結 物語の終わり
館を出ると、玄関前にすでに案内人が待っていた。
久しぶりに外の空気を味わい、アリアンナは深く息を吸い込んだ。そして振り返り、しばらく暮らしていた大きな館を改めて見上げる。
長いようで短かった時間。
ここを出ていくと決めたからには、今までのように貴族社会や家族と向き合わなければならない。
「では、行きましょう」
アリアンナは案内人を促して歩き出した。
ここへ辿り着いた時と同じように、不揃いな木々の隙間を縫うようにして進んでいく。そして王子から渡された銀貨を、間隔を空けながら一枚ずつ足元に落としていった。
土は乾燥気味で落ち葉もないため、銀貨の光沢が目についてわかりやすい。このまま土や葉に埋もれてしまわなければ、本当に道標の役割を果たしてくれそうだ。
それからしばらく歩き続け、足が疲れ痛みも出始めたところで頭上が明るくなっていることに気が付いた。いつのまにか木立の間が広がり、光が入りやすくなったのだろう。
森の外が近いことを悟ったアリアンナは、次第に緊張した面持ちに変わっていく。
長く家に帰らなかったことで、大きな問題になっているかもしれない。それが少し怖くはあったけれど、今はあの時のような後ろを向いて逃げしたい気持ちは消え失せていた。
やがて木は途絶え、先に広がる草原が目に入った。
とうとう無事に森を抜けることができたのだと、安堵と開放感に打ち震える。
「私の案内はここまででございます」
思わず感慨深く立ち止まっていると、案内人はそう告げた。
しかし景色を一望して、アリアンナは不思議な事に気付く。目の前の風景に見覚えがあったからだ。
しばらく眺めてやはりここだと確信する。町から逃げて、初めて森の中へ足を踏み入れた場所。
辻馬車から降りたあの道も、あの日と同じように少し下った先にある。
「どうして私がここから来たのだとわかったの?」
振り返ってそう尋ねると、そこにはもう案内人の姿はなかった。見知らぬ地に導かれることを覚悟していたのに、なぜ案内人はこの場所を知っていたのだろう?
しかしお礼を言う間もなく、彼はすぐに引き返してしまったらしい。
気を取り直してアリアンナは再び歩き始めた。
頬を撫でる風を受け、久しぶりに大空を見上げる。もう日が傾きかけているのか、空の端はやや赤みを帯びてきている。
……あれ、そこまで時間は経っていただろうか?
朝に館を出てから、まだそれほど過ぎているとは思えない。朝から夕方まで歩き続けていたら、さすがにこの程度の疲れではすまないだろう。
そう思って首を傾げていると、目の前の道に馬車が一台停まっていることに気が付いた。
「おーい、お嬢さん!」
馬車の前で、こちらに手を振って呼びかける男がいる。
よく見れば、あの日ここまで連れてきてくれた辻馬車の御者だった。
「お嬢さんを降ろして町に帰ろうしたんだが、随分と思いつめた顔をしていたから気になって戻ってきたんだ。いくら客の希望だとしても、若いお嬢さんをこんな場所に一人で置いていくなんて心配でさ」
「そんな……何日もお待ちになってくださったの?」
「何日も? いや、君をここで降ろしてからまだ一時間も経ってないよ」
「え?」
耳を疑う言葉に、しばらく声が出なかった。
時間の流れがおかしいことは今さっき気が付いたばかりだ。それに、御者がおかしな嘘をつく理由もない。
理解が追い付かないまま、とりあえず御者には礼を言って町に戻ってもらうことにした。もし彼の言葉が正しいのなら、まだ町にはバレン家の御者が待っているかもしれないからだ。
馬車に乗り込み、揺られながら考える。
これはどういうことなのだろう。まさか今までのあれは夢だとでもいうのだろうか? しかし憶えている感覚はあまりに現実的で、とても夢や幻だったとは思えない。
それに王子から渡された銀貨、それは今もしっかり手元にある。歩きながら殆どは森の中に落として来たから、布袋にはもういくらしか残っていない。それでも確かにこの手の中にあるのだ。
この不可思議な出来事に戸惑いながら、アリアンナは町に戻った後のことを考えていた。
*****
町に辿り着くと改めて御者にはお礼を言い、気持ち分を上乗せして運賃を支払った。
家から持参していたお金はほとんど残っているため、高価な物を買う余裕はいくらかある。ここに辿り着く前に馬車の中で考えていたことを形にするため、アリアンナは町一番の高級店へと向かった。
理由は妹に婚約祝いを贈るため。もしかしたら彼女には嫌味に取られるかもしれないけれど、そうしようと心に決めていた。
あの森の館で暮らすうちに、薄れていったエドワードとリーシャへの思い。最後は王子に向けて自分の膿を吐き出して、綺麗さっぱりと消滅した。
あの日の絶望が嘘のように、今は二人のことを思い浮かべても心は凪いている。
森に迷って王子と出会い、あの暮らしがあったからこそ、こうして自分が立っていられるのだと思っている。
だからあの日々があったことの証として、そして絶望していた自分への決別として、リーシャに祝いの品を渡したかった。
店内に入り、飾られる品々を丁寧に見ていく。
そこで似合いそうな流行りの形の髪飾りを見つけ、一つ購入した。贈答用の綺麗な箱に包んでもらい店を後にする。
さて、ここからどうしようかと考えていると、背後から「アリアンナ様!」と男の大声で呼び止められた。
見れば、よく知るバレン家の使用人だった。彼は大慌てで彼女の元へ走り寄る。
「ご無事で何よりです。御者とはぐれ、行方がわからなくなったと聞いて探しておりました。家では皆様が心配されております」
息を切らしながらそう話す彼に、アリアンナは改めて確認した。
「心配をかけて申し訳なかったわ。……どのくらい探していたの?」
「御者が血相を変え屋敷に戻りましてから、一時間以上は町中を探しておりました」
やはり辻馬車の御者の言ったとおりだった。あの森に入ってからほとんど時間が過ぎていない。ということはつまり、今はまだエドワードから婚約解消の話をされたばかりということになる。
「それは申し訳ないことをしたわ。実は妹にプレゼントを渡したくてお店を見てまわっていたの。では早く家に戻らなくてはね」
それからアリアンナはバレン家へ帰り、御者とはぐれてしまったことを両親に謝った。しかし二人は怒ることなく、今日まで婚約解消のことを黙っていたことを謝り返してくれた。
そして気まずそうな顔をして出迎えた妹リーシャには、先ほど買った髪飾りの入った箱を手渡した。
「エドワード様からお話を聞いたわ。私たちはバレン家の姉妹だもの、彼があなたと結婚しても問題はないものね。本人同士が望むならそれで良いと思っているの。ほら、これはあなたへのお祝い。これを買っていて遅くなってしまったの」
今はもう強がりでもなく、本心からそう言える。
リーシャは複雑そうな顔をして箱を受け取った。
「……ごめんなさい、お姉さま」
アリアンナは笑って、その謝罪を受け入れた。
それから少し日が経ち、社交シーズンの時期を迎えることになった。バレン男爵夫妻はアリアンナの婚約解消に責任を感じ、積極的に貴族たちと交流を広げている。
そのおかげか、ある夜会で知り合った男性と個人的に会うようになった。
彼は伯爵家の次男で、宮仕えのため王都から出ることは殆どないという。
シーズンが終われば再び領地へ帰ってしまうアリアンナに、彼は少しの時間を見つけては会う約束を取り付けた。
そんな努力を見せる彼をアリアンナは好ましく思うけれど、好意を寄せられても浮かれることはなかった。踏み込みすぎず一歩引いたところで彼と接し、慎重に距離を縮める。
彼のことは見合い相手だと意識せずに、一人の人間、一人の大人として交流を深めようと心掛けた。相手に夢を見て浮ついていては、その人の本質を見逃してしまいそうだったから。
「君は周囲にいる同年齢の女性とは少し違うようだ。これは良い意味で言っているのだが」
アリアンナは目を細めて笑う。そうなのかもしれない。この歳で色々と珍しい経験をして、以前とはどこか変わった自分がいる。
シーズンが終わるころに彼から結婚を申し込まれ、正式に婚約を結んでアリアンナは再び領地へと戻った。冬を越し、久しぶりの土地は新緑に生え変わっている。
彼との結婚に向けて準備を始め、再び忙しい日々が始まる。そのうちの一日を、以前から計画していた余暇で過ごすことにした。
その前日、アリアンナはバッグの中に必要な物をたくさん詰めた。
大量の破れた布切れと、銀貨の入った古びた布袋。それから王都で宝石店をいくつか回り、やっと見つけた大切なブローチ。
王都から帰ったら、王子との約束を果たすために森へ行くと決めていた。
彼と再び会うことができるのだろうか。そんな期待と不安が入り混じりながら、その日を迎える。
母親から使用人を一人連れていくことの許可をもらい、バッグを抱えて迷いの森へ向かった。
この日は馬車を使わずに、乗馬で行くと決めていた。
二人はやがて森の前に辿り着くき、アリアンナは使用人にここで待つよう告げる。
「私が森に入って、夕方になっても戻ってこなかったら家に知らせてほしいの」
彼をここに連れてきた理由は、万が一のことを考えてのことだった。
家族には迷いの森に行くことを言わずに出て来ている。対策をしてきているから大丈夫だと思うが、念のため伝達係としていてもらう。
そうしてアリアンナは馬に跨ったまま森の中に入っていった。バッグから布切れを取り出し、手の届く枝にヒラヒラと靡くように巻き付けていく。
地面には落として帰った銀貨がそのまま残っていた。キラリと光が反射して、先々までわかりやすく目に留まる。どうやら冬を越しても土や落ち葉に埋もれることはなったらしい。
銀貨の道標は、森の深くまで続く。巻き付ける布切れも少なくなる頃には、腕もだいぶ疲れ重くなっていた。
木立の間隔が狭まってくると、むき出しの根が張り出すように重なって馬も歩きずらそうなってきている。
薄暗い中を更に奥まで進んでいくと、その少し先に日差しの入る明るい場所があることに気付いた。銀貨もそちらに続いて落ちているため、もしかしたらと早る気持ちで近付いていく。
木立を抜け開けた場所に出ると、そこには小さな池があった。
空から差し込む光に水面がきらめき、小動物や小鳥がさえずりながら水辺に集まっている。
そして、銀貨の道標はここで終わっていた。
美しい庭園も、大きな館も見当らない。
アリアンナはただ目の前の景色を眺め、この事実を受け止めた。
あれは現実ではなかったのだと、帰った時からわかっていた。でもこうして本当の姿を目にすると、館の暮らしを思い出して寂しく思う。
この場をすぐには離れがたくて、池の周りを少し散策した。鬱屈とした森にある小さな憩いの場が、あのような幻を見せたのだろうか。
そう思いながら歩いていると、池のほとりの木の下に白っぽい色をした何かが落ちていることに気付いた。
近付いてみると、人のものと思われる頭蓋骨がそこにはあった。
木の根元に寄りかかるように倒れ、他は朽ちてしまったのかそれとも獣に持っていかれたのか、丸い形のそれだけが転がっている。
そしてその周りには古い金貨や銀貨が散散乱し、土にまみれて色を失っていた。
“昔々、ある国に悪い王子様がいました”
幼い頃、祖母から聞いた昔話。
幾つもの逸話を持つこの森には、過去の罪人たちが流されてきている。放り込まれれば二度と出られないという、迷いの森。
アリアンナはその場に膝をつき、白い骨の前に銀貨の残りを置いた。ここに来るまでは輝いていたのに、今は黒ずんで光を失っている。
「もしかして、あなただったのですか?」
婚約破棄をして流刑になった王子様。死出の旅路に金だけを渡され、飢えと渇きに苛まれ息絶えたという末路が語られていた。
「約束どおり、お礼に参りました。残った銀貨と、こちらをお渡ししたくて」
バッグから小さな箱を取り出し、それを開ける。
澄み切った青いトパーズのブローチ。それを骨の隣にそっと置いた。
「殿下の瞳と同じ色のものです。いくつかの店を探して、きっとお似合いになられると思って選んできました……」
アリアンナはそう呟くと、胸がつかえたように言葉を噤んだ。
王子を恨んでいた人ならば、この結末は当然の報いだと思うだろう。
でもきっと彼は、人の話を聞くこともなく理解もせず、過去を振り返ることをしない。
享楽的で反省もしないし、何が悪いのかわからないから後悔をすることもない。
ただ、少し寂しいと感じるだけ。
それでも彼女たちの溜飲は下がるだろうか。
傷付けられた人たちと、目の前で眠る彼に思いを馳せる。
「……どうか安らかに」
短い弔いの言葉をかけ、アリアンナは立ち上がった。
ただ一人くらい彼の死を偲んだとしても罰は当たらないだろう。
待たせていた馬の元へ戻り、振り返らずにその場を離れた。
もう二度とここを訪れることがないよう、巻きつけていた布を回収しながら、来た道を戻っていった。
それから一年が経ち、アリアンナは結婚式を迎えた。
皆から祝福を受け、新たな人生が始まる。
アリアンナよりも前に結婚していたエドワードとリーシャは、一見上手くやっているように見えて変な噂が立っている。なんでもエドワードにはお手付きの女がいるなどという下世話な話だ。
あれほどリーシャへの愛を語っていたのだから、きっと何かの間違いだろう。
アリアンナは新しい環境で忙しく、彼らを気に掛ける余裕もない。とりあえず、周囲に迷惑をかけることなく二人が上手くいってくれればいいのだけれど、とそれだけを思った。
〈おわり〉
森の王子様 紅茶ガイデン @kocha_gaiden
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます