布した背景には、夏侯惇が悔恨によって死去するような性格であると見做されていた事があるだろう。


 いま一人、同じく諸夏侯曹傳に立傳されている夏侯尚には、「有愛妾嬖幸、寵奪適室。適室、曹氏女也。故文帝遣人絞殺之。尚悲感、發病恍惚、既葬埋妾、不勝思見、復出視之。」という話が見える。この一文は「(黄初)五年」と記された記事の後にあり、愛妾の死(被殺害)によって「發病」した彼は、その翌年には死去している。

 また、曹休の息子である曹肇は明帝の遺命を受ける筈でありながら、帝の側近、劉放・孫資等との齟齬から、排斥され、「以侯歸第。正始中薨」じたと云う。明帝の死は景初三年(239)であり、曹肇の死が正始年間(240~249)の初期であれば、失意の死であったのかもしれない。

 このように諸夏侯曹傳に立傳された七人(曹眞に附された曹爽は除く)のうち、戦死した夏侯淵と、「諸夏侯曹」中で最後まで生き残った曹洪を除く五人には、精神的な衝撃が死の一因となった事が想像される。


 思えば、文帝曹丕も崩御の前年、黄初六年(225)十月に「行幸廣陵故城、臨江觀兵」(文帝紀)と南征の軍旅を催すが、「是歲大寒、水道冰」によって、舟が江に入る事ができず、征旅を諦めている。

 この時、彼が云ったとされるのが、吳主傳に引く『吳録』の「嗟乎、固天所以隔南北也」という言葉であるが、これも敗北でこそないものの、儘ならぬ現実、挫折という点では類似とも言える。彼の四十という早過ぎる死も、意が挫けた故のものであったとも想像される。

 尤も、曹氏、曹操の子孫は全般に短命であり、王淩の「陰謀」で自殺させられた楚王彪の「年五十七」など、一部の曹操の子等を除けば、曹丕の四十、曹植の四十一はむしろ長壽と言うべきである。

 曹丕(文帝)の子に至っては、異論があるが「三十六」で崩じた曹叡(明帝)が最も長命と言え、他の子等は四十未満で卒したと見られる。これは、或いは、「徒有國土之名、而無社稷之實」とされる、魏の王公への抑圧策に起因しているとも考えられるが、恰も「年六十六」まで生きた曹操が子孫の余命を使い盡くしたかの如くでもある。


 ところで、その曹操の詩文(楽府)の中で、最も人口に膾炙する一つであり、後に東晉の王敦が好んで詠じたとされる「老驥伏櫪、志在千里。烈士暮年、壯心不已。」という一節がある。

 「老驥」とは老いたる名馬、千里を駆ける駿馬であり、千里馬と成り果せたかは兎も角、嘗て「千里駒」と称された曹休の後身とも言える。その「老驥」たる曹休が猶も「こころざ」す「千里」は、「千里駒」と称された由縁からしても「吳」であっただろう。

 また、「暮年」にあると云う「烈士」は、曹休の字「文烈」に通じ、やはり老齢にある彼自身を想起させる。そして、そのまざる「壯心」は吳の制圧にあったかに想われる。奇しくもと言うべきか、「壯」は彼の諡でもある。

 曹休自身がこの符合に気付いていたかは不明であり、当然ながら、諡の「壯」については知る由もないが、「石亭の戦い」に向ける彼の念いを象徴している如くである。

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「石亭」疑案 灰人 @Hainto

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