野薔薇姫 街の章 五


 なるほど、そうだったのか――俺は思わず笑ってしまった。

 チヨコが一部始終を窺っていたのなら、ばたばた虫を相撲すもうで追い返すはずの俺が、それに乗ってきた連中と親しげに話しはじめたら、実はそっちの仲間と勘違いするのも無理はない。

「大丈夫。ばたばた虫にも色々あるんだ。犬だって怖い野良犬も、おとなしい飼い犬もいるだろう。野良のばたばた虫は、言葉が解らないから相撲でやっつけるしかない。でも、あれにはちゃんと人が乗っていただろう。あれは、ばたばた虫の飼い主たちだ。悪者じゃなくて、ふつうの人だ。だから話せばちゃんとわかる」

 俺は生活能力に反比例して至誠の――しつこいので以下は省略する。

 チヨコは、ようやく納得して、俺の隣に座りこんだ。

「ばたばた虫、もうこない?」

「うーん。まだそこまでは話してないんだが――お前がそんなに怖いなら、あの飼い主に相談してみるぞ」

 チヨコは、浮かない顔で家の跡を見渡した。

「でも……おうち、もうない」

 するとあの家は、チヨコ自身とは違い、ただ見えなくなっただけではないらしい。

「そうか、壊れちゃったもんなあ」

「……うん」

 思えばあの野薔薇の園も、自発的に姿を隠したというより、他動的に粉砕されていた気がする。

「また家を建てればいいんじゃないか?」

「……もう、いい」

 チヨコは、ゆるゆるとかぶりを振った。

「ここ、もう、こわい」

「……そうか」

 なまじ心ひとつのものだけに、しょせん夢は現実に勝てないのか。

 しかし、俺まで滅入めいっていてはらちがあかない。

「ま、あとのことは、ゆっくり考えればいいさ。それより――じゃーん!」

 ぶ厚いカツサンドが、まだ三切れも残っている。

「サンドイッチって知らないか?」

 ふるふるふる。

 チヨコが紙箱の異物に注ぐ視線は、餡パンのときよりも遙かに疑わしげだった。

「じゃあ、トンカツは?」

「しってる。けど……」

「食ったこと、ないか」

 こくこく。

「これはな、トンカツをパンに挟んで、四つに切ったもんだ。カツサンドという。俺が食ってるの、見てただろう」

 ふるふる。

「顔は見てなかったか」

 こくり。

「それは残念だ。これを食ったら、あんまり旨くてほっぺたが落ちた」

「おじさん、ほっぺた、あるも」

「拾ってくっつけた」

 本気にしたわけでもあるまいが、旨い物であることは納得したようだ。

 俺が一切れ差し出すと、チヨコは恐る恐るつまみ取り、例によってくんくんと嗅いだ後――ぱくり。

 そして二三度もぐもぐするかしないかの内に、

「ん~~~~~」

 チヨコはほとんど恍惚のうめき声を漏らし、食いかけのカツサンドを片手に持ったまま、両の頬っぺたを押さえた。それが恍惚を体現する仕草なのか、ほっぺたが首のように落ちると困ると思ったのか、俺の知るところではない。

「全部食っていいぞ」

 激しくこくこくとうなずいて、がふがふと食い続けるチヨコに、俺は適宜てきぎ、ペットボトルの水を補填してやった。


 で、親が死んでも食休みである。

 あの非常用食料もあらかた食いつくし、俺とチヨコは並んで入道雲を見上げながら、炎天の午後の、時の流れに身を任せていた。

 しょっちゅう仕事先で「こんなに大量の汗を流せる人間は生まれて初めて見た」と感心される俺も、ただウスラボケっと座っているだけなら、さほどシケらない。もとよりチヨコは、いつもカラリとしている。

 俺はチヨコに訊ねてみた。

「……俺といっしょに来るか?」

 激怒したア●ネス・●ャンに、青龍刀で「アチョー!」とぶった切られるようなことを考えたわけでは断じてない。

 ここで「じゃあまたな」と別れても、チヨコの命に別状はないわけだが、こんな山奥に一人で放置するのは、いかにも不憫だ。そして行動を起こすなら陽のある内がいい。

 チヨコは黙って、長いこと考えこんでいた。生まれてからずっと、この山を離れたことがないのかもしれない。そうでなくとも、悩む気持ちはよく解る。

 少しは世間の広い俺だって、生家を売り飛ばし集落を捨てるときには、ずいぶん躊躇ちゅうちょした。つらい思い出も多々あったわけだが、そんなものは過去の追憶になってしまえば、いずれ楽しい思い出の底に沈んでゆく。やがて上澄みだけが残ったとき、生まれ故郷は人肌の羊水に他ならない。

「――ま、おじさんの家だと、ちょっと遠すぎるかもな」

 山を下る途中に、無人の集落跡があると聞いていたので、

「あんがい近所で、お前が住めそうな空き家が見つかるかもしれないぞ。そしたら俺も、休みの日に遊びに寄れるしな」

 チヨコは一瞬顔を輝かせたが、

「……こわいの、こない?」

 そうだった。今は廃道でも、いずれガテン系満載のトラックが行き来する恐れがある。仮に今回の送電幹線を釈迦力シャカリキでねじ曲げたところで、チヨコは下手をすれば、地球が終わるまでこの山に住んでいるのだ。

 俺が答えられずにいると、チヨコも膝を抱えて黙りこんだ。

 俺は半煮えの脳味噌を、騙し騙しフル稼働させた。

 俺がチヨコを心配してやれるのは、俺が生きている間だけだ。その間になんとかチヨコを成仏させる手段を見つけてやる。あるいは俺が死ぬときに、いっしょに連れて成仏してやる。俺だけ地獄に堕ちそうになったら、力いっぱい極楽方向に放り投げてやる。もし俺もこの世で迷うことになったら、地球が終わるまでいっしょに迷ってやる。――それくらいしかないだろう、この際。

「……峰館って知ってるか?」

「みねだて?」

 チヨコは、きょとんとして俺を見上げた。

「汽車に乗ってく、おっきいおっきい町?」

「おう。そこに、おじさんの家がある」

 一両か二両のディーゼルカーだって立派に汽車の仲間だし、三畳一間でも家は家だ。

 チヨコの顔が、ちょっと精気を帯びた。

「……でぱーと、ある?」

「あるぞ」

「えいがかん、ある?」

「あるある」

「ゆうえんち? てぃーるーむ? にこらいのかね? むかしこいしいぎんざのやなぎ? こいのまるびるあのまどあたり?」

 いきなりノリノリになるのはかまわないが、途中から『東京ラプソディー』と『東京行進曲』が混ざっている。だいたい意味が解って言ってるのか、こいつは。

「ニコライの鐘はない。銀座と丸ビルも峰館じゃないな。でも遊園地や喫茶店は、峰館にもちゃんとあるぞ」

「みねだて……」

 チヨコは陶然とつぶやいた。

「汽車……」

 どうやら、まだ汽車に乗ったことがないらしい。

「のろう、汽車ぽっぽ!」

 チヨコは俄然やる気を発揮し、「しゅっぽ、しゅっぽ」などと口ずさみながら、浴衣ゆかたとまったく同じ柄の風呂敷を奇術のように懐から引っぱりだすと、どこに置いてあったやら、あの『未明童話集』を包みこんで、自分の首にくくりつけた。

 およそ七十年この世にありながら、七歳児はやっぱり七歳児――俺はありがたく思うと同時に、かなり脱力していた。

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