潮騒に溶けゆく

実緒屋おみ/忌み子の姫は〜発売中

潮騒に溶けゆく

 彼女は僕を「タロウ」と呼ぶ。出会ってからずっと。この数ヶ月、ずっと。


 僕の本名は味気ない。だからタロウでもジョンでも、適当だとしても決めてくれることは嬉しかった。


「タロウはずっとここにいるのよね?」


 隆起した山と岩肌だらけの土地を見つめて、彼女――フラは言う。いつものようにセーラー服とガスマスクを着用した格好で。


 僕はフラへと目をやった。短い黒髪に赤いスカーフが鮮やかだ。夕暮れどきの大きな太陽よりも、より眩しく見えるのはなぜだろう。


「そうだよ。フラはシェルターから来てるんだろ? 長いの、今のシェルター生活」

「うん。でも大抵の住人は電脳空間に行ってて、退屈」

「話し相手が僕だけっていうのは、なんだかちょっと味気ないね」

「そうでもないわ。タロウは物知りだから。ここまで色々話せたのはタロウだけ」

「そいつは光栄」

「調子に乗っちゃって」


 フラは笑ったようだ。微かに肩が揺れている。彼女の青い目は相変わらず僕ではなく、僕たち二人の眼前にある岩山を見ていた。


 僕も無言で視線を前へやる。どこまでも続く地平線。落ちていく夕陽。そこに森はない。草木も水も、また。


 この世界には昔、森林をはじめ海というものがあった。惑星の七割を占める海がなくなったことで、人の住める場所は爆発的に増えたけれど、雨も水もないところで人間は生きていけない。そのために作られたのがシェルターだ。


 シェルターはドーム型で、一つにつき五万人程度の人間が住んでいる。夏は四十度越えが当然、冬もひどいときにはマイナス五十度以下にもなるこの世の中だ。海がなくなったせいで薄くなった酸素と大変な気温差から身を守るため、また、貴重な植物を栽培するために人々はドームを作り上げた。


 フラがガスマスクをしているのも、空中に流れるメタンガスと、剥き出しになった海底山脈からの噴煙を吸い込まないようにするためだ。


 長袖のセーラー服にも多分、寒暖調節機能がついているのだろう。防護服にもいろんなタイプがあることくらいは常識だ。


「ね、タロウ。昔ここにあった海の名前、知ってる?」

Atlantic Ocean大西洋だろ」

「正解。じゃあ、その名前の由来は?」

「……確かギリシャ神話ってやつから取ったはずだけど。アトラスって巨人から」


 僕は慌ててネットの海から情報を探る。フラがこちらを見る。青い目を細めて。


「今調べたでしょ。ずるいんだから、全く」

「電脳化してるんだから、そのくらい使ってもいいと思うけど?」

「クイズに不正行為なんて卑怯じゃないの。それにもう一つの答えは?」

「えっと……」

「三、二、一。はい、時間切れ。残念でした」

「……いつからクイズになったんだ」


 そうぼやくと、彼女は楽しげに肩を震わせた。


「答えは、アトランティス。伝説上の王国名が由来よ。ロマンを海に感じてたみたいね、大昔の人って」

「今だってそうさ。資源がお宝だろ? 一攫千金を夢見て穴掘りする連中も少なくないし」

「お宝、か。宇宙開発は頓挫したけど、今は電脳空間があるものね」


 トントン、とフラは自分のこめかみを叩く。


 ある一定の市民が特殊な電脳空間にダイブできるようになったのも、そう昔の話じゃない。電脳空間にはアガルタ、とかマゴニアとか様々な名前がつけられていて、市民クラスをちゃんと持っている人間ならそこで娯楽を味わうことができる。


 大昔にあった海やジャングルも、電脳空間の中では再現されているらしい。僕の電脳は古くて空間へ潜れる状況にないから、フラの言葉を信じる他ないけれど。


「フラも物好きだよね。電脳空間へ行かずに僕と話してるなんて」

「偽物を見てもなんの価値にはならないわ」

「そうかなあ……僕は見てみたいけど、昔の町とか」

「所詮作り物。電脳空間には上っ面のものしかない」


 淡々と述べる彼女の顔を僕は見た。地平線に視線を戻した横顔は怖いくらいに無表情だ。太陽に照らされて、そのまま夕陽の赤に溶けていきそうなイメージもある。


「本物があったらいいのにね」


 月並みな言葉を僕は発した。フラがこちらを見る。すぐに視線が外れる。


「また明日、来るから」

「うん」


 言って、彼女はシェルターの方へと戻っていった。ここからシェルターはそう遠くない。


 その後ろ姿を見つめたあと、僕は藍色に染まりつつある空の下、ぼんやりと上へ視線をやった。


 今日も、星が多い。


  ◇ ◇ ◇


 海は偉大な生命の母、だったらしい。


 様々な海産物に未知の生き物。そして海底資源。そんなものを内包した生命の母がなぜなくなってしまったのか、突如消え失せたのか誰も知らない。僕も、フラも知らない。


 もしかすれば電脳空間に住まうお偉いさん――政府は秘密を把握しているのかもしれないけれど、人々に明かされることはないだろう。決して。


 僕だって秘密を暴こうとは思わない。解くすべもないし、正直、ハッキングする能力すらないのだから。


「やあ。今日は早いね、フラ」


 人の気配を察知し、視線をやる。相変わらずガスマスクをつけた彼女は、大股でこちらへと向かってきていた。


 いつもならフラは夕方くらいに来るのだけれど、今は昼過ぎ。太陽が頂点から少しばかり傾いた頃だ。


 彼女は僕のすぐ横に腰かけ、何度も首を振っていた。


「何かあったの?」

「フェリのやつ、腹立つ。ちょろちょろ出歩くなだって」

「フェリ……君の保護者だっけ」

「あんなの保護者でもなんでもない」

「そうなんだ? でも、前に話してたときは保護者って言ってたじゃないか」

「とりあえず、よ。関係性に名前をつけるとしたらそうなるだけ」


 よっぽど怒っているらしい。フラの肩は上下している。


 関係性、と聞いて僕はふと、思う。


 僕とフラの関係はどういったものになるのだろう。友人というところだろうか。それともただの話し相手なのか。まあ、どっちでもいいんだけど。


 しばらく僕たちは無言になる。遠くからは資源を採掘する小さな音が響いていた。体を丸めたフラが、ぽつりと呟く。


「ごめん。ちょっとらしくなかった」

「いいよ別に。文句を言って気が晴れるなら……あ、でも蹴ったりするのはやめてほしいな」

「あたし、そんな野蛮人に見える?」

「見えないね」


 器用に片眉だけを釣り上げ、フラは軽く笑ったみたいだ。彼女の笑顔はガスマスクに隠れて見えないけれど、溌剌とした雰囲気の方がいい気がする。


「フェリってどんな人?」

「陰険なやつ。あたしの体調とか見てくれてるのには感謝してる」

「フラは体、どこか悪くしてるんだ」

「ちょっとね。でも平気」

「いいの? 僕のところなんかに来て。具合が悪いなら……」

「タロウまであたしを病人扱いするわけ?」


 じろりとねめつけられ、慌てて視線を逸らした。いや、大丈夫ならそれに越したことはない。


 話し相手がいなくなるのはちょっと退屈だし、平気と言っているなら彼女の言葉を受け入れようと思う。


「友達の言うこと、信じなさいよ」

「僕たち、友達なんだね」

「え?」

「えっ」


 むすっとしたフラの言葉に僕は一瞬嬉しくなって答えたけれど、彼女はどうやらますます気分を害したみたいだ。


「友達じゃなくちゃなんだってのよ、あたしたちは」

「……会話の相手、とか?」

「タロウ、最低」


 フラは立ち上がる。セーラー服のスカートを叩きながら。


「もう来てやんない」

「えっ、ちょ、ちょっと待ってよフラ。ごめんってば」

「ふふふ、冗談だって」

「悪趣味だなぁ……」


 いいように振り回されている気がする。僕の呟きに、それでも彼女は楽しそうに肩を震わせる。


 けれど、次の瞬間にフラの膝がかくりと、折れた。そのまま地面へ膝をつく。


「フラ?」

「……平気。最近、こんな感じなのよね」

「フラ、やっぱり一度、フェリって人にちゃんと診てもらった方がいいよ」

「そうね、癪に障るけどそれも仕方ないか」


 再び立ち上がり、フラは目を細めた。白い顔がなんとなく不気味に思え、僕は慌てて言葉を紡ぐ。


「元気になったらまたおいでよ。僕は待ってるから」

「……うん、そうする。ありがとね、タロウ」


 そう言ったものの、彼女はその場から動かない。まるで岩のように、頑なに。


「帰らないの?」

「ね、タロウ。もしあたしが……」

「あたしが?」


 おうむ返しに聞いてもフラは何も言わない。彼女は視線を地平線へやり、まばたきを繰り返してから小さく頭を振った。


「なんでもない。またね、タロウ」

「うん」


 手を振り、いつものようにフラはシェルターへと帰っていった。おぼつかない足取りで。


 ――彼女の不調。言いかけた言葉。僕がそれに何かを見出すことができなかったのは、仕方ないのかもしれない。


 またね、なんて言葉を信用しきった僕も悪いと、後々わかることだった。


  ◇ ◇ ◇


 フラが別れの言葉を残して、もう一週間にもなる。その間一度も彼女と会っていない。


 朝焼けを眺め、昼の陽射しに照らされ、月や星だけを見る毎日が続いた。その間僕は独りだ。けれど寂しいとか、悲しいとかいう気持ちは僕にはない。フラのことが心配なだけ。


 元々独りには慣れている。もしかしたらフラは、僕以外の誰かと仲良くなってしまったのかもしれないけれど、それだって仕方ないことだと思う。僕みたいなものに付き合ってくれたフラの方が奇異なんだから。


 だから、ただ彼女が無事であればいい。


 まとまらない思考パターンを放置し、夕暮れをぼーっと眺めていたとき、シェルターの方からバイクの音が聞こえた。


 誰だろう。フラはバイクには乗れないって聞いてるし、と視線をそちらにやった。


 ガスマスクをつけた男が、バイクから降りてこちらに向かってくる。長い黒髪に、鋭い青の目。年の頃は三十代、といったところかもしれない。知らない相手だ。


「どちら様?」

「フェリだ。名前くらいはフラから聞いているだろう」


 あ、と僕はこないだのフラとの会話を思い出す。彼女の保護者だ。


「こんな辺鄙なところに来ていたのか、あれは」

「……フェリさんがどうしてここに?」


 僕の側に近寄り、彼――フェリは冷たい目付きをますます細める。


「もう、あれはここには来られない」

「なんで? 具合が悪いから?」

「具合……そうだな、不調だ」

「そっか」


 僕が呟くと、マスクの中でフェリは嫌な笑いをこぼしたようだ。


「お前にはどうすることもできないだろう」

「そうだね」

「あれを見てやることも、シェルターに行くこともできまい」

「うん」


 フェリが笑みを止め、僕を見上げる。僕は視線を下にやる。


「AI搭載型灯台0074。お前はあれと出会って何を得た?」


 定義づける名前と共に問われて、それでも僕の心には何もわかない。


 僕には心がない。知能しかない。AI搭載型灯台0074として作られ、半世紀は過ぎた。海もないこの世界で灯台が作られたのは、景観と夜の明かりのためだけだ。


 それこそロマンを抱いた人間が、海に対する郷愁で作ったのかもしれないけれど。


 僕は目――搭載されている灯台レンズを地平線へ向けて、思考パターンをまとめる。


 フラの顔、やりとり、冗談。そんなものが浮かんで、相槌の代わりにちかちかと灯火を照らした。


「わからないけど無駄じゃなかったと思うよ。フラといて、お喋りして。これが人間の言う楽しいってことなら、そうなんだと思う」

「お前は気付いていないのか」

「何が?」

「あれ……フラは、AI搭載型のガイノイドだということを」


 風が、吹く。


 僕は自然と灯火を消し、視線を再びフェリへと向けていた。


「とは言え、お前とフラとでは使われた技術もその用途も異なるがな」

「……フラを作ったのは、フェリ?」

「そう、オレだ。あれは電脳空間のネットワーク全てにアクセスできるよう作ってある。全ての電脳空間に対し、ハッキングすらできるオレの最高傑作だ」


 白衣を風に揺らしながら、フェリはどこか満足げに両手を広げた。


「あれには海のデータを詰め込んである。今はなき、政府が隠し通している本物の海のデータを」

「フェリは何をするつもりなんだい」

「偽物を本物に」

「それをしたら、フラはどうなるの?」

「活動の停止。いや、そろそろデータ量に耐えられなくなってきていた。どちらにせよ活動停止は避けられん」

「フラはそれを望んでいるの?」


 僕の言葉に、困ったようにフェリは肩を竦める。


「お前が灯台という存在意義を変えられないように、あれにも存在意義がある。それは電子の海へ本物のデータを流し込むということだ。望むか望まないか? それはオレが決める」


 僕は何も言えなかった。創造主という存在に与えられた意義。僕は灯台として作られ、フラはフェリのために作られた。それ以外、僕たち人工的なものに価値があるかといえば否だろう。


「わざわざそんなことを言いに来たわけ」

「人間には面白いものがあってな。仁義という心意気だ。少しの間、あれの暇潰しに付き合ってもらった分、それを返しに来た」


 言って、フェリは踵を返す。僕は何も言えないまま視線を地平線へとやった。彼もまた、無言だ。仁義とかいうものを済ませたらしいフェリは、そのままバイクに乗ってシェルターへと帰っていった。


 バイクの轟音を聞きながら、僕はフラのことを思い出す。


 それでも僕には、どうすることもできない。


  ◇ ◇ ◇


「タロウ」


 フェリが来たその夜。星空が眩しい夜。聞き慣れた声に、僕は灯火を消して後ろを見た。


「フラ」


 彼女の姿はひどい有様だった。着ているセーラー服はぼろぼろで、ガスマスクをつけていない顔は仄かに青く、発光している。


 いや、光っているのは顔だけじゃない。剥き出しになった足、腕の切れ込みから輝きが漏れ出て、闇夜の中、仄明るく浮かんでいるように見えた。


「どうしてここに? フェリと一緒じゃないの」

「逃げてきちゃった。でも、場所は多分サーチされてるし、もう時間がない」

「君が活動停止する時間まで?」


 僕がそう言うと、フラはどこか悲しげに笑った。


「ごめんね、タロウ。本当はもう少し早く正体を明かせばよかったんだけど」

「いいよ。でもどうして」

「あいつの思い通りにはさせたくないの。あたしにはあいつを害することはできない。でも、自己満足に付き合うのもいや」


 ――人間に危害を与えてはならない。命令に服従しなければならない。自己を守らなければならない。


 古めかしい三原則が頭に浮かぶ。僕の思考を読み取ったように、フラは首を小さく振った。


「あたしはロボットじゃない。あいつに付き合う義理もないの」

「でも、フェリは君を作ったって」

「正確に言えば、あいつのお父さんがあたしの基礎を作り上げたのよ。生体むすめを元にしてね」

「……じゃあ君は、フェリの妹か姉ってこと?」

「そうなる。生身の部分はほとんど機械にすげ替えられちゃったけど」


 フラが僕の側に近付き、その体を僕へと寄り添わせた。その長い睫が震えているのを見る。


「もうそろそろ限界。あたしの命はここで終わる」

「フラは……それでいいの?」

「言ったでしょ。あいつの自尊心を満足させるためなんかに、存在したくない」

 

 青い目と僕の視線が重なる。フラは笑う。いつものように、いたずらをするときのような笑顔で。


「タロウに、海を見せてあげたかった」

「僕に?」

「本物が見たいって言ってたじゃないの」

「そうだけど……僕はそんなことより、もっと君と話してたかったよ」

「タロウは優しいね」


 呟くように言って、フラが瞳を閉じた。代わりに口を開き、そこから流れたのは一つの歌だ。



 We’re all alive

 It’s because we’re alive that we’re smiling


 We’re all alive

 It’s because we’re alive that we’re happy



 知らない歌だった。柔らかい歌は次第に静かに消えていく。それでもフラは、歌うことをやめなかった。メロディが風に溶け消えるまで、ずっと。


 フラ、と呼んでも答えはなかった。


 視線をやれば、僕の体に寄り添ったまま彼女はうなだれていた。体の発光はない。そこで僕はようやく、彼女が<死んだ>のだと理解した。


 ――それから少しして、バイクの音がする。


「フラ!」


 バイクを投げ出し、フェリは怒ったような、焦ったような形相でこちらへ向かってきた。僕に寄りかかっているフラを見て、絶望したみたいな顔を作る。


「……フラ」

「もう<死んだ>よ、フェリ。フラはもう、ここにいない」


 フェリは無言で、ただ、悔しそうにフラの<死体>を眺めているだけだった。


「フェリ、お願いがあるんだけど」

「……」

「僕の電脳に、フラが持ってる海のデータを流してくれないかな」

「……何?」

「もちろん僕じゃ、電脳空間には型が古いから流すことはできない。でも、灯火をスクリーンにしてみんなに見せてあげることはできる」

「そんなことをしてオレになんのメリットがある」

「フラのためだよ。フラは海そのものなんだろう。電脳空間に行けないみんなこそが本物を見る。それって凄い皮肉だと思わない?」


 僕の言葉に、フェリは無表情でこちらを見上げた。


「データ量は多い。お前の電脳が焼き切れるぞ」

「いいよ。多分僕はフラのために作られて、海を見せるためにここにいたんだ」


 僕の存在意義。レゾンデートル。はじめて僕は<灯台ぼく>を捨てる。


「……どうせ計画は水の泡だ。いいだろう。その皮肉、気に入った」


 フェリが投げやりな笑顔を見せた。その笑顔は少しだけ、フラに似てるとぼんやり思った。


(怒るかもしれないけど)


 フェリはフラを抱きかかえ、灯台の中を上ってくる。そして頂上にある電脳――僕をいじりはじめた。


(君の存在意義を、僕はみんなに教えてあげたいんだよ。フラ)


  ◇ ◇ ◇


 僕とフラが繋がる。膨大な量のデータが流れ込んできて、思考が途切れそうになる。


 灯火がスクリーンへと変化した。地平線へ、シェルターへ、空へ、フラが持っていたデータが画像となってあふれる。


 緑がかった青い大きな水たまり。ノイズのような音と共に行き来を繰り返す、白い飛沫。


(これが、海)


 壊れていく思考の中で僕は、人間だったら感動に溜息を漏らしていたかもしれない。


 それほど海は美しかった。輝いて見えた。フラの瞳と同じような青さと、清々しいほどまでの緑色。白い飛沫と二色のグラデーションが織りなす光景は、今まで見たどんな景色よりも素晴らしいものだと思えた。


 けれど、きちんと光景を映し出せたのは二分ほどの間くらいだ。そのかんにどれだけの人が海を見てくれただろう。わからない。


 僕が消えていく。


 僕という存在が焼き切れ、瓦解していく感覚はどうにも形容しがたい。痛みもなく、ただ己が崩れていく。壊れていく。


 なんの音もしない。暗闇が全てを制する中、それでも遠くから一点の光が見えた、気がした。


 焼き切れたはずの電脳に、声が響く。ノイズみたいな音もする。


「バカね、タロウって」


<……フラ?>


「そう、あたし。フラよ。無茶しちゃって、何考えてんの」


<ごめん>


「許してあげる。友達だもの」


 光は一つの姿となった。そしてフラの形を取る。黒い短髪にいつものセーラー服。そこにガスマスクはない。


 彼女の背後には海があった。優しい笑顔を浮かべ、フラは僕の意識――と呼べるようなものへと近付いてくる。


「綺麗でしょ、海」


<うん。この音……ノイズにも似てるけど違うね>


「潮騒っていうの。水の行き来は波」


<凄いよ。こんなものがこの惑星にずっとあったなんて>


「当然のようにあるものが不意に消える、なんて思いもしなかったでしょうね。昔の人も」


 フラは意地悪そうに唇を歪めた。それから首を振り、僕を抱き締める。


 温もりというものは感じない。体温というものを僕は知らない。それでも、どこか心地いい。


<どうして僕たち、また出会えたんだろう>


「さあね。フェリに電脳を繋げてもらったんでしょ? だからじゃないの」


<論理的じゃないなあ>


「野暮よね、タロウって。どうだっていいことを考えても時間の無駄」


 そうなんだろうか。ちょっとよくわからない。


 でも、フラにまたこうして会えて話せたのは、人間の嬉しい、という感情に値するものだと僕は思う。


 海があり、フラがいて、僕もいる。それだけがこの空間の真実だ。きっとそれは、電脳空間では味わえないリアルなんだろう。


「行きましょ、タロウ」


<どこへ?>


「海へ」


 手を広げ、フラが海を指す。


 波の向こうにはまた別の光があり、太陽とは違う柔らかな明かりが射し込んでいた。海は続いている。その光の奥まで。


<うん、行こう>


 僕は声を上げた。何があるかは知らない。何が起きるかもわからない。それでも、フラと一緒ならどこまでも歩いて行ける気がした。


 フラが僕を抱えて歩き出す。素足で浜辺を踏みしめ、濡れることもいとわずに海の中へと入っていく。


 僕の意識も、フラの意識も、一緒くたになって海へと消える。


 ――潮騒に、溶けゆく。



(We’re all alive

 It’s because we’re alive that we’re smiling!)


(We’re all alive

 It’s because we’re alive that we’re happy!)



                  【完】

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