【完結】孤独な彼女は世界なんか救いたくない

櫻野りか

第1話 前編

 


 人間は自分勝手な生き物だ。

 自分に都合の良いように解釈するし、自分の欲望のまま事を運ぼうとする。

 その我が儘のせいで、どれだけ周りの人間が苦労しているのかを考える事もせず、まるで自分が世界の中心かのように振る舞う。沢山の犠牲の上に生きているくせに感謝もしない――そんな利己的な奴の方が幸せそうに生きている世界に、腹が立って仕方ない。

 私達のような日陰者は、いつも損ばかりする。

 こんな息苦しい世界で生きていたくない。

 だけど、本当に一番嫌なのは、いつまで経っても変われない自分自身だ。



「あ、ごめーん」


 講義終了後のざわつく教室に、間延びした声が聞こえる。

 金髪のくびれボブを耳にかけた派手な化粧の女生徒は、鞄が当たったせいで頭を擦っている級友にさして感情の籠ってない瞳を向けると、返事を聞くことなく教室を出て行った。その姿が、まるで自分は鞄がぶつかっても良い、空気のような人間だと言われているようで、長い黒髪を頬に垂らす女生徒――上里美菜うえさとみなは静かに溜め息を吐いた。

 普通、謝罪って人の目を見てするものなんじゃないのかな?と思うけど、思うだけで口には出ない。子供の頃は「お人形さんみたいだね」と褒められた大きな瞳や、真っ白な肌、控えめな唇が、今では本物の人形のように感情を表さなくなってしまった。それは、元々前に出るのが苦手だからというのもあるが、小学・中学・高校…と歳を重ねていく内に、自我と声がデカい人達に、いつも自分の意見を抑え込まれてきたので、喋っても無駄だと思うようになってしまったからだった。

 小さな声は、どうせ大きな声に搔き消されてしまう。

 「私は財布を盗んでなんかない」と言っても「どうせあの子が羨ましかったんだろ」と言って誰も味方をしてくれなかった、あの時みたいに――。


 ――…やなこと、思い出した。


 美菜は目を細めると、黒いパフスリーブのロングワンピースの裾をギュッと握った。

 中学校一年生のあの夏も、今日みたいに陽射しが眩しかった。カラッとした暑さと陽に照らされた葉の匂いを感じるたびに、急に周りが残酷な世界へ変わってしまった、絶望の瞬間を思い出す。

 あんな地元に居たくなくて県外の大学に来たのに。結局同じような…田んぼや畑に囲まれた場所に来てしまった。しかも、やっと誰も自分を知らない場所に来られたと思ったのに、入学早々、中学と高校が一緒だった同級生を一人見つけてしまった。


「……」


 美菜は綺麗にカールされた睫毛を瞬かせ、視線を左斜め前へ移す。

 エアコンの風で踊るレースのカーテンが、肩を撫でそうな窓際の席。そこに、フリルが沢山ついたピンクのトートバッグにノートや筆箱をしまっている女生徒が居た。人ごみの中でも一際目立つホワイトブロンドの髪をツインテールにした彼女は、ゴスロリ雑誌から飛び出てきたような、薄いピンクのレースがふんだんにあしらわれたロリータファッションで細長い手足を包んでいる。ぱっちりとした二重と通った鼻筋はとても愛らしく、華やかな服装も相俟って、まるで命を吹き込まれたフランス人形のように見える。

 彼女の名は小野原美海おのはらみゅう。美菜が財布を盗んだと疑われた時に、教室の端から無言でこちらを見ていた生徒たちの一人だ。

 立ち上がり、朗らかな表情でどこかへと去って行く美海から視線を逸らして、自分の手元を見る。力なく伏せられた黒い真珠のような瞳は、愁いを帯びて揺れていた。

 まさか、知り合いが同じ大学に入っただけでなく、同じ社会福祉学部に通う事になるなんて、思いもしなかった。


 ――知ってたら、浪人してでも他の学校に行ってたのに…。


 と、思うものの、今は大学三年生。

 高校生の時のように、入学初日から知り合いに美菜の過去を言いふらされるのでは…とハラハラしていたが、三年目を迎えても、彼女が噂を流すことはなかった。

 同じ講義を受けても、偶然カフェテリアで隣のテーブルになっても、彼女は自分と言葉も視線も交わさず、赤の他人のように過ごしていた。

 もしかしたら、スクールカーストの最底辺に居た自分の事なんて、とっくのとうに忘れているのかもしれない。


「ねぇねぇ。上里さん」

「!?」

「もしかして、どこか痛いの?」


 俯く美菜の視界が急に薄暗くなる。机に描かれた人影を見て、美菜は驚いて顔を上げた。

 艶やかな長い黒髪と重めのパッツン前髪を揺らし、零れ落ちそうな程大きな瞳を見開く女生徒――藤野秋ふじのあきが、心配そうに自分を見ている。


「あっ、えっ」


 吸い込まれそうなくらいジーっと見つめてくる秋に戸惑いながら、美菜は何とか返事をしようと口を開く。しかし、自然なメイクにも関わらず目立っている大きな瞳に加えて、存在感のある高い鼻。そして、彼女のスタイルの良さを引き立たせる黄色のシャーリングTシャツと幅が広いバレルレッグジーンズ――その、自分の良さを熟知したような…自信が溢れているように見える秋の雰囲気に飲まれてしまい、美菜は緊張で萎縮してしまう。

 上手く言葉が出て来ず、長い睫毛を忙しなく上下させる。すると、秋は膝を曲げ、揺れる瞳と目線を合わせた。


「さっき頭に鞄がぶつかってたでしょ?あれからずっとしんどそうに座ってるからさ、気になっちゃって…一緒に保健室行こうか?」

「!」


 ――あっ、さっきの見られてたんだ…!


 優しく微笑む秋の言葉に、羞恥でカッと頬が赤くなる。と同時に、美菜の頭の中に色んな感情が溢れ出した。

 どうしよう。全然違う事を考えていただけなのに。藤野さんに心配かけさせちゃってる。私なんかに時間を使わせちゃってる。どうしよう…私が返事をしないせいで、ずっと待ってくれてる。見られてる。どうしよう。

 焦りと申し訳なさで頭がいっぱいになり、全然思考が纏まらない。

 授業以外で人と喋る事が殆どないので、会話の仕方が分からない。でも、折角声をかけてくれたのだから、ちゃんと喋りたい。

 美菜はドッドッと脈打つ自分の鼓動を聞きながら瞬きを繰り返す。そして、冷や汗を掻く掌でワンピースをギュッと握ると、勇気を振り絞って口を開いた。


「い、いや…大丈夫、です」


 「気にしてくれて、ありがとう…」と消え入りそうな声で呟く。すると、淡いピンクの唇が、安堵で弧を描いた。


「そ?なら良かった~!でも、無理しちゃだめだよ~」


 秋はニカッと笑ってそう言うと、手を振りながら去って行く。美菜は慌てて小さく頭を下げると、遠ざかっていく背にホッと胸を撫で下ろした。

 はあ、ちょっと喋るだけなのに、とても緊張した。

 オドオドしていて、変な子だと思われただろうな…と落ち込む半面、秋が自分の名前を呼んでくれた事を思い出し、胸の奥がむず痒くなる。


 ――私の名前、知ってるんだ…。


 共に過ごして三年目なので、当たり前といえば当たり前なのだが。ずっと一人で行動している自分とは違い、秋は学部の中でかなり目立つ存在だ。いつもニコニコと笑っている太陽のように明るい彼女の周りには、常に笑顔が溢れている。

 自分とは全然住む世界が違う人。

 だから、自分なんて秋の記憶の片隅にも残っていないんだろうな…と、思っていた。


 ――藤野さん、良い人そうだよなぁ。


 今までは、心配するフリをして近づいてきたと思ったら、陰で悪口を言って面白がっている人が沢山居た。だけど、彼女は本当に良い人のような気がする。あんな人と友達になれたら――と考えて、美菜はギュッと眉間に皺を寄せた。


 ――馬鹿だ…。人を信じて、何度も痛い目を見てきたのに。


 もう人を信用しない、関わらないと決めたのに、まだ希望を抱いてしまうなんて。


「はぁ…」


 ちょっと心配されたら、心を許してしまいそうになる。そんな安易な自分に嫌気が差す。

 美菜は肩を落とすと、静かに立ち上がった。昼休憩を迎えたからか、いつの間にか教室から人が居なくなっている。

 これからの人生も、こんな風に一人ぼっちで生きていくしかないのだろうか――そんな不安が込み上がり、波立つ心を搔き乱す。その瞬間、また悲しい夏の一ページが頭を過ぎり、美菜は苦しそうに息を吸い込んだ。


「……」


 咄嗟に閉じた瞼が震える。

 未来に期待なんかしちゃいけない。したって悲しくなるだけだと、何度も自分に言い聞かせてきた。だけど、そもそも何故、自分がこんなに苦しい思いをしなければいけないのだろう。

 法を犯していないのに。

 誰かの悪口を言ったわけでもないのに。

 ただ誠実に、普通に生きていただけなのに。


 ――…何で、何もしていない私が…。


 思い出すのが辛すぎて、いつもは必死に心の中で蓋をして見ないようにしている感情。

 それがしたり顔で蓋を開け、心臓にガリッと爪を立てる。あまりの痛さに息を吐くと、ジワッと視界が滲みだした。


 この世界は残酷だ。

 人は見下された瞬間、人間ではなくおもちゃにされてしまう。

 言ってもいない悪口をなすりつけられたり、物が無くなれば犯人にされたり、空気のような扱いをされたり。そのくせ、面倒な時だけすり寄ってきて、やりたくない事を押しつけてくる。

 「違う」「やめて」「嫌だ」と言っても、誰も耳を傾けてはくれない。親でさえも、まともに話を聞いてくれない。「はっきり言わない貴方が悪いんじゃないの?」「考えすぎじゃない?」と言って、勇気を出して伸ばした手を振り払う。


「うっ…う、ぅっ」


 堰を切ったように溢れ出す悲しみが、涙となってポロポロと目尻から零れだす。

 辛い。自分の周りには誰も味方が居ない。

 自分だって、皆のように笑い合える友達が欲しかった。

 放課後に友達と一緒に買い物をしたり、カフェに行ったりしてみたかった。

 だけど、そんなの永遠に叶わない夢だと思うくらい、自分が孤独でいる未来しか描けない。


 こんな世界なら、もう生きていたくない。


「う゛、あぁっ」


 涙を流すだけでは追いつかない感情の昂りが、喉の奥を締め付け、悲痛な声を生み出す。普段は無表情な顔がクシャリと歪み、叫び声に似た嗚咽が漏れそうになった時。ドォーン!と何かが爆発するような大きな音が聞こえた。


「!?」


 美菜の細い肩がビクッと飛び上がり、涙がピタリと止まる。


「えっ…なっ、何…?」


 ビリビリビリ…と窓が震え、教室も僅かに揺れている。至る所から、「キャー!」「何!?今の!」と戸惑う声が聞こえてきて、美菜は頬に流れる涙を手の甲で拭った。

 一体何が起こったのだろう。急いで辺りを見回すが、教室を見たところで何も分からない。

 別棟には薬品を扱う部もある。実験中に何かが爆発したのかもしれない。火事になっていたら大変だ。


 ――だ、大丈夫なのかな…。とりあえず、一旦外に出よう…。


 美菜は動揺しつつも、背凭れにかけていた黒いリュックを掴み、背負う。すると、教室のスピーカーからザザッ…と掠れた音が聞こえた。続けてすぐに、焦りを押し殺した声で男性職員が話し始める。


「えー、皆さん。先程の爆発音ですが、我が校で起こった爆発ではなく、校舎に被害はありません。しかし、音が鳴る数分前に、空から地上に向かって何かが落ちてくるのを見たという情報が入りました」

「!」

「まだ原因は明らかになっていませんが、異常事態が発生したとの判断により、国から緊急避難指示が出ました。皆さん、焦らずに落ち着いて体育館へ移動してください。もう一度繰り返します。先程の爆発音ですが――」


 早口で告げる放送を聞きながら、美菜の顔がサッと青くなる。


 ――ただの爆発じゃなくて、爆弾…てこと…!?


 しかも、国が避難指示を出すような緊急事態。それなら、ゆっくりしている場合じゃない。早く安全な場所に逃げないと。


「ぃたっ!」


 慌てて教室を出ようとして、腰が机にぶつかる。美菜は痛みで顔を顰めると、腰を抑えながら教室を出た。


 ――ち、近くに落ちたらどうしよう…!


 校舎に落ちていないのに、あんなに大きな音がしたのだ。もし、大学の上に落ちてしまったら、一溜りもないに違いない。


「は、早く…体育館…」


 直面したことの無い死と隣り合わせの恐怖に、足が竦んで上手く歩けない。

 さっきは死にたいと思ったくせに。いざその瞬間が訪れると思うと、怖くて仕方がない――そんな自分が、情けない。

 壁を伝いながらよろよろと移動しているうちに、他の人達は少し歩いた先にある体育館へ移動したようだ。シン…と静まり返った校舎が、より孤独感を際立たせ、美菜を焦らせる。もしかしたら、このまま一人で死んでしまうのかも…と、沈んだ顔で歩き続けるも、無事2回目の爆発音を聞くこと無く出入口に辿り着いた。自動ドアを通り、目の前にある広い芝生のグラウンドを横切って体育館へ行こうとした美菜だった――が、眩い日差しを頭上から浴びると同時に目にした光景に、思わず足を止めた。


「…なに、これ…」


 大きく瞠った黒い真珠の中に、校舎と同じくらいの大きさのクマが暴れている。それは、おもちゃ売り場でよく見るような、真っ白な布地でできたぬいぐるみのクマだった。

 呆然とする美菜の10m先に居るクマは、くぐもった低い声で「う、ぶもー…」と唸ると、黒い円らな瞳を赤く光らせて、綿が入った柔らかそうな腕を振り下ろす。すると、再びドォーン!と地響きのような音がして、グラウンド一帯に砂塵が舞った。


「!!」


 ブワッとこちらに向かってくる砂埃に気付き、美菜は咄嗟に腕で顔を隠す。が、隠し切れなかった首や耳殻に、細かい砂粒がチクチクとぶつかる。思わずよろけてしまいそうな風圧に耐えながら、美菜はこの非日常すぎる状況に戸惑っていた。


 ――なっ…何なの!?CG…な訳ないし、何かの撮影ってこと!?でも、そんな案内聞いてないし…!


 尚も吹き付ける風に背を向けて、考えられる可能性を探してみる。しかし、全く浮かばないし、この状況が理解できない。

 ああ、もしかしたらあれだ。これは夢なのかもしれない――と、結論づけようとした時。隣で「コホッ!」と誰かが咳をした。


「も~!嫌やわぁ…折角可愛い服やのに、砂だらけやん~~!」

「!?」

「こんなん、ウチ一人で何とかできるわけないやろ、ボケが~~~」


 ケホッ、ケホッ、と咳き込む合間に聞こえる鈴を転がすような声。その愛らしい聞き馴染みのある響きに、美菜は目を見開いた。

 風が落ち着くのを待って、美菜は顔から腕を離す。そしてゆっくりと隣に顔を向けると、そこには顰め面をして顔の前で手をパタパタと振る美海が居た。


 ――お、小野原さん…だよね…?


 フランス人形のような容姿も声も間違いなく美海だ。

 しかし、先程着ていた白いゴスロリ服とは違い、子供の頃日曜日の朝によく見た、悪と戦う女の子が着ていそうな――腰に大きなリボンが付いた、メイド服のようなピンクのフリフリドレスを着て、頭に小さなティアラを乗せて立っている。

 その姿だけでも驚きなのだが、美菜が一番ビックリしたのは彼女の様子。

 美菜が知っている美海は、いつもお花畑で日向ぼっこをしているような穏やかな笑みを浮かべ、ゴスロリ服を着た友人と、標準語でのんびりと会話をしている――そんなイメージだ。しかし、今目の前にいる彼女は、イラついた表情で舌打ちをして、コテのコテの方言を喋っている。


 ――も、もしかしてそっくりさん…とか?


 同一人物には思えない。ゴクリと喉を鳴らして、美海を凝視する美菜。すると、視線に気づいた美海が美菜の方へ顔を向けた。


「うわっ、上里さん!?何でここにおるん!?」


「ゲッ!」と肩を竦めた美海を見て、固まっていた美菜の表情が段々曇っていく。

 陰口を言われる事には慣れている。だけど、面と向かって嫌悪を示されると流石に傷つく。


「…ご、ごめんなさい…」


 やっぱり私は居ちゃいけない存在なんだ――そう実感して、自然と視線が下がっていく。ツン…と鼻の奥が痛くなり、視界が薄っすらと滲んでいく。今にも泣きだしそうな美菜を見て、美海は「あ~~~~」と面倒くさそうに天を仰いだ。


「いや!謝ってほしいんやなくてっ…さっき放送が流れてたやろ!?体育館に行けって!」


 美海は握っている背丈と同じ長さの白いステッキを、グラウンドの先にある別棟の校舎の、さらに奥に見える体育館の屋根へ向ける。先端に六角形の水晶のようなものとリボンが付いたステッキを、美海が苛立たし気に揺らしてみせる。


「えっ、うん…だから、体育館に行こうとしてて…」

「はぁ~~~!?体育館は校舎の裏口から出たほうがめっちゃ近いやん!こっち表口やで!?何でこっちに来たん!?アホちゃう!?」


 カッと目を見開いた美海が、早口で捲し立てながら美菜に詰め寄る。その勢いに気圧され、美菜は「ご、ごめんなさい…」と後退る。


「わ、私体育の授業選択していないし、サークルも入ってないから全然体育館に行かなくてっ」

「今はそーかもしれへんけど、一年の時は体育必修やったやろ!?」

「そ、そうだけどっ…!」


 子犬のようにキャンキャン吠える美海に、美菜はオロオロしてしまう。


 ――そんな事言ったって、最後に体育館に行ったの1年以上前だもん!


 と、思うものの、言葉が喉の奥に留まって出てこない。口をもごつかせ、何か言いたそうに自分を見る美菜を、美海はムッとした表情で見つめる。そして横目で大きなクマを見ると、チッと舌打ちをして、溜め息を吐いた。


「…見られちゃったもんはしょうがないし…上里さん、手伝って」

「……え?」


 「手伝う…って、何を…?」とぎこちなく尋ねる美菜に、美海はふん!と鼻を鳴らす。そして、パニエを履いたようにふんわりと広がったスカートのポケットから何かを取り出すと、「はい!」と言って美菜の掌に強引に握らせた。


「それ、おでこにくっつけて『変身したい!』ってお願いして」

「えっ!?へっ、変身!?」


 ギョッと目を見開いた美菜の声が裏返る。慌てて自分の手に視線を落とす。そこには親指の第一関節くらいの大きさのシルバーのハートに、ダイヤの粒が右上から斜め下に向かって天の川のように付けられたチャームが可愛らしい、ネックレスがあった。


「こっ、えっ、へぇっ!?」


 これに願えば変身できると言うのか?本当に?そんなアニメみたいなこと、あり得るのか?


 ――あっ、だから小野原さんがこんな格好してるんだ…じゃなくて!


「無理無理無理無理!」


 美菜はブンブンと頭を振り、ネックレスを美海に差し出す。しかし美海は地団駄を踏みながら、「良いから早く!」と急かしてくる。


「えっ、えぇ…?」


 美菜は美海とネックレスを交互に見ながら、どうしよう、どうしよう…とオドオドする。だって、目の前で大きなクマが動いている状況も「ネックレスで変身する」という事実も上手く呑み込めないのに、変身したら戦わなければいけない事は分かる。

 「変身×巨大な未知の生物=戦い」は、日曜日の朝のアニメを見て育った子には常識なのだ。


 ――って事は、あのクマと戦うってことだよね!?


 美菜はズシン…ズシン…と地響きをたてながら歩く大きなクマに目を向ける。のっそりのっそりと亀のように動くクマは体育館に向かって進んでいる。


 ――無理だよ!あんなに大きいクマに、私なんかが敵う訳ないもん!


 クマが歩いた地面が、大きな円になって凹んでいる。そんな足で踏まれたら…と想像して、美菜は恐怖で身震いする。しかし、断ろうとした瞬間、クマの通り道に誰かが倒れている事に気付く。思わず「あっ!!」と声を上げた美菜につられて、美海もクマへ視線を向けた。


「…えっ!あれ、今野さんやん!何であんなところで倒れてんねん!」


 美海は、クマを目撃して卒倒した今野こんの――教室で美菜の頭にバッグを当てた女生徒を見て、狼狽える。


「あかん!あのままじゃ踏まれる!上里さん!お願い、変身して!あのクマ、動きはめっちゃ遅いけどパワーと防御力が半端ないねん!みぃだけじゃ倒せへんねん!な!」


 美菜の肩に手を添えて揺らし、美海は必死にお願いする。しかし、美菜は数秒今野を見つめると、唇を噛み締めて俯いた。


「…やだ。手伝わない」


 震える声で首を振る美菜に、美海は信じられないと目を丸くする。


「なっ…!それじゃあ今野さんがっ」


 「死んじゃうよ」と言いかけて、美海は言葉を止めた。体を屈めて覗き込んだ美菜の顔が、痛みに堪えるような、とても苦しそうな表情をしていて。


 ――えぇ?もしかして、今野さんと何かあったん?


 美海が中学・高校時代に美菜と同じクラスになったのは2回だけだ。それでも、彼女の噂は絶えず耳にしていた。

 美菜はスクールカーストの最上位と言えるような、見た目が華やかで八方美人の女子――否、ねちっこく、かつ周りには自分が被害者であるかのように振る舞うタチの悪い人達に目を付けられやすいようで、いつも陰湿ないじめを受けていた。しかし、大学に入ってからは特に何も聞かなかったので、平穏に暮らしているのだと思っていたが…また、気の強そうな人に何かされたようだ。


 ――う~~~~~ん…いじめ…?てきた人を助けてって、強く言えへんしなぁ…。でも、命がかかってる状況やし…。


 視線から逃れるようにどんどん顔を俯かせていく美菜を見ながら、美海は額に手を添える。

 自分だけであのクマを倒せるだろうか?と考えながら、先程クマに飛びかかった時の事を思い出す。「ハートスプラッシュ!」と言いながら、ステッキから放ったハートのビームを大きな顔に当てた時、クマは痒そうに頬を撫でただけで、大したダメージを負わせられなかった。


 ――あ~~!!やっぱり、みぃだけじゃ無理!!


 美海は上を向いて、頭をブルブルと振る。

 ダメだ。何とか美菜に協力してもらわないと。

 意を決した美海は、美菜の前でしゃがみ、声をかけようとする。その瞬間、クマがいる方から「うわぁ!」と叫ぶ声が聞こえた。


「!?…えぇっ!?今度は藤野さん!?」

「!」


 「藤野さん」と聞き、美菜がハッと顔を上げる。困惑する美海の視線の先を追うと、そこには目の前に聳え立つクマを見上げてアワアワと口を震わせる秋が居る。


「…藤野さん…」


 腰を抜かして、へなへなとグラウンドに座り込んでしまった秋を見て、美菜はポツリと呟く。


「あ~~、もう!何で藤野さんまであんなとこにおんの~!?あのままじゃクマに踏まれて死ぬで!」

「!し、死ぬ…」


 美海から飛び出た物騒な言葉を、美菜は緊張の面持ちで繰り返す。美海は真剣な表情で美菜を見つめると、


「そうやで!今野さんも藤野さんも、今すぐ助けな死んでまう!」


 と、ステッキでトントンと地面を叩きながら叫んだ。美菜はゴクッと唾を飲みこんで、クマと地面に倒れる二人を見る。

 アニメの戦いは、人が傷つくことはあっても、死んだりすることは無かった。必ずハッピーエンドで終わっていた。だけど、目の前の戦いは違う。本当に生死がかかっている。


「お願い上里さん!ほんまにヤバいねん!一緒に戦って!」


 美海は美菜の細い腕を掴んで、必死に揺する。「戦う」と聞いて美菜は一瞬視線を彷徨わせるが、グッと掌のネックレスを握り締めると


「…わかった」


 と言って頷いた。


「!!ほんま!?」

「うん」


 正直、まだこの状況は現実じゃなく、夢なんじゃないかと思っているけど。目の前で人が死ぬのは見たくない。それに――


 ――藤野さんは、絶対に守りたい。


 久々に、優しくしてくれた人だから。彼女が悲しむ姿は見たくない。

 美菜はおでこにネックレスを付け、目を閉じる。そして、心の中で「変身したい」と呟くと、ハートのチャームからパアァッと明るい光が放たれた。

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