七 影法師が交差する

 御影が彼女の事を知ったのは、ある初夏の日のことだった。彼女は御影のテリトリーである草原に足を踏み入れたのだ。

 最初に感じたのは『怒り』だった。そこは御影だけが踏み入れることができる場所の筈であり、先代の麒麟から受け継いだ大切な思い出の地なのだ。

 そこで泣きじゃくる彼女をボーッと見下ろした少年の姿の御影は、ふと思う。


「……人間はどうやって怒るんだ」

 その言葉で顔を上げた少女。その磁器の如く白い肌に浮かんだ淡い青色の瞳は、どこまでも澄んでいてまるでビイドロ玉のようだった。

 御影がまたもやボーッと見つめると、彼女は困ったような顔をする。

「あ、あの。お母さん知りませんか?」


 彼女は母を探していた。買い物帰り、母親と逸れてしまったのだ。それから歩き続けていたら、いつの間にか町から外れてこんな草原に来てしまっていた。次から次へと溢れ出る涙を拭く姿に、御影はボッと顔を赤くした。


 なんだ、なんだこの愛らしい生物は!!

 本当に人間か? とぺたぺたと触って隈なく調べる。だが、もちろん変なものが憑いている訳でもないし、調べても人間にしか見えない。御影はある種のカルチャーショックを受け、放心した。

 そんな彼に彼女が不安そうな顔をした。いけない、彼女の前ではしっかりしなければ。じゃないと見放されるような気がして……それ以上は考えたくもなく、御影は静かにしゃがみ込んだ。

「名前は何て言う」

 さり気に聞けば、彼女は「戸隠 夕暗」と名乗った。その名前をそっと口の中で転がしてみる。自分の中に彼女の空間ができて、空想上の彼女はわーい、わーいと喜んでいる。その姿に、また顔を赤らめる。

「あの、熱でもあるんですか?」

 恐る恐る言った彼女に首を振った。なんなら手に触れて見せると、夕暗は御影の手の冷たさに「わ!」と驚く。

 その拍子に涙も引っ込んだようで、御影は酷く安心した。


「おれは、御影」

「御影くん」

「そうだ。夕暗、お前はなんでここに来た?」

 ああ、どうして自分はこんな言い方しか出来ないのか。そう苛立ちを覚えつつ彼女の頬をそっと触った。ひんやりとしたのが嫌なのか、彼女は身をよじる。可愛い。とってもふにふに。そう堪能する御影に不満そうな顔を見せながら、「迷子になったの」と夕暗は説明をした。


「迷子って?」

 残念ながら、御影は自分と無縁のその言葉を知らなかった。彼女がぷくっと頬を膨らませて、御影がそれをぷしゅっと割った。

「お母さんと逸れることだよ? 知らないの」

「まずお母さんがいない」

「ふぅん、変なの」

 そう言いつつ、御影にあれやこれや遊ばれるのを許す夕暗。不安だったから、こうやって年上のお兄さんに遊んでもらえて嬉しいというのもあった。

 最終的に、御影は閉じ込めるように自分の膝の上に乗せるのが一番落ち着くことに気が付いた。でも、それをすると彼女の可愛い顔と、美しい瞳が見れない。不満顔を晒せば彼女は逆向きに座った。


「こうすれば見えるよ?」

「本当だな。夕暗は頭が良い」

 そう言われて、夕暗は頬を赤くした。食べちゃいたいぐらい赤い頬に唇を触れさせると、ぎゅっと抱きしめた。

「またここに来てくれる」

「来ていいなら」

「夕暗なら大歓迎だよ」


 そう言って、御影は彼女の額に触れた。


「マヨイガに引き摺り込まれ、音もなく落ちた灯を送り届けろ」


 それは御影にとっての印のような物で。そのときの彼が唯一使える『無事に家まで辿り着けますように』というおまじないだった。

 それから彼女の背を押して、遠くに見える森に向かわせた。


「出口はあっちだ」

「また来れる?」

「もちろん。おれが連れてきてあげる」


 その言葉を告げた瞬間、足を踏み出した夕暗がふっと消え去った。あちらとこちらの境目を超えたのだ。

 それに寒いような気持ちになって、なるほどこれが『寂しい』かと納得する。それから確かめるように人間の世界を見下ろした。幼い麒麟である御影にできる精一杯はこの幻影が降る町を覗くだけで、見下ろした御影は静かにため息を漏らす。


「夕暗のようなやつはいない」

 それはつまり、彼女が運命だったんじゃないか? そう考えて、御影は次にマーキングするのが楽しみになった。彼女に灯火の婚姻をするんだ。そう意気込んだ御影だったが、そこに邪魔が入る。


「やぁやぁ、幼い麒麟さん」

「……獏め。取って食ってやろうか!」

「おお、怖い怖い」


 それはお坊のような姿形をした獏だった。彼はケタケタと笑いながら言う。

「お前、いずれ死ぬということを分かっているのか?」

「……うるさいな」

 麒麟は死ぬために生まれてきている。そういった言い伝えがあるのは御影も知っていた。まるで件のような生き方をするのは嫌だが、次代が生まれたら御影だって死ななければいけないのだ。

 それが嫌で獏から目を逸らすと、彼はまた大きく笑った。

「お前さんが彼女に灯火を渡すのなら、わたしが記憶を消すのを手伝ってやろう」

「……なぜ、記憶を消さなきゃいけない」

「人間はひどく寂しがり屋なもんでね。記憶に引き摺られやすい」

 彼女が死んだら嫌だろう? と、甘言を言うように口にした獏。幼かった御影はその言葉に酷く驚いて、それから彼の言葉に囚われる。

「代わりに、お前さんの記憶もちょいとくださいな」

 獏の言葉に、御影はそっと頷いた。そうすることが正しいと、思いこんでしまったのだ。

 彼はやっぱり気味の悪い笑い方をすると、ふっと姿を消した。

 それに安堵しつつ、御影はそっと彼女に思いをはせる。

 彼女に灯火を与えることができないまま時間が過ぎていくのはまた別の話。そうしてようやく灯火を渡したかと思えば、二人揃って獏に記憶を奪われるのも、ずっとずっと先の話だった。


   (完)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻影が降り注ぐ町で 蛸屋 匿 @toku_44

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画