野薔薇姫 街の章 四
昼下がりの太陽が、中天で
かんかんと加熱する井戸の石積みに耐えかねて、俺は廃屋に避難した。
さぞかし鼻が曲がるだろうと覚悟してその下に潜りこむと、数十年前の大小は、穴の底で土に
新庄にもらった手提げ袋には、高級ホテル直営レストラン謹製の、見るからに福々しいカツサンドが入っていた。実地検分が長引いたときのことを考えて、黄門様たちのために買いこんでおいたのだろう。
「おーい、チヨコー」
俺は、幅より厚みのあるカツサンドの一切れを、箱から
「
残念ながら、返事はない。
「早くこないと、おじさんが全部食べちゃうぞー」
しばらく待っても気配がないので、俺はとりあえずカツサンドを日陰にしまい、パイロットのくれた非常用食料っぽい小箱に手を付けた。自衛隊ではないから、
ためしに一口
「おーい、チヨコー」
俺は思わずまた呼んだ。
「この世には、まだまだうまいもんがあるぞー」
なんだか野生の狸を餌付けしているようだ。
狸もチヨコも寄ってこないが、俺の血糖値は確実に上がり、もうひと晩くらい野営できそうな
俺は間近な空に湧き上がる入道雲を眺めながら、案外に安らいでいた。
こんなに先々を望める心境は、いったい何年ぶりだろう。
ここでこうしていれば、きっとまたチヨコに会える。たとえ今日明日に会えなくとも、アブレた日には、またこの山に入ろう。運賃は、拾ったりもらったりした金がある。あまり長引くようだったら、
問題は、例の鉄塔建設予定をどうするかだが――新庄には申し訳ないが、いざとなったら金は送り返し、電力会社にチクる手もある。
しかし今どきの大企業が、こんな浮世離れした怪談話を本当に問題視するだろうか。破談を恐れる新庄の
そうして実際に鉄塔が建つことになっても、案外、問題ない気がするのだ。今まで潅木や廃墟と共存していた超自然物件なら、鉄塔やプレハブ宿舎とだって共存できるのではないか。それが見えるか見えないかは、たぶんこっちの体格や、チヨコの気持ちしだいなのだ。
仮にチヨコがばたばた虫に圧倒されて、もうこの世を見限っていたとしても――それならそれで、結構なことではないか。行った先は極楽に決まっている。あの娘が行けない極楽など、この世に、いや、あの世にあるはずがない。俺が極楽に行けるかどうかは正直怪しいが、いずれ地獄に堕ちたって、そこにチヨコがいなかったら、かえって万々歳だ。会えても会えなくても、どのみち万歳なのである。
あの大デブ仲間の叔父さんも、できれば極楽に行っていて、チヨコを歓迎してほしいものだ。いや、行っているはずだ。正規軍の侵攻や殺戮行為は、
そもそも娑婆で物を盗み家を焼き、人を殺しまくったカンダタのような奴でさえ、生前ちっこい
ならば生前、唯一チヨコに優しかった叔父さんなど、力いっぱい救われる資格があるではないか。同じ蜘蛛の糸を他の亡者たちが後からわらわらとよじ登ってきても、あの大らかそうな叔父さんなら、たぶん気にしないだろう。
――等々、しばしの便所長考、能天気すぎてちっとも理屈になっていない気がするが、俺は生活能力に反比例して、暗い理屈より明るい屁理屈が好きだ。
とはいえ今現在、屋根の上で
「おーい、チヨコー」
俺はしつこく呼んでみた。
「早く出てこないと、カツサンドが腐るぞー」
カツサンドと言っても、判らないだろうか。
「早く出てこないと、トンカツが腐るぞー」
これなら判るだろう。餡パン同様、トンカツを食ったことはなくとも、名前だけは聞いたことがあるはずだ。
そうしてしばらく待ってみたが、残念ながら、チヨコが出てくる気配はなかった。
すると、やはりこの世を見限って、成仏してしまったのだろうか。いやいや、気が小さい奴だから、いったん怯えると石の下かどこかに潜りこんで、そのまま夜まで丸くなっている可能性もある。って、チヨコはダンゴ虫か。
なんにせよ食える物を腐らせると、チヨコの代わりにもったいないお化けが出るので、俺は仕方なくカツサンドにかぶりついた。けして自分が食いたかったからではない。本当だ。
一口頬ばって、一驚、俺はつくづく呆れてしまった。キャベツもレタスも入っていない、茶色いソースと黄色いマスタードを塗ったトンカツだけのサンドイッチが、なんだか無慮数の超美味の複合体に思える。
これがモノホンのトンカツならば、ビンボな俺が月イチの楽しみとしている定食屋のトンカツ、あれはなんなのだ。同じ動物の肉か。
たちまち一切れ食い終え、あんまり旨すぎて腹が立ったので、俺はそこいらの宙空に向け、思わず怒声を発してしまった。
「おいチヨコ! いるならすぐ来てここに座れ!」
これはもう絶対に、石の下で震えているバヤイではない。あいつもこれを食うべきである。
と、いきなり耳元で声がした。
「……いじめる?」
「は?」
まさか、こうすなおに出現するとは怒鳴った当人も思っていなかったので、俺は少々たじろいだ。
「……いつからいた?」
「……ずうっと」
「……どこにいた?」
チヨコはおずおずと、廃墟のあっちこっちに指先を泳がせた。
どうやら俺や新庄たちには見えなかっただけで、実は好き勝手にうろついていたらしい。
「なんで隠れてた」
「……ばたばた虫、こわいも」
「とっくに飛んで行っちゃっただろう」
「でも……」
チヨコは、なぜかジト目で俺の顔色を窺い、
「……ばたばた虫の、スパイ?」
「は?」
俺がぽかんとしていると、チヨコは今にも逃げ出しそうに腰を引きながら、
「だって……わるものと、なかよし」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます