野薔薇姫 街の章 四


 昼下がりの太陽が、中天でたけり狂っている。風炎フェーンもいよいよ根性を入れてきたようだ。

 かんかんと加熱する井戸の石積みに耐えかねて、俺は廃屋に避難した。

 茅葺かやぶき屋根はすでにないが、ひとつだけ陽射ひざしを遮るものが残っている。外便所の屋根である。それとてなかば草に埋もれ、今にも倒れそうにかしいでいるわけだが、少なくとも日陰はある。

 さぞかし鼻が曲がるだろうと覚悟してその下に潜りこむと、数十年前の大小は、穴の底で土にかえっていた。

 新庄にもらった手提げ袋には、高級ホテル直営レストラン謹製の、見るからに福々しいカツサンドが入っていた。実地検分が長引いたときのことを考えて、黄門様たちのために買いこんでおいたのだろう。

「おーい、チヨコー」

 俺は、幅より厚みのあるカツサンドの一切れを、箱からつまんで宙にかかげ、あたりに見せびらかしてみた。

あんパンより、すごいのがあるぞー」

 残念ながら、返事はない。

「早くこないと、おじさんが全部食べちゃうぞー」

 しばらく待っても気配がないので、俺はとりあえずカツサンドを日陰にしまい、パイロットのくれた非常用食料っぽい小箱に手を付けた。自衛隊ではないから、携帯口糧レーション、いわゆるミリメシとは違うのだろうが、なんじゃらアルミ包装された無愛想な四角い小物が半ダースほど詰まっており、袋を破くと、一見ビスケットのような代物しろものが出てきた。カロリーメイトの親戚だろうか。

 ためしに一口かじって、俺はうなった。旨いのである。カロリーメイトの親戚扱いしたのが申し訳なくなるほどで、むしろここ何年も食っていない高級洋菓子の風味だ。しかも口当たりがいいから、水なしでガンガン食える。

「おーい、チヨコー」

 俺は思わずまた呼んだ。

「この世には、まだまだうまいもんがあるぞー」

 なんだか野生の狸を餌付けしているようだ。

 狸もチヨコも寄ってこないが、俺の血糖値は確実に上がり、もうひと晩くらい野営できそうな塩梅あんばいになってきた。納豆御飯や玉子かけ御飯を常食としている身には、大名だいみょう野宿といってよい。


 俺は間近な空に湧き上がる入道雲を眺めながら、案外に安らいでいた。

 こんなに先々を望める心境は、いったい何年ぶりだろう。

 ここでこうしていれば、きっとまたチヨコに会える。たとえ今日明日に会えなくとも、アブレた日には、またこの山に入ろう。運賃は、拾ったりもらったりした金がある。あまり長引くようだったら、適宜てきぎダイエットして日銭から捻出すればいい。

 問題は、例の鉄塔建設予定をどうするかだが――新庄には申し訳ないが、いざとなったら金は送り返し、電力会社にチクる手もある。

 しかし今どきの大企業が、こんな浮世離れした怪談話を本当に問題視するだろうか。破談を恐れる新庄の杞憂きゆうなのではないか。俺だってチヨコと知り合う前だったら、胡乱うろんな噂話を信じて法外に建設費を増やすより、安上がりな土地を選び、地鎮祭の神主に祝詞のりとの特盛りを追加注文するくらいで済ませる。

 そうして実際に鉄塔が建つことになっても、案外、問題ない気がするのだ。今まで潅木や廃墟と共存していた超自然物件なら、鉄塔やプレハブ宿舎とだって共存できるのではないか。それが見えるか見えないかは、たぶんこっちの体格や、チヨコの気持ちしだいなのだ。

 仮にチヨコがばたばた虫に圧倒されて、もうこの世を見限っていたとしても――それならそれで、結構なことではないか。行った先は極楽に決まっている。あの娘が行けない極楽など、この世に、いや、あの世にあるはずがない。俺が極楽に行けるかどうかは正直怪しいが、いずれ地獄に堕ちたって、そこにチヨコがいなかったら、かえって万々歳だ。会えても会えなくても、どのみち万歳なのである。

 あの大デブ仲間の叔父さんも、できれば極楽に行っていて、チヨコを歓迎してほしいものだ。いや、行っているはずだ。正規軍の侵攻や殺戮行為は、娑婆シャバの悪事とは別勘定になるのが世間の常識である。

 そもそも娑婆で物を盗み家を焼き、人を殺しまくったカンダタのような奴でさえ、生前ちっこい蜘蛛くもの一匹も助けておけば、地獄に堕ちたって極楽から一条の糸が垂れてきたりする。

 ならば生前、唯一チヨコに優しかった叔父さんなど、力いっぱい救われる資格があるではないか。同じ蜘蛛の糸を他の亡者たちが後からわらわらとよじ登ってきても、あの大らかそうな叔父さんなら、たぶん気にしないだろう。


 ――等々、しばしの便所長考、能天気すぎてちっとも理屈になっていない気がするが、俺は生活能力に反比例して、暗い理屈より明るい屁理屈が好きだ。杓子しゃくし定規じょうぎな理屈なんぞを尊重していたら、この夏の極悪非道な惨暑さえ、東大出の偉い気象学者の講釈に従って、ごもっともごもっともと得心しなければならない。

 とはいえ今現在、屋根の上でたけり狂っているお天道てんとう様を、まるっきりシカトするわけにもいかない。

「おーい、チヨコー」

 俺はしつこく呼んでみた。

「早く出てこないと、カツサンドが腐るぞー」

 カツサンドと言っても、判らないだろうか。

「早く出てこないと、トンカツが腐るぞー」

 これなら判るだろう。餡パン同様、トンカツを食ったことはなくとも、名前だけは聞いたことがあるはずだ。

 そうしてしばらく待ってみたが、残念ながら、チヨコが出てくる気配はなかった。

 すると、やはりこの世を見限って、成仏してしまったのだろうか。いやいや、気が小さい奴だから、いったん怯えると石の下かどこかに潜りこんで、そのまま夜まで丸くなっている可能性もある。って、チヨコはダンゴ虫か。

 なんにせよ食える物を腐らせると、チヨコの代わりにもったいないお化けが出るので、俺は仕方なくカツサンドにかぶりついた。けして自分が食いたかったからではない。本当だ。

 一口頬ばって、一驚、俺はつくづく呆れてしまった。キャベツもレタスも入っていない、茶色いソースと黄色いマスタードを塗ったトンカツだけのサンドイッチが、なんだか無慮数の超美味の複合体に思える。

 これがモノホンのトンカツならば、ビンボな俺が月イチの楽しみとしている定食屋のトンカツ、あれはなんなのだ。同じ動物の肉か。

 たちまち一切れ食い終え、あんまり旨すぎて腹が立ったので、俺はそこいらの宙空に向け、思わず怒声を発してしまった。

「おいチヨコ! いるならすぐ来てここに座れ!」

 これはもう絶対に、石の下で震えているバヤイではない。あいつもこれを食うべきである。

 と、いきなり耳元で声がした。

「……いじめる?」

 かしいだ屋根の横からチヨコが顔を覗かせ、ぷるぷる震えている。

「は?」

 まさか、こうすなおに出現するとは怒鳴った当人も思っていなかったので、俺は少々たじろいだ。

「……いつからいた?」

「……ずうっと」

「……どこにいた?」

 チヨコはおずおずと、廃墟のあっちこっちに指先を泳がせた。

 どうやら俺や新庄たちには見えなかっただけで、実は好き勝手にうろついていたらしい。

「なんで隠れてた」

「……ばたばた虫、こわいも」

「とっくに飛んで行っちゃっただろう」

「でも……」

 チヨコは、なぜかジト目で俺の顔色を窺い、

「……ばたばた虫の、スパイ?」

「は?」

 俺がぽかんとしていると、チヨコは今にも逃げ出しそうに腰を引きながら、

「だって……わるものと、なかよし」

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