第2話 カエル定食万歳

「元ピアニストのお母さんに負けないぐらい、上手いじゃん。で、なんか、エキセントリックなお母さんだね」薄暗いキッチンでわたしが正直に言うと

「もう日常に生息する気がないからね」そういって翔和子は冷蔵庫を開け、瓶入りの葡萄ジュースを取り出した。

 わたしは壁のあちこちにかかっている、小さな絵に目を奪われた。ペン画に水彩を乗せただけのような人物画だが、どれも少女の横顔で、繊細で美しくて、どれも、翔和子に似ている。

「これ、誰が描いたの?」

「母親」

「全部翔和ちゃんだよね?」

「そう」

  翔和子はタータンチェック柄のクッキーの缶を見つけ出すとコップに注いだジュースとともにお盆に乗せ、さ、いこうか、といって二階への階段を上がった。そのあとを、廊下の暗がりから出てきたキジ猫が二匹、足音を立てずにするするとついてきた。

 

 その家にいる間中わたしたちは母親の蔵書だという世界の名画集を眺めつづけ、室内には幽かなピアノの音色が響いていた。

「翔和ちゃんが弾いたあの曲、なんていうの」

「ドビュッシーの、アラベスク第一番」

 あの後でお母さんも弾いていたけど、彼女が弾いた音が一番好きだと、わたしは思った。最初会ったとき聞いたワルツとはかけはなれた、優しく美しく、夢見るようなメロディーだった。


 こころはまた夕闇の園生のふきあげ、音なき音のあゆむひびきにこころはひとつによりて悲しめども、かなしめどもあるかひなしや。


 という、萩原朔太郎の詩が自然に思い浮かぶ、そんな曲だった。例えて言うなら、美しい噴水のような。

 彼女に別れを告げて家を出てからも、わたしの頭には、あの家は現実にある家なのかしら、という不思議な印象と浮遊感が付きまとった。


 そのころ、五つあるクラスは順番に、蛙の解剖実験という試練に見舞われていた。

ただでさえ憂鬱な授業なのに、生物教師の若菜セツ子がまた、解剖実験になると血に猛った獣のようになってわめくのだ。


「カエルがかわいそうだあ? 怖くて切れない? 毎日毎日肉だ魚だ食べて血の味も知らないアンタらが。そのいのちは誰が殺してるの。卑怯者。あんたたちは、ひきょうものだよっ!」


 三人に一匹配給される蛙は、ぐずぐずしているうちに麻酔が切れだすものもあった。もう切れないと泣きだす子、気分が悪いので帰りますと言い出す子、ぎゃあぎゃあと猛るセツ子で、室内は一種異様な雰囲気に包まれた。

「やらなきゃいけないもんは、やらないと終わらないから」

翔和子は淡々と一人蛙を切り、わたしはその横で丁寧な解剖図を描いた。

「すごい、けっこううまいね」

「まあね」

そんな会話を淡々とかわすわたしたちの背後で、多少引きながらも、あのよければこっちも、とささやく声があった。ご親切に翔和子は、ほかの班の蛙の執刀までこっそり引き受けた。翔和子は生臭いナイフを握りながら言った。


「茜ちゃんどう思う、セツ子さんのこと」

 わたしは色鉛筆でごしごしと朱色を塗りながら言った。

「正論を青筋立てて言う大人ってカッコ悪い。わめき散らしても、わたしたちがする蛙の解剖に、大した意味はないと思う」

 となりで翔和子は頷いた。

「意味もないのに切り刻んで、無駄な授業。こっちも一度ぐらいは蛙に生まれてきて償わなきゃね」


 あとでわたしの丁寧な解剖図のコピーはテキストとなって密かに生徒たちの手から手へ渡り、翔和子の手数料とともに、学食の食事券へと姿を変えた。

 並んでカレーライスを食べるわたしたちの背後で、誰かが通り過ぎながら、カエル定食、とささやいた。


「あんたたちってさ、妙なコンビだよね」

 サンドイッチをかじりながら、ぼそりと摩央がいった。

 翔和子が学校を休んだ日、疎遠気味になっていた「その他の一群」の友人たちから誘われて、モミの木の下の芝生で昼食をとっていたときだ。学校自慢のバラの群れがひときわ甘く目の前で香っている。

「妙って何」

「どうみたって、あまり相性いいと思えなかったんだけど、トワコさんと」

「あっちはほっといてほしいのか構われたいのかどっちよってタイプだし」

「異邦人丸出しで、気がしれないっていうか」

「茜ちゃんはどっちかっていうと婆抜きやると婆ひくタイプだしね」


 複数に言いたてられてわたしは少し膨れた。ぼんやりしてるうちにつかまるタイプなのは確かだ。さぼりたい掃除の代役、宗教の勧誘、キャッチセールス、その他もろもろ。でも。


「……気がしれないから、みんな、蛙の解剖なんて任せられてよかったとこもあるんじゃないのかな」


 おにぎりをほおばりながらちょっと皮肉を込めて言うと

「それはそうだ、うん」彼女らは素直に頷いた。

「茜ちゃんから見て、彼女ってどんな感じ」

 わたしはしばらく空を見上げて考えた。

「なんていうか、……翔和子からはさ」

「からは?」

 周りがわたしを見ながら次の言葉を待っていた。選んでいるうちに、言葉は自分の中で溶解してよくわからなくなっていた。

「いったことはないけど、モロッコあたりの風の匂いがするっていうか……」

「何でモロッコ?」

「じゃあ、勢いだけで何かを可能にしてくれそうな感じがあるかな。あくまで勢いで、だけども」

「ああ、それならわかるかも」彼女らは一様に頷いた。

「そういやモロッコって映画あったよね。マレーネ・ディートリヒ主演の古いやつ。あのひとちょっと、トワコさんに似てない?」

 友人のひとりがこぼした言葉に、再び同じ名前が出てきた。ひとつぐらい彼女の映画をみてみようかなとわたしは思った。


 ある朝、ふらふらした足取りで登校した彼女は、みなさんおはよう、と珍しくはしゃいだ様子で教室中の女の子にあいさつして回ったと思うと、一時限目から姿を消した。

「そこの席は。今日欠席いたか」担任の広永先生がいった。

「中野翔和子さんです。朝はいました」日直の子が言うと

「あー、またか。じゃあ西島茜」

「はい?」

「キミが探して来なさい」

 生徒の半数がこちらを見て笑っていた。わたしはいつの間にか、放浪癖のある翔和子の監視役になっていた。

 広永義勝-ヒロナガヨシカツは、その偉そうな名前とハゲ頭で低身長の体躯から、下級武士と呼ばれていた。いつまでも茶色い髪を染め直さず、いつもいつも煙草臭い翔和子を嫌って、そのころ顔を見るたびに短い説教を繰り返していた。キミはいったいいつになったら、わが校の校風になじめるのですか。


 彼女の休憩場所はだいたい把握していたので、まずは本校舎から一番遠いトイレにいってみた。

 理科実験室の隣にあるトイレ棟を覗いてみたが、いつもの「喫煙個室」に、彼女はいない。そのかわり、トイレの裏からこほんとひとつ咳が聞こえてきた。外に出て裏に回ると、翔和子が木箱の上に座って俯いていた。

「どうしたの、そんなとこで」

 声をかけると、寝起きのままのようなぐしゃぐしゃの髪の中から、彼女はとろんとした茶色い目をこちらに向けた。

「うちのバカおやじは明日死ぬぞ」

「え? なんで」

「今あたしがそう決めた。あいつに触られるのはもうまっぴら」


 顔は蒼白で、指先は震え、ろれつが回っていない。


「保健室、……いこうか」


 わたしはとりあえずそう答えた。自分が受けた衝撃を、彼女に悟られないように。

彼女はいままでも、風邪薬飲み過ぎた、などと言いながらふらふら状態で登校してくることがあった。今回もきっと、相当ヤバイ薬で頭がどこかに飛んでいるのだ、わたしはそう勝手に結論づけた。

「ねえ、翔和ちゃん。前に言ってたこと、お母さんにちゃんと伝えたほうがいいよ。このままにしといちゃだめ」

「ねえ茜ちゃん」

 彼女はこちらの言葉を聞いていない。

「いっしょにオランダ行こう」

 またそれだ。わたしは呆れながら、言った。

「それはおいといて、とりあえず、そうだ、お水でも飲もうか」

「オランダはいいよお。安楽死にも寛容だし、薬も緩いし女も買える。自由の天地」

「女が買えるののどこがいいの」

 そうはいいつつ、彼女がオランダオランダとうるさいわけが少しだけ具体的に理解できた。なるほどそういうイメージなんだ。

「ゴッホもいるし、跳ね橋はあるしね」わたしが付け加えると

「そうだ、ゴッホ爺さん。自殺も自由」

「自殺はどこだって自由でしょ。安楽死が許されるなら安楽生も許してほしいよね」

 彼女はけらけらと笑って、ポストマ先生万歳、糞親父に非尊厳死を!とよくわからないことをわめき、さらに大きな声で付け加えた。

「あそこには外の世界への出口がある! 風車の真ん中あたりに」

 そのとき、あることにわたしは気づいた。

「翔和ちゃん、……その箱。中身なんだか知ってて座ってる?」

「え?」

 翔和子は俯いた。そして板の下の網に気づき、立ち上がって覗き直した。こそこそ、けろけろ、と小さな音が聞こえてくる。

「解剖用の蛙」

 わたしの声に振り向くと、またまじまじと覗き直した。緑色の蛙たちの小さな目が、網の中からいっぱい、こちらを見ていた。

「これ、C組とD組とのぶんだよね」翔和子が聞く。

「うん、まだこれからって言ってたから」

 翔和子はしばらくしゃがみこんで蛙を眺めていたが、こちらを向くと、ひとこと言った。


「逃がそ、これ」

「どうやって……」

「ふた取ってひっくり返せばいい」

「あとのこと考えて言ってる?」

「二人でやろう。その価値はある」


 顔色は青いけれど、こちらを見る翔和子の視線はまっすぐだった。

 価値、というその言葉が意味するところはよくわかった。皆からもらったお金で学食で食事をしてから、わたしたちはずっと、痛い思いを抱えていたのだ。

「よし。やろう」

 わたしたちは木の蓋を持ち上げた。そして二人同時にあたりを見廻し、

せーのっ。

 掛け声をかけて箱をひっくり返した。

 一斉にあおあおとした蛙がそこらにぶちまかれた。突然の自由に戸惑ったのか、はねだすのもいればその場で固まるのもいる。

「早くいけ、はやく!」渡り廊下の向こうに人影を認めて、わたしは焦って手を振り回した。翔和子はいきなりあはははははと甲高い笑い声をあげた。ちょっ、ばれる聞こえる、とわたしが小声で言うと、肩に手を回し、


「オランダに行こう!」


「誰、そこ?」

 近づいてきたのは若菜セツ子だった。 うわあ、神様。翔和子は酔っ払いのようになってわたしに抱きついてきて、茜ちゃん可愛い、とささやいて頬にキスをすると


「みんな滅びろ!世界に意味はない!」


 ひとこと叫んでばったり後ろに倒れた。

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