野薔薇姫 街の章 九


 地方都市では馬脚すら短足とでも言おうか、数階建てのビル街をさらに進むと、道筋には古い神社や屋敷の庭の樹木が点在しはじめ、部分的に郊外の様相を呈する。

 そして、そんな道筋からさらに奥まった、一見ただの弊屋へいおくっぽい瓦屋根が、いわゆる庶民の認知を必要としない、老舗しにせうなぎ割烹かっぽうだったりもする。

 いつもなら一歩踏みこむのも面映おもはゆいその石畳を、俺はせいぜい臆せずに、チヨコの手を引いて玄関に進んだ。もっともチヨコのほうは、この表層のひなびこそが現代の上層の韜晦とうかいであり、ひと皮むけば中身はとんでもねーみやびな造作であることなど知るべくもなく、やっとふつうのお家のお庭に入ったも、そんな余裕の足取りだった。

「いらっしゃいませ」

 黒光りする上がりがまちの向こうで、ネクタイ姿に半纏はんてんを羽織った、番頭さんなのか下足番なのか俺には判別できない老人が頭を下げた。

「失礼ですが、お名前は――」

 慇懃いんぎん無礼ぶれいを額装したような顔と声だった。

「いえ、予約はしておりません」

 相手がなんであれ第一関門、ここでビビったら負けである。

「こちらの鰻は峰館みねだて一だと、評判を伺ったものですから」

 俺は生活能力に反比例して以下略。

 幸い老人は柔和な微笑を浮かべてうなずき、すぐに仲居さんを呼んでくれた。


 上出来の箱庭のような日本庭園を臨む、青い畳表の小座敷に案内され、ちんとんしゃん、などという粋な調べが流れる中、俺はアブラ中年らしく、おしぼりで顔や首筋のみならず二の腕まで拭きまくった。

 俺と一緒に山を下ったのにちっとも汚れず、子供らしいツヤツヤ顔を保っているチヨコも、俺の真似をしてあちこち拭きまくった。

 清楚な和服姿の仲居さんは、俺の風体を怪しむより、チヨコの無邪気な挙動に気を惹かれたようで、なんの懐疑も浮かべず微笑ほほえましげにお茶を置き、先にお銚子二本とサイダー、それから鰻重の松の大盛りと小盛りプラス鰻巻うまきの注文を、すんなり受けてくれた。

 格差拡大がどうのこうのと自虐的に騒がれつつ、今の日本は本当にいい国だ。一見いちげんさん断固拒否の経営方針でない限り、百均のTシャツによれよれチノパンの土方焼け親爺を、ちゃんと座敷に上げてくれる。まあ子連れへのお目こぼしがあったにせよ、これほど下層階級にふところが深い国は、世界的にも珍しいのではないか。

 常夜灯に浮かぶ小庭園の、涼やかな竹の音を響かせる添水そうずや、池のおもてに映える御影みかげいし灯籠とうろうを、チヨコはうっとりと見渡しながら言った。

「……おしろみたいだも」

「じゃあ、お前はお姫様だな」

 照れまくるかと思ったら、チヨコはかなりその気になって居住まいを正し、お淑やかに襟元のスカーフを整えたりした。

 俺ブランドの風呂敷スカーフは確かに会心の出来といってよく、あの仲居さんさえ、明らかに夏の和風チャイルド・ファッションの一種として眺めていたほどである。


 さて、このクラスの老舗になると、注文を受けてから初めて鰻を裂く。

 今はお手玉も綾取り紐も持ち合わせがないので、お銚子とサイダーでお杯のやりとりごっこをしたり、せっせっせや尻取りをしながら待つこと小一時間、

「お待たせいたしました」

 マジ漆塗りの重箱と椀が、粛々と卓に並んだ。

「お茶をお注ぎいたしましょうか」

「はい、お願いします」

 俺はややしゃっちょこばりつつ、鷹揚おうようにうなずいた。

 仲居さんが下がったあとの食事風景に関しては、あえて詳述を控えたい。

 まあ平たくいえば、最初の一分弱は重箱やお椀の蓋を上げながら余裕で「ほう」とか「へえ」とか視覚的味覚を楽しみ、さらにまた一分ほどは「むむ」とか「ふむ」とか、借りてきた猫状態で嗅覚的味覚を嘆賞し、それからおもむろに阿吽あうんの呼吸で用意ドン、以降は双方無言のままがつがつぐびぐびがつがつぐび――下僕もお姫様も、等しく舌や腹に負けたのである。

 ちなみに、福沢先生ひとりでは足が出るにも関わらず鰻巻きまで頼んでしまったのは、無論チヨコに食わせてやりたかったからだが、あの叔父さんに対抗心を燃やさなかったといえば嘘になる。俺は生活能力に反比例して嫉妬深い。

 鰻の蒲焼きを芯にしたフワフワトロトロの巻き卵をひと口ほおばり、ほとんど悶絶しているチヨコを眺めながら、俺は内心、勝利の凱歌を奏していた。


 チヨコは心身共に満腹したらしく、店を出るときから目をしょぼしょぼさせており、線路沿いの道に戻って十数分、奥羽本線を跨ぐ人気ひとけのない陸橋を渡るころには、大きなあくびを連発しはじめた。

 俺はしゃがんで、チヨコを背中に迎えた。

「ほい」

「……うん」

 チヨコは例の蝶をスカーフから頭に移し、ちょっと恥ずかしそうに負ぶさってきた。

 この陸橋の近辺には、ほとんど高い建物がない。街の灯は、いだ海のいさり火のように眼下で瞬き、あの高層駅舎も細やかな光の塔となって星空に和んでいる。

 いきなり目線が高くなったチヨコは、そんな夜景に感心するのに忙しく、ときおり大あくびを繰り返しながらも、なかなか眠るどころではなかった。

 あっちこっちにずりずりと体を伸ばしたりひねったりするので、負ぶい直すのに骨が折れたが、背中にへばりつく子供の重さという奴は、なぜかちっとも苦にならない。重たすぎる寸前の重さであるがゆえに、かえっていつまでも支えていたいような充実感がある。

 思うに、俺が人を背負って歩くのは、いったい何年ぶりだろう。それこそ小学校の頃、朋輩ほうばい同士、冗談で乗っかり合ったとき以来ではないか。いや、妙齢の女性の餅のように酔った尻たぶなども、いっとき確かに支えた記憶がある。まあ酔いが醒めた後は、重たすぎて一年と支えきれなかったのだけれど。

 陸橋の下を、田舎にはあまり似合わない銀色の新幹線が、田舎相応の徐行運転で、北を目ざして走りすぎてゆく。

「おぅ……」

 背中のチヨコが感嘆した。

「汽車ぽっぽじゃなくて、汽車ぎゅんぎゅん」

 確かに峰館線と比べれば、これでも立派な夢の超特急である。

「乗りたいか?」

「うん」

「じゃあ、今度あれに乗って、どこかに行こう」

「うん!」

「どこに行きたい」

「はわい!」

 口調から察するに、あくまで明治以来の日本人の南洋楽園志向と見たが、どうもチヨコは全世界を過小評価しているようだ。

「……あそこは汽車が通ってないな。でもハワイっぽいとこなら、汽車で行けるぞ」

「うん!」

 隣県福島の常磐じょうばんハワイアンセンター、もといスパリゾートハワイアンズが果たしてどこまでハワイっぽいか、それは北国に生きる庶民の心ひとつである。

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