野薔薇姫 街の章 十


 陸橋の歩道の途中から枝分かれする階段を下りると、道は閑静な住宅街を抜けて、緩やかな上り坂に続く。

 ほどなく坂は古風な円弧状の木橋となって、葉桜の並木に縁取られた城跡しろあとの堀を渡り、石垣の間を抜け、広々とした城址じょうし公園に入る。

 駅から遠い俺のねぐらに帰り着くには、この公園の散策路を通るのが十分以上も節約になるのである。

 やがて街の喧噪は石垣の彼方に遠ざかり、まばらに路灯が点る散策路は、昼のヤケクソな蝉の合唱も、野球場の歓声も、郷土資料館の横の市民プールに集うチビたちのわめき声も忘れたげに、ただ木暗こぐらい静寂に包まれた。

 辺りの景色が、水銀灯を芯とする球状の群葉をぽつりぽつりと闇に浮かすだけの夜一色に染まるにつれ、それまで俺の腕や心を楽しませてくれていた背中の手応えも、綿のように軽くなっていった。

 このまま寝入ったら、また風船のように浮き上がってしまうのだろうか。そのほうが楽といえば楽だが、やっぱりなんだか物足りない。


 そうして歩を進めるうち、俺の胸元に垂れた花柄浴衣ゆかたの袖を伝わって、なにか枯葉のような影が足元に落ちていくのが見えた。

「あ……」

 小さく息を呑む声がして、背中に子供の重みが戻った。

 チヨコはあわてて背中から飛び下り、落ち葉ならぬ地面の蝶に手を伸ばした。

「……ちょうちょも、ねちゃった?」

 仰向けに羽を広げて寝る蝶はいないだろう。

「……寿命みたいだな」

 不憫ではあるが、今さら言葉をつくろっても仕方がない。それにチヨコだって、生きとし生けるものにはいずれ逝って戻らないときがくることを、望まずして悟っているはずだ。

「……死んじゃった?」

 チヨコの声は、ちりちりと震えていた。

「……泣くなよ」

 俺の声も、少しかすれていた。

「たぶんこいつは、もうこれまで、ずいぶん長生きしてたんだ。卵で生まれて、芋虫になって、それから蝶々になって、あの山を飛んで回って――きっと、最後にチヨコにかわいがられて、満足して、安心して天国に行ったんだ」

 チヨコは泣かなかった。

 昨夜、俺が盗み見たときのように、ただはかな諦念ていねんを浮かべているだけなのが、俺は無性に哀しかった。

「……お墓、作ってやろうな」

「……うん」


 どこからか、あの野薔薇のみちのような馥郁ふくいくたる香りが流れてきていた。

 流れを辿たどって脇道に入ると、散策路の少し奥に、色とりどりの薔薇園がしつらえてあった。形ばかりの迷路風で、さほど広い花園でもあるまいが、夜の闇はその果てをくらませる。

「ここがいいかな」

「……うん」

 かろうじて路灯の光が届く、なるべく人にいじられなさそうな地面を、ふたりして掘り起こす。

 小さな穴の底に蝶を横たえ、ふたりしてさらさらと土をかける。

 ふたりして、軽くぽんぽんと表をならす。

 それから並んで瞑目し、両手を合わせ、

「おんあぼきゃーべーろしゃのーまかぼだらーまにはんどまじんばらはらばりたやうーん」

「なまんだぶなまんだぶなまんだぶ……」

 ちょっと宗旨が違うが、ヤマキマダラヒカゲはそこまで気にしないだろう。

 いや、二倍ありがたかったのかもしれない。

 なんとなれば、

「……ありゃ」

 俺より先に目を開けたチヨコが、ちょっとおまぬけな声をあげた。

 どうした、と訊ねかける俺の目の前で、一羽の蝶が地面から這い上がりつつあった。

 蝶を数える単位は『羽』ではなく『頭』だ、などと自分にツッコんでいる場合ではない。

 さっきの蝶が実はまだ仮死状態で、おいおいなんてことするんだ、と根性で這いだしたわけでもない。

 土の存在を無視して、いや、自前の薄青い光で周囲の土をおぼろに照らしながら、半透明の羽をぱたぱたと健気けなげに羽ばたかせる様は、やはり一羽のヤマキマダラヒカゲだった。

 ほう、これはなかなか綺麗なもんだ――。

 俺は阿呆のように感心していた。

 一介の虫が化けたり迷ったりするとは思ってもいなかったので、頭にうろがきていたのである。

「ちょうちょ! ちょうちょ!」

 チヨコはすなおに歓喜し、びたつ蝶をてのひらで追った。

 蝶は夜の闇に、青い水彩絵の具のような薄い光跡を引きながら、俺たちの頭上二~三メートルまで舞い上がった。

 そうか、と俺は得心した。

 こいつは化けたのでも迷ったのでもない。

 単に死んだのだ。

 虫には心がない。いやあるのかもしれないが、どのみちただ本能のままに生きて食って繁殖して、その過程のどこかに多少の不都合があろうとなんの未練も残さず、善意も悪意も無縁のまま、ただ生を生き生を終えてゆく。そんな生き物が死んでから行く先は、もう極楽しかないではないか。

「おい、チヨコ」

 俺は咄嗟とっさに口走っていた。

「お前、あいつに、ついてけ」

 言ってしまってから、それがすべての潮時であることを悟り、はらわた全体が心臓に向かってよじれるような悔恨を覚えたが、もう遅かった。

 どうせ俺はいつだって、なにもかも遅いのだ。潮時を計る理性も、先に送る策略もない。

 きょとんとして俺を見つめるチヨコに、

「ちょっと試しに、ついてってみろ」

 苦渋をこらえてなお言うと、チヨコは地べたの俺と宙の蝶、交互にきょろきょろしながら、

「……ちよこ、とべないも」

「飛べるぞ」

 俺は心を鬼にして、チヨコを抱え上げた。

「ひゃあ」

 じたばたもがくのをあえて無視し、力の限り、蝶方向に投擲とうてきする。

「どっせーい!」

 万一、俺の判断が誤っていたとしても、こいつに怪我はないはずだ。

「うひゃあ!」

 チヨコはかなりおまぬけな声とともに、ひゅん、と、蝶の先まで上昇した。

 それから緩やかな放物線を描いて下降し、いったん薔薇園の少し離れた辺りに落っこちそうになったが、地べたに届く前にからくもカーブ、ほぼ水平に軌道修正すると、あんがい機敏な飛びっぷりで、俺の鼻先に鼻を突きつけた。

「なにをする!」

 我を忘れて小鬼のように怒っているが、それでいい。

 もともとチヨコは、この世のものではない。自ら断ったはずの生、いや、望みつつ叶わなかった生への未練が、この世にいかりを下ろしていただけなのだ。生きている俺が、生きている限り同じ碇に甘んじるのはお約束であっても、チヨコがそれに囚われるいわれはない。

「おまえ、浮いてるぞ」

「――あ」

 気づいたとたんに落っこちる、そんなオチもなかった。

「な、飛べるだろ」

 チヨコはまだ半信半疑らしく、平泳ぎだかバタ足だか判然としないフォームで、俺の頭の周りをおずおずと泳ぎ回った。

 あのヤマキマダラヒカゲは、チヨコの挙動が気になるのか、ちょっと上の同じあたりをひらひら周回している。

「あいつについていけば、叔父ちゃんに会えるぞ」

 チヨコは、天と地をはかりにかけるように、微妙に浮き沈みしていた。

「……………………」

 そんなに悩んでくれるなら、俺も本望というべきだろう。

「いつまでも待たしといたら、叔父ちゃんがかわいそうだろ。お前が待ってたみたいに、叔父ちゃんだって、ずっと待ってるんだからな」

「……ほんとに、待ってる?」

「待ってるさ」

 俺は請け合った。目の細い大デブはえてして気が短いが、丸い目の大デブは、しばしば気が長すぎて人生を誤る。

「もし見つからなかったら、帰ってくりゃいいじゃないか。俺は毎日、この時間ここで散歩してる」

 チヨコはようやく、こくりとうなずいた。

 嬉しいんだか悲しいんだか判らない声で、つぶやくように、

「……ばいばい」

「またね、だな」

「?」

 小首をかしげるチヨコに、俺はめいっぱいの笑顔で言った。

「俺もそのうち、そっちに行くから」

 ぴんとこないのか、チヨコは目を丸くして俺を見ていたが、

「――あ」

「そう。行きたくなくとも行っちゃうぞ」

 チヨコが叔父さんを待たせたほど、長い先の話ではないだろう。このままの暮らしぶりなら、思ったより早く、ぽっくり逝けそうな気もする。まあ上下どっちに行くかは五分五分にしても。

「だからお前は、あっちで叔父ちゃんといっしょに待ってろ」

「うん!」

 咲きめた夏薔薇のようなチヨコの笑顔に、冬薔薇のかげりが少しだけひそんでいるのを、俺は心底、愛しいと思った。

「……またね、おじさん」

「おう、またな」

 チヨコは空を見上げ、すい、と夜気を掻いた。

 あの蝶が、待ち人を得て天を目ざしはじめた。

 スイミング・スクールの赤ん坊のように夜空を泳ぎながら、何度もこちらに手を振るチヨコに、俺は何度も手を振り返しながら、チヨコが星ののひとつの星に紛れるまで、天を仰ぎつづけた。


     *


 肩から下げた頭陀袋ずだぶくろには、あの童話集の角張った重みが確かに残っている。

 これで当分、生きる理由ができた。俺は毎晩ここを散歩しなければならない。

 寸刻忘れていた暑気が蘇り、たちまち額や鼻に汗の粒が浮いたが、俺は頭の中の白い俺や黒い俺といっしょになって、ただ岩清水のように笑っていた。




               〈了〉



 

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野薔薇姫 バニラダヌキ @vanilladanuki

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