プロローグ クロッカスの君へ

クロッカスの君へ


『甥 柊木賢人儀、去る六月二十一日永眠致しました。

ここに生前のご厚誼を感謝してーーー』


何が「ご厚誼」なのだろうか。手に持った案内状を読んで、最初にそう思った。


あの少年の名前は柊木賢人といったらしい。

いった、が過去形なのは、彼がもう故人であるからに他ならない。

まるで彼が『柊木賢人』でなくなってしまったかのように、人は死ぬと名前に過去形を使われる。

「らしい」なんて言葉を使ったのは、彼の名前を最後まで知らなかったから。正確にはを知らなかった。

無機質な筆フォントの葉書をゴミ箱に突っ込んだ後、部屋の奥のベットに座って一つ溜息を吐く。

壁にかかる時計の針は11時半を指していた。


 ふと枕元に目をやると、赤いパッケージの箱が1つ転がっている。手に取って見てみると、見覚えのある煙草の箱だった。まだ殆ど吸われていないらしく、しっかりとした重さがある。


「ーーーケントのだ」


私の部屋に忘れて行ったのだろうか。

私は気分で銘柄を変えるのだが、思えば彼はいつもこれを吸っていた。

「これ、遺品に入るのかな」と少し躊躇ったけれど、「どうせ焼くなら」と割り切って、1本だけ出して口に咥えた。

ポケットに入っていたライターで火をつける。部屋が暗いせいか、立ち上る白い煙は嫌に際立って見えた。

 

「まっず」


私が吸っているものよりも大分苦い。

私のを吸った時も、彼は「まずいね、コレ」と言っていた。やっぱり煙草の趣味は合わなかったらしい。


煙草の好みだけじゃない。

彼とは境遇も性格も全く違っていた。

正反対と言ってもいいだろう。高校生にして母親と妹を養っていた彼と、いつまでも親の脛をかじって放浪している私とでは、恥ずかしいほどの差があった。

6歳も年下の彼はひどく大人びていて、言われるまで年下だと気づかなかった程だ。私は未だに免許証が必須なのだが、彼はいつも顔パスで年齢確認を突破できていた(無論それは間違っていたのだが)。

目の下にはいつも深いクマがあったけれど、爪は綺麗に切り揃えてあったのを覚えている。切るのが億劫で髪を伸ばしっきりにしていた私とは、でも正反対だった。


彼は地元の高校に籍を置いてたという。一度だけ制服を着ているのを見たことがある。逆に言えば、一度しか見たことがない。彼は家族を養うため、昼夜問わず働いていた。

高校生が真昼間から働くというのはやはり体面が悪かったらしく、職場での嫌がらせやら謂れもない噂に彼は心底うんざりしていた。

私と会う時、彼は決まって職場の愚痴を吐き出して、私はというと彼の話に頷いたり一緒にパートのお局の悪口を言うのが常であった。

「あの店長、いつか絶対殴ってやる」とか物騒なことをこぼしていたが、死ぬ前に殴れただろうか。


少し思い出に浸ったあと、また不味い煙草に口をつける。普段部屋で吸うことはないのだけれど、今日は外に出る気になれなかった。喉を通った苦い煙が、わずかな痛みを残して肺に溜まっていく。溜息のように煙を吐き出すと、鼻腔から余韻が伝わってきた。

どこまでも苦くて、深い煙の香り。この香りを私はよく知っている。好みではない筈なのに、どこか心地良い。この香りを、私はきっと誰よりも知っている。


「......頼ってくれても」


不意に溢れそうになった独り言と一緒に、煙はゆっくりと夜の黒に消えていった。

この続きを言う資格など、私にはない。それは何より彼への冒涜になる。

理解していたから彼には言わなかったし、今更独り言として溢すのもやめた。

けれど。それでも、言い切れなかった、自分から堰き止めた言葉は、真っ黒な濁流を伴って瞼に溢れていく。


言えるはずがなかった。


私にはその一言を言う勇気も、権利もなかったのだ。

彼だってそれをわかっていた。私の頼りなさを、不甲斐なさを、弱さを誰よりも知っていたのだから。頼られなかったし、頼らなかった。


だから私は彼の受け皿になろうとした。彼が私に溢す辛さを、不満を、少しでも和らげようとしていた。せめて話し相手にくらいはなれていたのだと、勝手に思っていたのだ。


「ーーーー結局何もしてないじゃんか」


まだ半分も残っている煙草を、灰皿に押し付けて消した。まだ鼻腔に残る香りが、濁流をますます掻き立てていく。

ああ、ダメだ。崩れてしまう。誰にでもなく必死に装っていた平静が、ゆっくりと、けれども確実に崩れて行く。瞼を決壊した濁流が、喉まで迫ってきているのが分かる。


「泣くな」


自分に言い聞かせる。


もう、濁流を止める術などなくなっていた。


「泣くなよ!」


私は泣くべきじゃない。苦しんだのは、他でもなく彼なのだ。


17歳、17歳だ。勉強して部活して、友達とバカなことをして笑って、恋をして、甘さも酸っぱさも全力で楽しむ。

そんな青春を、彼は奪われた。自分ではない、勝手な大人のせいで。

彼は、たった17年という短い生涯を、17年もの長い苦しみに投じざるを得なかった。


吊り下げた縄を前に、彼は何を思ったのだろう。

何も言わずに出ていった妹に、何を思ったのだろう。

いつまでも帰らない母親に、何を思ったのだろう。

何もできなかった私に、何を思ったのだろう。


「なんで......」


分かっている。結局、私も同罪だ。

彼を苦しめた大人、そして見て見ぬ振りを貫いた大人。

私は彼を、彼が背負う理不尽を、見て見ぬ振りをした。

「私が弱かったから」「私にはその権利がなかったから」なんて言い訳だ。

助けるべきだったのだ。彼になんて言われようと、死んだ親に責め立てられようと。私の手がどんなに無責任で頼りなくても、差し伸べるべきだった。


私は彼を見殺しにした。いつでも助けられる立場にありながら、彼が崖から落ちるまで静観したのだから。今更後悔したところで遅い。

私は、確かに彼を殺したのだ。


「 」


夜は深く長い。私が恋と失恋を同時に自覚するには、長すぎるほどに。

 

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火葬のあと、クロッカスの君へ 枕川 冬手 @fuyute-shinkawa

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