第3話 流れ着いたもの

 人事不省に陥った彼女は、そのまま病院に運ばれ、やがて睡眠薬と抗精神薬のカクテルで熟睡しているだけということが明らかになった。

 

 蛙は結局、回収されなかった。セツ子が蛙の跳ね回る現場で、翔和子の介抱でそれどころではなくなったのと、あと、これから実験を迎える生徒たちが、これ以上犠牲を出さないでと、蛙の助命嘆願書を連名で出したのだ。そののち、内臓の位置のわかりきっている蛙の解剖の意義と命の重さについて、職員会や父母会でひとしきり論議になった。だが、生徒たちはどんな騒動であれ、退屈な日常に波乱が起きるなら結構だという構えだった。


 騒動の功労者、翔和子の評判は、生徒たちの間で大して上がらなかった。要するに彼女はそういう人なのだ、という評価の内に収まったにすぎない。結局今後の処分ばかりが、生徒たちの間で話題の的になった。


「とりあえず、二週間の停学だって」

 情報屋の摩央からその結果を耳にしたのは、翌々日だった。放課後の銀杏の並木道は、七月の日差しの中に和らかな木陰を一筋つくっていた。白いペンキのはげかかったベンチで、わたしは手の中のドリンクヨーグルトのストローを咥えた。

「……あんなことで停学になるんだ、こっちはお説教で済んだのに」

「睡眠薬とか安定剤とか、そういう類を学校で大量に飲んだことが問題らしいよ。足元に散らばってた吸い殻もね。まあ今までが今までだし、それよりも、あとは彼女が登校する気になるかどうかってことじゃない」

 

 摩央は翔和子とまともに口をきいたことがない。その彼女でさえ、翔和子の纏う空気を察している。あと一足踏み外したら、この学校という環境からも外れてしまう彼女の「いま」を。


「茜ちゃん、彼女の家、いったことある?」

「一回だけ」

「またいってみたら。様子見てきたら」

「正直、あまり立ち入られるの、嫌いだと思う」

「あっちの方はご執心じゃない。オランダがどうとかって」

「あれはだから冗談だって」

「それだけでもないと思うよ。結構本気かも」

 摩央の言い切りに、わたしは返事に詰まった。

「なんでそう思うの」

「なんでって、あっていいじゃない、そういうことだって」摩央はさらりと言った。

「まあでもね、彼女の抱えているものは、彼女のもの。いつも荷物渡されると逃げられない茜ちゃんだけど、そこはちゃんと分けておかないとね」摩央は真っ黒なおかっぱを手で払った。

 

 風に乗って、いきものくさい夏の匂いがふいに降ってきた。

 長い休みはすぐそこだった。


 次に翔和子と会ったのは、八月に入ってからだった。

 S駅で降りて向ったロック喫茶、JJストーン。呼び出されて初めて足を踏み入れたそこは、穴倉のような店だった。むき出しのコンクリートの床にスノコが並べてあり、薄汚れたクッションがぽんぽんと置いてある。部屋の角を背にして紫色の液体を飲んでいる翔和子の頭の上を黒い甲虫が斜めに走ってゆくのが見えた。コックローチ。この店にお似合いだ。

「言った通り三つ編みにしてきたね」

 彼女は私を見てそう言った。長めのおかっぱの髪を、わたしはそのとき苦労してフィッシュボーンの一本編みにしていた。壁は落書きだらけで、吹き溜まりが吹き溜る場所、といった風情のその空間は、彼女にとてもよく似合っていた。

「絶対そっちのほうがいいって。メガネは似合うから許す」首をかしげるようにしてそういうと、彼女は卓上においてあったマイルドセブンの箱から煙草を取り出した。

 わたしたちは何事もなかったかのように並んで座り、わたしは彼女が慣れた手つきで煙草に火をつけるのを横目で眺めていた。

「あのあと、お家の方、どう」

 翔和子はゆっくりと煙を吐き出した。

「もうだめかも。母親の新しい借金がばれて、しかもオヤジを保証人にしてたんだよね、勝手に印鑑持ち出して」

「そんな書類でも有効なの」

「オヤジに言わせれば、勝手に持ち出した印鑑ででっち上げた保証人なんか無効だって。でも母親にお金なんかないわけで、結構黒いとこから借りちゃったんで取り立てがえぐいの。もう離婚だって言ってる」

 小娘の身で、言ってあげられる言葉すら思い浮かばない。うちの両親は二人とも中小企業勤めの共稼ぎで、忙しくて平凡で、あまり娘にあれこれ言わない淡白な家庭だ。それでもどれだけ、彼女に比べて恵まれていることだろう。


「母親さ、ピアノコンサートでひと目ぼれしたオヤジに口説き落されて一緒になったんだよね。もともとお嬢様育ちで、外に出るよりオヤジのためだけに弾いてきたようなとこがあるんだけど、それが今は見向きもされない。誰かのために弾くもんじゃないよね、ピアノって」

「……」

「それでもあたし、おやじよりかはよっぽど母親のほうが好きなんだ。どの国でも、あいつが外で女あさってる間、わたしたち一緒だったから。料理もうまかったし、ピアノも、ジャズでもなんでもオールマイティに弾きこなせるし、いろいろ教えてもらった。一緒にお菓子も焼いて」

「絵もうまいしね」

「……何のためにあるんだろね、才能って」

 彼女は後ろ頭でとんとんと壁を突くようにしていた。


 わたしの頭に一瞬、異国の風景が浮かんだ。パリの裏通りに流れるピアノの音色、二人で覗きこむ楽譜、よく似たそばかす顔の母子。娘の横顔をスケッチし続ける長い髪の母親。

 わたしは下を向いたまま言った。


「……もう薬とかやってないよね、翔和ちゃん。あれはだめだよ」


 翔和子は小さく頷いた。

「母親が医者にもらった薬溜めこんでるのが怖くて、まとめて鞄に突っ込んだの、捨てるつもりで。でもあの日、トイレでそれ見てたら飲んでみたくなっちゃって。いろいろごめんね」

「もういいよ。で、もうしないよね」

「うん……」

「お母さんの抱えているものは、お母さんのもの。お母さんの荷物もお母さんのもの。大好きなのはわかるけど、そこはちゃんと分けておかないと」

 翔和子は茶色い瞳をこちらに向けた。

「誰の受け売り」

「いや、その、えっと……」図星を突かれてわたしはあたふたした。

 翔和子は笑いながら灰皿に長いままの煙草をねじ込むと、呟いた。

「ああ、……強くなりたいな」


 店を出たのは八時過ぎだった。両親は残業といっていたし、別に急ぐこともない帰り道だった。わたしたちは何となく引き寄せられるように緑の多い方向へ歩き、Y公園に入り込んだ。蒸し暑い風が気怠く吹きすぎる中、よく目を凝らせばベンチごとに、濃密に絡み合うカップルが見えた。

「そういえばね、モロッコ、見た」何となく気まずくて、わたしは視界に入るものを話題にするのを避けた。

「え?」

「うちの近くの名画座でやってたの。ほらあの人、マレーネ・ディートリッヒが出てたから」

「わざわざ? それでどうだった」

「うん、正直ドラマがどうとかいうより、マレーネに持ってかれた。細いシガーの吸い方とか、脚線美の見せ方とか、靴を脱いで砂漠を歩く最後のシーンとか。誰の人生の一瞬一瞬も、あんなふうにきれいだったらいいのにね」


 わたしたちの間を、夏の生暖かい夜風が吹き抜けた。


「誘ってくれればよかったのに」

「暗闇じゃ翔和子に何されるか分かんない」

「あはは。何を」

「何をって」

 

 いきなり背後から、彼女はわたしの胸に手を回してきた。不意のことで、正直面食らった。両手で体を抱きしめるようにして、その掌にはしっかりとわたしの両胸がおさまっていた。

「こんなふうに?」


 突然、戸惑いとおそれと苛立ちが押し寄せた。それはもう、嵐のような勢いで。

「やめて!」わたしは振り向いて彼女を突き飛ばした。

 自分でも驚くほどの大声を、自分で止める間もなかった。翔和子は驚いたように身を固まらせている。

「冗談でも今みたいなのはいや。ほんとうにいやだから! 悪いけど」

「……」

「同じこと、お父さんにやられて嫌だったんでしょ。それと同じこと、友達のわたしにしないで」

「そんな怒んないで、……わかった、ごめん」


 そんなしおらしい彼女の声音を聞くのは初めてだった。わたしは自分の本気を恥じ、彼女の心に言葉の刃を突き立てたことを後悔した。そして、彼女のそんな戸惑ったような声は聞きたくないと思った。

 すべてが矛盾していたけれど、その矛盾を踏みつぶすようにわたしは早足で歩き、彼女を後方に置いたまま、「遅くなっちゃったし、急がなきゃいけないんで」と言って、どんどん、どんどん歩いた。


 あんなに追い詰められていたのに、語ってくれたのに。

 あの暑苦しい、生々しい闇の中へ、彼女を置きざりにして。



 夏休みの終わりに発生した台風は、四国から上陸すると日本海へ抜け、関東地方に近づく気配はないものの、関東甲信越東海地方の天候を一気に不安定にし、神奈川県を中心に豪雨を叩きつけた。

 わたしは両親と深夜の部屋でテレビを見ながら、ただ思っていた。


 ……たまには立派な低気圧を保ったままで東京まで来てみろ。


 台風はいつもかすかな、非日常への期待を伴ってやってくる。本当は、誰にとってもそうなのではないかと思う。

 今度こそ勢力を落とさずに、今度こそ南の海で生まれたときのパワーのままで自分の元へ。今度こそ一気にすべてを破壊し押し流し、現実のくだらないごたごたをすべて呑みこんでくれるといい。わたしの卑怯さも、わたしの弱さも。

 たぶん台風は、そういう罰あたりな人々の期待を背負って巨大化し、善良な人々の祈りを飲んで弱体化してしまうのだ。


 雨は緩急をつけて四日間降り続き、その間に多摩川は氾濫し、十九棟の家が押し流されていった。あっという間に濁流に呑みこまれるのではなく、何とか守ろうと懸命な自衛隊、住民、マスコミの目の前でゆっくりと地面からもぎ離され、背後から激流にさらわれていったのだ。

 なすすべもなく、家具と思い出を満載した幸せな我が家が次々と濁流に飲み込まれる映像を、日本中の人びとがテレビの前で息をのんで見守っていた。

 わたしは、自分の罰当たりな祈りが手の付けられない奔流へと姿を変えた気がして、流されるひとつひとつの家のきしみを、自分の身の内に感じ続けていた。


 

 雨が上がって、新学期が始まった。


 朝の通学電車がいつもの鉄橋を渡るとき、濁流の引いた後の川を眼下に見た。枝、岩、家の残骸、様々な家具、そんなものがあちこちに引っかかり、岸に堆積してごちゃごちゃになっている。乗客は眼下の無残な光景に、ふう、とかおお、とか小さく口の中で言いながらただ見入っていた。

 わたしたちがボートを繋いだ小さな島の楡の木は、大きく傾いてはいたがまだ何とか立っていた。島にもさまざまなゴミが押し寄せているのが見えたが、遠目にも気になったのは、黒い、四角い大きな何かだった。


 ……あれは、ピアノ?


 直感でそう思い、首をねじって見たが、すぐに島は小さくなり、そして鉄橋の柱に隠れて見えなくなった。


「川は河川敷が荒れているので近寄らないようにしましょう。報道陣も出ていますが、物見遊山気分で岸辺に降りないように」

 朝の教室でヨシカツが言った。見回す室内に、翔和子はいなかった。室内は、皆が週末見続けた住宅流出映像の話題で興奮気味だった。

 うちの学校から被害者は出ていないそうです。そんな話を聞きながら、わたしはもう、あのピアノと思しき物体のそばまで行くことに決めていた。そしてひたすら、放課後を待った。


 N駅で電車を降り、小走りに川岸に向かう。いつもの景色の向こうに、泥の川になった多摩川が見える。

 もう濁流ではなかったが、あちこち蛇行して川岸を削り取り、流れも表情も変えたそれは、短い間に荒々しい別人の顔になっていた。あの時間はもう戻らない、わたしは風景を見ながら改めてぼんやりと思った。

 

 いつも船を出した岸辺に立つと、傾いた楡の木が斜め前に見えた。そして、その下に引っかかっているのがピアノだというのが、はっきりわかった。

 アップライトだ、グランドピアノじゃない。わたしは少しほっとしていた。

 と、そのピアノの向こうに人影が見えた。

 細い女の子、短い紺色のスカート、ふわふわの髪。


 ……翔和子だ。




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