承  森の館

 


 行方不明との知らせを聞いたバレン家が、慌ててアリアンナの捜索を始めた頃。

 その本人は深い森の中を彷徨っていた。

 密接して立ち並ぶ木々の間を、ただ当てもなく歩き続ける。



 ウィンリー家を出た後、アリアンナはそのまま家に帰る気にならなかった。沈んだ気持ちのまま町に立ち寄るよう御者に命じ、馬車に乗って子爵領にあるそこそこ栄えた町へ向かう。

 鬱々とした気持ちで窓から町の風景を眺めていると、ふと馬車の待合所が目に留まった。そこでは数台の辻馬車が並んで客待ちをしていた。


 それを見たアリアンナは、閃きにも似た衝動が生じる。

 家に帰りたくない。妹にも両親にも会いたくない。それならばここから逃げてしまえばいいのだと。

 そんな強い思いに駆られて御者に合図を送ると、この場で降りることを伝えた。そして近くで買い物をすると嘘をつき、彼をその場に置き去りにした。


 周囲の目を盗むように急いで辻馬車に乗り込み、行き先を告げる。そして逃げるようにその場を後にした。





「本当にこんなところで降ろして良いんですかい?」


 町から離れ、人や馬車の往来がほとんど見られない寂れた道で停めてもらうと、気の良さそうな御者に心配そうな顔で尋ねられた。

 そう思うのも無理はない。周囲には家も何もなく、細い道と草原以外には大きな森しかないのだから。


 アリアンナは質問に答えずに微笑んで金銭を支払うと、御者は渋々といった様子で来た道を引き返していった。



 その姿を見送った後、アリアンナは森に向かって歩き出した。道から外れ、草原を踏みしめながら目の前の森へと向かう。

 足を踏み入れたら二度と出られなくなるという迷いの森。気がつけば、この場所を求めるように訪れていた。


(私は全てを失った。エドワードとリーシャ、そして両親も……私がバレン家にいる意味なんてもう無いのだわ)


 エドワードから言われた言葉が頭の中で何度も繰り返し、茫然としたまま森の奥へと向かう。今はただ、消えてしまいたいという思いだけが心を支配する。

 ウィンリー家だけでなく、話を快諾した両親にも見捨てられたようなものだ。


 絶望と悲しみに染まった心は、彼女を森の奥へといざなった。木々の間をただあてもなく歩き続ける。


(もし、私が死んだら皆は後悔してくれるかしら)


 悲観的な妄想に浸っているうちに、周囲が薄暗くなっていることに気が付いた。空は樹木に遮られ、陽もあまり届かなくなっているらしい。

 木の根や蔦に足が躓き、歩くこともままならなくなってきたところでようやく頭が冷えてくる。


(私はいったい何をやっているの)


 婚約者と実の妹に裏切られたとはいえ、あまりに自暴自棄になりすぎた。

 ここでやっと正気に戻り、慌てて今来た道を引き返そうとしたが遅かった。


 迷いの森と言われているとはいえ、それほど長く歩いたわけではないからきっと帰れるはず。不安から目を背けるように安易に考えていたアリアンナは、いつまでも視界が開けないことに次第に焦りが出始める。


 景色は一向に変わらず、何度も同じ場所をぐるぐると廻っているような感覚。わずかに入っていた日中の明るさも徐々に陰り、夜が近付いてきていることを悟った。 


(どうしよう、このままでは本当に森から出られなくなってしまう)


 いよいよ周囲が深い闇に覆われて、すぐ隣の木でさえ見えなくなったアリアンナは己の無謀な行動を後悔した。

 何もかも上手くいかない最悪な日。思わずそう嘆いていると、先の方にチラリと明かりが見えた気がした。よく目を凝らしてみると、それは遠くの方で灯された明かりのように見える。


(もしかして誰かいるのかしら)


 僅かな希望を抱き、見えない暗闇の中を手探りで進んでいった。そしてしばらくして目に飛び込んできたものは、あまりにも予想にしないもので思わず息を呑んだ。



 樹木が途切れ、ぽっかりと開けた場所がある。そこには、この場に似つかわしくない大きな建物が立っていた。


 美しい庭園に囲まれた豪奢な館。均等に並ぶ窓からは光が溢れ、まるで宮殿のような華やかな佇まいをしている。


「どうしてこんな所に……まさかここに人が住んでいるの?」


 驚きと呆気に取られて、そう口にしていた。

 手入れのされた庭をそっと歩いて館に近付くと、やはり人がいる様子が窺える。

 造りを見る限り、かなり身分の高い貴族の邸宅のようだ。外観を見て少し怖気つくものの、すぐに気を取り直して正面玄関へ向かう。

 ここで助けを求めなければ命を失いかねない事態にまで来てしまったのだ。だから意を決して、目の前の大きな扉を強く叩いた。




 しばらくして、ゆっくりと重々しく扉が開いた。一筋の光が徐々に全体を照らし、その影から初老の男が現れる。


「夜分に失礼いたします。突然の訪問をお許しください……」


 アリアンナは頭を低くし、謝罪をしてから自分の名前を告げた。そして身分を明かし、森で迷い帰り道がわかなくなってしまったこと、出来れば一晩だけでもここで夜を明けさせてほしいことを丁寧に伝える。

 もしここで警戒されて難色を示されたらおしまいだ。そんな緊張感を抱えながらアリアンナは話していた。



「左様でございますか。ではただいま主人に知らせに参りますので、こちらで少々お待ちください」


 意外にもすんなりと中へ通され、応接間らしき部屋まで案内された。初老の男性はここで待つよう伝えると、すぐに部屋を出て行った。


 一人残されさりげなく周囲を見渡すと、ウィンリー子爵邸とは比べ物にならないほどの広さと天井の高さ、それから並べられた装飾品や美術品の多さに圧倒される。


 やはりここに住むお方は相当身分の高い人だとアリアンナは確信した。きっと男爵の娘ごときが前触れもなく訪れていい人ではない。

 そう思って畏まっていると、ふと自分のドレスが汚れていることに気が付いた。きっと歩き回っているうちに土埃にまみれてしまったのだろう。靴も傷んで汚れ、かなりみっともない姿になっている。


 今更ながらそんな自分の姿に焦っていると、先程の初老の男が戻ってきた。


「当主がお呼びです。どうぞこちらへ」


 どうやらこの館の主人に会わせてくれるらしい。しかしこの薄汚れた格好では失礼にあたるのではないかと慌てた。


「あの、ご当主様は大変位の高い方だとお見受けいたします。それなのに私のこの姿では……」


 そう言いかけるが、初老の男は意に介さない様子でそのまま応接室を出ていってしまう。しかたなくその後をついて歩き、玄関広間まで戻るとそこから二階へ伸びる階段を上がった。



「お客様をお連れしました」


 男が階段のすぐ隣にある部屋をノックして入るとと、アリアンナを部屋の奥へと促した。




「やあ、こんな遠い所までよく来たね」


 ソファで寛いでいた若い男が、アリアンナを目にして立ち上がる。

 すらりと背が高く、上等な衣服を身に纏っている。プラチナブロンドの柔らかな髪がさらりと揺れ、滑らかで抜けるような肌をした美しい青年に思わず目を奪われた。


「王子殿下。先程もご説明した通り、このお嬢様は偶然ここへ辿り着いたようなのです。道に迷いお困りになられているようで」


(……王子殿下!?)


 アリアンナは深く礼をしながら、その敬称を聞いて愕然とした。身分の高い人だと思っていたが、まさか王子様とは思わなかった。


 しかし彼の姿を見る限り、アリアンナの国の王子ではないことはすぐにわかった。彼らは揃ってブラウンの髪の持ち主で、遠目でしか見たことのないアリアンナでもすぐに違うとわかる。


 しかしこの建物を見れば彼らが嘘を言っているとも思えないため、きっと他の国の王子様なのだろうと考えた。


 この『迷いの森』は一つの国に収まらないほど広大で、実に複数の国をまたいで存在している。

 どの国も所有できない大森林は、その特性からあらゆる国の罪人が捨てられてきた場所でもあった。

 つまり、入ろうとすればどの国からも立ち入ることができるが、理由もなく足を踏み入れる命知らずはそうはいない。


 

 でも、どうしてこんなところに高貴なお方が?と不思議に思っていると、王子が優しく声を掛けてきた。


おもてを上げて。君の名前は?」

「ザビアナ王国のバレン男爵の娘、アリアンナでございます。この度は ――」

「ああ、そんな堅苦しい挨拶はいらないよ。どうせこの館には僕しかいないから」


 しずしずと顔を上げてその姿を見れば、興味深げにこちらを見つめている。


「ちょうどこれから食事をするところなんだ、アリアンナも一緒に来るといい。ああ、でもその恰好では駄目だな。部屋を用意するから先に着替えておいで」


 汚れたドレスを目にして、王子はニコリと笑ってそう提案する。

 少しの食べ物と寝床だけを恵んでもらえるだけでもありがたいと思っていたが、まさか当主に食事に誘われるとは思わなかった。


「見ず知らずの私を助けてくださり、感謝いたします」


 形式的な挨拶を嫌がる王子に倣い、簡単な礼だけを述べて彼の言うことに従った。




 アリアンナには女性使用人が付けられ、新しい部屋に案内されるとすぐにドレスを用意された。

 何人もの女性たちに囲まれてされるがままなっていると、これまで身に付けたこともないような美しいドレスが身を包んでいく。細やかなレースをふんだんに使った、とても贅沢な作りのもの。


 着慣れないドレスに緊張したまま食事の部屋に向うと、長卓の上座で王子がすでに食事を始めていた。その斜め右の椅子を引かれたのでアリアンナはそこに座る。


「とても綺麗になったね。久しぶりに客人に会えてとても嬉しいよ。遠慮せずに好きなものをどうぞ」


 王子はそう言ってはにかむように笑った。どうやらこの突然の訪問を心から楽しんでいるようだ。


 饒舌に話す王子の言葉に耳を傾けながら、どこの国の王子なのか尋ねる機会を窺った。彼の機嫌を損ねてしまっては大変なので、話の腰を折らないよう注意を払う。


「それにしても……こんなところを女性一人で彷徨っているとはね。もしかして何かの罪を犯して流刑にでもされたのかな?」


 “流刑”と聞いて、アリアンナは首を横に振って強く否定した。さすがに罪人と思われるのは堪らない。

 仕方がないので、この森に入った経緯を語ることにした。


「いいえ、刑に処されたわけでは……。実は今日、とても辛く悲しい出来事がございまして、衝動的にこの森へ足を踏み入れてしまったのです」


 話しながら、ウィンリー子爵邸でみじめな扱いを受けたことを思い出した。彼は約束を破ってまでリーシャを選んだ。それがとてつもなく悔しく悲しい。


「このまま恥を晒したくない、消えてなくなりたい……そう思って」


 そこで涙が一粒零れた。ここまで泣かずにきたというのに、心の内を明かした途端涙がこみあげる。


「お食事中だというのに、大変失礼……」


 アリアンナの震える声に、王子は食事の手を止めた。


「そうか、君にとってよほど辛いことがあったんだね。僕のことなら気にしないでいい、よければ君の話を聞かせてくれないか」


 優しい言葉に促されるように、アリアンナは今日の出来事を語りだした。

 隣り合う領地を持つバレン男爵家と子爵家が、関係強化を目的とした政略結婚を決めたこと。十六歳の時にその子爵家の嫡男と婚約をしたこと。そして結婚を間近に控えた今になって、妹の方を好きになったと言われ婚約を解消されたことを話す。


「……彼の言葉を聞いて絶望しました。私は彼に約束を反故にされ、さらに両家からもいらないと判断されたのです。私には何も価値が無くなってしまいました」


 ウィンリー家に嫁ぐための準備や勉強も時間をかけてやってきた。それなのに全部が無駄だった。


 心の内に抱えていたものを思うままに話し、溜息をついたところでアリアンナは顔を青褪めさせた。いくら話を促されたとはいえ、食事中にしかも王子という身分の方に聴かせるような話ではない。

 つまらない自分語りをしてしまったと恐縮し反省する一方、気持ちを吐露したことでほんの少し心が軽くなった気がした。


「お聞き苦しい話だったかと思いますが、傾聴してくださりありがとうございました。お心遣いに感謝いたします」


 アリアンナが礼を述べると、王子は悲しそうに表情を曇らせた。


「そうか、それは随分と辛い思いをしたね。……実は僕も似たようなことがあって、大変な思いをしたんだ」


 まさか王子という身分でもこのような屈辱を受けるのかと、意外な気持ちになりながら同情する。


「そうなのですか……その心の痛みと悲しみ、私にも理解できます」

「ありがとう。実は僕にも婚約者がいたのだけれど、他の女性を愛してしまってね。そのおかげで父の怒りを買い、この森に追放されてしまった」



 え、と言いかけてアリアンナは固まった。同情しかけていた心が一瞬にして凍りつき、聴き間違いかと思って王子の顔を見つめた。


「おかげで王太子の座も奪われ、ここでこうして不便でつまらない生活を送っているわけさ。だから君が偶然でもこうして来てくれたことは本当に嬉しかった」


 アリアンナの表情がこわばっていることに気付いていないのか、王子は儚げな憂いた表情を見せる。

 その姿はあまりに美しく魅惑的であったが、そう平然と言いのけた彼にはそれ以上に引いていた。


 この人は、本気で言っているのだろうか?


 あの話の後で、自分も辛い思いをしたとよく言えたものだと驚いた。

 館に招き入れてくれた王子への好印象は崩れ落ち、何ともいえない不快感が湧き上がる。


 しかし今のアリアンナにはそれに返す言葉など見つからなかった。穏便に話を流し、別の話題に移すことに神経を使う。


 どうにか表情を取り繕いながら何ごともなく食事を終え、寝室まで戻るとようやく長く疲れ果てた一日を終えることになった。






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