野薔薇姫 街の章 七


 屋根と柱と三方の壁以外は何もない『梅』駅舎を走り抜け、国鉄全盛期の名残なごりである無駄に長いホームの端っこに立ち止まると、二両編成の色違い車両も、ちょうどそのあたりに「どっこいしょ」と停車しつつあった。色がベージュだったり黄緑だったりするのは、あっちこっちの地方の車輛を使い回しているからである。

「……汽車ぽっぽじゃ、ない」

 チヨコは、疑わしげに眉根を寄せた。

「しゅっぽしゅっぽ、ない」

 なるほど、昔の教科書や絵本と比較すれば、確かにSL抜きの客車がふたつ並んでいるだけにも見える。

「これは特別製の新しい汽車だ。いいか、見てろよ」

 この型のワンマン車両は、いわゆる半自動ドアで、横にある赤と緑の手動開閉ボタンを使って客自身が開け閉めする。たまに都会からの観光客が驚いたり笑ったりするのを見かけるが、日本全国、ローカル線ではさして珍しくない。

「ほら、赤が光った」

「おぉ……」

「今だ。赤いのを押せ!」

「ぐいっ」

「開けごま!」

「ごま!」

「ほら開くぞ。――ごごごごご」

「おおぉぉぉ……」

「どうだ、すごかろう」

「すごいねえ、すごいねえ」

 すなおでノリのいい幼児は、扱いやすいから好きだ。


 乗りこんだ前の車両には、里山歩き帰りの老夫婦と覚しい二人連れが座っていた。向かい合わせ式のシートのどこにも他の人影はない。いや、最前部の囲いの中に運転手がひとり。この時間の上り列車は、一般的な通勤通学と逆方向なので、宵の口でもこんなものである。

 ふと、もし今のチヨコが、ヘリコプター騒ぎのときのように他人の目には見えない状態だったら、俺はひとりで騒いでいる電車馬鹿に見えるだろうと危惧したが、上品な老夫婦は、いかにも孫娘を見るように目を細めてチヨコを眺め、俺にも笑顔で軽く会釈えしゃくしてくれた。

 俺は会釈を返し、チヨコもちょっとしゃっちょこばりながら、ぺこりと老夫婦にお辞儀した。

 それから俺がチヨコに緑の『閉』ボタンを押させたり、整理券を取らせたりする間にも、老夫婦とチヨコは、「おうおう、かしこいねえ」「えへへへへー」、そんな視線だけの会話を交わしていた。

 このぶんなら、チヨコは街に出てもやっていけるだろう、と俺は楽観した。

 長くひとりきりで山に籠もっていたわりに、チヨコの社交性には、ほとんど歪みが見られない。実の親や村社会にとことん辛酸を嘗めさせられたからこそ、腹蔵のない善意には、かえって敏感なのかもしれない。それに今は、厭な奴が来たら透明化するという手がある。


 後ろの車両には誰も乗っていなかったので、俺は老夫婦に再度笑顔で会釈し、チヨコの手を引いてそちらに移った。

「ほら、貸し切りだぞ」

「おぉ」

 チヨコはさっそく、窓の外を眺める幼児の態勢に入った。

「こら、椅子に上がるときは草履を脱ぐんだ」

「はーい」

 列車はすでに「どっこいしょどっこいしょ」と動き出していたが、窓外の景色は、とうぶん変わり映えしない、ただの暗い山間である。

 それでもチヨコは、瞬く間に過ぎてゆく線路際の樹木や、間近な山と遠い山の重なりの移ろいや、彼方をゆっくりと後ずさる小さな山家の火影、あるいは大慌てで後ろにすっ飛んでゆく線路際の大窓などを、「ほぉ」とか「おぉ」とかつぶやきながら、くことなく眺め続けた。

「……汽車ぽっぽじゃなくて、汽車ごうごう」

「おう、新型だからな」

 そこそこの集落にさしかかり、踏切の警笛が鳴ると、

「汽車かんかんで、汽車ぴっぴ」

 ぽっぽでなくとも、充分お気に召したようだ。

 やがて驚き疲れたのか、単調な列車の振動のせいか、チヨコは大きなあくびをして窓を離れ、前を向いてごそごそと座りこんだ。

「眠くなったか」

「うん」

「眠れ。着いたら起こしてやる」

「……うん」

 一分もしない内に、チヨコは俺の腕にもたれ、小さな寝息をたてはじめた。

 俺は向かいの窓ガラスに映る俺たち、なんら違和感のない確かなふたつの鏡像を、いっときしみじみと眺め続けた。


 さて、峰館みねだてに着いたら、とりあえずどう行動するか。

 今回は思いがけない臨時収入があり――ネコババと口止め料だけど――二ヶ月分の家賃がいきなり確保できてしまった。

 さらに峰館駅のすぐそばの派遣会社には、直前の夜勤を含めて二日分の日銭が貯まっている。あれを今夜中に受け取れば、当分はチヨコをひとりにしないで済む。派遣会社の事務所は夜の九時まで開いているから、今からでもぎりぎり間に合うだろう。

 そうやってふところを脹らませ、久しぶりにちょっと贅沢して、ファミレスあたりでチヨコになにか旨い物を――いや、いっそ数年ぶりに老舗しにせの鰻重――いやいやそれはあまりに無謀――でも今日は、いわば記念日である。なんの記念日なんだか、言った当人が確定できないことをわざわざ訊いてくる野暮もいるまい――。


 そんなことを考えているうちに、俺もうとうとしてしまい、次の駅のアナウンスが始まったあたりで、なんだか様子がおかしいのに気づいた。

 腕にチヨコの感触がない。

 慌てて目を開くと、チヨコの姿自体がなかった。

 俺は咄嗟とっさに、ヘリが出現したときのようにチヨコがのかと思った。たとえば俺が眠っている間に、途中駅からゴリラ級の巨漢が乗ってきたりしたら、怖がって透明化しても不思議はない。

 しかし車内を見渡しても、相変わらず他に客はいなかった。そもそもアナウンスは、ちゃんと次の駅名を告げている。

 それではあの老夫婦に懐いているのかと、前の車輛を窺ってみたが、そっちにも行った様子はない。

 これは――もしや、寝ている間に成仏してしまったのだろうか。カツサンドや汽車に満足して、この世に思い残すことがなくなって。

 ならば喜ばしいはずなのに、俺は、とてつもない虚無感に襲われそうになった。

 そのとき、

「……汽車ぴっぴ……」

 頭上から、間の抜けた寝言が聞こえてきた。

 チヨコは網棚を逆さの寝床にして、下向きに浮いて寝ていたのである。途中に網棚がなかったら、天井で寝ていたはずだ。

「……器用な奴だ」

 俺はくつくつ笑いながら、チヨコをそっと引っぱり下げた。

 しかし考えてみれば、安穏あんのんと笑っている場合ではない。もし気づくのが遅れ、あのまんま次の駅で他の客が乗りこんできたら、六甲山のターボ婆さんに並ぶ新たな都市伝説、いや田舎伝説『峰館線の逆さ幼女』が生まれただろう。

 元どおり座席に据えてもチヨコは目を覚まさず、座ったまんまの形で、また浮き上がろうとした。

 試しに俺の頭陀袋ずだぶくろを膝に乗せてみると、確かに浮きは治まったが、荷物がでかすぎて、いかにも児童虐待っぽく見える。

 俺は頭陀袋から例の『未明童話集』を取り出し、それだけチヨコの膝に乗せてみた。

 チヨコはむにゃむにゃ言いながら本を抱えこんで、つつがなく座席に定着した。

 直後、列車が次の駅に停まり、半袖ジャージ姿の中学生が数人、わいわいと騒ぎながら奥の座席に腰を下ろした。まさに危機一髪だったのである。


 峰館に着くまで、俺はチヨコが本を落っことさないように、さりげなく注意し続けた。

 昨夜、俺は寝ついた後も何度か目を覚まし、チヨコの寝姿を見ている。同じ寝床で俺がやたら幅をとっていたせいもあろうが、チヨコ自身の寝相も悪く、すっかり蒲団からはみだして畳で寝ていたこともあった。あくまで畳の上、天井ではない。それを蒲団に戻してやったときも、俺の腕はちゃんと重さを感じていた。

 とすればチヨコは、昨日今日の騒動の内に種々のしがらみから解き放たれて、本当に成仏しかけているのではないか。そして先程、そのことに祝福ではなく虚しさを覚えてしまった俺は、不埒ふらちな考えこそ抱いていないにしろ、かつてニュースで見かけた児童連れ回し犯と同じ次元の存在なのではないか。生活に疲れた孤独な中年男が、文字どおりただ連れ回すだけにしても、人間として駄目であることに変わりはない。

 もっともチヨコの場合、すでに故人なので連れ回されても将来に禍根は残るまいが、あの●グネス・チ●ンあたりになると、実在児童のみならず非実在二次元児童まで断固護るべしと叫び回るくらいだから、もしあの手の狂信者にバレたら、俺は確実に吊されてしまう。

 ――あれ? かまわんのじゃないか? 別に吊されても。

 だいたい俺なんか吊されたって、俺自身を含めて誰も困りゃせんのだからな。いっそ早めにお陀仏になったほうが、かえってチヨコの面倒を見やすくなったり――。

 俺は生活能力に比例して、何事も深く悩めないたちなのである。


 やがて終点、峰館駅のアナウンスが聞こえてきた。

「おい、着いたぞ」

 起こしてやるついでに、重しの本をちょっとどけてみると、

「……うー」

 チヨコはもう浮き上がらず、きっちり座席に座ったまんま、こしこしと目をこすった。

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