ドロップレイン

実緒屋おみ/忌み子の姫は〜発売中

ドロップレイン

 今日も七色の雨が降る。


 赤、青、黄色、緑、オレンジ、他諸々。豆粒みたいなそれが傘に当たるたび、パラパラと小気味よい音を立て、地面に落ちては消えていく。


 通学路の中、みんなは傘を差さずに雨を浴び、今日の気分で飴になった雨(我ながら言いにくい)をついばむように口にする。


 色のある雨には感情が含まれていて――そう、例えば赤なら愛情、青なら落ち着き、黄色は明るさとか――それを食べることで人は感情を育むのだ。


 一体いつから、どこから、なんて野暮なことは聞かないで欲しい。あたしが産まれたときからそれは続いていて、おばあちゃんも雨を食べることを当たり前だと思っているくらいなんだから。


 だけどあたしには、それがわからない。小さいときからこれが、飴が怖かった。両親はそんなあたしに根気強く食べることを勧めてきたけれど、最小限しか飴を食べないあたしに見切りをつけて、生まれた妹を可愛がってる。


 それでいい、と思う。あたしは社会不適合者だ。たった一人の友達に言わせると、大人になるのが怖い変わり者、らしい。でも、本当にそうだろうか。


 目の前で笑い合ってるクラスメートが食べてるのは、同じ色の黄色い飴。明るさのみなもと。同じ感情を共有するのに飴が必要だなんて、あたしには、やっぱり理解できそうにない。


 傘を差すのはあたしだけ。奇異の視線にももう慣れた。だって怖い。飴を食べて感情を一緒にして、なんてのは、あたしがあたしでなくなりそうで。


 だからあたしは今日も、一人傘を差す。


 街中にひとりぽっちで置いて行かれた感覚を味わうのは、別にこれが最初じゃない。


  ○ ○ ○


 学校に行くフリをして、サボることにももう慣れた。


 今もまだ雨は降り続いていて、傘を差すあたしが行くところ、知らない誰かが怪訝そうな顔でこっちに視線をやってくる。


 知らない、知らない。そんな言葉を胸の中で繰り返し、平然とした様子で大通りを進む。


 近くにあたしがいつも行く、橋がかかった河原がある。今日もそこで時間を潰そう。本があるからそれを読むのもいいし、人が来ないからテスト勉強をするのにも向いている。素行は悪いがテストさえクリアすれば、親は何も言わない。先生も。


 あたしがどこにもいないようにされているのにも、もう慣れっこだから。


 川縁の橋の下に腰を下ろし、そこでようやく傘を閉じた。雲の端から少しだけ晴れ間は覗いているけれど、まだ雨は降っていて、軽い音が響いている。


 飴は不思議なもので、地面に落ちれば消える。人や物に当たって跳ね返った雨は、飴にはならない。なるのは手のひらや口の中に落ちたときだけ。よくできた不思議だ。


 誰もいない橋の下で、あたしがため息をついたそのとき。


「あれ、誰かいる」


 不意に声が聞こえて、あたしは橋の外に目をやった。


 傘を差した少年が、そこにいた。


 歳はあたしと同じ頃だろう。制服は知らないブレザー。セーラー服のあたしの学校とは違う。透明なビニール傘に、色とりどりの雨がまぶしい。


「君は誰?」

「誰って、別に関係なくない? あたしのことは放っておいて」


 あたしは傘を置いて、乾いた草むらの上に座った。少年は動かない。


「ここ、君が使ってるの?」

「そうよ」

「参ったなあ、隣町からわざわざ来たのに。……あ、その傘、もしかして君が噂の傘差し女?」


 鞄をまさぐる手を止めて、あたしは知らない誰かを思いきりにらみつけてやった。


 あたしのあだ名はまさしくそれだけど、なぜか向かっ腹が立って。


「あんたも傘、差してるじゃない」

「うん。僕が噂の傘差し男だからね」

「傘差し男。……あんたが?」


 思わず怪訝な声が出た。友人に聞いたことがある。あたしをまねてる男がいるらしいと。隣町の高校だかなんだかにいる、そこまでは聞かされた。


「そう、僕が傘差し男。よろしくね、傘差し女さん」


 馴れ馴れしく言われて、でもあたしは差し出された手を取らなかった。


「あたしはあんたに興味ない」

「どうして? 同じ傘差し仲間じゃあないか」

「人まねなんてしてるやつが仲間だなんて思えない」

「まねじゃあないさ。昔っからこれが癖なんだよ、僕」


 彼はずかずかとあたしの側に近寄り、ようやく一息つける、そんな様子で傘を閉じた。


「これが降ってるときに傘差しちゃあ、やっぱりだめなのかな」

「いいんじゃないの。あたしもそうだし」

「だよね。いてもいいよね」


 なぜか彼は笑顔を浮かべ、あたしの横に腰かける。


「ちょっと」

「いいじゃないか、同じ傘差し仲間として仲良くしようよ」


 こちらに笑顔を向けたまま、ドーナツの箱を掲げて「食べる?」と聞く彼を、あたしは完全に無視した。


  ○ ○ ○


 その日から、あたしの日課はちょっと変わったものになった。


 傘差し男(名前は知らない)と一緒に橋の下、二人で過ごすようになったのだ。


 最初、あたしは警戒した。だけど彼は罰ゲームでもなんでもなく、本当にこの雨を毛嫌いしているようで、そこにだけはあたしも同意だったからちょっとだけ心を許した。


「どうしてこれを食べないといけないんだろうね」


 出会って早くも一ヶ月、降り注ぐ七色の飴を見て彼が寂しそうにつぶやくものだから、あたしは数学の予習の手を止めて同じく橋の外を見た。


「みんなが食べてるからじゃないの」

「みんなって誰だろう。ねえ、考えたりしない? みんなって誰のことを指すんだろう、とか」

「それ、堂々巡りになるから考えるのやめたわ。中学生の頃に」

「思考を止めちゃあだめだよ。人間は考える葦である」

「何それ?」

「パスカル。って言っても、僕もあんまりよく理解してないんだけどね」


 彼曰く、哲学者の名言らしい。どうにも小難しいのが苦手で、あたしはうなる。


「みんなはみんなよ。社会全体よ。それから外れたあたしたちは社会不適合者、ただそれだけ」

「あ、今はじめて『たち』って言ったね」


 いちいちうるさい。なぜか嬉しそうに笑う彼をにらんだ。でも彼はどこ吹く風という顔でドーナツを食べている。ほとんど毎日ドーナツを持ってきては食べているが、飽きないのだろうか。


「僕たちは、このドーナツの穴みたいなものだよね」

「どういう意味よ」

「あるけどない、ないけどある。そして他の誰からも見えない、見られない」


 コツン、と小さい音が端の中に響いた。また雨だ。むしろ飴が降らない日の方が珍しい。音は大きさを増して二人で外を見る。七色の、綺麗だけど恐ろしいものが輝きながら地面に溶けていく光景に、これ以上ない嫌悪感を覚える。


 集中が途切れ、イライラして、彼が手で掲げているドーナツをひったくった。ドーナツは半分に割れたけれど、気にせず口に放りこむ。彼は楽しそうに笑う。


「ずっとドーナツ見てて思ったんだけど、今は僕たち、穴じゃあないね。こうして穴を崩して飲みこむこともできるんだから」


 穴は穴よ、と言おうとしたけれど、渇いた口の中にドーナツが張りついて、それどころじゃなかった。ペットボトルのお茶を飲み、平静を装って喉の奥に流しこんだ。


「パステルとかドーナツの穴だとか、例えがいちいちわかりにくいのよ」

「パスカルね。それ、友人にも言われたことがあるよ。難しいかなあ、そんなに」

「……友達がいるなら、そいつのとこに行きゃいいじゃないの」


 なんだろう、少し胸がズキズキする。鼻で笑うようにして横を見ると、どこか寂しそうに微笑む彼と目が合った。


「もう会えないんだよ」

「会えないって、なんで?」

「理由があるからね。君はどうなの? 傘差し女さん。友達、いないの?」

「失礼ね、いるわよ」


 一人だけど、と奇妙にもあたしにつき合ってくれる友人の顔を思い出し、最近めっきり会っていないことに気づく。近々テストがあるから、その際に会えるだろうけど。


 それに友人は人気者だ。少なくとも、こんな変わり者なあたしとつき合って陰口をたたかれない程度に。人脈も広いし嫌味がない。あたしとは全然別の人種だな、と我ながら感じる。


「友達は、大事にした方がいいよ」


 感慨深げに言われて、あたしは反抗することもできずに口をつぐんだ。


 その顔が、笑顔なのに、あんまりにも悲しそうに見えて。


 降り続ける雨の音が、やけに大きく響いている。そんな風にぼんやり思った。


  ○ ○ ○


「これ、次のテストで出るとこだよー」

「ありがと。じゃあね」

「待って待って! ね、最近なんか変わったよね」


 学校終わり。唯一の友人からメモを受け取り、きびすを返そうとしたときだ。不意にそんなことを言われた。


「何が」

「なんとなくだけど、雰囲気変わった?」

「気のせいじゃない? ってか、そこまで会ってないでしょ、あたしたち」

「そうかなあ……なんか違うんだけどな。柔らかくなったっていうか」


 首を傾げる友人に、あたしは傘を差したまま押し黙る。下校中の生徒がこちらを見ていた。もちろん話しかけてくることなんてない。何が楽しいのか、クスクス笑って通り過ぎていくだけ。


「もういい? あたし、これから勉強しなきゃ」

「えー。面白い噂入手したから、聞いてってよ。ね? ね?」


 そんなことすら気にしていないのか、友人は手に握った青い飴を口にし、悲しげに笑う。あたしは溜息をついて無言で首を縦に振った。


「噂って何」

「前に話した隣町の傘差し男、一ヶ月前に死んじゃったって」

「……え?」


 一瞬、何を言われたかわからなかった。


 傘差し男。あいつ。――死。


 ばらばらの単語が頭に浮かんで消える。


 一ヶ月前。嘘だ、と思った。だって、のに。


「嘘」

「嘘じゃないよ。知り合いから聞いたもん。病死だったかなあ……」

「嘘」

「だから嘘じゃ……あ、待ってよ、どこ行くの」


 脳内が真っ白になった。震える足は勝手に駆け出し、友人の呼び声も無視して先へ先へと進む。


 あいつは何。幽霊? それとも、別の何か?


 わからない、と傘の柄を握る手に力がこもる。あたしはあいつのことを何一つ知らない。たまに話して、ドーナツ食べて、さようならする。そんな関係。体が弱そうだなんて思えなかった。食べ物だって食べてた。


 混乱し、息を切りながら、走る。向かうのはいつもの場所。橋の下。


 ――そこに、いた。


 あいつはいた。いつものようにドーナツの箱を手に、傘を差して。


「ごめん」


 ふらふらになったあたしを見たのか、あいつは言う。寂しそうに、苦しそうに。


「……あんた……」

「ずっと会ってみたかったんだ、君に。僕と同じだと思ったから。神様が本当にいるなら、僕の最後の願いを叶えてくれたってことになるね」

「……何それ」

「聞いたんだよね? 僕が死んだって。死んでるって」

「今ここに、あんたはいるじゃない!」


 パラパラと落ちる雨の音をかき消して、あたしの叫びが河川敷に響く。


 あいつは笑う。なんてことのないように。


「ずっと入院してて。その前から傘を差してて。この飴が怖くてね。ひとりぽっちだった僕に、両親が教えてくれたんだ。君がいるって」

「やめてよ……」

「楽しかった。僕とおんなじ人がいてくれて、救われた。ありがとう」

「やめてよ!」


 あたしは声を張り上げた。何も聞こえないふりをする。


 嘘だ嘘だと思う。胸がきゅっとする。でも、涙は出ない。あたしは泣けない。泣いたことがない。「泣く」ということがわからない。


 あたしがにらむその先で、あいつの姿が消えていく。


「君を一人にしちゃうけど……そろそろ時間かな。ドーナツを食べるときにでも僕を思い出して。その程度でいいからさ」

「待って!」


 駆け出した瞬間、電車が橋の上を通過する。


 刹那、あいつは――消えた。


 ドーナツの箱だけを橋の下に、残して。


  ○ ○ ○


「うそつき」


 呆然として、けれど口からは勝手に言葉が出た。


「うそつき、うそつき!」


 あたしは傘を叩きつけ、一人で叫ぶ。雨降りの音がそれをかき消す。


 パラパラ、パラパラ、パラパラとあたしを馬鹿にするように。


 あたしはこの感情が何か知らない。わからない。気持ちが育っていないから。育ててきていないから。


「……」


 七色の飴を、河川敷に落ちるあれを食べたらわかるんだろうか。ドーナツの穴を埋めるように、胸に空いたぽっかりとした気持ちが癒されるんだろうか。


「……」


 折れた傘を投げ捨て、あたしは空を見る。


 七色の雨、飴、雨。感情を育むみなもと。嫌悪しているそれをにらんで、セーラー服のスカートを握りしめた。


 もういないあいつのために泣けるのなら。


 二度と会えないあいつに抱いた気持ちがわかるなら。


 あたしは、そっと草むらに足を踏み出す。体にパラパラと飴が、当たる。


 手のひらを出してみた。落ちてきた赤と青の飴が、豆粒みたいにきらきら輝いている。


 あたしは、食べた。


 がり、と音を立ててかみ砕く。飲みこむ。


 途端にこみ上げてくるのは、熱いもの。胸に、瞳に、ぞくぞくとした何かがこみ上げてくる。


 目の端から出てくるのは、涙。周りの光景がわからないくらいにぼやけた視界で、あたしは自分が本気で泣いていることに気付いた。


 でも、まだ、わからない。胸は熱くて動悸もするけど、あいつに抱いた気持ちに言葉がつけられない。


 膝をつき、天を仰いだ。泣きじゃくりながら大きな声で叫ぶ。


「降って。もっと降って!」


 あらゆる色の雨を、食べる。豆粒が体にも顔にも口にも当たり、跳ね返ってきらめいた。


 両手に落ちた雨を、飴をむさぼる。夢中で、雨を嫌いだった気持ちを、つまらないプライドを、何もかもを捨てて食べ続ける。


 口の中が甘ったるい。それでも食べた。もやもやの正体を知るために。気持ちに整理をつけるため。


 食べていくうちに涙が止まる。胸が高鳴る。


 悲しみ、喜び、怒り、苦しみ――ありとあらゆる感情が押し寄せては、消えた。ぷつりと糸が切れたように。


「あ」


 気持ちが一気にフラットに、平らになって胸が落ち着く。


「……あたし、なんで」


 立ち上がる。周囲を見渡し、目をまたたかせた。橋の下に折れた傘と鞄が落ちている。


「ああ、そっか。なんでもないんだ」


 笑って涙を拭いた。


 結局のところ、あの『傘差し男』とあたしの関係は傷の舐め合いみたいなものだ、そう気付いて。


 幽霊だかなんだか知らないけれど、きっとひとりぽっちのあたしに神様がくれたギフトだったんだと思う。


 でも、もういらない。


 傘差し男は『今』のあたしと違うから。


 傘を差す必要もなくなった。雨を怖いと感じることもなくなった。あれほど嫌悪していたのが嘘のように気持ちが晴れやかだ。


 橋の下に戻り、鞄や参考書を片付ける。ふと視線を落とすとドーナツの入った箱があった。


「ばいばい、傘差し男


 壊れた傘とドーナツははもう、必要ない。



  ※ ※ ※



 今日も七色の雨が降る。


 赤、青、黄色、緑、オレンジ、他諸々。豆粒みたいなそれが家屋に当たるたび、パラパラと小気味よい音を立て、地面に落ちては消えていく。


 どうしてあたしはこれを毛嫌いしていたのか、今ではもうわからない。理解することは一生ないだろうし、知る必要もないだろう。


 休日の自宅、自分の部屋で空を見る。散らばる七色の素敵な輝きにあたしは笑う。


「もっと降れ。美味しい雨、もーっと降れ」



                       【元】

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