溝のはりねずみ
輝夜 真
第1話 ハロー、くそったれな世界
小さな田舎町で小さな工場を営む貧乏な家庭の長女として私は世界とこんにちはした。
しかし、世界は思ったよりも私を歓迎してくれなかったようだ。
三歳の時、初めて父親に殴られた。
どんな理由で父親を怒らせたかは覚えてない。ただ覚えているのは鬼の形相で私に怒鳴りつけながら手当たり次第に周りにある家具や私の宝物だった玩具を壊す父親の姿、そんな父親の後ろから父親を止めようとせず無表情で私を見下ろして来る母親の冷たい眼差し。
右頬に走る激痛と熱、口の中で広がる血の味は私が世界に生れ落ちて初めて覚えた恐怖で、私が就職する為に家を離れるまで続いた。
五歳の時、祖母に殴られた。
アルコール中毒だった祖母からは常に酒の匂いが漂い、部屋に引きこもっては浴びるように酒を飲み、折り合いの悪い両親とは顔を合わせる度に大喧嘩をしていた。
これもどんな理由で祖母を怒らせたのか覚えていない。しかしその時に祖母はいつに増しても強い酒の匂いをまき散らしながら「お前は本当に可愛くない孫だ!」と罵りながら私の顔を力一杯に殴った。
この頃には怒る度に暴力を躾と称して執行する父親のおかげで痛みに耐性が出来ていたのと、傷の手当の仕方を私は生きる為に身に着けていた。
八歳の時、祖父に性的虐待をされた。
肉体的な苦痛とは異なる精神的な苦痛をこの時私は初めて知った。
生温かい祖父の息遣いに、ゴツゴツとした太い指が私の身体を蛆虫のように這い回り、口の中にいっぱいに広がり私の口内を蹂躙する祖父の舌に暴力とは違う恐怖を覚えた。誰にも言えず、誰にも頼れず、一人で耐えるしかなかった。そしてそれは結局私が中学生になるまで続きこの時から私は身内をいや、全ての人間を信用しなくなった。
その他にも細かいものまで上げたらキリがない。
小学校、中学校、高校で集団いじめに遭い、地元から離れた全寮制の専門学校で死に物狂いで貯めたバイト代を盗まれ、何とも青春とはかけ離れた暗い学生生活を送る羽目になった。
就職すれば職場でパワハラやセクハラのオンパレード。仕事の成果は後輩に奪われ、責任は擦り付けられ陰で笑いものにされる日々。それでも数年踏ん張ったが心が先に悲鳴を上げ、一年の休職した後に安い退職金と共に半ば追い出されるようにして職場を後にした。
これが私、上野美喜の救いも幸福も何もない、恨みつらみしかない溝に汚物を突っ込んで煮込ませ更に腐らせたようなくそったれな今までの人生。
だから当然こんな人生に嫌気が差すし、早々にこの世界にグッバイを告げようと決断した時は後悔など何もなかった。
…その筈だった。
「…?」
「…ハリネズミ?」
せめて眺めの良い場所から飛び降りようと、長らく閉めっ放しにしていたリビングのカーテンを開けた途端、ベランダにちょこんと座り込んでいる薄汚れたハリネズミと目が合ったのだった。
溝のはりねずみ 輝夜 真 @kaguya0921
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