第4話 Shall we dance
人影は俯くようにしてピアノに触れ、木を見上げて、双方の間で揺れている。
ボートも何もないのに、どうやって渡ったんだろう。
よく見ると、流れ着いた家具や家の残骸、岩やゴミが点々と川の中に取り残され、堆積した泥の上に、飛び石のように島まで続いている。
ここを飛んだのか。わたしに、いけるだろうか?
わたしは決心すると河原の草むらの間に鞄を隠し、財布だけは身に着けて、ゴミと家具と岩を伝って飛んだ。
途中で翔和子がこちらに気づいたのがわかった。無言でじっとこちらを見ている。泥に足をとられ、流れの中に片足を突っ込み、石に躓き、歯を食いしばって島の目の前まで来たとき、背中は汗でびっしょりになっていた。翔和子がこちらに向けて右手を差し出している。最後の流れには足がかりがない。わたしは渾身の力で飛び、次の瞬間、翔和子に抱き止められていた。
「どうして、こんな、危ないところに」
息を切らせながらそう言ったわたしに向かい、
「どっちの台詞」と言って彼女は笑った。
楡の木は健気に足を踏ん張り、九月の空に枝を広げている。
「秋の台風が来たら、この木も終わりだね」
そよぐ葉の陰で、ちらちらと顔に陰影を躍らせながら、翔和子が言った。
その楡の木に背中を預けるようにして、アップライトピアノが流れ着いている。
上の蓋が半分外れ、中の装置に水草が引っ掛かっているのが見えた。
「持ち主、気づいてるかな。電車からこれ見えるし」わたしが言うと
「うちのピアノ売っちゃった」
え、と言おうとして言葉はのどに引っかかった。翔和子はピアノに近寄ると、蓋を開けた。
指でゆっくりひとつ、鍵盤を押す。かすれたくぐもったA音が幽かにした。しばらく考えて、翔和子はそのまま蓋を閉じた。
「もう終わり?」
わたしはまた蓋を開け、指を広げて和音を押さえた。ぼん、と曇った音がした。
「やめて!」
翔和子が尖った声を出した。わたしは咄嗟に手を引っ込めた。翔和子は汚れたピアノの蓋を閉めた。
「なんで?」
「それはもうピアノじゃない。楽器じゃないから」
少し間をおいて、
「……鳴らさないであげて」
翔和子は小さな声で言った。
わたしはしばらく言葉を失ったまま、翔和子と同じ方角の、同じ流れを見ていた。
まだ早い流れの中に、椅子とか段ボール箱とかぬいぐるみとかさまざまなものが見え隠れしていた。
「わたし来月転校する」翔和子は唐突に言った。
「え、本当に? ……なん、なんで?」
「両親が離婚するから」翔和子は石ころを流れに投げた。
「茜ちゃんに言われた通り、わたし何もかも母親に言ったの。酔っていたからとかなんとか言っても、わたしはもう寝ているときに体に触れるようなオヤジを許せない、一緒に暮らしたくないって。無視されるかも、あるいはただのヒステリーの引き金になるかもと思ったけど、違った。
仰天して、黙って、わかった、今までごめんねと言って、グランドピアノを売っちゃったの」
「そっか……」
「そのあと、オヤジに言ってくれたの。別れるって。身に覚えがあるでしょうって。どうやって暮らすつもりだ生活能力もないくせにとか言われてたけど、とりあえず前から懇意にしていた親切なピアニストさんがいい値で買ってくれたんで、引越しだけはできる、あとは自分もこの子のために、通いのピアノ教師ぐらいしかできないけど、力を合わせて生きていくって」
「そうかあ……」
「高校は定時制の学校に行こうと思う。これからは私も働かなきゃ」
「それは、……いろいろと大変だけど、お父さんと離れられるのはいいことだね。お母さんにとっても、いいことだと思う。翔和ちゃんの側に、立ってくれたんだね」
「うん。これからは、……生きるんだ、わたしたち」
しばらく、二人とも黙ったままだった。
そのとき、草むらの陰からアオガエルが出てきて、翔和子のローファーにぴょん、と乗った。
「あれ」
二人でしゃがみこんで、蛙を見て笑った。
「おまえ、あのときの一匹か。って、そううまくはいかないか」彼女は小声で言って、人差し指で頭を撫でた。
蛙はまたぴょんぴょんはねて葉陰に隠れた。
「翔和ちゃん。わたしオランダに行ってもいいよ」
驚いたように翔和子がこちらを向いた。
「うんとね、二十歳になったころ、まだオランダに行きたいと思ってたら、連絡くれれば。
うちはたぶん、おそらく、電話番号変わらないと思うし、そしたらいこう。多少生活苦しかったら、旅行費は多少は持つよ。きれいなチューリップと風車を見にいこう。そして、ゴッホ爺さんの国で、それまでの人生について余裕で語り合おうよ」
翔和子はじっとわたしの顔を見た後、ありがと、と風のような声で言って笑った。
寂しげな笑顔だった。
そして、わたしたちは並んで岸辺の岩に座り、泥色の川を見た。
まだまだどうどうと流れの激しい川がたてるあぶく、流れていく小さな生活の残骸、音の出ないピアノ、どこかへ行ってしまった蛙を幻視しながら。
わたしは祈った。
神様、そこにいらっしゃるなら翔和子を、翔和子をどうか幸せにしてください。
「行こうか」
彼女は立ちあがり、スカートをパンパンとはたき、こちらを見ないまま、木やごみや堆積物の上をぴょんぴょんと渡り始めた。
わたしは全身で感じていた。
……わたしたちはたぶん、これきりだ。
思った通り、彼女から電話がかかることは二度となかった。
だから、その後の彼女のことは一切、知らない。
あの日、二人で並んで川を見ながら並んで座っていた時、わたしはただ、翔和子に許してほしいと思っていた。
こちらを正視するのをためらっているような、どこか他人行儀な、礼儀正しい、そんな風な不自然な翔和子と別れるのが嫌だった。
まだこの手に残っている、彼女を突き飛ばした時の感覚が嫌だった。
そんなに怒んないで、わかった、と彼女に悲しい目で謝らせたことが、痛かった。
けれど、ごめんなさいを百回繰り返しても、傷つけたという事実は消えはしない。
その後、大学の図書館で一人画集をめくっていて、ふとあの絵に行きついた。
湖畔に建つ洋館。昼なお暗く、木々に囲まれたそこだけが日暮れを迎えているような風情の、ピアノの音の絶えない家。彼女の家を見たとき、頭に浮かんだ一枚の絵。
ルネ・マグリットの「光の帝国」という絵だった。
青空のもと、白い壁の瀟洒な家が暗い木々に囲まれ、街灯の灯に照らされている。
街灯の灯が、川、あるいは湖の水面に揺らめくこともなく映っている。
空はあくまで明るく青く、家のまわりはいつまでも夜だ。
しばらくして、あの多摩川水害の被害に遭った一家をモデルとして、ドラマが作られた。
タイトルは「岸辺のアルバム」
見せかけだけ幸せに見えた一家が内側から崩壊していく様を描いて一躍人気ドラマとなった。
テーマミュージックは、ジャニス・イアンの「Shall we dance」
その曲の流れるオープニングでは、実際に家が流されてゆく当時のニュース映像がそのまま使われていた。
そのたび、記憶に焼き付けられたあの、泥の川を家の残骸が流れていく有様と、流れ着いたピアノを指で鳴らしていた翔和子を、わたしは思い出さずにはいられなかった。
ジャニス・イアンのそのレコード(当時はドーナツ版でした)を買って、何回も聞いた。
英語の歌詞は難解だった。
懸命に訳してみると、そこにはやはり、彼女の面影が匂い立つのだった。
踊りましょう 踊りましょう
キャビアとバラの香り
あなたの子供達に教えてあげて
みんながどんなに
見せかけだけうまくやっているか
踊りましょう 踊りましょう
輝く朝の光の中で
背徳の愛に溺れるのもロマンティック
くだらないと言い捨てないで
あなたと私が死んだら誰が生き残るの
ロマンスと驚きに会いに行きましょう
ロマンスと大きな驚きに
そうして私は勝手な幻想に耽る。
これを今弾いているのは、トワコ。
そこは日本ではなく、昼でも夜でもなく、彼女の横顔の絵ばかりがかかった、グランドピアノのある部屋だ。
そこで、母親は長い髪をたらして、娘の横で、歌っている。
Shall we dance Shall we dance......
ピアノの上には、ルビー色のワインが斜めに刺す夕日輝いている。ざわめく木陰の下で、二人にそそぐ天井の灯ばかりが優しい。
そして猫たちが、ソファの上で、床や膝の上で、詩のような眠りをむさぼっている。
光の中を歩き、年月とともに歳を重ねながらも
そんなわたしの中で、彼女はずっとそこにいる。
わたしの中で、ずっと暗い森の中の、時の止まった光の家に。
<了>
光の帝国 水森 凪 @nekotoyoru
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