野薔薇姫 街の章 六
新庄に聞いた話だと、この山は、昨日俺が降りた無人駅から東の
問題は、この分家跡から本家に繋がるルートが、道が荒れているばかりでなく、途中の渓谷の橋が落ちてまったく通れないことだ。
結句、俺たちが無事に峰館に帰り着くには、南の無人駅を目ざして、駅近くの県道に出るまで、ひたすら村道の藪をこぐしかないのである。
間の悪いことに村道は、ほとんどブナの林間を通っていた。
山のブナ林という奴は、天然の生態系を保つためにも、桁外れな水害などを防ぐためにも、極力伐採するべきではない。しかしその中の林床は、地球に優しいぶんだけ人にキツい。笹の
いきおい何十年前の砂利道も、左右から
俺もまんざら馬鹿ではないから、なんでもアリの日替わり仕事に備えて、真夏でも長袖のサマースウェットを
俺は四半里も下らない内に、全身びしょ濡れのぽたぽたになった。
それに比べて、俺が藪をはらった跡をついてくるチヨコは、
「♪ 汽車 汽車 ぽっぽ ぽっぽ しゅっぽしゅっぽ しゅっぽっぽ~~」
チヨコが楽をしているのは俺としても望むところだが、あのヤマキマダラヒカゲまで、ちゃっかりチヨコの頭にとまってズルをしている。まあ元々くたびれた奴だったから、あえて「お前は自分で飛べ!」とも言わないけれど。
俺はヤケクソ級の藪に対抗するため、ヤケクソで歌うしかなかった。
「♪ なんだ坂こんな坂 なんだ坂こんな坂!」
膝もとっくに大笑いである。
それでも上りに比べれば、なんぼか万有引力が荷担してくれるので、膝が笑い死にしないかぎり胴体は勝手に先に下る。
半里ほど進んだ藪の脇に、大小の廃屋が数軒わだかまる集落跡を見つけ、俺たちは、いや俺は、かろうじて原型を保っている二階家の、雨戸も障子戸も失われた縁側にぺたりと腰を下ろした。あたりを見回す余力もなく、ただただぺットボトルが仏様である。
チヨコは俺の隣で大人しくしていたが、そのうち家の中に興味を抱いたようで、
「ちょっと、たんけん」
「おう。――あ、草履は脱ぐな。かえって足が汚れるぞ」
「……ぜったいに、のぞかないでくださいね」
「はいはい」
チヨコは頭に蝶をくっつけたまま、とことこと奥に入っていった。ここに住む気はないまでも、自力で修復可能かどうかチェックしたいのだろう。
俺が縁側でぐったりと垂れたまま、薄汚いタオルをじゃあじゃあ絞っていると、チヨコはなにやら腑に落ちない顔で戻ってきた。
「……へんな家」
「なにか変なのがいたか」
「いないけど、へん」
改めて見れば、縁側の外に倒れている雨戸はトタン張りである。
俺はようやく立ち上がる気になって、
峰館にある俺の
「……そろそろ行くか」
「うん」
チヨコは案外あっさりうなずいた。
集落跡から先の村道は、昔の車輛の往来で地固めがしっかりしており、藪のヤケクソ加減が違ったおかげで、俺たちはなんとか日が暮れる前に、麓の県道にたどりついた。
おぼつかない残照に浮かぶ片道一車線の県道は、ただアスファルト舗装されているだけでも、ずいぶん文明開花なアウトバーンに見えた。
それに沿って細々と伸びている単線の鉄路も、きっちり峰館まで続いているという点では、立派に奥羽新幹線の弟分である。
「ほわあ……」
チヨコが感嘆した。
「もう、みねだて?」
「いや、まだ山の麓だぞ」
「だって、えーと、でんしんばしら」
チヨコはすっかり魅せられたように、うら寂しい県道の、まばらな街路灯を目で追っていた。
「きらきら、きれい。明るいねえ……」
これで峰館の夜のビル街を目の当たりにしたら、
そのとき西の山陰から、地鳴りのような轟音が急速に近づいてきた。
どこぞの2トントラックが、この辺りは対向車も警官もネズミ捕り機も心配無用とばかり、見えてきたと思ったときにはもう行き過ぎ、あっという間に街路灯の彼方に消え去った。
「うあ……」
いかん。チヨコの黒目がなくなっている。風呂敷をしょった首も、
「おい、大丈夫か!」
泡を食ってチヨコの頭を支えると、
「……でっかい、じどうしゃ」
幸い恐怖の目差しではなく、感極まっただけのようだ。
ヘリとは違いトラックなら、型や大きさの違いはあれ、昔も目にしていたのだろう。
俺はとりあえずチヨコの布ガムを替えてやり、ついでになにかカモフラージュの手を考えた。
これから先は、どうしたって他人様の目が生じる。時節柄、
「おっきい町に行くんだから、ちょっとオシャレしたほうがいいな」
「おしゃれ?」
俺はチヨコの風呂敷包みに着目し、
「この風呂敷、ちょっとちょん切っていいか? その本は、俺の袋に入れとこう。心配するな。新しい風呂敷、あとでちゃんと買ってやるから」
時代や育ちに関わらず、オシャレに気を惹かれない幼女はいない。
きょとんとされつつもOKが出たので、俺は
薄汚れた中年チョンガーがなにを
「――よし。完璧」
こっそり首輪付きコレット巻き、と名づけよう。浴衣と同じ柄だから、立派なトータル・ファッションである。
あのヤマキマダラヒカゲも、チヨコの頭よりこっちのほうが蝶として
「……えりまき?」
「いんや、これはスカーフというな」
「す、すかーふ」
「外国の襟巻きだ。フランスは花のパリーのお嬢様なんかも、余った綺麗な
「おじょーさま……」
チヨコはご満悦で、首の花柄スカーフをいじくっていた。
子供用のファッション誌さえ出回っている今どきの女児は知らず、『幼年倶楽部』くらいしかない時代、「花のパリー」や「お嬢様」を拒める幼女はいないのである。
するうち、すっかり暮れた西の山陰から、さっきのトラックよりもずいぶん遠慮がちな地響きが、ごとんごとんと近づいてきた。
「汽車が来る。駅まで走るぞ」
「えき? どこどこ?」
「あそこのちっこい青い屋根だ」
「えき? ……ものおき?」
確かに駅というより掘っ立て小屋である。
通勤通学の時間帯でも一時間に二~三本、それ以外は一時間に一本しか列車が来ないから、この路線の駅は一日二十四時間の内の二十三時間半、実質ただの小屋なのである。
ただし同じような小屋でも松・竹・梅と三階級あり、窓口に駅員がいるのが特賞の『松』、無人でも外に乗車券委託販売所があれば大当たりの『竹』、屋根と柱と三方の壁以外は何もないので乗車時の整理券を頼りに下車駅で運転手に清算してもらうのが、スカの『梅』となっている。
しかし、そんな超ローカル線だからこそ、場所によっては人間の脚で列車に勝てる。
「わーい、きょうそう、きょうそう!」
チヨコは、あっという間に俺を引き離し、とととととと薄暗い県道を駆けていった。
その人間離れした走りっぷりに必死で追随しながら、俺は思った。
昔から噂される『六甲山のターボ婆さん』なんぞも、きっと生前は人に言えないような苦労をして、死んだ今も何かと含むところがあるからこそ、夜ごと孤独な暴走に
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