2

じめっとした空気に、流風の猫っ毛は一層ひどく跳ね上がる。

首筋まで伸びた襟足も首にぺったりと張り付き、心地の悪さといったら限りなかった。

先頭をいくフード姿の小さな背中を見つめながら、濡れた土や雑草を踏みしめては歩く。

つい先刻まで、石畳でしっかりと整備された道だったはずだが、大きな関所を潜り抜けた瞬間このような風景に風変わりしてしまった。

まさに野生の地。背の高い木々は曲がりくねって幹や葉を肥やし、左右を見ても、新緑の色で埋め尽くされている。聞いたこともない鳴き声が頭上から聞こえたり、斑点模様の熟れたきのこが生えていたりと、他でもない熱帯雨林である。

「ルナは、大部分が森林で埋め尽くされてて、神も他の生物も森と共存して生きているのよ。」

ふと振り返ったベラは、青く澄んだ瞳で流風を見る。

元々、流風の住んでいた場所は山に囲まれた田舎だったため、そこまで驚くこともないが、こんな蒸し蒸しとしていて、まるで植物園のビニールハウスにいるような湿った森は初めてだった。

大きな葉っぱをかき分け進んでいくと、徐々に道という道がない場所から、やや整備された獣道の通りへとひらけていく。

傍に咲いた花も、赤や黄色、紫と色とりどりに染まってきていて、徐々に話し声も近づいてくる。

「さあ、ついたわよ。」

大きな木の板で作られたゲートを潜り抜けると、そこは背の高い木々に囲まれた、世の中と隔離された桃源郷だった。

村全体の広さとしては、帝都と比べれば小さいが、それでも流風が住んでいたあの田舎より何倍も広かった。

獣道を中心として、素朴な木で作られた家々が立ち並んでいる。あたかも自分が小人になったかのような、流風の身長に匹敵するほどの葉っぱを床に敷いて、その上にどんぐりなどのきのみを並べて路上商売をする人もいる。中には木の表面に扉があったりする棲家もあった。

そして、獣道をぐっと奥までいった先に、一際目立つ大木が聳え立っていた。以前住んでいた地域にも、神社の奥にこのような木があったような気がする、と流風は思ったが、それにしてもデカすぎる。

その大木の幹も村全体を擁護するかのように曲がりくねり、その新緑の葉っぱは太陽を受けて、キラキラと輝いてこの桃源郷を照らしていた。

「あの大木こそ、この村とこの聖地を守る領主、アルテミス神族の邸宅。」

「アルテミス神族?」

「狩猟と月の女神の神族で、代々この聖地を守っているの。悪魔族との大戦争の時、アルテミス神族の狩人が弓で悪魔族の心臓を射抜き、浄化したとされているわ。」

歩きながら説明をするベラを追いかけて、獣道を慣れないブーツで踏み鳴らす。

村人は質素な布でできたワンピースや腰に革のベルトを巻いたズボンを履いていて、忙しく何かの準備に追われているようだった。

流風の村ではみないほど、賑やかで、家の前に果実のいっぱい入ったカゴを置いていたり、灯籠台と灯籠台にガーランドを渡していたりと、かっ気付いた様子に面食らう。

「どうしたの?」

「いや、同じ田舎でもこんなに違うんだなぁって思って。」

手を頭に回してそう告げるも、首を傾げるベラに、となりで美味しそうなリンゴを子供に渡す母親に目をうつす。

「こんな賑やかで、のどかなところ。」

リンゴを渡された子供は笑顔でそれを食べ、母親は子供の頭を撫でで笑顔になった。

ふと思い出すのは、小さい頃の記憶。

夜帰ると、家にはご馳走が用意されていた時のこと。食べようとしたとき、持っていた箸を取り上げられ、見上げるとあの老婆は笑っちゃいなかった。客人にあげるものでお前のものじゃないと、そう言って外に放り出された。

どんなにお腹が空いてても、村の人はあんなふうになにかを分け与えてくれない。

「ルカ。」

ふと記憶の底から引っ張り上げられ、気がつくと目の前にはフードを被った少女が、心配そうに眉毛を下げて覗き込んでいた。

「はい。これ、食べたかったんでしょう?」

手に乗せられたのは、よく熟れた林檎だった。

「ここの名物なのよ。林檎パイにしても美味しいんだって、店の人が言ってた!」

ニコッと、目をなくして笑った彼女は、わざわざ買いに行ってくれていたらしい。

リンゴを見つめる。太陽の光に照らされて、鮮やかな「赤」がそこに宿っている。

「ありがとう、ベラ。」

一口齧り付いて、飲み込んだ。この上なく甘くて美味しいリンゴだった。

「もうすぐアルテミスを祀る祭儀があるんだって店の人が言ってたわ。綺麗に飾り付けしてすごいよね。」

横で目を輝かせるベラに、微笑ましく思いながらリンゴを口に運ぶ。

神の世界でありながら神を祀るなんて、どうもおかしな感覚もするが、それくらいすごい守り神だったのだろうと、咀嚼して飲み込む。

「ベラ、それで君の知り合いってどこにいるの?」

「ああ、あの子なら多分……」

大きな目を流風に向けていたベラが、ふと口をつぐんで視線をずらす。

なんだろうと、その視線の先に目を動かすと、流風の横にあった家の隙間から、何やら蛍のようなが近づいてくる。

炎のようにゆらゆらとゆらめきながら、流風の真正面に躍り出た光に、目を思わず見開く。

はっきりと写ったのは、羽の生えた小さな人だった。人差し指くらいの大きさで、透明な蝶のような羽をひらひらと羽ばたかせているが、なんだかグッタリとしていて、流風に全く気づかない。

「危ないっ」

呆然とした流風を起こしたのは、ベラの叫び声だった。

目の前にベラの手が伸びてくる。力なく落ちかけた光は、見事にその手の中に収まっていた。

「ベラ、これって」

「妖精よ。しかもだいぶ弱ってる。」

チカチカと今にも消えそうな光の中に、横たわっている小さな妖精は、苦しそうな表情をしている。

そして、背中には、彼女の身長の大きさもある矢が刺さっていた。

ふとこちらをみたベラは、早口に捲し立てるように言った。

「ルカ、道の奥から2番目の左側にある素材屋で解毒剤を買ってきて。私はこの子を宿屋に連れて行くわ。この子、多分毒の矢でやられたみたいだから」

額には少し汗が浮いている。

彼女のただならぬ焦りに、声を出すよりも先に頷いていた。

「わかった。買ったらすぐ向かうよ。」

「ありがとう、宿屋は一番手前道の右側にあるから。それじゃあ」

そう言いながら、パタパタと走って道を横切り、ベラは住宅街の中に消えていった。

妖精に、

あまりにもお伽話のようで、やけに現実的な事柄に頭が混乱しそうだ。

しかし、このまま突っ立っているわけにもいかない。流風も足を早めて、獣道の奥へと進んでいく。

賑やかに準備する村の人たちから、少し変わった目で見られながらも、一刻を争う事態にできる限りを尽くして走っていく。

そうしているうちに、道の奥から2番目の左側、しっかりと木造で作られた小さな小屋のような建物が見えた。看板も構えていたが、暗号のような字で読めない。それでもベラの言う通りその扉を豪快に開けると、やはり素材屋のようだった。

小さな部屋は、天井まで届く棚で四方八方囲まれ、そこには布や薬草、何か獣のツノのようなものや、何やら不気味な色をした液体の詰まったびんなど、さまざまなものが置かれている。

ものが多くごちゃごちゃしている店内だったが、扉を開けてすぐ正面に、会計用の棚が見えた。商品棚を避けて近づくと、何やら接客中の店主がいるようだ。

「あの、すみません!」

一刻を争う事態だ。順番抜かしをするのは申し訳なかったが、仕方なく声をかけると、会計中だった店主と、その客がこちらを振り向いた。

「ちとまちな少年よ。」

老人の店主はそう言って、前にいる客に視線を戻した。

確かに強引で感情的になりすぎていたなと、息を整えて会計を待っていると、ふと金を払い終わったらしい客が振り返った。

「旅人か?」

背の高い、豪華な毛皮のマントを纏った客は、重低音の声で轟かす。

背中に弓を背負って、ベルトには矢の束の入ったケースをぶら下げている。狩人のようだ。

ここの世界に来てから、というか、ベラに対しては、警戒心が緩みがちだった流風だったが、ふとこの瞬間は、あのオオカミ少年の笑顔が顔にはりついていた。

「はい、すみません、少し焦ってしまっていて、接客中とは気づかなかったもので。」

「そうか。」

文句一つ言われるのかと思ったが、どうやらただの世間話だったらしい。単調な声で呟くと、そのまま横切り、店を出て行った。

「して、坊主、どうしたんだい?」

「解毒剤が欲しいんです。緊急で。」

とりあえず、今は解毒剤を早急に持っていかなくてはならない。

店主に、昨日渡されたこの世界の通過「ポス」を払って、店を後にする。

大きな通りに出て、まっすぐ進んで、ゲートの前まで走りでた。

手前の通りの右側に、さっきの素材屋とは異なり、木の表面に扉が嵌め込まれている建物があった。こちらも看板が丁寧にあるが、字は読めない。扉を開けると、円形の部屋が現れる。扉から入ってすぐの左側にはカウンターが、右川には螺旋階段があって、まさに小人のすみかのような部屋だった。

そして、すぐ目の前の、テーブルとソファが並べられているところに、ベラがしゃがみ込んでいた。どうやらソファにあの妖精を寝かせて看病しているようだ。すぐに近寄ると、ベラはフードを揺らして振り返った。

「解毒剤、持ってきたよ。」

「ありがとう、ルカ。これを飲ませれば大丈夫ね。」

瓶に入った薄緑色の解毒剤をベラに手渡す。蓋を開け、ペースト状の解毒剤を指に垂らして、横たわっている妖精の口元に持っていく。

「さあ、これを飲めば大丈夫よ。」

閉じていた目がうっすら開き、その青くなった小さな唇を薄く開いて、解毒剤を啜る。

さっきはあまりじっくり見られなかったが、どうやら輝いたのは髪の毛らしい。黄金色の髪を下でふたつに結っていて、遠目で見ると本当に蛍が光っているように見える。

葉っぱのドレスのようなものを身に纏って、腰には包帯が巻き付けられていた。さっきの矢を抜いてベラが治療したものらしかった。

「よかった……よく頑張ったわね。」

解毒剤を懸命に飲む彼女を見つめて、ベラはそう言って微笑んだ。

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策略のオオカミ少年 安曇桃花 @azumi_touka

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