六 幻影が降り注ぐ

 黄金の野原は、今も昔も変わらず存在していた。忘れてからは一度も訪れることはなかった原っぱ。夕暗が感慨深くなっていると、大きな麒麟の姿をした御影が苦し気にうめき声を上げる。

「御影くん……!」

 夕暗の言葉で、パラパラと鱗を散らしながら人間の姿に戻る御影。傷だらけで血もたくさん流しているけど、夕暗を見て頬を真っ赤に染めた。

「……すごい。おれの灯火が、また約束の地にいる」

 感動するのは良いが、夕暗は『灯火』がどうとか全くもって理解できない。眉を寄せてそれを伝えれば、彼は首をかしげながら教えてくれた。


「獏から聞かなかったのか? 怪異が言う灯火は、『自分の命を捧げるから貴方の命もください』という告白だ。夕暗さんはそれを了承してくれた」

「いやいやいや」

 待ってほしい。いつ、どこで、夕暗が了承したというのだ。

 全くもって記憶にない……と考えて、まさか消された記憶の中にあったんじゃと思い至った。

「ああ。この場所で夕暗さんと誓った。『結び給え、祈りを響かせ、怪異『麒麟』の灯火を彼女に授け』って。夕暗さんに灯火を捧げたのはいいけど、おれは死ぬ予定だったし、幼かった夕暗さんが悲しむのは嫌だったから。記憶を消した」

 その言葉に夕暗は唖然とした。身勝手すぎる。それは夕暗のことを何も考えていない行動なんじゃないか。

「……私が悪いのかしら」

 そうなったのは自分の所為かと頭を抱える。

「夕暗さんは何も悪くないと思うが」

 これを素でやってのけるのだから恐ろしい。でも、これが人間と怪異の齟齬というやつだろう。

 彼は記憶を消したところで何とも思われないと考えている。一方で、夕暗は大切な記憶を消されて苦しんでいる。


 けれど、千年の恋が冷めることはなかった。

「もし心を操られていたら」と思えばぞっとするけど、でもそれ以上に好きという気持ちが溢れ出てくる。なんなのかな、このポンコツ具合も好きなのかもしれない。

「……一度、お互いの気持ちを整理しましょう」

 そう言って草の上に座り込んだ。手をつないだままの御影の顔は、日が落ちてしまったから見えない。お互いに、どんな顔をしているか分からないままだった。


「私はどうしてか、貴方のことが大好きみたい。本心だと思うわ。過去を思い出す前から、貴方のことは好意的に見ていたし。恋なんてしたことないけど、きっと好きなんだと思うの……でも、記憶を消されたのは悲しかった」

 その言葉に驚いたような顔をした。きっと元は怪異である彼には理解できない感情なんだろうと予測する。

「……それで嫌われてたのか」

「待って、私は貴方のことが、だ、大好きなのよ」

 顔を真っ赤にした夕暗の言葉に、御影は目を見開く。お互いの顔は薄っすらとしか見えないが、それでも二人の感情はお互いによく伝わっていた。

「嫌われてると思ってた。おれも好き、ずっとずっと好きだった」

「……こっちの台詞よ。馬鹿」

「それ克己の真似? すごく嫌だ」

「はぁぁぁ」

 夕暗は大きくため息を吐きながら、彼の背中に手をまわした。


「治癒の印『痛み分け』」


 夕暗がそう言った瞬間、御影についていた傷の半部が夕暗に移る。それに御影は目を見開いて「煩わせないって言ったのに!」と口にする。

 こんな傷だらけの死に掛けを放っておけるか、と小突けばどちらも痛くてうめき声を上げた。それがおかしくって、二人は笑顔になった。

 御影は立ち上がると、彼女の手を引いて空を見上げた。

「……おれ、今代のこと見捨てたな」

 それは今代の麒麟のことを指しているのだろう。

「殺されないと良いわね」

「おれが死んだら悲しくないの?」

「悲しいけど、自業自得は知りません」


 夕暗も空を見上げれば、大きな魚が青白い尾を引いて飛んでいた。それはこの町の人々に『幻影』と親しみを込めて呼ばれている幻の魚。御影はそっと夕暗を抱きよせると、囁くような声で言う。


「怪異『幻鱏げんえい』は夢を叶える怪異だ。麒麟だけが呼び覚ますことができる」

「あの日にも勝手に呼び覚ましていたよね」

「あのあと、別な怪異に怒られた」

 くすくすと笑った二人。御影はそっと顔を近づけると、彼女に言う。


「閉じ込めたいぐらい大好きだったんだ。夕暗さん。いや、夕暗」

「……」

「どうかおれと結婚して。今度は人間の法律で」


 これは「はい」と答えるまで粘るだろうなぁと思いつつ、とりあえず夕暗は希望を提示することにした。

「一度殴らせてくれる?」

「……ん?」


 ゴン! と鈍い音が鳴る。これは勝手に記憶を消した分。それからもう一発──御影の胸に、夕暗に真実を伝えてくれなかった分、好きと一度も言ってくれなかった分、なんとなくムカついた分。

 とにかくポコポコと殴って、最後に泣き笑いで彼を見上げた。


「駄目みたい。私、どうしても貴方が好き」


 幻鱏から零れ落ちた青白い光が降り注ぐ中、二人はそっと唇を触れさせた。

 目を開ければ、夜空から降ってくるものと同じものが、彼の眼の中で輝いていた。


   1


 後日談を話させてもらおう。

 その日は二人で夜空を眺め続けたあとに帰ってきたのだが、享火が見当たらなかった。そして『麒麟を助けようとして消滅した』という話を聞いて、夕暗は大泣きした。それにキレた御影が社長を連れてこようとしたが、麒麟の姿になれない。

「は? どうして?」

 苛立ちげに出された言葉に答えたのは、突如現れた獏だった。僧侶の姿で麒麟堂に現れた彼は、心底おかしそうに言う。


「けけけ、お前は人間と交わったから、もう麒麟ではないさ」

「交わ……接吻せっぷんのことか」

「よかったなぁ。私は娘が生まれるか、息子が生まれるか、楽しみだ」

「接吻で子供が生まれるのか!?」

 顔を真っ赤にした御影は、大慌てで夕暗を呼び出した。

「こ、子供どうしよう!?」

「……どうしたの」

 怪訝そうに聞いた夕暗に、御影は全てを話した。麒麟になれない事、それは接吻をして子供が出来ちゃうからである事、ついでに世界の調和がとれた事まで言った。

「やっぱりポンコツなのかしら……」

 お陰でまた馬鹿二人の喧嘩が始まったのはさておき。

 これで世界の調和も取られる。誰もが幸せになって幕を閉じたじゃないか。そう獏は笑った。


 そんな中に帰ってきたのは、この麒麟堂の社長、東尾 歩。

 そそくさと逃げた獏を眺めつつ、東尾社長は丸々太った大蛇を撫でる。

「ただいま戻った。夕暗、御影、克己は無事そうだな」

「ちょっとお兄ちゃん、わたしの心配もしてよ」

 進呉は頬を膨らませ気味に言う。

「お前はいつだって無事だろう。問題は享火か」


 享火は普段ふらふらしていて役に立つことの方が少ないのだが、今回は頑張りすぎてしまったようだ。夕暗は悲しくってまた涙が出そうだったけど、それを御影がぎゅっと抱きしめることで慰める。

「苦しい……」

「お前ら、社長の前でよくもいちゃつけるな」

「そうよ、お兄ちゃんは万年独身なんだから!」

 克己はそういう意味で言ったわけじゃないと焦りだした。進呉は笑いながらも、兄である東尾社長に確認を取る。

「克己ちゃんが赤い砂を小箱に入れた。憑き物が封じられた瓢箪も持っているわ」

「それだけあれば霊を呼び寄せるくらい簡単さ」


 東尾社長は手と手を合わせると、静かに印を結んだ。

「降霊の印『猫が歩く』」

 そう言った瞬間、東尾社長の背中に取り憑いていた見目の悪い猫がずっしりと東尾社長の頭にのしかかった。それを涼しい顔で流しているが、相当苦しいはずである。


「あれは何をしている?」

「社長は怪異『猫鬼びょうき』の怪異憑きなの。御影くんは知ってる? 猫鬼のこと」

蟲毒こどくのような怪異だったか」

「そう」


 いくつもの猫を殺せば、最強の怨霊が現れるんじゃないか──なんて馬鹿げた考えが生んだ怪異。それが猫鬼だった。その重さは計り知れず。

 単純に有名な獏や青龍、麒麟とは全然違う種類の怪異だ。本来なら妖力もそこまで持っていない。けれど、怪異屋の世界では東尾社長とその憑き物である猫鬼は恐れられていた。


 赤い砂がふるふると動き始めると、バッと赤い火柱が立ち上った。そしてその火の中から享火が現れる。だが、様子がおかしい。

「お前、本当に享火か?」

 克己がそう言うのも頷ける。なぜなら享火は、いつもと違ってスレンダーなお姉さんの姿をしていたからだ。

「わ、克己を見下ろせる日が来るなんて!」

「お前……!」

「社長、どういうことだ」

 キレた克己と享火が追いかけっこをする中、御影は不思議そうに聞いた。

「力をセーブしていたんだよね。私が」

 思わず全部の力を開放してしまった、とお茶目に笑った東尾社長。彼はまあいいかと二人から目を離すと、今度は丸々太った大蛇の方に向き直った。

「捕虜、一人捕まえたんだよね」

 社長は大蛇の口を掴み、中から悪壬を引き摺り出した。するとあの大きな傷が付いた顔が出てくる。そのまま全身を引っ張り出された彼はぐちゃぐちゃのどろどろで、ちょっと気の毒でもある。


「……悪壬とは大物を」

「歩か。ということはここはあの町なのか?」

 どうやら目が見えなくなってしまったらしい。眉を寄せながら言った悪壬に、東尾社長は笑って言った。


「お前もここで働くことだな」

 案外、社長はこうやって人材を集めているのかもしれない。夕暗のときだって同じようにスカウトされた記憶がある。

 悪壬は心底嫌そうな顔をしたが、目が見えないのならどうしようもないと考えたのだろう。静かに頷いた。


 こうして、麒麟事件は幕を閉じた。


   (続)


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