第2話 中編

 

 ――眩しっ…!


 瞼の裏でも分かる眩い輝きに、美菜はギュッと目を瞑る。すると、光はオーラのように美菜の全身を包み、やがてフワッと空中に散った。


「おお!変身成功や!」


 光の中から現れた美菜を見て、美海みゅうは嬉しそうに親指を立てる。美菜はそっと目を開けると、自分の足元や手をキョロキョロと見た。


「…本当に変身してる…」


 ドレスのデザインは美海と同じだが、ドレスの色、そして、ネックレスの代わりに手に現れたステッキは真っ黒だ。


「すごい…」


 ただ願っただけなのに、あっという間に変身してしまった。身を捩って、腰についた大きなリボンを見てみたり、ステッキをクルクルと回してみたり。まじまじと眺める美菜を見て、美海が「ははーん」と言いながら顎に手を添える。


「ドレスの色って、その人に合わせた色が反映されるんやけど…上里さん、いっつもお葬式みたいな黒い服しか着ぃひんから、ドレスも黒になったんやろうなぁ~」

「おそ、…」


 感心するように頷く美海に、失礼だな…と思うものの、普段目立たないように黒しか着ていないのは事実。美菜はグッと怒りを堪えて、口を開く。


「…で、どうすれば良いの?」


 変身はできたが、戦い方は分からない。真剣な眼差しで問いかけると、美海も真っすぐ見つめ返した。


「ほんまは訓練してから現場に出なあかんけど…そんな事してる場合やないから、とりあえずみぃが言う通りにやってみて」

「分かった」


 両手でステッキを握り締め、コクッと頷く。美海も小さく頷くと、クマの方を向き、少し膝を折り曲げた。


「魔法はな、イメージが大切やねん。だから自分が動きたいようにイメージをしながら、飛んでみる!こんな感じ!」

「!!」


 美海は膝を折り曲げると、両足で軽く地面を蹴る。すると、ピョーンと高い放物線を描き、そのままクマの背後へ着地した。


「すっ、すごい…」


 まるで、映画のワイヤーアクションを見ているかのような迫力だ。呆然とする美菜に、美海が「やってみて!」と声をかける。


「う、うん!」


 本当に、自分もあんな風に飛べるのかな?と半信半疑のまま、美菜も少しだけ膝を曲げてみる。そして、グッと足に力を入れてジャンプすると、体がグンと上に飛び上がった。


「へあっ!?」

「お~、ちゃんと飛んでるやん!」


 ジェットコースターに乗っているかのような浮遊感と、遠くなっていく地面。美菜は慣れない感覚に戸惑いながら、空中でギュッと体を縮こまらせた。


 ――やばいやばいやばい!これ、落ちたら死ぬじゃん…!


 飛んでいる高さは8mを優に超えている。下に見える景色が、大学の3階から見ている時と同じだ。安全器具をつけていないのに、このまま落下してしまったら――と想像して、美菜の顔がサッと青ざめる。

 恐怖でどうすることもできず、ただ落ちないように必死にステッキにしがみつく。怯えて半泣きになっている美菜の心境を察して、美海はピョンピョン飛び跳ねると、空に向かって両手を大きく振った。


「大丈夫大丈夫!みぃを見て!『ゆっくりここに着地する』って強く思って!」

「う、うぅ~…」

「ほんまに大丈夫やから!ゆっくりでええから!みぃのところに降りてきて!」


 力強く叫ぶ美海の声を聞きながら、美菜はステッキを握り締める。そして小さく深呼吸をすると、地上で手を振る美海をジッと見つめた。


 ――ゆっ…ゆっくり、あそこに着地する…!小野原さんがいるところに、ゆっくり着地する!


 念仏のように心の中で何度も唱える。すると、不安定に宙に浮いていた体が動き出し、美海に向かって降りていく。小鳥が地面に着地するように、ゆっくりと降り立つことだけをイメージする。そして、無事芝生の上に爪先が付いた瞬間、美菜の体からフッ…と浮遊感が消えた。


「お〜!初めてやのに上手やん!」

「あ、ありがとう…」


 ステッキを杖にして寄りかかり、「はぁぁ…」と疲れ切った息を吐く美菜を、美海が手を叩いて褒める。


 ――お、落ちなくて良かった…!


 ホッと胸を撫で下ろすと、美海は思い出したように人差し指を立てた。


「そうや!そのステッキ持ってへんと、魔法使えへんねん。だから、飛んでる時に絶対落とさんように気を付けてな~。じゃないと、ステッキと一緒に地面へ叩きつけられるで!」

「へっ!?そっ、そういうの早く言ってくれない!?」


 とんでもない衝撃の事実に、美菜の人生史上一番大きな声が出る。自分の大声に驚きつつも、もし空中でステッキを手放していたら…と考えて、美菜の背筋がブルっと震える。しかし、美海は「ごめーん」と茶目っ気たっぷりに言うと、ステッキの先端をクマに向けた。

 「ステッキで叩いても相手にダメージを与えられるんやけど~」と、何事もなかったかのように説明し始める横顔を、美菜は顔を引き攣らせて見つめる。


 ――小野原さんって、ヤバい人だ…。


 普段の姿と今の姿が違いすぎるーーそんな二重人格の部分も怖いけど、超大事な情報を伝え忘れても「ごめーん」で済ませようとするところが、人としてヤバイ。

 この人の指示に従って本当に大丈夫なのか?と、本能が首を傾げた時、美海が大きく頷いた。


「――ってことだから、一緒に思いっきりこいつの足を殴るで!ほな、行くで!」

「えっ!?あ、うっ…分かった!」


 息巻く美海に合わせて、とりあえず美菜も頷いてみる。よく聞いてなかったが、二人で足を殴る事になったらしい。ステッキを野球のバッドのように構える美海を真似て、美菜も慌ててステッキを構える。


「ちょっと!みぃは右足で、上里さんは左足やって!早くあっちの方行って!」

「ごっ、ごめん!」

 

 「ちゃんと聞いてたん!?」と顔を顰める美海に、美菜は謝りながら左足の方へ走って行く。ゆっくりと芝を踏みしめる巨大木のような足に辿り着くと、美菜は美海へ視線を向けた。


「じゃあ行くで!『倒れろー!』って思いながら、おもくそバット振るんやで!」

「分かった!」


 「バットって言ってる…」と内心思いつつも、美菜はコクリと頷く。そして、美海の「せーの!」という掛け声に合わせて思いっきりステッキを掲げると、前に進もうとする左足へ勢い良く叩きつけた。


「ぐぅぅぅ、ぶお―――――!!!」


 後ろから両足を叩かれたクマは、そのままズシン…!と地響きを立てて真後ろへ倒れる。


「うわっ!砂埃がっ…!」

「凄いやん、上里さん!みぃの5倍くらい威力あったで!?」


 クマが倒れた瞬間、ぶわっと舞い上がった草と砂埃を避けるように飛んできた美海が、興奮気味に捲し立てる。


「ケホッ、ご、ごばい…?」

「うん!みぃは力が弱いから基準にするのはあれやけど…でも、上里さんの打撃の強さはリーダーレベルやと思う!逸材や~!」


 美菜は腕で顔を隠しながら、キラキラと目を輝かせる美海を細目で見る。「リーダーレベル」と言われてもよく分からないが、どうやら自分は役に立ったらしい。


 ――ちょっと、嬉しいかも…。


 自分は人より劣っている事の方が多いから、誰かに褒められると何だかこそばゆい。

 訳がわからないまま戦うことになり、ずっと狼狽えていた美菜。その真っ黒な瞳に、僅かに希望の光が宿る。美菜の些細な変化を見逃さなかった美海は、ニヤリと笑うと、「うがぁぁぁ!」と唸りながら起き上がれずにジタバタしているクマをステッキで指した。


「あいつを倒すには強烈な一撃が必要や!みぃは無理やったけど、上里さんならきっと、止めを刺せる!今がチャンスや!」

「!」


 美海は美菜の腕を強引に引っ張り、クマの方へピョンと飛ぶ。小さな山を描き、高さ3m程のクマのお腹の上へ降り立った二人は、ツルツルの生地の上から落ちないように四つん這いになると、喚く白い顎の下を覗き込んだ。


「見て!あそこ!黒い水晶みたいなんあるやろ?」

「?…あの、拳くらいの大きさのやつ?」


 アトラクションのようにボヨンボヨン揺れるクマの布地を必死に掴みながら、美菜は目を凝らす。顎と首の繋目のところに、艶やかで綺麗な黒い丸がある。


「そうや!あれがこいつらを動かす原動力になってるから、必殺技で壊さなあかんねん」

「必殺…?」

「うん!ステッキの先をあの黒いとこに向けてやな、『ハートスプラッシュ!』って叫ぶねん!」

「?は、はーと?」

「『ハートスプラッシュ!』や!『当たれ~!』って思いながら叫ぶと、シャワーみたいにブワーッて光が出て、いつもの10倍くらいの威力の攻撃がでんねん!」

「へぇ…?」

「必殺技は10分に一回しか出せへん。だから、こいつが倒れてるうちがチャンスや!さぁ!やってみて、上里さん!」

「う、うん…分かった」


 「必殺技」と言われても、いまいちピンとこないが。

 アニメの終盤に出てくる、最後のビームみたいなものが出るのかな…と考えつつ、美菜はステッキの先をクマの首元に向ける。そして、「当たれ」と念じながら


「ハートスプラッシュ…」


 と、恐る恐る言ってみる。すると、六角形の水晶がピカッと輝いた。と同時に、ボーン!と何かが弾ける音がする。野球場のライトが一斉についたような眩しさと、鼓膜を震わせる大きな音に、美菜と美海は咄嗟に目を瞑る。そして、瞬く間に襲い掛かる息もできない強風に美海は危険を察知すると、手探りで美菜の腕を掴み、急いでその場から飛び上がった。


「わっ!」


 急に浮き上がった体に驚き、美菜はパッと目を開く。苦悶の表情で自分を上へと連れていく美海を戸惑いながら見ていると、校舎の3階まで来たところで、ピタリと動きが止まった。


「っはぁ~~!爆発に巻き込まれて死ぬかと思った!」


 「あと一秒遅かったらヤバかった…」と、美海は疲れ切った顔でがくりと項垂れる。

 美菜が必殺技を唱えた時。

 スティックの水晶から放たれたビームは、美海が傷一つ付けられなかったクマの弱点を一瞬で貫いた。倒された敵は、普通はシャボン玉のような光になって消えていくのだが、光になる間もなく爆発して散っていった。

 あんな終わり方、リーダー…いや、隊長各レベルが必殺技を使った時にしか見た事が無い。

 あの場から逃げなきゃいけないと瞬時に判断できた自分を、誰か褒めてほしい。

 「はぁ~~~…」と深い息を吐く美海を、美菜は狼狽えながら見つめる。自分の腕を掴む美海の手が、必死さを感じる程痛い。


「…助けてくれたの?」


 ふよふよと宙を浮きながら、小さな唇がたどたどしく動く。

 自分が逃げるだけでも大変だっただろうに。何で助けてくれたのだろう?と疑問を抱く瞳を、美海は目を丸くして見つめ返す。


「そんなん当たり前やん!あんなん真正面から喰らってたら、後ろの校舎の壁まで飛ばされて、ドーン!ビャー!やで!?」


 ステッキを大袈裟に振り回しながら、呆れたように美海が言う。


「…そっか。…ありがと」


 一瞬言葉を詰まらせた美菜は、薄く笑いながら目線を落とす。

 他人から見たら、自分なんてどうなっても良い存在なのだと思っていた。

 頭に鞄をぶつけようが、傷こうが、死んでしまおうが、誰にも悲しまれない人間なのだと思っていた。

 だけど、助けてくれる人がいた。

 それが、しょうがなくやってくれた事だとしても。自分には「普通の人間」の価値すら無いと思っていたから嬉しい。


「お~!すっごいわぁ…見てみ?下!上里さんの一撃で、あんなに…って、えぇぇ…」


 満面の笑みで美菜を見た美海の顔が、面倒くさそうに歪んでいく。

 口を一文字にして、微かに俯く美菜。その少し垂れた目尻から、ポロポロと涙の粒が零れている。


 ――えぇ…?なにぃ?もしかして、今ので感動したん?…普通、目の前で人が死にそうになってたら助けるやん…。


 人に泣かれるのって苦手なんだよなぁ…と思いながら、横目でチラリと美菜を見る。

 静かに綺麗な涙を流し続けている美菜。何でこんな事で…と思うけど、彼女はこんな当たり前の手助けが深く心に響いてしまうくらい、人からの優しさが足りていないのかもしれない。


 ――まぁ…あんな学生生活を送ってたら、そうなっちゃうん…かなぁ…?


 自分は他人に興味が無いので、誰かに何かされたところで「しょうもない奴が何か言っとるわ」としか思わないし、何なら理詰めして相手の阿呆を露呈させようとするけど。

 美菜は自分とは違って、凄く繊細なのだろう。そして、その原因は自分にもあるかもしれない――と、思う。


「……」


 美海は腑に落ちない顔で視線を彷徨わせるが、やがて観念したように小さく息を吐く。そして、鼻からゆっくりと息を吸い込むと、


「……上里さん、ごめんね」


 と、掠れた声でポツリと呟いた。


「…え?」


 突然の謝罪に驚いて、美菜は顔を上げる。濡れて輝く瞳を美海へ向けると、ホワイトブロンドの前髪が気まずそうに彼女の目元を隠した。


「中学の時…上里さんが財布を盗んだって騒ぎになったやん。でも…みぃ、本当の犯人知ってんねん」

「!えっ…」


 美海の予想外の告白に、美菜は大きな目を瞠る。


 ――小野原さん、同じ学校だったこと覚えてたんだ!それに、あの騒ぎの事も…!


 自分の顔に突き刺さるような視線を感じながら、美海はぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。


「あの騒ぎがあった日の放課後…教室に忘れ物取りに行ったらな、『鞄にこっそり財布入れるの上手くいったね~!』って喜んでる子たちの話が、中から聞こえてきてん。うわ、マジか~って思って…誰かに言う事も考えたんやけど、話聞いてたら、いじめた理由がめっちゃくだらなくて…どうせすぐに皆忘れるやろうし、ええか…って思って、放置しちゃったんだ…」


 申し訳なさそうに話す美海の手から、フッと力が抜ける。じんじんと痺れる手の跡に気付く余裕もなく、美菜は黙って美海の言葉に耳を傾ける。


「でも…みぃの想像と違って、いじめは止まらへんかった。寧ろ、どんどんエスカレートしていって…。『何とかした方が良いんじゃないかな』って思ったけど、先生は見て見ぬふりしてるし、上里さんを助けようとした子がいじめられてるのを見て…。『みぃも巻き込まれたら面倒やな』って思って…結局ずっと言えんかった」

「……」

「…あの時、助けてあげなくて…ごめん」


 沈んだ声音と共に美海は深く頭を下げる。自分に向けられた旋毛を見ながら、美菜は初めて知る事実を受け止めきれず、困惑した。


 ――やっぱり、あの騒ぎはわざとだったんだ。それに…私の事、助けようとしてくれた子が居たなんて…。しかも、そのせいでいじめられちゃったなんて…、そんな…。


 ショックだ。ショックすぎる。

 意図的に嵌められた事も、自分が悲しむ姿を見て笑われていた事も。事実を知りながら、今までずっと黙っていた美海の事も。自分のせいで誰かが傷ついてしまった事も。

 何で、人を苦しめて楽しめるのだろう。

 何で、平気でいられるのだろう。

 怒りと悲しみと疑問が渦となり、冷静に考えたい自分の思考を憎しみで支配しようとする。ぐにゃりと視界が歪むような眩暈がして、美菜は思わず目を瞑った。頭の中に、当時自分を責め立てたクラスメイトたちの冷ややかな顔が浮かぶ。グッと喉が詰まったように苦しくなり、美菜の眉間に僅かに皺が寄った。

 何度思い出しても、あの瞬間は辛い。

 記憶から消してしまいたいくらいだけど、美海がいじめの理由を知っていると言っていた。何故、あんな事が起こったのか、理由が知りたい。

 美菜はゆっくりと目を開けて、美海の旋毛を見つめる。


「…私、が…いじめられた理由って…なん、なのかな…」


 いじめは絶対に肯定できないけど、もしかしたら、自分にも何か非があったのかもしれない。

 真実まであと一歩の場所に来て、ドッドッと鼓動が騒ぎ始める。


 ――「理由がくだらない」って言っていたけど、「くだらない」ってどういう事だろう。


 緊張した面持ちの美菜の問いかけに、美海はそっと頭を上げる。そして、言いにくそうに唇を舐めると、視線を落とし、口を開いた。


「…佐々木さんって、覚えてる?」

「…うん」


 美菜は美海を見ながら小さく頷く。

 勿論、覚えている。何故自分が詰め寄られているのか分からず、ただ肩を竦めて怯える美菜の鞄を勝手に漁り、「ほら~!やっぱりあったじゃん!鞄に入れるとこ見たって言ったでしょ~!」と言いながら、彼女の財布を高々と掲げて周りに見せつけていたのが、彼女だから。

 あの時の、彼女のギョロっとした大きな目が高揚して輝く姿は、きっと永遠に忘れられない。


「あの子な、木村君が好きやったんやって。でも、木村君が上里さんの事『好き』とか『超可愛い』って言ってるのを聞いて、めっちゃ腹立ったらしい…」


 前髪の隙間から、上目遣いで美菜を見る。美菜は「木村君?」と首を傾げて、そう言えば学校で一番人気があった男子の名前が、木村だったかも…と、かろうじて残っている記憶の糸を辿る。


「……」

「……」

「…えっ、それだけ?」


 暫し黙って見つめ合った美菜は、途切れた会話に驚き、目を丸くする。まさか、中学、そして高校になっても続いたいじめの原因が、それだけだなんて信じられなくて。すると、美海は困ったように眉を下げ、コクリと頷いた。


「しょーもないやろ?…でも、佐々木さんって親が金持ちやし、いつもスマホのインカメで自分の顔見てたり、周りの子達に『可愛い~』って言わせるような自分大好き人間やから、許せなかったんやろうな。好きな人が、自分以外の人のことを好きって言うのが」

「いやっ、そんなの冗談じゃん…!ただ適当に言っただけかもしれないのにっ、なんでそれくらいでっ…!」

「……」


 理解できない――と、憤慨する美菜の顔は険しい。その怒りに満ちた表情を見ながら、美海は心の中で「分かってへんなぁ…」と呟く。


 美海が中学校に入学した時、「妖精みたいな可愛らしい子が入ってきた」という噂が学校で一気に広まった。そして、その「妖精」と呼ばれた少女が美菜だった。


 天使の輪を描く艶やかな長い黒髪と、雪のように真っ白な肌。慈愛に満ちた煌めく瞳と柔らかく弧を描くピンクの唇。150cm程の小さな背で大きな通学鞄を一生懸命背負って歩く姿は、小動物や子供とはまた違う、守ってあげたくなる可愛さがあった。

 美菜がふわりと微笑めば、そこは春の陽射しのように温かな空気が流れる。そんな美菜を見て、美海も「可愛い子だなぁ」と思ったのを覚えている。

 別次元の愛らしさに緊張して、クラスメイトは中々声をかけられなかった。美菜も席で静かに本を読んでいることが多かったので、美菜を一目見ようと廊下に集まる熱視線に、本人は気づかなかったのかもしれない。

 木村が美菜を好きだと言ったのは本心だと思う。

 いや、木村だけじゃない。あの頃、殆どの男子が美菜に憧れを抱いていた。


 ――って説明しても、信じひんやろうなぁ…。


 いじめられたのは、それからすぐの事だった。

 美菜の中では、クラスメイトに嫌な印象しか残っていないだろう。


「…残酷やけど、女の子ってそんなもんやで。特に中学生なんて、自己中で気分屋で、自分がよく見える事しか考えないクソガキみたいな奴多いやん。そーいうのと関わるのが面倒くさいから、みぃは今も、あんまり特定の輪に入らんようにしてるし」

「!…そう、なの…?」


 フンッ!と鼻を鳴らす美海に、美菜は何とも言えない顔で尋ねる。長らく人と密接に関わっていないので、そう言われてもよく分からない。


 ――小学生の時は、たまに友達と遊んでたけど…意地悪するような自己中な子なんて、居なかったけどな…。


 今考えると、それは自分と同じように大人しい子ばかりと関わっていたからなのかもしれない。

 とは言え、だ。こんな殺伐とした世界が女子では当たり前だとしても、自分がされた事に納得はできない。

 きつく眉根を寄せ、軽蔑するように目を細める美菜。静かに放たれる怒りを感じ、美海はもう一度美菜の腕を強く握った。


「今更謝っても遅いけど…上里さん、ごめんな」


 子犬のような丸い瞳が、真剣に美菜を見つめる。その眼差しから、美海が本当に申し訳ないと思っているのが伝わってくる。


「……」


 美菜はもやもやと膨れ上がる複雑な心に引きずられるまま、視線を落とす。

 いじめの原因が美海にないとはいえ、正直、「うん、良いよ」なんてすぐに言えない。あの時助けて欲しかった――というのが本音だ。

 だけど、もし自分が美海の立場だったら、いじめられている子を助けられなかっただろうな…とも思う。

 カサつき始めた唇が、キュッと結ばれて、緩む。美菜は瞬きを繰り返すと、自分を見つめ続ける美海を見つめ返した。


「…小野原さんの気持ちは、分かった」


 そう、小さくも芯のある声で呟く。

 「良いよ」とは言えないけど、「許さない」とは言わない。これが、今の自分ができる返答だ。

 美海は美菜の言葉を受け止めて、何度もコクコクと頷く。自分がこれ以上を望むのもおかしいし、罵倒されないだけありがたい。


 ――みぃが上里さんやったら、絶対ボロクソに言うもんな…。


 上里さんは優しすぎるな…と思いながら、美海は「ありがとう」と言う。そして、再び俯こうとする美菜の腕を軽く引っ張ると、校舎の奥に見える体育館に視線を向けた。


「そろそろ降りよっか。春ちゃんが来てまうし」

「!」


 ほんの一瞬フワッと浮き上がる感覚がして、美海が引っ張る方へゆっくりと降下していく。緩やかな風が二人の髪をふわっと踊らせる。ゆらゆらと漂いながら田んぼや古い町並みを見下ろしていると、自分が綿毛になった気分になる。


「…はるちゃんって、誰?」


 ドレスの裾をはためかせながら、美菜は隣で気持ち良さそうに空気の抵抗を受けている美海へ問いかける。美海はさっき戦った場所から少し離れた所に美菜を下ろすと、キョロキョロと辺りを見回しながら口を開いた。


「春ちゃんはなぁ、みぃの叔母さんやねん」

「!叔母さん?」


 「あれ~?」と言いながら叔母の姿を探す美海に、美菜は目を丸くする。


 ――何で、学校に叔母が来るんだろう?


 大学なんて、親が来る事すらないのに。キョトンとした顔で揺れるツインテールを見つめていると、誰かが「ね~~!」と叫びながら二人の元へ走ってくる。

 声がする方にパッと顔を向けた二人は、息を切らしながらやってきた人物を見て「あっ」と声を上げた。


「…藤野さん」


 「はぁ、はぁ…」と肩を上下させる秋を見て、ステッキを持つ美菜の手に自然と力が入る。ああ、やはり秋を前にすると緊張してしまう。

 最後の突風を浴びたのか、髪も顔も服も砂と草だらけの秋だが、それでもキラキラしたオーラを放っている。まるで飲料水のCMから飛び出てきたような爽やかさを直に浴び、どこかソワソワする美菜。その横で、美海が「うげっ」と目を細めた。


「何で藤野さんがここにおんの?」


 露骨に嫌そうな顔をして、秋を見る。教室で見せるフランス人形のような可愛らしさが欠片もない冷めた目に、秋は「え~~~っ!?」と大きな目を見開いた。


「えっ、まっ、えっ!?小野原さんだよね!?ちょっ、いつもと雰囲気違いすぎない?ていうか、なんで関西弁!?」

「……チッ。うるさいなぁ」

「!そ、そんな言い方…」


 口元を抑えながら近寄り、まじまじと見てくる秋。そのうるさい視線が鬱陶しくて、美海はプイッとそっぽを向く。

 そんな塩対応の美海を見て、美菜は喧嘩が始まるのでは…とハラハラする――が、心配は杞憂だったようで、秋は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をすると、すぐさまくしゃりと笑い皺を作り、手を叩きながらゲラゲラと笑いだした。


「アッハッハ!こっちが素なの?めっちゃいいじゃ~~ん!おもしろ~!」

「……はぁ」


 腰に手を当て、笑いたきゃ笑えば…と言わんばかりに溜め息を吐く美海。美菜は二人が喧嘩にならずにホッとすると同時に、秋の反応に戸惑った。


 ――藤野さん、「うるさい」って舌打ちされても怒らないんだ…。


 普通、嫌じゃないのかな…と、美菜は思う。だけど、傷ついているように見えない。寧ろ、何故か嬉しそうだ。

 どうやったら、人の悪態を軽く流せるようになるのだろう。一度、秋の頭の中を覗いてみたい――そんな事を考えながら、ジーッと秋を凝視する美菜。すると、楽しそうに笑う秋と目が合った。


「上里さんはさ、小野原さんがこーいうキャラなの知ってたの?」

「えっ!いっ、いや、私もさっき知った、よ…」


 まさか自分が話しかけられると思わず、美菜の肩がドキッと跳ね上がる。


「そうなんだ!いや~、こんなにサバサバしてておもしろいって知ってたら、小野原さんともっと早く友達になりたかったなぁ」

「はぁ?みぃはいたって普通やろ」


 「どこがおもろいねん」と舌打ちと共に毒づくと、秋は飛び切りの笑顔で人差し指を立てる。


「うーん、生物的に!」

「誰が関西弁を使いこなすちょっぴり小悪魔なチワワやねん!しばくぞコラァ!」

「アハハハハ!」


 チンピラのように顎をしゃくりながら睨む「自称小悪魔なチワワ」に、秋はお腹を抱えて笑い出す。


 ――…二人とも、楽しそうだなぁ。


 あっという間に距離を縮めていく二人から、美菜はそっと視線を逸らす。高らかな笑い声を聞いていると、自分はここに居ない方が良いんじゃないかな…なんて考えが、頭を過ぎってしまう。こっそりここから逃げてしまいたい。でも、この変身をどうやって解除すれば良いのか分からない。それに、あの大きなクマ…そして、自分が使った「魔法」って何なのかも気になる。


 ――小野原さんに聞きたいけど…。


 ボケとツッコミを繰り返す二人の足元を見ながら、話し声に耳を傾ける。この二人の空気に、割って入る勇気がない。


「……」


 美菜は唇を舐めると、居心地が悪そうに両手でステッキを握った。人の笑い声をBGMにするのは慣れているが、喉の奥が抜け落ちるような寂しさは、何度経験しても慣れない。


「!」


 目頭が熱いと思ったら、視界がうっすらと滲みだす。

 このままでは、教室の時の二の舞になってしまうと焦った美菜は咄嗟に上を向いた。


 ――も~…今日、涙腺緩すぎる!


 これ以上涙が出てこないよう、目を開けたまま雲の流れに焦点を合わせる。

 薄いブルーの空に浮かぶ、綿あめのような、ソフトクリームのような白い雲を、無心で瞳に描いていく。そのままボーッとしていると、波立つ心が徐々に落ち着いていく――と思ったら、元気な声で「上里さん!」と呼ばれ、美菜は「は、はいっ!?」とビクついた。

 静かになった筈のざわめきが、またモヤモヤと騒ぎ始める。


 ――えっ、なっ、何かしたっけ?


 と、不安になりながら恐る恐る秋を見る。すると、彼女は何故かとても嬉しそうな笑顔でこちらを見ていた。


「私ね、本当は上里さんとも喋ってみたかったの!」

「!」


「喋ってみたかった」――その言葉に、美菜は驚いて目を瞠る。


 ――えっ…?前から気にしてくれていた、ってこと…?


 自分に興味を持ってくれていた…なんて、そんな事…あり得るのだろうか。何の面白味もない自分なのに、にわかには信じがたい。

 素直に言葉を処理できず、ロボットのように表情が固まってしまう美菜。しかし、秋は美菜に歩み寄ると、顔の前で両手を合わせた。


「上里さんの事、可愛い子だな~~~~ってずっと思ってて!…声かけたかったんだけど、上里さんって空き時間ずっと本読んでるでしょ?だから、いつもタイミング窺ってたの!」


 「やっと話せた~!」と喜ぶ秋は、本当に嬉しそうだ。まるで推しのアイドルに会ってるかのようなはしゃぎっぷりに、美菜は秋の言葉が嘘ではないのだと知る。


 ――…私って、誰かと普通に関わって、良いんだ…。


 そう思った瞬間、目に映る世界が、陽の光を受ける水面のようにキラキラと輝いた気がした。肩がフッと軽くなり、新鮮な空気が体の中にスゥッと流れ込んでくる。


「ね、上里さんの下の名前って何だっけ?」

「……美菜」

「美菜ちゃん!今度さ、美菜ちゃんのおすすめの本教えてくれない?」

「う、うん…良いよ」

「本当!?嬉し~!ねねっ、私のこと、秋って呼んで!」

「…秋、ちゃん」


 勢いに押されて呟くと、秋の顔がパアァツと明るくなる。


 ――私と喋って、喜んでくれる人が居るなんて…。


 「嬉し~!」と言いながら小躍りする秋を、美菜は呆然と見つめる。


 夢を見ているのかな――と、思う。

 ああ、そうだ。夢かもしれない。

 だって、校舎並みに大きいクマが現れたのも、変身して戦った事も、友達ができた事も、あまりにも非現実的すぎるから。


 ――幸せな夢だな…。


 温かい湯船にゆらゆらと浸かっているような心地良さに、表情が緩んでしまう。

 人前で笑うなんて、何年ぶりだろう。にやけてしまう口元が恥ずかしくて、唇を巻き込んで必死に堪える。

 もじもじする美菜と、我関せずを貫いている美海。

 両極端な二人を面白そうに見ていた秋だったが、ハッと息を呑むと手で口を覆った。


「そうだ!…超聞きたかったんだけど、二人共、何で魔法少女みたいな格好してるの?なんか、あの…何だっけ、特撮みたいなビームも出してた…よね?」


 美海のインパクトが強烈すぎて、思わず頭から疑問が抜けてしまったが。秋は力強い大きな目を見開いて、ごくりと生唾を飲み込む。


 大きな爆発音がして、学校から避難のアナウンスが流れた時。

 秋は指示に従ってすぐに体育館へ移動した。照明を受けて艶やかに光る広い床を、生徒や教師達があっという間に埋め尽くす。だが、その中に美菜が見当たらない事に気付いた瞬間、脳裏に教室での美菜の様子が浮かんだ。


 ――顔色悪そうだったし、もしかしたら、具合が悪くなって逃げ遅れてるのかも!


「すみませーん」


 焦った秋は、ライブ会場のようにごった返す人ごみの中を、肩を狭めながら擦り抜けていく。出入口が近いのは校舎の裏だが、まだ移動してくる人がおり、走ったら邪魔になってしまう。


 ――グラウンドを全力で突っ切った方が早いはず!


 時折聞こえる「ズシン…ズシン…」という地響きに恐怖で震えながら、秋は体育館から数メートル先にある校舎の外側を大きく回る。グラウンドに繋がる小道を走り、いざ芝生を駆け抜けようとした瞬間、目の前にあの巨大なクマが現れた。


 ――えっ、へっ、こ、このままじゃ、ふふふ踏まれるぅっ…!


 逃げなきゃと思うけど、意味が分からなすぎて腰を抜かしてしまった。ただ口をアワアワとさせ、死を覚悟した自分を助けてくれたのが、この二人。

 さっきまでとは違う服装で、驚異的な身体能力で、武器を使って戦う二人を、秋はただ茫然と見つめた。

 一体、彼女たちは何者なのだろう。

 そして、自分が見たあのクマは何だったのだろう。

 興味津々で美菜と美海を見つめる秋。

 そのガシッとしがみつくような眼差しに、美海が面倒くさそうに舌打ちをする。


 ――どうしよう…私も分かんないんだけど…。


 美菜は戸惑いながら美海を見る。

 自分も知りたい。何が起こって、こうなったのか。

 二人の視線が自然と美海に集まった時、秋の肩をポンポンと誰かが叩いた。


「こんにちはー」


 凛とした明るい声をかけられ、秋が振り返る。その瞬間、秋はガクッと膝から崩れ落ちた。

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