光の帝国

水森 凪

第1話 アフリカから来た少女


 傾いだミモザの木が窓にあたる音がする。

 空の高みで風がごうごう鳴っている。


「まずいな。このぶんだと川岸の家、流出するかもしれんな」


 深夜の居間で、大きく削られた河原、崩壊し始めた堤防のニュース映像を見ながら父が言った。


 暗闇の中で轟音をあげる多摩川の映像をバックに、アナウンサーが定時の台風情報を読み上げている。斜めに飛んでいく雨が、照明のカメラの前で白く光っている。土嚢を積む自衛隊員の後ろにどうどうと泡立つ川と、かすかに鉄橋が見える。


 わたしの通う女子高校はその鉄橋を渡った向こう側にあった。


「住民のひとたち、気の毒ねえ。茜のお友達の中にも、狛江市の川沿いに住んでる人はいるんじゃないの」母が麦茶をすすりながらこちらを向いた。

 

……翔和子。


 多摩川の近くに住む彼女はきっと祈っていることだろう、窓から同じ深夜の豪雨を見つめながら。

 なにもかも流れてしまえ。粉々になって持ちさらわれてしまえ。土台からすっからかんになってしまえ。

 ゼロになってしまえ、なにもかも。


 生来の無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。そういうところは、わたしとトワコは似ている。

 わたしたちはもともと罰当たりなのだ。一緒にまた、罰当たりになりたい。あの蛙の解剖の時のように、共犯者になりたい。

 でもそれはもうきっと、無理なのだろう。

 激怒するかのような川の濁流に、あの日音楽室から流れてきた激しいワルツの音色が重なった。


 わたしの通う女子高校は、幼稚園から大学までの一貫校で、一応伝統ある名門校と言われており、通っているのは裕福な家の子女ばかりだった。

 百人のトムが百人のジェリーを追いかけているようなガチャガチャした公立中から入学したわたしには、内部進学の彼女たちのプライドと自意識が正直、鼻に突いて仕方なかった。

 浮くなら浮くでよし、と覚悟しながらも、昼食グループにあぶれたら居場所がなくなる恐怖には打ち勝てず、にじり寄れそうな相手をそれとなく探していたものだ。

 そんな視線が静かに飛び交う、入学して初めての自己紹介タイム。

 彼女は、実に潔く浮いていた。


「中野翔和子です。アフリカ帰りの田舎者です。ピアノしか弾けませんが、よろしく」


 それだけ言ってがたんと椅子に座った彼女からは、かすかに煙草の香りがした。

 斜め後ろのわたしの席まで匂うのだから、もう前後左右の席の子たちには一気にばれているだろう。

 白い頬には薄いそばかすが散って、ふわふわカールした茶色い髪が少女漫画のように肩までかかり、目の色も少し薄かった。白いブラウスのボタンを二つ目まで開けて眠そうな顔をした彼女は、その日どれだけ時間をかけて自己紹介した子たちよりも雄弁に自身を語っていたと思う。


 やがて自然と生徒たちは内部上がりと外部入学に別れ、無所属がその外にこぼれ出した。翔和子もわたしも外部だったが、わたしは彼女ほど無頼になれなかった。

 芸能人の噂話、海外のロック専門、友達と先生の裏情通、映画マニア、耽美派漫画を語るグループ。会話の内容でコロニーは細分化されてゆく。わたしはあまりけたたましくない、きのことか気象天文とか微生物とか、都市伝説とか美術展の話をしている「その他の一群」と呼ばれる群れに潜り込んでいた。

 翔和子はどこにも入らなかった。


 山一つ抱えるほど広い敷地をもつその学校は、その広さを無駄に使いまくろうと設計されているかのように、美術音楽書道、各専門教室を独立棟にして渡り廊下でつなぎ、ついでにトイレもまた廊下でつながれてあちこちに散らばっていた。

 全国各地から来る生徒たちのための学生寮と、教師のための教師寮もあった。

教師寮に住んでいるのは半分ぐらいが外国から来た教師だった。

 

 ある昼休み、日直だったわたしは次の授業の準備のために理科準備室に向かっていた。と、普段ひと気のない音楽室から、嵐のようなピアノの旋律が聞こえてきた。

 よく聞いてみれば有名なワルツなのだけど、怒りそのもののような激しいタッチで叩きつけるそれは、まるで別の曲に思えた。


 ドアの隙間から覗いたとき、弾いているのが翔和子だというのはすぐにわかった。

 肩の上で揺れる茶色いくせっ毛、白いブラウスを通して見える背筋の細さ。

 彼女の背はとても雄弁で、そのくせ拒絶の一言がいつも貼り付けたようにこちらを睨んでいるのだ。

 憤っている、挑んでいる、そして、……悲しんでいる? 

 何てとがった音だろう。


「なんて曲だっけ、それ」


 弾き終わった背中に語りかけると、そばかすの浮いた白い頬がこちらを向いた。

「悪いけど、誰?」

 不快そうでも愉快そうでもなく、無表情で聞いてくる。

「あ、わたし、同じクラスの西島茜です」

「あ、そう。ごめん、一回きりの自己紹介じゃ名前覚えきらなくて」

「わたしもそうだよ。でもあなたの名前は憶えてる。中野翔和子」

「そりゃどうも」

 予想しなかった返しに、ええと、と口ごもった後、ふいに曲の名前を思い出した。

「あ、ドナウ川のさざ波、だよね?」

「間諜X27」

「かんちょう?」

 曲名ではなかった。彼女はいきなりわたし相手に映画の話を始めた。

「マレーネ・ディートリッヒの映画。対ロシア戦争中のオーストリアの諜報機関が、娼婦をスパイに仕立てるの。それが彼女、X27号」

「あ、ひとの名前なんだ」

「スパイのコードネームなの。あるアパートの住人が飛び降り自殺してね、まわりの人たちがひそひそ、もう何人目だ、きっとこの暗い時代に疲れ果てたんだろうって言いあうのね。そしたら通りかかった彼女が言うの。

 わたしは死ぬことなんて怖くない。

 その一言を聞いてたオーストリアの諜報機関の幹部がその娼婦をスパイに仕立てるの」

 彼女は半身をこちらに向けたまま喋りつづけた。

「マレーネがほんっとに綺麗でね。ロシアの将校から色仕掛けで情報を聞き出して手柄を立てるんだけど、そいつに恋しちゃって、結局逃がしちゃうのよ。それで裁判にかけられて、処刑を待つ間、X27号が個室で弾いてたのがこの曲」

 そう言って片手で旋律を叩く。

「若い兵士が処刑の時刻を知らせに来ると、鏡ある? ってマレーネが聞くの。で、彼がすっと刀を抜いて彼女の目の前に差し出すと、それ見て口紅を塗るのよ。でね、銃殺刑の時に目隠しするのね。処刑場で彼がその布を手に取って、使いますかって聞くと、マレーネがぐいって取って、彼の涙を拭くのよ、それでにこっと笑って突き返すの。かっこいいと思わない?」

 これほど、相手との距離を測らずにいきなりべらべらしゃべる人を見たことがない。彼女は多分、そういう類の人なのだろう、そう思った。思うと同時に、彼女がとても近しく思われた。


「うん、わかる気がする。これぞ映画!って感じ?」

「そう、あれこそはスター!って感じ」


 そばかす顔に子どものような笑顔を浮かべる彼女を見て、わたしは思った。

 ああ、この学校に来てからずっと、実はずっと、彼女はこんなふうに誰かと喋りたかったんだ。

 もったいない、この笑顔を誰にも見せないなんて。


 彼女はその他の一群の中にわたしがいるときは遠くから見ていて、ひとの影が離れるとすっと寄ってきた。彼女といるときは誰もわたしたちに近寄らず、それがわたしにはむしろ心地よくて、二人で帰る回数が増えて行った。

 最寄駅のホームに立つと、リンロンリンロンと派手な音を立てて小田急ロマンスカーが通過してゆく。彼女はいつも、大げさに両手で耳を覆った。

「うるさいよね」とわたしが言うと

「日本は騒音に鈍感すぎると思う。街中音だらけ」と彼女は顔をしかめた。

「日本以外はこうじゃないわけ?」

「日本は清潔で安全で、まあ暮らしやすいけど、とにかく音が多すぎ。デパートのエスカレーターでも駅でも、押すなベルトにつかまれ並べ一列になれ。音楽音楽チャイム。よくみんな耐えられるね」

 いつも不機嫌そうな顔をしている理由のひとつが分かった気がした。


 多摩川の近くのN駅でよくわたしたちは途中下車した。目的は多摩川の河原の手漕ぎボート屋だ。

 彼女は茶色い髪を風になびかせながら率先してオールを握った。

 川の中に小さな島があり、そこには楡の木が一本立っていた。わたしたちは島にボートをつけ、動かないようにひっぱりあげると、木の下に座っていろんな話をした。


 翔和子の話はなかなか刺激的だった。


 父親の仕事は、確か世界食糧機構。アフリカのモザンビークにいるときは、危険なので軍の基地に住んでいて、しょっちゅう銃撃戦の音が聞こえた。国から国へワールド流浪の民をやっているうち、ピアノから離された元ピアニストの母親が神経を病んで、窓から椅子を放り投げるようになった。日本に帰国してからピアノを買ったけど、弾いているとき以外は買い物中毒になり、カードの限度額を超えた浪費三昧。それが明るみに出て毎晩が夫婦ケンカ祭り。

「あの病気が治らないなら追い出すってオヤジは言ってるけどさ」彼女は拾った木の枝で地面をばしばし叩きながら言った。

「あいつと二人で暮らすとかまっぴら。だいいちほとんど家にいなくて顔見る時間もあまりなかったのに、今更父親面されてもね」

 

 鞄の中のパンをちぎり、川面に投げると鴨が寄ってきた。投げるのをやめて足元に落とすと、よちよちと親子で上がってくる。ばーか、とって食べちゃうよ、といいながら翔和子は笑った。そしてどんどんパンをやり続けた。準日本人なのに、その横顔にどこか異国の香りが漂うのが不思議だった。


「ねえ茜ちゃん、高校卒業したらオランダ行かない」唐突に彼女は言った。

 狐のような茶色いひとみが、ふわふわした前髪の下で時に鋭く、時に甘えるようにわたしを見る。ひとというより、動物に近い感じがする。

「なんでオランダなの」

「女同士でも結婚できるらしいよ」

「まだそんな法律できてないでしょ」

「でもそっちに向けて結構動いてるらしいよ」

「なんで高校卒業と同時に結婚しなきゃなんないの、それも翔和ちゃんと」

「だって茜ちゃんかわいいんだもん」


 わたしは決してかわいくはなかったと思う、それは確かだ。前髪ぱっつん、髪型は肩までのおかっぱで、縁の赤い眼鏡をかけて、目ばかり大きいと言われたけれど、体躯もがりがりだった。


「ずっと思ってたの、茜ちゃん可愛い。わたしだけのものにしたい」


 絶対彼女の目だけがどうかしている。外国でブロンド美女ばかり見すぎたせいなんだろうか。

 

 それから、彼女は口癖のように、オランダという言葉を繰り返してはわたしを戸惑わせた。会話が途切れると、あるいは読んでいた本から目を上げたとたんに、ねえ、オランダに行こう。

 面倒くさいのでキノコ料理と虫料理の話で返したりして、こちらから話しをぐちゃぐちゃにしていつも空中分解させていた。


 いちどだけ、彼女の家に行ったことがある。多摩川沿いの古い住宅地の、丈高い木々に囲まれた古い洋館は、その一角だけが夕暮れの風情だった。昔どこかで見た絵のようだと思ったが、タイトルが思い出せない。

 庭に向かって突き出す半円形の居間から、ピアノの音色がする。ひし形ののぞき窓と鉄の取っ手のついた木のドアを彼女が開けると、茶トラと黒と白の猫がそれぞれ一匹ずつ、しなしなと出てきた。

「母親が次から次へと拾って来るの。ここ河原が近いから、捨て猫も多くて」

 家の中の空気はひんやりして、森の中の香りがした。 


 ピアノの聞こえてくる部屋の、焦げ茶のドアを翔和子がそっと開けた。美しい旋律が、ぱたりと止んだ。


「ただいま。ちょっと友だち家に上げるね」

「あら、珍しいわね。お友だち? ちょっとお顔を見せて」

 

 ゆったりとした声に、背後からわたしは顔をのぞかせた。

「あの、西島あかねと申します、お邪魔します、初めまして」

 高窓に囲まれてはいるけれど、木立にさえぎられて陽は届かず、部屋の中は薄暗い。グランドピアノの向こうに座るその人は、長い長い髪をざんばらに伸ばして、ロング丈のゆったりした黒いドレスの上に赤いショールを羽織っていた。色白の顔にはそばかすがあり、どこか国籍不明の狐系の顔立ちが、翔和子と似ている。日常離れした風情が、その部屋にはよく似合っていた。

「聞いてた通り可愛い眼鏡ちゃんだこと」

 そう言うと、サイドテーブルから赤いワインの入ったグラスを上げて、こちらにむかって持ち上げるようにした。足元には黒猫がうずくまっている。わたしは反応に困ってただ頭を下げた。

「翔和子、こっちにきて。最初のフレーズの音がうまく出ないの。あなたちょっと弾いてみて」

「今じゃなきゃだめ?」

「今言ってるんだから今よ」

「ごめんね」

 翔和子は私を振り向くと、母親の隣の丸椅子に座って、すっと息を吸うと指を降ろした。

 その指先から、きらきらころころとした音が異世界への階段のように螺旋状に上り詰めていった。わたしはその音に目が眩む思いがして、半分目を閉じて天井に顔を向けた。

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