第3話 後編

 

「おっと」

「!?」


 背丈は150cmくらいだろうか。グレージュのパンツスーツを着たとても小柄な女性が、頭を打ちそうな秋を中腰で受け止めて、そっと芝生の上に寝かせる。


「うひゃ~っ。重~っ」


 と言葉では言いつつも、そっと芝生の上に寝かせる姿は余裕綽々だ。

 風で乱れたブラウンのボブが、彼女の顔を覆い隠す。それを鬱陶しそうに振り払いながら立ち上がる彼女を、美菜は息を呑んで見つめた。


 ――いっ、今、何が起こったの!?


 あんなに元気だった秋が、一瞬で意識を失ってしまった。

 何なんだ、この人は。一体、秋に何をしたんだ。

 得体の知れない恐怖で、足が勝手に後退っていく。その様子を後ろから見ていた美海は、小さな溜め息を吐くと、女性に向かってズンズンと歩き出した。


「もー、遅いねん。春ちゃん」


 美海は真っ白な頬をプクッと膨らませて、怯える美菜の前で仁王立ちをする。


「あ~、ごめんごめん。すぐ来れるのあたししか居なくてさ~。体育館と校舎4つ?を一人で回ってたから、大変だったのよぉ」


 睨んでいるにも関わらず、ヘラヘラと笑いながら片手を上げる女性に、美海は「笑い事ちゃうわ!」と口を尖らせる。


「…小野原さんの、知り合い?」


 親し気な二人に戸惑いながら、美海だけに聞こえるように小声で尋ねる。すると、美海は顔だけを後ろに向けて、ステッキで女性を指した。


「うん。みぃの叔母ちゃん。暮雲春花くれぐもはるかっていうねん」

「あっ!この人が、さっき探してた…?」

「そう!こう見えて42歳なんやで」

「へぇ…」

「えっ、勝手に年齢言わないで?」


 二ヒッと悪戯っ子のように笑った美海を、女性――春花が冷静な声で制す。

 にやける美海の背中越しに、美菜は恐る恐る春花を見る。


 ――確かに、42歳には見えないかも…。


 それは春花が小柄だからという訳ではない。

 幼稚園児のような幼い輪郭と二重幅がはっきりした大きな瞳が、幼少期のまま変わっていないのでは?と思う程、愛らしくて。まさに、ベビーフェイスのお手本のような童顔。それに加えて、発光するようにつやつやしている肌。この輝きを、自分の母と同世代の人が放っているのが信じられない。

 失礼だとは思いつつも、惹かれるままジーッと観察してしまう。

 すると、控えめな黒い瞳と姪を交互に見て、春花が「あれ~?」と首を傾げた。


「美海が素で喋ってるなんて、珍しいね」


 そう言って、ニカッと嬉しそうに笑った春花は、「グー…スー…」と気持ち良さそうに寝息を立てる秋を避けて通り、美海に歩み寄る。


「…まぁ、上里さんは特別やから」


 ピクッと片眉を上げた美海は、気まずそうにもごもごと口を動かす。

 春花の笑顔の奥から感じる、静かな威圧。このピリついた空気を笑顔で隠している時は、本気で怒っている時だ。

 美海はサッと逃げるように目を逸らすと、自分の後ろに美菜を隠した。


 ――…春花さん、もしかして怒ってる?


 「特別」と言われて喜びかけたのも一瞬。華奢な背中越しに、美菜も不穏な空気を感じ取る。

 顔を少しだけ横に倒し、こっそり春花を見てみる。

 満面の笑みを浮かべているように見える春花。しかし、目の奥は笑っていない気がする。

 どうしたんだろう…と、ドギマギしながら二人のやり取りに耳を傾けていると、春花はゆったりと腕を組み、視線を彷徨わせる姪っ子を逃がすまいと見つめた。


「そうだね。許可なく誰かにネックレスを渡したら、罰則喰らっちゃうのに…それでも渡しちゃうくらい、特別なんだね~」

「……」

「!」


 笑顔の中に混ざった責める声音に、美海は叱られた子供のように、むぅ…と顔を顰める。

 微かに俯くツインテール。その背後で、美菜が驚いて目を見開いた。丸くなった目を、自分の手にあるステッキへ向ける。


 ――これ、勝手に使っちゃダメだったんだ…!


 しかも、使わせたら罰則があるなんて。

 押し付けられたとはいえ、そんな事も知らずに使ってしまった自分に罪悪感が芽生える。

 どうしよう。一体、美海はどうなってしまうのだろう。

 ハラハラしながら美菜が見守っていると、不機嫌な細い眉がキッとつり上がった。


「だって、みぃだけじゃ全然何ともならへんくらい強かったんやもん!それに!すぐに応援要請したのに、だーれも来ぉへんかったやん!上里さんに助けてもらわんかったら、今頃、校舎全部破壊されとったわ!」

「えぇ~?素人がそんなにすぐ技を使いこなせるかなぁ~?」

「ほんまやって!見て!?あそこの地面の傷!あれ、全部上里さんが付けたやつやで!」

「ふぅ~ん?」


 ダンダン!ともどかしそうに地団駄を踏みながら、美海がステッキで右を指す。

 クマが作った無数の丸い足跡の中にある、こんもりと盛りあがった土。5mの直線を描く長い山を必死にアピールする美海を見て、春花は「いやいやいや…」と目を細めた。

 初心者が必殺技を使った場合、ペットボトル一本を倒せれば良い方で、大抵はにょろにょろと蛇のように頼りない光がちょびっと出て終わりだ。

 だから、美菜があんなに長い傷を作ったなんて言われても、信じられる訳がない。

 それに、美海は確かに弱いけど、スイッチが入れば壁に穴を開けられるくらいの力はある。どうせ、罰則――反省文50枚と減給が嫌だから、適当に話を盛っているのだろう。


「はよ見てきてって!」

「あ~もう、分かった分かった」


 ステッキをブンブンと振る美海に呆れながら、春花はしょうがなく戦いの跡地へ向かう。


 ――校舎に傷一つついてないのに、なぁにが「今頃、全部破壊されてた」よ。


 「言うほど大した敵じゃなかったんでしょ…」と内心毒づいて、面倒くさそうに歩いて行く。しかし、ただの長い線だと思っていた跡が、二等辺三角形を描くようにできた大きな穴だと気付いた時。春花は細めていた目を瞠り、呆然と穴の中を見つめた。


「…すっ、ご…」


 三角形の中はショベルカーで掘ったように深く抉られている。小柄な春花がこの穴の中に入ったら、膝上まで隠れてしまいそうだ。


「えっ…どゆこと?」


 組んでいた腕をほどき、腰に手を当てて穴を観察する。


 ――本当に彼女がやったってこと…?えぇ…?信じられない…けど、美海がこんなに強い攻撃できるわけないし…。


 眉間に深い皺を作り、首を傾げる。すると、どこか誇らしげな顔をした美海が、美菜の腕を強引に引っ張りながら春花の元へやって来た。


「な?すごいやろ?」

「…うん」

「しかもな!めっっっちゃちっさい声で唱えてこれやで?ほんで、瞬殺や!」

「えぇ!?小声で瞬殺!?」


 声を裏返らせて驚く春花に、美菜はビクッと震える。「開いた口が塞がらない」を体現したように、春花は口をあんぐりと開けたまま固まっている。


 ――攻撃の強さと、声の大きさが関係あるのかな…?


 春花の一挙手一投足にビクビクしながら、美海の陰に隠れようとする美菜。しかし、戸惑っている内に、目力満点の大きな瞳が怯える美菜を捉えた。


「攻撃はね、怒りの堪り具合と気合いによって威力が変わるの」

「!ぅ、えっ」

「貴方…この戦いの直前に、何か嫌な事でもあった?」


 さっきまで、美菜の事なんて眼中になさそうだったのに。急に自分に向けられた力強い眼差しに、美菜は緊張で肩を強張らせる。


「い、嫌な事…ですか?」

「そう。誰かに意地悪されたとか」


 頷く春花に促され、美菜は必死に変身する前の事を思い出す。

 じーっと自分を見つめる瞳の圧に焦燥を駆られながら、美菜は忙しなく視線を動かす。そして、脳裏にパッと今野の顔が浮かぶと、慌てて背筋を伸ばした。


「はっ、はい…!ありました!嫌な事!」


 大袈裟にコクコクと頷いてみせる。すると、春花は納得したように目を細めた。


「は~ん。成る程ねぇ…。じゃぁ、まぐれかなぁ~」


 と、相槌を打ったものの。


 ――いや…まぐれだとしても、普通、こんな威力でないよな…。


 春花は再び腕を組み、「ん~~~」と唸り声を上げる。

 美菜を見透かすように、難しい顔でじろじろと凝視し始める春花。不躾なその視線が、いじめを受けていた時に周囲から浴びせられた視線と重なって、美菜の顔が半泣きになる。


 ――こっ、怖い…!


 まるで、値踏みされているようだ。あまりの居心地の悪さに耐え切れず、美海に助けを求めようとした時。春花が「よし!」と言って手を叩いた。


「え――――っとぉ…う、う、うえ…」

「上里さん」

「そうだった。上里さん!」

「!?は、はいっ!」


 大きな声で名を呼ばれ、美菜も思わず大声が出る。すると、ニコーッと不自然なくらい満面の笑みを浮かべた春花が、足早に目の前にやってくる。


 ――えっ、なに!?怖い怖い!


 美菜はステッキを体の前で握り締めて、身構える。そんな、肉食動物を前にしたウサギのように怯える美菜に、春花はニカッと歯を出すと、内ポケットから黒革の名刺入れを取り出した。


「私、こういう者なんだけど」


 胡散臭い笑みを張り付けたまま、名刺入れの上に重ねた名刺を、美菜に向かってスライドさせる。「早く受け取って」と訴えてくる笑顔に逆らえず、おずおずと手を伸ばした美菜は、小さな四角の中に書かれている文字を見た瞬間、「えっ」と呟いた。


「…市役所…総務、部…二課?」


 ――…この春花さんって人、市役所の人なの…!?


 何で市役所の人がここに?と疑問を抱く美菜に、春花は笑顔のまま喋り始める。


「さっきさ、何かデカいのと戦ったでしょ?あれね、国の見解では宇宙人って事になってるんだけど」

「えっ?うちゅ…えっ?」

「ああいうのがね、実は10年位前から全国各地に降ってきてて、毎日毎日人や街を壊そうとしてるの」

「まっ、まいにち!?」

「そっ。だから、特殊な訓練を受けた私達…市役所の人間が、市民の皆様を守るために倒してるんだよね」

「とっ、えっ、あっ」


 ぺらぺらと綴られる言葉たちについていけず、美菜は瞬きを繰り返す。


 ――あの巨大なクマって、宇宙人だったの!?しかも役所の人達が倒していて…、それが10年前からで…?う、えぇぇ?


 そんなSF映画みたいな話、あるのだろうか。

 理解できず、春花をただただ見つめる美菜。しかし、そんな反応に慣れているのか、春花は


「あ、分かる分かる。そんな事、急に言われても信じられないよね~」


 と、軽く流す。


「今まで見た事なかったのに、信じろって言われても無理な話だよね!」

「そ、そうです…ね…」

「でもねぇ、本当は皆見た事あるんだよ。記憶を消されてるだけで」

「えっ!?きっ、記憶…!?」

「そうだよー。ほら、これ」


 春花は胸ポケットから、ゴールドの蓋つきの懐中時計を取り出す。そして蓋を開ける為のボタンを指差すと、アハハと笑った。


「一見ただの懐中時計に見えるでしょ?でもこのボタンを押すと、脳を弄る特殊な光が出て、見た人の記憶を指定した時間分消せるんだ。しかも、消された瞬間、さっきの子みたいに意識が飛んで、3時間は深い眠りについちゃうの」

「!?」

「映画みたいでしょ?でもねー、これマジなの」


 ゲームのチュートリアルのように、一人で説明をして一人でリアクションをして勝手に話を進めていく春花。美菜はそのテンポについていけないまま、話に耳を傾ける。


「あんな巨大な悪者がいつ現れるか分かんない中生活するってなったらさ、もう恐怖で外歩けないでしょ?街中大パニックになっちゃうじゃない?だから、宇宙人や私達が戦ってるところを見ちゃった人の記憶は、これを使って消してるってわけ」


 「ここまでOK?」と言って、ボブを横に傾ける。


 ――「OK?」って言われても…。


 正直、説明の内容が異次元すぎて全然飲み込めない。

 だけど、春花が何を言いたいのかは分かる。


「…じゃあ…私は、今から記憶を消されるっていうことですね」


 秋が記憶を消されたように。

 自分も本来見てはいけない宇宙人を見てしまったし、戦ってしまった。だから、無かったことにしないといけない。

 そういうことですよね、とすんなりと受け止める美菜の横顔を、美海は複雑な表情で見つめる。


「……」


 記憶を消したら、一緒に戦ったあの時間すべてを、美菜が忘れてしまう――そう考えたら、心がモヤッとするような、グシャッと乱されるような、もどかしい気持ちになる。


 ――なんやろ…昔の事謝ったのが無かったことになるのが、嫌なんかな…。


 また謝るのが億劫で、こんなにモヤモヤしているのだろうか。だとしたら、自分って嫌な奴かも…と思いながら、美海は左のツインテールを人差し指に巻き付ける。

 どこかしょんぼりとしたオーラが漂っていることに気付いた春花は、姪っ子の反応に目を丸くする。


 ――他人に興味ない子なのに、珍し…。


 静かにしているから、てっきり面倒くさそうに話を聞いているのだと思っていたが。美菜から記憶を消すのが、何故か名残惜しいようだ。「ふ~ん…」と心の中で呟いて、春花はニヤッと笑う。そして、覚悟を決めて待つ美菜を嬉しそうに見つめると、左右に頭を振った。


「ううん。記憶は消さなーい」

「!」

「!」


 楽しそうに告げる春花に、二人は驚く。


「えっ…何で、ですか…?」


 やたらとニコニコしている春花を不思議に思いながら、美菜が尋ねる。すると、


「上里さん、戦う素質がありそうなんだもん。だから、一緒に働いてもらおうと思って!」


 と、春花が親指を立てて言う。


「えっ!?は、働く…んですか?」

「あ、もしかしてバイトで忙しい?」

「い、いやっ、たまに単発で働くくらいです…」

「じゃ、就職先は?もう決まってる?」

「そ、いえ…まだ、です…」


 実際は「まだ」どころか、インターンに受かっても、インターン先の会社の人と上手くコミュニケーションが取れないので、自分に就職は無理なのでは…と絶望している日々だ。


「じゃあ私宛にインターンの応募出しといて!まだギリギリ受付してるはずだから。まずはインターンに参加して職場の雰囲気を見てもらって…」

「えっ!?あっ、あのっ」

「あ~!そっかそっか。一人だと不安だよね?でも、大丈夫!美海は一年生の時からインターンに参加してるから、仕事に詳しいし、一人じゃないよ!」

「そっ、そう言う事じゃ…」

「ね!美海」


 「いや、もう怖いから戦いたくないんですけど…」と続く美菜の言葉を遮って、春花が美海に呼びかける。


 ――こっ、この人強引すぎる!


 何で全然話を聞いてくれないのだろう。このままだと、強制的に市役所で働くことになってしまう。それに、美海だって、こんなどんくさい自分が一緒に働くなんて嫌に違いない。

 春花の暴走を止めてもらうべく、美海に目で訴えようとする――が、自分に柔らかな表情が向けられている事に気づき、美菜は瞬きを止めた。


「うん。みぃもおるで」


 そう言って、フフッと笑う美海。

 その笑顔が、とてもワクワクしているように見えて、美菜の喉元に引っかかっていた言葉が、スッ…とどこかへ消えていく。


「ほら!ね?美海も一緒に働きたいって!だから、ぜっったい応募してね!うちに来た時に、宇宙人の事とか、魔法の事とか、詳しい事は話すから!」


 美海をジッと見つめている美菜の両肩にポン!と手を乗せると、春花は駆け足で地面の穴へ戻っていく。

 宇宙人を倒しても、「はい、良かったね。これでおしまい」という訳にはいかないのが、この仕事の大変なところだ。

 宇宙人の存在を国民に隠しているので、戦った痕跡は消さないといけない。修繕部署に現場の被害状況を報告する為に、傷ついたグラウンドをスマートフォンでパシャパシャと写真に収めていく。そんな、忙しそうな春花の後ろを、美海がトコトコとくっついて歩き回る。


「なぁなぁ。上里さん一緒に働くことになったし、みぃがネックレス渡したのチャラにしてくれるやろ?」

「え~?それはどうかなぁ。ダメなことしたのには変わりないからなぁ~」

「え~~っ!上里さん、めーっちゃ逸材やで!?みぃ、何ならお手柄やで!?だから、ねっ!?お願いっ!」


 スマートフォンの画面を見ていた春花は、パン!と両手を合わせて目を瞑る美海を横目で見る。

 上司としては聞き入れられない願いだが、可愛い姪っ子の頼みだと思うと、「しょうがないなぁ」と言ってしまいたくなる自分がいる。


「ん~、一旦保留!」

「え~~…」


 写真を送信し終えた春花は、もうこの話はおしまい!とばかりに、美海に背を向ける。電話をかけ始めた後ろ姿を見て、美海はガックリと項垂れる。体を翻し、トボトボと歩き出した美海だったが、美菜が立ち尽くしている事に気付くと、キョトンと目を丸くした。


「どうしたん?上里さん。…あっ、変身の解き方分からへんのか」

「あっ…うん」


 「ごめんごめん」と言いながら、美海はステッキをおでこにつける。


「こうしてな、心の中で『変身解除』って言うねん。そうすると、ほら」

「!」


 ステッキの水晶からパアァッと眩い光が溢れ出し、あっという間に美海を包み込む。そして徐々に光が萎んでいったかと思うと、ゴスロリ服を着て肩にトートバッグを下げる美海が現れた。首にかかったネックレスを指で抓んで揺らしながら、「な。簡単やろ?」と美海は言う。


「ほな、やってみて」

「うん」


 美菜は頷くと、おでこにステッキを付けて心の中で『変身解除』と唱える。すると、光が美菜を包み込み、元の姿に戻る事ができた。


 ――良かった…ちゃんと戻った。


 もしかしたら、ずっとこのままなのでは…と、不安だった。ホッと胸を撫で下ろす美菜を見て、美海は気恥ずかしそうに口を開く。


「上里さん」

「…何?」

「…勝手に巻き込んじゃったのに、一緒に戦うって決めてくれてありがとう」

「あ…うん」


 自分は「やる」なんて一言も言ってないし、勝手に決めたのは二人だけど――と、心の中で愚痴を言いつつ、美菜は小さく頷く。しかし、快諾してくれたと思っている美海は、飛び切りの笑顔で


「これからもよろしくなっ」


 と、笑いかける。


「…本当に、私も一緒で良いの?」

「当たり前やん!上里さんがおったら心強いで!」


 えへん!と、得意げに胸を張る美海。そのお道化た姿に、美菜はフッと顔を崩した。


 宇宙人と戦うなんて、本当は怖くてやりたくない。

 春花が言っていたように、今日の攻撃はたまたま上手くいっただけかもしれない。もし、あんな巨体に攻撃されたら…と想像すると、恐怖で足が竦みそうになる。

 だけど、人に求められるのが嬉しすぎて、頑張ってみようかな…頑張りたいなと思ってしまう。


「ありがとう。…これから、よろしくね」

「うん」


 美菜が微笑んで頷けば、美海も嬉しそうに目尻を下げる。


「あっ、そう言えばな。上里さん初めての変身やん。魔法で勝手に驚異的な力が出るとは言っても、無理な動きをしてることには変わりないねん。やから、明日はめっちゃ筋肉痛やと思うけど、頑張ってな~」

「えっ」


 あっけらかんと言う美海に、美菜の頬がピクッと引き攣る。

 てっきり、魔法だから何をしても無敵なのだと思っていた。


 ――普段、運動なんて全然しないのに…朝、起きられなかったらどうしよう…!


 ちょっと走っただけで息切れしてしまうような自分だ。明日は絶対に、体がバキバキになるに違いない。

 どよーんと落ち込む美菜の肩を、細長い指先がチョンチョンとつつく。


「ほな、皆が起きてまう前に、みぃ達も体育館で気絶してるフリしに行こっ」

「フリ?そんな事しなきゃいけないの?」


 体育館に向かって歩き出した美海の隣を、歩幅を合わせて歩き出す。


「うん。ほんまは疲れてるし、報告義務だけ終わらしてさっさと帰りたいところやねんけどな。こういう授業中に大勢の人を一気に気絶させた時は、生存確認?みたいなのをする場合があるから、残っといた方が後々楽やねん」

「へ~…?」


 ――避難訓練の時の点呼確認みたいなものかな?


 と、美菜が首を傾げる。すると、美海が思い出したように「あっ」と言った。


「そーいや、藤野さんと今野さんがグラウンドに倒れたままやん」

「!そうだね。…じゃあ、起きるまで二人の傍に居てあげたほうが良いかな?」


 まばらな芝生になったグラウンドに、気持ち良さそうに大の字で寝ている秋と横たわったままの今野がいる。あんな場所で目を覚ましたら、二人は驚くに違いない――と、美菜は思ったのだが。 


「ま、ええか。あのまま転がしとこ」


 美海は遠くに居る二人をチラッと見て、興味がなさそうに「ふふふふ~んふ~ん」と鼻歌を歌いだす。


「えっ!?でっ…でもっ、あのままにしちゃうのは可哀想じゃない?」

「別に、大丈夫やろ。今から戦って荒れた場所を原状復帰する部署がくるんやけど、その人達が作業終わり次第起こしてくれるし」

「えぇ…でも、風邪ひいちゃうかもしれないし…」

「ひかんやろ~。最近、30度近い日もあるんやで?ほっとこー」


 面倒くさそうに口をへの字にして、美海はひらひらと手を振る。


 ――どうしよう…小野原さん、このまま行っちゃう!


 二人を見向きもせずに歩いて行く背中を、美菜は戸惑いながら見つめる。そして、数秒視線を彷徨わせると、徐に立ち止まり、美海とは別な方へ歩き出した。


「…えっ!上里さん、どこ行くん!?」

「ごめん…やっぱりあの二人、ほっとけない」


 リュックの肩紐を握り締め、美菜は寝ている二人の方へ進んでいく。

 その小さくも逞しい後ろ姿を、美海は目を瞬かせながら凝視する。


 ――え~~!何でなん!?今野さんの事、助けるの拒否するくらい、嫌いなくせに!


 巨大クマから助けたのは、『命に関わる事態』だったので、当然助けたけれども。

 苦手な人、嫌いな人なんて、基本放っておけばいいのだ。そうしないと、奴らに好き勝手に振り回されて、結局自分がしんどい思いをしてしまう。


「あぁ~~、もうっ…!」


 ――人と関わるなんて、鬱陶しい事ばっかやのに…!


 と、憤りつつも、美菜が気になってしまい、後ろを追いかける。


「もう!ほんま!上里さんって、お人良しすぎるわぁ!」

「?…嫌だったら、私一人でも大丈夫だよ?」


 走ってきた美海を不思議そうに見ながら、美菜は言う。


「ふんっ!みぃ一人だけで体育館行っても暇やもん!」

「そ、そっか…」


 「何で怒ってるの?」と聞きたいけど、聞いたらもっと怒られそうなのでやめておく。

 プンプン!と頬を膨らませる美海を横目で見ながら、自由に感情が出せて良いなぁ…と、美菜はちょっぴり羨ましく思った。


「…今野さんはただ気絶してるだけやから、もしかしたら作業の音で起きるかもしれへんな」

「あ、そうだね」

「うあ~~~…そうなったら面倒やなぁ…」


 美海はグチグチと小言を言いながら、肩で風を切って歩く。ゴスロリを着ている愛らしい見た目とは程遠いヤンキーのような歩き方に、美菜はフフッと笑みを溢した。


「うわっ、藤野さん白目剥いてるやん!キモッ!」

「えっ?ははっ、本当だ…!」


 秋の元へ辿り着いた二人は、寝顔を覗き込んで、思わず吹き出す。

 薄っすら開いた瞼から見える白目と、ぽかーんと開いた口が、無防備すぎて面白い。

 二人は大きな声を出さないように口を抑えると、芝生の上に腰を下ろした。


「みぃ、今から戦った後の報告書書かないかんから、集中するな。もし今野さんが起きたら、教えてくれる?」

「うん。わかった」


 トートバッグからパソコンを取り出して開く美海に、小さな頭が上下する。

 生ぬるい風が草木を揺らす音の中に、パチパチとキーボードを叩く音が混ざっていく。

 その不自然だけど心地良いアンサンブルを聞きながら、美菜はボーッと目の前の景色を見つめた。


 風が吹くたびに掘り起こされた砂が舞い、小さな葉っぱがグラウンドを転がっていく。

 相変わらず電話をしている春花は、通話が終わったと思えばメッセージを打ち、また誰かに電話…を、繰り返している。忙しそうだなぁ…と眺めていると、ワゴンやショベルカーなど、色んな作業車が大きな正門を通り、グラウンドの中に入ってきた。

 グラウンドの端っこに停めた車から降りてきたのは、作業服を着た15人くらいの人達。

 彼らは小走りで芝生の被害状況を確認すると、すぐに復旧作業を始めた。


 ――すごい…本当に、今まで何度も戦ってきたんだ…。


 車を誘導したり、掃除をしたり、穴を埋めたり。

 お互いが何を必要としているのかが分かっているから、皆先回りして動いている。そんな無駄のない連携を見ていると、彼らがいかに場数を踏んできたのかが窺える。

 その後も続々と役所の人がやってきては、校舎とグラウンドを忙しなく行き来していた。

 美海から聞いた話によると、彼らは学校の防犯カメラの映像を差し替えたり、防災アプリに地震が起こったように表示させたり、地域のニュースに地震の報道を流したりと、色んな対応をしているらしい。

 まるで隠蔽工作だ。そして、それに自分も関わっているんだ――と、罪悪感で胸をモヤッとさせながら、美菜は元通りになっていくグラウンドを眺める。

 今野が起きていないか確認したり、役所の人に戦った時の状況を聞かれたり。全ての作業が終わる頃には、空が茜色に染まっていた。


「上里さん、協力してくれてありがとね!じゃ、二人共もう帰っていいよ」


 体育座りをする美海と美菜の元に、額に汗を浮かべた春花がやってくる。夕日を背負って輝く春花を、美海は目を細めながら見上げた。


「春ちゃん、安否確認は?」

「あー、大学が緊急事態の時に使うやつ…メールで安否確認を連絡してきて、WEB上でアンケートを提出するやつあるでしょ?あれを生徒達にメールで送る事になった」

「へ~、そっか。ほな、上里さん帰ろ」


 納得したように相槌を打って、美海が立ち上がる。


「…あの、二人はどうなるんですか?」


 パンパン!とスカートの汚れを叩き落とし、帰る気満々の美海の横で、美菜が心配そうに寝ている二人を見る。やっぱり、このまま目覚めたら可哀想だと思ってしまって。しかし、春花は


「大丈夫!こっちで起こすから!」


 と、けろりと言うと、「あっ。エントリーシートよろしくね」と釘を刺し、体を翻す。

 「大丈夫」と言われたにも関わらず、腰を上げずもじもじしている美菜に、美海が呆れながら話しかける。


「もう!はよ帰るで!みぃ達がここに残ってても、できる事なんかあらへんもん」

「…うん」


 美菜は躊躇いながらも頷くと、名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。

 「できる事は無い」ときっぱり言われてしまったら、帰るしかない。


「……」


 ――藤…秋ちゃんと、もっとお話ししたかったな…。


 どんな夢を見ているのだろうか。「えへへ」と笑いながら寝返りを打つ秋を、美菜はジッと見つめる。


「か~え~ろ~~~」

「あっ、ごめん」


 ふりふりのスカートを大袈裟に左右に揺らす――そんな不機嫌な美海に、慌てて向き直る。

 「秋ちゃん、またね」と心の中で呟いて、美菜は正門に向かって歩き出す美海に急いで着いて行った。


「上里さんって実家から通ってるん?」

「ううん。アパートで一人暮らししてる。実家から通うと3時間くらいかかっちゃうから」

「あ~、ね。…みぃは叔母さんと一緒に暮らしてるから家事分担できるけど、上里さんは一人で全部やってるんかぁ。凄いなぁ」

「そんな事ないよ。簡単な事しかできないし」


 青々とした草の匂いでいっぱいの畦道を歩きながら、二人は何てことない話をする。

 誰かと会話をしながら歩くのが久しぶり過ぎて、美菜は地に足がついていないような、ふわふわした感覚に陥る。まるで友達同士みたいだな…なんて思いながら。夕焼けに染まった道を歩き続け、老舗の喫茶店が行き止まりを作る丁字路で立ち止まる。


「じゃ、みぃは右に行くから。また明日」

「うん。…また明日」


 ニコッと笑って手を振る美海に、美菜は恥ずかしそうに微笑んで、手を振り返す。古びた街並みの中に浮く、異国のお姫様のような華やかな後ろ姿を暫し見つめてから、美菜も背を向けて歩きだした。

 人の気配がしない商店街を、細長く伸びた影が歩いて行く。いつもなら匂いにつられてしまう小さな精肉店のコロッケの前を通り過ぎ、ただぼんやりと景色を眺めながら進んでいく。


 ――何だか、今日は凄い一日だったな。


 人生に絶望して、宇宙人に遭遇して、変身して、戦って、友達ができて、インターン先が決まって――漫画にだって、ここまで詰め込んだ展開はないのではないだろうか。


 ――あっ。学校から安否確認の連絡が来た。


 ピコンと鳴ったスマートフォンをワンピースのポケットから取り出し、画面をスワイプする。メールを開き、書いてあるURLをタップした美菜は「異常なし」と書かれたボタンを押して送信する。無事「完了」と表示されたことを確認すると、再びポケットの中にスマートフォンを戻した。

 自分の人生なのに、他人の人生を一緒に見ているような。

 夢見心地の状態に浸ったまま、学生用のアパートが並ぶ住宅街を進んでいく。手前から二つ目の角を曲がり、レンガ調の壁でできた築17年の2階建てのアパートの前で立ち止まる。美菜は慣れた手つきでオートロックの番号を押すと、カチッと音を立てて開いた重たい扉の隙間に身を滑らせた。

 薄暗い廊下を歩き、リュックの中から鍵を取り出す。そして、1階の一番左端にあるグレーの扉を開けると、


「ただいま」


 と言いながら家に入った。勿論、返事は来ない。だけど、昔からの癖でついつい言ってしまう。

 靴を脱ぎ、浴室、トイレが並ぶ短い廊下を進む。

 美菜が住むこの家は、女性専用のワンルームアパートなので狭いのだが、キッチンが赤だったり、壁紙がオレンジ色だったりと、内装がビタミンカラーで統一されている。不動産屋から「もうこの部屋しか余っていない」と言って紹介された時は、自分では到底選ばない色で溢れた部屋を見て頭を抱えたが、今では一人寂しく帰ってきても元気をもらえる、とてもお気に入りの家になった。

 部屋の入口にある真っ白なポールハンガーにリュックをかけて、キッチンで手を洗う。扉に引っ掛けているタオルで丁寧に手を拭うと、部屋の大部分を占めるベッドと小さなガラステーブルの間を通り、座ると立つのが億劫になる大きなピンクのビーズクッションの上にドスンと沈み込んだ。


「ふ、あぁぁ…」


 くしゃりと歪む顔を両手で覆い、大きな欠伸をする。

 不思議な事に、このクッションに座ると、操り人形の糸が切れたように体も心もだらけてしまう。


 ――あ~、動きたくないなぁ…。


 柔らかなクッションに体を包まれながら、ボーッと天井を眺める。ただ何も考えず、はぁ…と息を吐くと、急激に眠気が襲ってきた。


「う~~~…」


 ――やばい…お風呂に入ってないのに…。


 今この瞬間まで魔法がかかっていたのではと思う程、一気に体が怠くなる。

 うとうとと細まる視界の端に、水彩で描かれた花模様のベッドシーツが映る。今すぐふかふかの布団にダイブしたいけど、髪は砂だらけだし、汗もかいた。絶対にお風呂に入ってからじゃないと寝ちゃいけない。でも、体が「このクッションの上から動きたくない」と言っている。「良いじゃん!今日は頑張ったもん!お風呂なんか明日で良いじゃん!」――と、眠りに誘おうとする幻聴まで聞こえてくる。


「うぅ~~…」


 美菜は自分の中の悪魔と天使の囁きに、葛藤して唸り声を上げる。これだけでも悩ましい事態なのに、参戦するようにお腹が「ぐぅ~」と鳴り出した。

 そう言えば、お昼ご飯を食べていない。空きっ腹が、ご飯を待ち構えてグルグルと活発に動いている。ああ、でも、やっぱり動きたくない。2メートル先のキッチンの戸棚にあるお菓子を取るために、床を這うのも面倒くさい。

 重たい瞼を何とか瞬かせながら、目の前にある小さなテレビに目を向ける。真っ暗な画面に、今にも寝てしまいそうな半眼の自分が映っている。


「ふ…ふふっ」


 我ながら酷い顔だ。髪もボサボサだし、クッションに凭れ掛かる姿はタコのようだ。


 ――こんなに疲れるのは、小学校の運動会ぶりかも…。


 と思いながら自分を見つめている内に、美菜は眠気に吸い込まれるように静かに瞼を閉じていった。




 翌日、二限目の授業に参加する為に廊下を歩く美菜の顔は、全身に重たいウエイトを付けられたような、未だかつて経験したことのない強烈な怠さと痛みで引き攣っていた。


 ――いや、「筋肉痛になる」って言ってたけど…事故にあったレベルで痛いよ…!


「ぐっ、うぅ!」


 手足を数センチ動かすだけでも筋肉がビキッ!と悲鳴を上げる。

 本当は学校を休んでしまいたかった。クッションに包まれたままアラームの音で起きた時、あまりの体の重たさに、重力が5倍に増えたのかと疑った。

 それに、痛いのは筋肉だけじゃない。ヒビが入っているのかな?と不安になるくらい、動くたびに骨の近くでピリッとした痛みが走る。

 「変身なんかするんじゃなかった」と、朝から何度後悔しただろう。

 こんな状態じゃ動けるわけない…と心が挫けかけたけど、美菜は学校に行くのを諦めなかった。

 だって、今までどんなに学校が辛くても、病欠以外で休んだことがないから。

 行きたくない瞬間なんて腐る程あった。だけど、「私は隠れなきゃいけないような事なんてしてない」と自分に言い聞かせて、辛い時期を耐えてきた。これが、声に出して抵抗できない自分ができる、細やかな主張だと思って。

 意地を張り続けて、もう9年になる。

 折角ここまで頑張ってきたのだから、筋肉痛なんかで学校を休みたくない。


 ――あ、あともう少し…!


 壁に手を添えながら、講義室の入り口だけを見つめて歩き続ける。微かに揺れるリュックの重みでさえ激痛に感じつつも、美菜は何とか講義室に足を踏み入れた。すると、入り口のすぐ目の前の席で友達と話をしている秋を見つけた。


 ――あっ、秋ちゃんだ。


 ハッと美菜の目が開く。

 ネイビーのティシャツにダメージジーンズを履いた秋は、元気に大笑いしながら机を叩いている。昨日無事、役所の人に起こしてもらえたようだ。

 良かった…と安堵の息を吐くと、視線に気づいた秋が美菜を見た。


「あっ!えっ、と…」


 「おはよう、秋ちゃん」と言ってみたい。けど、名前を呼ぶのが恥ずかしくて、上手く言葉が出てこない。

 もじもじしながら頬を染める美菜を、秋は不思議そうに見つめながら、口を開く。


「おはよう。上里さん」

「!」


 秋がニコッと口元だけを上げて微笑む。そのどこか壁を感じる余所行きの笑顔を見て、美菜は口から出かけた言葉をグッと飲み込んだ。


 ――…そっか。記憶を消すって、宇宙人や私達が戦った時だけじゃなくて、あの時間すべてが無かったことになっちゃうんだ。


 記憶の辻褄を合わせなくてはいけないんだから、当たり前か――と、思う反面、自分と友達になったあの瞬間も忘れてしまったのだと思うと、喉の奥が焼けるように痛くなる。


「…おはよう。藤野さん」


 あ、ヤバいかも――と、熱くなる目頭に気付きつつも、何とか口角を上げてみる。だけど、「やっとできた友達が友達ではなくなってしまった」という事実に、胸が押し潰されそうになってしまう。

 ぎこちない唇が震え始め、うっすらと涙が浮かんでいく。

 今にも泣きだしそうな美菜を見て、秋や友人が戸惑い始める。


「ちょっ、上里さん」


 「大丈夫?」と、秋が神妙な面持ちで身を乗り出す。その瞬間、美菜の後ろにスッ…と現れた人物が、落ち込む肩をポン!と叩いた。


「い゛っっっっ!?」

「おはよう。上里さん」


 ビリビリッ!と痺れるような痛みが走り、美菜は思わず飛び上がる。が、そのオーバーリアクションのせいで、また体が悲鳴を上げる。


「~~~~~~~っ!!」


 ぶわっと額に脂汗が滲む。美菜は痛みに耐えながらも、ふらつく体を支えるべく、教室の壁に手を付く。

 苦悶の表情で悶える美菜に、後ろから声をかけた人物――美海が、眉をハの字にして駆け寄っていく。


「上里さん、大丈夫~?」


 猫撫で声を出しながら、美海は胸元に大きなピンクのリボンが付いた白いロリータ服をはためかせる。しかし、心配する言葉とは裏腹に、自分の顔を覗き込む円らな瞳が楽しそうだと気付いた美菜は、ムッと目を細めると美海を睨み付けた。


 ――小野原さん、分かっててやってる…!酷い!


 ニヤニヤと唇を波打たせる美海を、恨めしそうに見つめ続ける。すると、美菜の痛がりっぷりに驚いた秋が、慌てて椅子から立ち上がった。


「どっ、どうしたの!?上里さん、怪我してるの!?」


 秋は美菜の前で膝を付き、下から顔を覗き込む。大きな瞳を心配そうに見開く秋に、美菜は急いで首を振ろうとする――が、動かした瞬間ビキッと首筋に痛みが走り、「う゛っ!」と苦しそうな声がでる。


「!?ほっ、保健室行く!?」

「うっ、いやっ」


 「そこまでしなくて大丈夫」と言いたいけど、首も手も動かすのがしんどすぎる。


 ――へぇ~、こんなに痛がってるのに保健室行かへんのか。


 どうやら美菜なりの考えがあるらしいと悟った美海は、戸惑っている秋に向かってニコッと笑う。


「ううん。保健室に行かなくても大丈夫だと思う」

「でも、めちゃくちゃ痛がってるし…」

「あぁ。上里さんねぇ、昨日私とスポーツして遊んだんだぁ。それで、すっごく筋肉痛になっちゃったみたいなの」

「えっ…スポーツ?」

「うん。だから、大丈夫。ねっ、上里さん」


 「うふふ」と笑う美海は、少女漫画だったら顔の周りに花が浮かんでいただろう。昨日、関西弁で毒づいていた人とは思えぬおしとやかな姿を見て、美菜は若干引きながら微かに頷く。


「そう言う事だから、藤野さんは気にしないで…」

「へーっ!上里さん、スポーツするんだ!」


 適当にあしらおうとする美海を遮って、秋がパアァッと顔を輝かせる。


「どんなスポーツ!?」

「えっ!?あっ、えっと…」

「二人でボウリングしたの~」


 嘘が思い浮かばず激しく動揺する美菜を隠すように、美海が体を傾ける。体がくの字に曲がってキツイけど、このまま放っておいたら、嘘になれていない美菜が「スポーツじゃなくて、実は宇宙人と戦いました」と言いかねない。

 美海は「早くどっか行け」と、秋に向かって笑顔で念を飛ばし続ける。が、逆に秋の興味を引いてしまったようで、大きな口元が嬉しそうに開く。


「えーっ!そうなの!?私もめっちゃボウリング好き!ねっ、今度一緒に行こ!」

「!」

「は…い?」


 思わず「は?何ぬかしとんねん、コイツ」と口から出てしまいそうになる言葉を喉の奥に押し込んで、美海は必死に笑顔を張り付ける。


「私、前から上里さんと小野原さんと仲良くなりたかったんだぁ!ねねっ!LIMEのID教えて?予定が無い日合わせてさ、一緒にボウリング行こ!」

「…いやぁ、私はちょっ」

「うん。分かった」

「!?」


 やんわりと断ろうとした美海は、小さく頷いた美菜に驚き体を起こす。まん丸になった瞳で美菜を凝視すると、美菜は痛む体を一生懸命動かして、リュックの外ポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。


「やった~!ありがとう!」

「こちらこそ、ありがとう…藤野さん」


 ぽこん!と軽快な音を立てて追加された秋の連絡先を見ながら、美菜が嬉しそうに目を細める。すると、秋が人差し指で自分を指差した。


「私、秋って言うの!秋って呼んでっ」

「…秋、ちゃん」

「うんっ。私も美菜ちゃんって呼んでいい?」


 そう、とても幸せそうに尋ねる秋の顔が、昨日の秋の笑顔と重なる。

 その瞬間、今にも押し潰されそうだった美菜の心を温かい何かがフワッと包み込んだ。


「…うん。勿論」


 美菜の優し気な目元が弧を描く。すると、秋は「やったー!」と言って親指を立てた。


「小野原さんも交換しよ!」

「……うん」

「やった~~!」


 美海は抑揚のない声で返事をすると、トートバッグの中にあるスマートフォンを手探りで探す。


 ――あ~~~、だっるぅ…。でも、上里さんめっちゃ嬉しそうやから、しゃあないわなぁ…。


 人の連絡先なんか知りたくもない。だけど、昨日、美菜ができたはずの友達を無かったことにしてしまった責任は自分にある。だから、本当は嫌だけど。本っっっ当に嫌だけど。美菜の為に、このくらい自分も我慢しなくては…と思う。


「はい」

「ありがと~!」


 美海の目が全然笑っていない事に気付きもせず、秋は嬉々として連絡先を登録する。


「『みう』ちゃんって読み方であってる?」

「あ~…『みゅう』なんだけど、あんまり好きじゃないから名字で良いよ」

「そっかぁ…じゃあ『みぃちゃん』って呼ぶね!」


 人差し指を立て、名案だ!と笑顔で頷く秋に、咄嗟に「は?」とドスの利いた声が出てしまう。しかし、美海の本性を掻き消すように、授業開始のチャイムが響いた。


「じゃ!また後で連絡するね~」

「うん」


 手を振りながら席に戻る秋に、美菜も手を振り返す。


「小野原さん。先生来ちゃうから、私達も座ろう」

「……うん」


 皆に聞こえないように静かに舌打ちをする美海の腕を指で突いて、美菜はよたよたと歩き出す。

 錆びたロボットのようにぎこちなく動く美菜の後ろを、小声でブツブツと怒りを吐き出す美海が付いていく。そして、二人で一番後ろの窓際の席に座ると、バッグから筆記用具を取り出した。


 大きな教室いっぱいに並ぶ横長の机は、階段を下るように段になって置かれている。

 その茶色いスペースを埋めるように不規則に座る生徒達を、美菜はゆっくりと瞬きをしながら見下ろした。

 今までは一人で俯いてばかりでいたからよく分からなかったけど、こんなに沢山の人の中に居たんだなぁ…と、今更ながら思う。そして、この景色を誰かと一緒に見ていることが、不思議で仕方ない。


「…小野原さん」

「ん~?」


 むにゅっと唇を突きだしながら、美海が不機嫌な声を出す。その子供のように不貞腐れた姿に微笑んで、美菜は躊躇いがちに口を開いた。


「…私とも、友達になってくれないかな?」


 緊張に満ちた硬い声音で、美海の横顔に向かって言う。

 バクバクと騒ぐ心臓が、美海に伝わってないと良いな――そんな心配をしながら、美菜はぴたりと動きを止めた美海を見つめる。

 さっき、秋と友達になれて嬉しかった。秋の記憶が無くなってしまった以上、また友達になるのは無理だろうと諦めていたから、余計に嬉しかった。

 そして、秋にボウリングに誘われた時に思ったのだ。

 美海とも友達になって、三人で仲良くなれたら。これからの日常が、少しずつ楽しいものに変わっていくんじゃないかな…と。


 ――小野原さんとは過去の事もあるし、何より裏表が激しすぎるから、ちょっと不安な面もあるけど…。


 それでも、根は優しい子だと思っている。春花の圧に怯えた時も、秋に詰め寄られた時も、自分が困っているのを察してすぐに助けてくれたから。まだまだ人と接するのが苦手な自分にとって、こんな子が友達になってくれたら心強いなと思う。


 ――どうかな…私なんかじゃ嫌かな…。


 断られたらどうしよう…と、胸をざわめかせながら、黒いワンピースの裾をギュッと握り締める。すると、ゆっくりと美菜に顔を向けた美海が、満面の笑みで「ええで」と言った。


「ほんと?」


 足をプラプラと遊ばせながら上機嫌で頬杖を突く美海に、美菜は尋ねる。


「うん。そや、上里さんは『みぃちゃん』って呼んでもええで」

「えっ!良いの?」

「うん。みぃも『美菜ちゃん』って呼んでもいー?」

「うん!」


 美菜が嬉しそうに頷くと、美海も恥ずかしそうに「ふふっ」と笑う。

 もしかしたら、「友達?そんなんいらんわ」と返されるのではと思っていたが。予想に反して、とっても喜んでくれたようだ。


「ふじ…秋ちゃんとのボウリング楽しみだねっ」

「それはどうでもええわ」

「えっ」


 ニコニコの笑顔から一転、フンッ!と鼻を鳴らした美海に一瞬戸惑うも、美菜は再び破顔する。

 遅れてやってきた教授が扉を開く音を聞きながら。美菜は、ほんの少し明るい未来を頭に描がいて、束の間の幸せを噛み締めた。

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【完結】孤独な彼女は世界なんか救いたくない 櫻野りか @sakuranorika

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