野薔薇姫 街の章 八


 峰館みねだて市全域を睥睨へいげいする、一介の地方都市には極めて分不相応な高層駅舎を見上げ、チヨコはしばし呆然とホームにそっくりかえった。

「……えんぱいあ、すてーとびる」

「いや、それは日本じゃないな」

 俺はチヨコがイナバウアーをしくじって失点しないよう、背中を支えてやりながら言った。

「これはただの峰館駅だ」

「……ほぉ」

 チヨコは妙に婆くさい声でつぶやいた。

「これはこれは、なまんだぶなまんだぶ」


 御大層な駅舎のわりに、冬の蔵王のスキーシーズン以外、夜ともなると駅ナカの賑わいは寂しい限りである。

 それでも奥羽新幹線の発着駅だから、コンコースにはそこそこ人通りがあり、シャンデリアまがいのきらびやかな照明もあれば、華やかな浴衣ゆかた姿のマネキンたちが花笠を掲げて立ち並ぶ、花笠祭のパレードを模した観光用の飾り付けもある。

 チヨコは憑かれたような目差まなざしを、あっちこっちきょろきょろとフル回転させながら、あんがい大人しく、俺に手を引かれるまま歩を進めた。途惑いながらも種々の驚異をめいっぱい楽しんでいる、そんな風情だった。

 あの時代の山から一歩も出ず、教科書や絵本、ラジオや人の噂だけで大都会を夢想していたのが、かえって幸いしたのかもしれない。想像を絶する光景という奴は、いったんメーターを振り切ってしまえば、どこまでトンだって想像を絶しているだけである。


 もっとも、バスやタクシーが廻遊するロータリーからちょっと離れると、しょせん田舎の駅前は田舎の駅前、たちまち馬脚を現す。昭和と見紛うケバいネオンを彩りに、せいぜい数階建てのビルが立ち並ぶ、発展よりも沈滞の色が濃い街だ。商業都市としての中心は、地代の安い郊外のバイパス沿いに集結する全国展開巨大チェーン群方面に、とっくに移ってしまっている。

 それでも俺は、こんな裏町じみた通りが好きだ。

 数年前の駅舎新築に伴う駅前再開発で、いったんは妙によそよそしくなってしまった峰館駅界隈だが、近頃はここいらの路地あたりから、ようやく猥雑な生活臭が滲みだしてきている。

 酔っぱらってくだを巻くおっさん、イッキ飲みで死にかける学生、様々な生活のおりが少しずつ混ざり合った得体えたいの知れないえたような臭い、俺はそんな人肌の混沌に馴染なじめるたちなのだ。あちこちのエアコンの室外機から吹き出す温風だって、町内の公営団地から何百戸分も排熱をくらう風下の安アパートに比べれば、遥かにましである。

 チヨコも高層物件よりは数階建てのほうが安心できるらしく、道端の焼鳥屋の煙に惹かれて立ち止まったり、舗道でなんだかよくわからない装飾雑貨を広げている外人さんのシートを覗きこんだり、手を引く俺をしばしば立ち止まらせた。

「おい、見物は、あとでゆっくりな」

「はーい」


 俺が登録している日雇ひやとい派遣会社の事務所は、そんな雑駁ざっぱくな通りの中程、くすんだ雑居ビルの二階にあった。

 通りに面する一階は、いちおう地元の堅実な洋品店だが、他の階は、CMで社名だけは全国に浸透している各種虚業の地方支店、つまり消費者金融や居酒屋チェーンや英会話スクールなどが出たり入ったりしている。

 無駄にスタイリッシュな社名プレートを張りつけた、味も素っ気もないドアの前で、

「おじさん、この中にちょっと用事があるから、チヨコはここで待ってろ」

「はーい」

「いろんな人が通ると思うけど、ついてっちゃ駄目だぞ。しゃべっても駄目だ。曲馬団に売られて、毎日お酢ばっかり飲まされるからな」

「お酢、おいしいも」

「毎日ライオンや虎に嘗められるぞ」

「……やだ」

 チヨコに冗談のような脅しをかける間にも、二十歳はたち前から人生に疲れきったような少年や、家計に追われる主婦らしい女性が、ドアから出たり入ったりした。

 実のところ、日雇派遣で糊口をしのぐ人間に、そうそう性根しょうねの腐った奴はいない。今の世の中、そこそこ腐った奴のほうが、要領よく贅沢していたりするものだ。サラ金や居酒屋の客には色々混ざっていそうだが、基本、この階はエレベーターでスルーしてくれる。

「すぐ戻るからな」

 俺は急いで事務所に入った。


 遅い時間が幸いし、セコい一室を横切る役場じみた受付には、さっきの主婦がひとりで会計を待っているだけだった。社員も奥にふたりしか残っていない。

 俺は受付の紙箱に、市内の引越屋と例の製材所でサインをもらった、ちっこい就業管理票の複写を二枚納めた。

 ほどなく主婦は会計を終えて退室し、ほとんど入れ替わりで俺の名が呼ばれた。

 スマイル無料のお姐さんから受け取った金は、手取り一万九千四百円。二日とも力仕事で、一日は夜勤プラス残業二時間でも、この辺りではこんなものだ。

「明日からの予約はお済みですか?」

 お姐さんが、そつなく訊いてきた。

「あ、いや、ちょっと用事があって、次の予定はこちらから連絡入れます」

 ふだんの俺なら、口があったら毎日連絡をくれと頼むところである。こっちが一年三百六十五日応募したところで、働けるか働けないかは先様の都合しだい、下手をすれば週に二~三回しか口がかからない時期もある。割のいい仕事がない日には、ここいらの最低賃金、時給六六五円で、日がな一日ひたすら口紅の容器を組み立てたりもする。

 ともあれ今、俺の懐には六万近い福沢先生や樋口女史や野口博士が集結した。昨日の朝の四百八十何円と比べたら、これはもう平成維新といっていいだろう。

 世間の尺度とは無縁の多幸感を味わいながら、俺はそそくさと事務所を出た。


 チヨコは廊下の隅にしゃがんで、あのヤマキマダラヒカゲをてのひらに乗せ、こちょこちょ遊んでいた。

「……しかし、よく懐いたもんだなあ」

 山を下りる間はしばしば姿を消し、てっきり逃げたと思っていると、どこかで飯でも食ってきたのかまた舞い戻り、結局チヨコの風呂敷スカーフに潜りこんだまんま、こんな街まで出張でばってきている。

「だって、おじさんのおみやげ!」

 いや、俺が調教したわけではないから、そう笑顔で賞賛されても困るのだが。

 だいたい、あっちの叔父さんの土産と違って、こっちの土産はいかにもちが悪い。蝶が羽化してからの寿命は、せいぜい一~二週間ではなかったか。しかしチヨコがこれだけ気に入っているのだから、餌でも工夫して、なんとか長生きさせてやらねばなるまい。

 その前に、まずはチヨコの餌である。

「夕飯、なんか食いたい物あるか?」

「かつさんど!」

 即答されてしまった。

 まあ今なら食わせてやれないことはないが、小腹を満たす程度でいきなり樋口女史がお亡くなりになってしまうし、そもそもあのホテルは駅から何キロも先である。といって近くの安物で誤魔化ごまかすほど、俺も厚顔ではない。

「……他には?」

「むくりぶな!」

「……それは鮒を釣ってからだな」

 今のチヨコに食材調達能力があるとは思えない。

「鰻なんてどうだ?」

「……うなぎ」

 チヨコは、なにやら遠い目を宙に彷徨さまよわせた。

「食ったことないか?」

 チヨコはふるふるとかぶりを振って、

「いっぺん、たべた。おじちゃんの、おみやげ」

「ほう」

「チヨコにだけって、かくれて、たべた」

 涙とよだれをいっしょに垂らしそうな、せつないんだかいやしいんだか判らない顔だった。

 このあたりの川で鰻は釣れないから、あの本同様、叔父さんが町場でこっそり調達したのだろう。

「……うまかったろ」

「うん!」

 鰻なら、峰館でも名高い老舗しにせがこの近くに支店を出している。あそこで腹一杯食って酒も飲んで――ここはもう福沢先生ひとり、名誉の戦死ということで。

「よし、決まりだな」

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