転  宴の夜

 


 翌朝、余程疲れ切っていたのかアリアンナは随分と遅い時間に目が覚めた。

 すでに日が高く上がっていることに気付いて慌てて体を起こすと、すでに部屋で

何人もの使用人が控えていた。

 今朝も新しいドレスを用意されたので、自分の汚れたドレスはどうなっているのかと訊ねる。すると、まだ汚れが落ちていないから出せないのだという。


 このあたりで、なんとなく嫌な予感がしていた。刑に処され、この森の中で一人寂しく暮らしているという、どこかの国の王子様。

 柔和なようで、相容れない何かを感じる彼に不安がよぎったのだ。


 そしてその不安は的中する。



「やあ、おはよう。よく眠れたかい?」


 王子は眩しい笑顔を見せてアリアンナを迎えた。ここは彼のプライベートサロンで、身支度を整えたらすぐに訪室するよう伝えられていた。


「昨晩は困っていた私を助けてくださり、ありがとうございました」


 改めて礼を述べると、王子は満足そうに頷いて向かいのソファに座るよう促す。


「気にしないでいいと言っただろう。そんなことより、アリアンナとは楽しい話をしたいんだ。実は今夜に宴を催そうと思っていてね。君のために夜会を開こうと思っている。好物は何だい? 気に入るものを用意しよう。それから、――――」

「あ、あのっ」


 アリアンナは焦るように王子の言葉を遮った。


「このように館に招き入れてくだったことは大変感謝しております。ですが、あまり長居をしてご迷惑をおかけするわけには参りません。森を抜ける道を教えていただけたら私はすぐにでも、」

「うん、アリアンナにはロゼのドレスが似合いそうだ。早速準備をさせよう」


 彼女の言葉に耳を傾けることなく、王子は一人納得して側に居た初老の男性に話を付けている。

 やっぱり、と嫌な予感が当たったことを心の中で嘆いた。昨晩の食事時にも感じた噛み合わない会話。優しげな雰囲気を纏っているが、こちらの言葉を受け取る気がないように思える。



 それにしても、と話を聞きながら頭を巡らせた。

 この王子様はどこから来たのだろうか。

 迷いの森に隣接している国々は、昔からここを罪人の流刑地として利用している。それらの話は人々の間で伝承し、いくつもの逸話が生まれた。


 特にバレン男爵の領地はこの森から近いこともあり、アリアンナは幼い頃から祖母に昔話として聴かされている。

 しかし、彼の華やかな暮らしぶりを見ると、どうも知っている話とは違うようだ。


『森に追放された罪人は飢えと渇きに苛まれ、彷徨い続けたあげくに獣に襲われ食い殺された』


 それが物語の定番の結末で、だから森に近付いてはいけないよ、と最後に締めくくられて話は終わる。


 そんないわく付きのある広大な森だが、アリアンナは足を踏みれてから半日も歩いていない。そう遠くまで来ていないだろうと考えると、おそらく隣国の王子様である可能性が高いと考えた。 

 アリアンナの国では流刑は極刑の一つとされているが、隣国ではそこまで重くはなく隔離幽閉という扱いなのかもしれない。


「きっとまだ疲れているだろう、今日は夜までゆっくり過ごすといい」


 上機嫌に話す王子を前にして、アリアンナはどうしようかと頭を悩ませながら部屋で過ごすことになった。




 美しい旋律に、華々しく踊る紳士淑女たち。昼は使用人として働いていた彼らが、夜は王子を楽しませるために舞い踊る。


「君も嫌なことは忘れて、この時間を楽しもう」


 王子は手を差し出して、アリアンナをダンスに誘った。





 それからどれだけの日々が過ぎたのだろうか。

 王子は毎日のように夜会を開き、アリアンナを隣に置いて楽しんだ。綺麗なドレスを与えられ、贅沢な食材をふんだんに使った食事を振る舞われる。


 華やかで、時間を忘れてしまうほど甘やかされた優雅な暮らし。

 初めこそ王子に対して不信感を抱いていたものの、その違和感は次第に小さくなっていった。


 彼はとても軽妙洒脱な人で、引き出される話題はどれも興味深くて面白く、聞いているだけで心が弾んだ。昼には一緒にテーブルゲームを楽しんだり、時には音楽を鑑賞したり。

 そんな暮らしを与えられているうちに、いつしかここを去ろうなんていう気持ちも薄れていった。


 きっとバレン家としても、婚約者から捨てられた娘など不要だろう。妹は子爵夫人になり、家を継ぐのは歳の離れた今はまだ小さな弟だ。


(私が家に帰らなくても誰も困らないんだわ。だったらここで暮らすのもいいじゃない)


 そんな言い訳を紡ぎ出しては、甘い誘惑に身を任せた。

 ふわふわとした夢のような暮らしは、いつしかエドワードやバレン家の記憶を霞ませ、思い出すこともなくなっていった。




 そんなある日の夜。いつものように二人が夜会を楽しんでいると、王子が軽い調子で声を掛けてきた。


「ここの暮らしも悪くないだろう? 僕としては君がずっと側に居てくれたら嬉しいと思っているんだ。だから、僕の妻になってくれないかな」


 ワインを口にしながら世間話のように語るので、うっかりそのまま「そうですね」と言いかけて慌てた。


「えっ、あの。私にはもったいないほど良くしていただいてありがたく思っております。……ですが最後があまり聞き取れなくて。何と仰いましたか?」


 『妻』と聞こえた気がしたけれど。まさかと思いつつそう尋ねると、周囲のダンスを眺めていた王子がアリアンナの方に顔を向ける。


「聞こえなかったかい? 僕の妻になってほしいと……結婚してほしいと言っているのだけれど」


 王子からの思いがけないプロポーズに、アリアンナはしばらく言葉を失くす。あまりに軽い口調で話すものだから、つい聴き間違いかと思ったのだ。


「殿下、それはあまりに突然といいますか、まずは父に話を……」

「父親に知らせる? 君は家を捨てて来たのではなかったのか」


 その言葉を聞いて、急に夢から覚めるように現実に引き戻された。


(家を捨てた……そう、私は家に帰りたくなくて、ここに来た)


 嫌なことを思い出してぎゅっと目を瞑る。突然だった婚約解消の話。町から逃げ出して森に迷い、この館に辿り着いて……そして王子がここに住む理由を思い出した。


(殿下は婚約者を捨てたことで、流刑になってここに居るのだわ)


 知っていたはずなのに、どうして忘れてしまったのだろう。満ち足りた生活を送るうちに、嫌な記憶を封じ込めてしまったのだろうか。

 蜜に溶かされたような甘い暮らしは、まるで媚薬のようにアリアンナの思考力を奪うようだった。



「いいえ、私は家を捨てたつもりはありません。あの時の私は自暴自棄になっていたのです。私がこちらを訪れた理由は、一晩の屋根をお借りしたかったことと、森を抜ける道を教えてもらうことでした。……どうして今まで忘れていたのかしら」


 まるで開いた花が萎むかのように気持ちが引いていき、最後には自問するようにつぶやいた。


「私は随分と殿下に甘えておりました。親切にしていただくうちに、ここでお世話になることが当たり前のようになっていたのです。しかし、いつまでもこのままではいられません。私はやはり家に帰らなければ」


「甘えてもいいと、このままここに居てほしいと僕が言っているんだ。何も問題はないよ」

「………」


 彼の言葉に、つい気持ちが傾いてしまいそうになる。

 しかし黙って家からいなくなってしまったこと。自分がいなくなった後、バレン家がどうなっているのか気になっていること。そして彼が王子であることを考えると、どうしても頷くことはできない。


 もし彼が国に戻ることになったら? 彼の国はアリアンナを妻だとは認めないだろう。そんな先の見えないここでの暮らしに、いつまでも身を浸しているわけにはいかなかった。


「私たちは国も違えば、身分も大きく違います。いくら殿下がそうおっしゃられても私が妻だと認められるわけがありません。ですから私はいつまでもここにいるわけにはいかないのです」


 黙って話を聞いていた王子は、困ったような表情を浮かべ宥めるように話す。


「参ったな。でも僕は帰したくないんだ、君のことを愛してしまったから」


 王子の青い瞳が真っ直ぐに見つめる。

 美しく吸い込まれそうな視線から、アリアンナは意識的に目を逸らした。

 王子の過去を知らなかったら、もしかしたらこの状況にときめいていたかもしれない。しかし今は微塵も心に響かなかった。


「私は婚約者から、私の妹を好きになったと言われ捨てられました。そして殿下も同じだとおっしゃいましたね。別の女性を愛して婚約破棄をしたのだと。はっきり申しますと、私たちは同じではありません。正反対の立場だとお判りにはなりませんか?……私は同じ立場の者として、殿下の婚約者だった方を心からお気の毒に思います。そんな私が、あなたを愛せると思いますか?」


 ウィンリー子爵邸でのことを思い出して胸が苦しくなる。契約を破棄してまで別の女性を選ばれることが、どれだけプライドを傷つけ悲しませるものなのか。それを知ってほしくて皮肉混じりに話した。


 しかし、王子はアリアンナが予想していたものとは違う答えを返す。


「僕が恋人を作って婚約破棄をしたことが、どうして君が僕を愛せない理由になるのかな」 


 言い訳でも語るかと思ったら、王子は本気で思い至らないらしく、気まずい様子もなく聞き返された。


「それは……殿下はその婚約者に対して悪いことをしましたから。不誠実な人を好きになる人など物好きしかいません」

「不誠実とはひどいことを言うな。僕はハッキリと言ったよ。『僕には好きな人ができた。だから君との婚約を破棄する』とね。これが誠実でなくて何なんだい? 別の女性を愛したまま結婚をするべきだったと?」


 王子の堂々した口ぶりに、思わず自分が間違っているのかと錯覚してしまいそうになる。


「いえ、そう言いたいわけでは……。そもそも婚約をなされているのに、なぜ他の女性を好きになるのですか。私が殿下を愛せない理由は、ただ信用ができないからです。現に今、婚約者を捨ててまで選んだ女性がいるにもかかわらず、私を愛しているとおっしゃっているではありませんか」


 どうにか王子の主張に流されず、言いたいことを伝えた。


「何を思うのも殿下の自由です。しかし婚約者がいるのなら、まずは他の誰よりもお相手の方を見なければならないのでは? それを怠るということは、相手を蔑ろにしていることと変わりません。誠実というのなら、殿下は他の女性に目を向けるべきではありませんでした。……そしてエドワード様も、私を見てくださらなかった」


 話しているうちにエドワードのことを思い出して悲しくなった。彼も同じなのだ。私というものがありながら、リーシャに心惹かれてしまった。

 そう思い返したら、ほろほろと涙が頬を伝っていた。



「……君は、それほど婚約者のことを愛しているのか?」


 アリアンナの涙を見て、王子はぽつりとそう呟いた。

 そんなことを言いたいわけではない。的外れなことを言う彼にそう返そうとしたが、上手く言葉が続かない。


「エドワードを、愛している……?」


 そう問われて、思わず言葉に詰まった。

 彼と結婚をして、妻になったら彼の子を産んで家を支える。初めから答えが決まっていたから、今まで考えたことがなかった。

 もちろん嫌いではなかった。いずれ愛し合うのだと思っていた、だから。


「……愛するつもりだった、という気持ちが近いのかもしれません」


 自然にするりと答えを口にしていた。

 エドワードを信頼し、波風立てることなくつつがなく彼との時間を過ごし、後の女主人となるために必要な勉強をしっかりと学ぶ。それがエドワードの妻になる資格だと思って過ごしていた。

 だから「リーシャを愛している」と言われた時、言葉の意味はわかってもすぐに理解が追い付かなかった。



「ほら、涙を拭いて。でも良かった、君が別の男性を愛しているのだとしたら、どう説得するべきか分からなかったから。でもそれなら、なぜ涙を流す必要があるんだい?」


 王子はハンカチを渡して優しく語りかける。でもそれはアリアンナにとって触れられたくない質問だった。


 わかっていたけれど、目を背け認めたくなかったこと。

 それは自分は妹よりも劣る存在だと知ることだった。

 エドワードがバレン家を訪れた時、たまに顔を見せにきていたリーシャ。それだけでいともたやすく彼の心を手に入れてしまった。

 きっと本当は、婚約を解消されたことやエドワードを奪われたことが悲しかったわけではない。契約を変えられてしまうほど自分は拒否され、妹が求められたことに打ちのめされた。

 エドワードも、それを受け入れた妹と両親も、お前は魅力もない劣った奴だと見下しているのではないか。役立たずで邪魔者だと笑っているのではないかと考えると、怖くて家に帰れなかった。


 妹への嫉妬と、耐えがたい屈辱と孤独。自尊心を傷つけられて、誰にも顔を合わせたくなくて逃げ出した。


「私は、自分がつまらない女だと知ることが怖かったのです。価値が無いのだと皆に思われているようで怖くて」


「よくわからないけれど、誰かに愛されたら、価値のある女性になれると言いたいのかな?」


 首を傾げて王子がそう話す。そして、


「確かにその通りかもしれない。だって君はとても美しく、僕を楽しませてくれる。それなら君の価値をわかる僕の側にずっといればいいよ」


 王子の言葉に、思わず涙が引っ込んで笑いが零れた。

 この後に及んでアリアンナを必死に口説こうとするのは、きっと暇つぶしの相手を逃がしたくないからだろう。

 簡単に予想が付くけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


「申し訳ございませんが、私はやはり一度家に戻らなくてはなりません。おわかりになってくださいませんか?」

「……嫌だと言ったら?」

「それは困りますが、それならば仕方がないので迷子になる覚悟で出ていきます」

「………」


 王子は黙り込み、ふいと顔を背けた。この調子では協力を仰ぐことは難しいだろうと、アリアンナは覚悟を決める。


「殿下。これまで良くしていただいたことは本当に心から感謝しております。素敵で、夢のような時間はかけがえのないものでした」

「だから、僕の妻になればずっとこの暮らしを送れるというのに」

「いいえ、それは出来ません。私はもう二度とあのような思いをしたくないのです。

 ……殿下はとても素敵なお方だと存じております。しかし残念ながら私の全てを賭けることはできません。だって、信用が出来ませんから。もしここに新しい女性が現れたら、きっとそちらに興味が向くのでしょう?」

「そんなことはない」


 うそぶく彼に、アリアンナは小さく笑った。


「殿下との暮らしはとても楽しいものでした。……では私はそろそろ寝室に戻ります。おやすみなさい」


 そう言って部屋を後にした。求婚されたり、泣いてしまったりと大変な夜だったが、今はとてもすっきりとした気分だった。


 明日、ここを出発しよう。

 アリアンナはそう心に決め、その日の眠りについた。







 翌朝、初めてここを訪れた時の服を用意してもらい、アリアンナは王子の元へ訪れた。


「殿下。先日お話した通り、私は家に帰ることにいたします。やはり町まで出る道を教えていただくことはできませんか?」

「………」


 王子は従者に本を持ってこさせると、アリアンナを見ることなく表紙を開ける。

 拒否されることは想定していたので、気にせず言葉を続けた。


「殿下のご厚意によって今日まで過ごせたことを改めてお礼申し上げます。……昨夜は感情が高ぶり失礼なことを言ってしまいましたが、私は殿下に救われたのです。もしこうしてお会いすることができなかったら、私はこのように無事ではいられなかったでしょう」


 改めて謝意を述べると、ようやく王子は顔を上げた。


「やめてくれ。……君に行ってほしくないんだ。そうしたら僕はまた一人になってしまう」


 そう静かに話す王子に、少しだけ心が痛む。


「家の問題が落ち着いたら、再びお礼に伺うことをお約束します。それに、殿下は一人ではありません。ここでは多くの者があなたのために働いているではないですか」


 そう伝えても、王子は口を閉ざしたまま目を伏せる。


「もし道を教えていただければ、その道中に目印を付けていくつもりです。そうすれば、きっとここに戻ってこられるから」


 これでも教えてもらえなければ、昨晩に考えていた案で森を出ようと思っていた。それはこの館を出入りする商人や使用人を見つけ、後を付いていくというもの。

 あれだけ豪華な食事が用意されているということは、おそらく毎日のように市場からの仕入があるはず。その人を見つけて後を付けていけば、どこかしらの町に出られると考えた。


 ただし、その場合はきっとここには戻ってこられない。後を追うことが精一杯で、目印をつけていく余裕などないはずだから。 


 それでも口を開かない王子の姿を見て、アリアンナは諦めるしかなかった。


「……それでは、お元気で」


 短い挨拶をして、くるりと背を向けた。多少の情や名残惜しさもあるけれど、これで最後になる。




「……わかった。これを持っていくといい」


 背後の声に振り返ると、王子は観念したように溜息をついてアリアンナの側へ歩み寄った。

 そして一つの布袋を一つ手渡す。


「森を抜けるまで案内させるよ。この中には銀貨が入っている。それを道中落としながら帰ればきっと道標になるだろう。……だから、お願いだからまた会いに来てほしい」

「ええ、必ず」


 ずっしりと重たい袋を受け取ったアリアンナは、約束を交わして王子の部屋を後にした。



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