「石亭」余話③―「三國」時代

 「石亭の戦い」は、曹休・司馬懿・張郃・朱靈、陸遜・朱桓・全琮(間接的に朱然)といった当時の魏・吳の名立たる將が関与しており、単なる一局地戦ではない。従って、戦いはその後の政情等にも影響を与えている。前後の情勢の変化を見ておきたい。


 先ずは、魏についてだが、最も大きな変化は、形式上とは言え、輔政の筆頭にあった曹休の死である。文帝死後の魏の体制は、遺命を受けた曹休・曹眞・司馬懿・陳羣の四者の中で、陳羣が司空・録尚書事として政務を取り仕切り、大司馬曹休が東方(揚州)、大將軍曹眞が西方(雍州)から中央、司馬懿が南方(荊州)の軍事を統括するというものである。

 これは、宗室であり、帝室にも親しい曹休・曹眞に軍事を、「名士」の代表とも言える陳羣・司馬懿に政事を、それぞれ担わせ、互いに均衡、監視させるというのが本来の意図であっただろう。

 しかし、文帝に先立つ夏侯尚の死で、荊州方面の軍事を担う人材が宗室に欠けており、次善として司馬懿が荊州に配される事になったと見られる。


 太和二年(228)の時点で、宗室(曹氏・夏侯氏)の中で曹休・曹眞に次ぐ地位に在ったのは、安西將軍・持節として「都督關中(夏侯惇傳注『魏略』)」であった夏侯楙である。

 しかし、彼は諸葛亮の侵攻(「北伐」)に対して西征した明帝によって召還され、尚書とされている。後に鎮東將軍と為っているが(夏侯惇傳附傳:「歷位侍中尚書・安西鎮東將軍、假節。」)、軍事的には心許ないと見做されたのであろう。

 当時、一定の年齢(三十前後)に達しているであろう宗室の人物としては、夏侯充(夏侯惇子)、夏侯霸(夏侯淵子)、曹泰(曹仁子;「至鎮東將軍、假節」)、曹演(曹純子;「至領軍將軍」)、曹馥(曹洪子)、夏侯儒(夏侯尚從弟)等がいる。しかし、夏侯霸・夏侯儒、及び曹仁の屬將として名が見える曹泰(朱桓傳)以外は事績に乏しく、その曹泰も敗北の記録のみで、後に鎮東將軍と為っているとは言え、軍事を委ね得る存在とは見做し難い。

 夏侯霸は「黃初中爲偏將軍」(『魏略』)、夏侯儒も黄初中に征蜀護軍であったが、地位が比較的低く、後に夏侯霸は右將軍、夏侯儒は「征南將軍・都督荊・豫州」(『魏略』)に至るが、少なくとも、太和二年の時点では夏侯尚の後任として相応しくない。

 他に、曹肇(曹休子)、曹爽(曹眞子)、夏侯玄(夏侯尚子)等がいるが、夏侯玄は太和二年に二十歳であり、曹肇・曹爽も同世代と見られ、要務を担うには年少である。従って、曹休の死後、宗室で彼に代わる人物はおらず、実際、都督揚州については滿寵が引き継いでいる。しかし、「大司馬」としての代替は、曹眞を除き存在しなかった事になる。


 これは相対的に司馬懿の地位が向上した事を示す。太和三年の動静不明から想定される多少の逼塞はあったかもしれないが、太和四年の曹眞の大司馬就任に伴って、司馬懿は大將軍と為り、その地位は強化されている。

 そして、翌年にその曹眞が薨ずると、司馬懿を掣肘し得る者は、皇帝たる明帝自身以外に無く、その明帝も早世した事で、最終的に司馬氏の簒奪(禪譲)へと繋がっていく。つまり、「石亭の戦い」の敗北と曹休の死が、間接的に曹氏の退潮、司馬氏興隆の契機となっている。

 無論、「石亭の戦い」が無くとも、事態は同様であった可能性はある。しかし、曹休の死は敗北が理由とされており、彼が以降も存命であれば、司馬懿の地位は相対的に抑えられ、宗室の成長を待つ、といった異なる経過を辿った可能性もある。


 次いで、吳についてだが、最大の変化は言うまでもなく、翌黄武八年(229)五月に於ける孫權の「即皇帝位」だろう。

 この年まで、孫權は独自の紀年「黃武」を使用しているが、対外的には飽く迄も「帝」を称さず、魏に封じられた「吳王」に留まっている。これに先立ち、孫權は黄武二年(223)四月の「群臣勸即尊號」を拒絶している。

 この勸進は同年春までの魏の「南征」を撃退した事を受けてのものだが、孫權がこれを受けなかった理由は、正当性の不在、撃退したとは言え、魏の軍事力を無視し得ない事、それに伴う蜀との修好の必要などが挙げられよう。つまるところ、吳の國家としての「自信」の無さに換言する事ができる。


 その吳(孫權)が黄武八年(太和三年)という時点で「帝」を称えたのは、蜀が諸葛亮の北伐に吳の協力を必要とし、孫權の称帝に反対し難いという理由もあろうが、前年の「石亭の戦い」の結末と無縁ではないだろう。

 殊更に、この年を以て吳の正当性が強化された、という事例も見られない事を考えれば、戦勝による「自信」の向上、魏の軍事力の低下が、吳の君臣に「即皇帝位」を断行させたと言える。

 所謂「三國時代」は実質的には、建安十三年(208)の「赤壁の戦い」以降、「三國」の並立という点では同十九年(214)の劉備の入蜀と翌年の張魯(漢中)の曹操への降伏、名義的には漢魏革命による「漢」王朝の終焉、つまり、黃初元年(220)の曹丕、翌年の劉備登極を以て到来している。

 しかし、名実ともに三人の皇帝が鼎立するのは、この太和三年(吳:黄龍元年;蜀:建興七年)であり、真の「三國時代」はここに始まる。


 この前後の各國の軍事行動を見ると、建安年間(曹操存命中)は各國共に軍事行動を行っているが、魏及び蜀がやや積極的である。

 文帝即位後に魏の対吳攻勢が増し、蜀は劉備が「夷陵の戦い」に敗れ、死去した後は低調となる。この間、吳は基本的に守勢であり、黄初年間は魏の攻勢、吳の守勢が続く。

 この傾向は文帝崩後の吳の攻勢を除けば、太和二年(228)まで継続し、同年春の諸葛亮の「北伐」以降、蜀が攻勢に転じる。一方の魏は、「石亭の戦い」以降、太和四年(230)の曹眞の「伐蜀」、正始五年(244)の曹爽の「征蜀」を除けば、遼東(毌丘儉・司馬懿)以外に攻勢は見えず、殊に吳への攻勢は途絶えている。

 例外は、正始四年(243)の司馬懿による諸葛恪攻撃だが、これも、諸葛恪の攻勢に対応したもので、進攻を企図してのものではない。


 魏が吳に対して再び攻勢に出るのは、嘉平二年(250)の王昶等の南郡攻撃であり、「石亭の戦い」から二十年以上を経ている。しかも、これは荊州方面での攻勢であり、揚州方面で魏が攻勢に出るのは同四年(252)の諸軍の「征吳」、つまり、孫權死後の「東關之役」である。

 この間、吳は数年置きに魏に侵攻しており、蜀も建興十二年(234)の諸葛亮の死まで連年の様に魏への侵攻を繰り返しているが、その死後は後継の蔣琬・費禕等の方針によって攻勢が途絶えている。

 孫權の死以降の魏は反司馬氏の動きなどから攻勢は殆ど無いが、景元四年(263)の「伐蜀」で蜀を滅ぼし、晉の成立後、咸寧五年(279)から翌年に掛けての「伐吳」で吳を滅ぼしている。この間、晉も北方の匈奴などに対する以外は攻勢が見えない。

 吳は孫休の時代に攻勢が低調となるが、その前後(孫亮・孫晧)にはやはり数年置きに攻勢に出ている。蜀では姜維が軍事力を握り、連年の如く活発に軍を動かしている。


 以上、簡単に三國の軍事行動を見たが、太和二年を最後に、魏の攻勢、特に対吳の攻勢が顕著に低下するという事が見て取れる。つまり、総体的には、太和三年以降、魏が守勢に転じ、吳・蜀の攻勢は現状を変更し得ないという情勢が、蜀の滅亡、延いては吳の滅亡まで続くという事になる。

 これが三國時代を「三國」ならしめた要因の一つであろう。これには、各國の内部事情など、他の要因も絡んでいるが、「石亭の戦い」がその契機となったとは言える。


 その原因としては、短期的には「石亭の戦い」の敗北による魏の、特に揚州方面の軍事力の低下があるだろう。合肥新城の築城など滿寵の守備的な対応もこれに起因していると思われる。

 また、曹休の死の直後であろう十月中に「公卿近臣舉良將各一人」という詔が出されており、これは「石亭の戦い」により「良將」が多く失われた故とも考えられる。ただ、これは長期的には解消された筈で、少なくとも魏代の後半に揚州方面で攻勢が見えないのは、王淩・毌丘儉・諸葛誕等の反司馬氏の動きが関連しているだろう。


 いま一つの理由として考えられるのは、曹休を始めとする対吳積極派、或いは「先吳派」とでも言うべき人物の退場である。曹休は既に述べたように、その経歴などから、吳の攻略に熱心な人物であったと思われる。これは太和二年には既に故人である文帝曹丕にも共通する。

 その文帝に関して「恨不斬孫權以下見先帝」と述べている賈逵も「東關」に対する「攻取之計」を述べるなど、やはり対吳積極派の一人と言える。

 司馬懿も明帝の「二虜宜討、何者爲先」という問いへの応対からすると、同様であったと思われるが、太和三年以降は曹眞の後任として、対蜀に起用されている。これは司馬懿が吳の攻略に然程熱心でなかったと言うより、情勢の変化に対応した故と考えるべきだろう。

 対して、明帝は吳・蜀の攻勢に対しては自ら親征するなど積極性を見せるが、晩年の遼東を除けば外征を企図した形跡は見えない。滿寵や太和五年以降の司馬懿も基本的に守勢に徹している。

 従って、太和三年以降、対吳の攻勢に積極的と見られる人物は軍の高官には存在せず、太和五年以降は対蜀でも同様である。以後、王淩や文欽などに積極さが見えるが、反司馬氏との関連で大規模な攻勢は行われていない。

 つまり、結果的にであろうが、「石亭の戦い」の敗北は、魏の中枢から武力による吳・蜀制圧に積極的な人物を除いた事になる。


 以上、表層的ではあるが、「石亭の戦い」の前後を比較すると、同戦役、或いは太和二年は、三國時代が「三國」時代として確定する画期となっていると見る事ができる。同戦役がその直接の原因とまでは言えないにせよ、「赤壁の戦い」などと同様、時代の画期を象徴する戦いと言える。

 その点ではいま少し着目されるべきと思われるが、史料上の制約が多く、これ以上は望むべくもないと言える。

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