夢の話

雨吐流

夢の話

 あのちっちゃな手を、なぜだか覚えているの。

 彼女はどこへともなく目を向けながら、ぽつりと溢す。薄い唇が湿っているように見えるのは、先ほど塗っていたグロスのせいだろう。


 暑さが漂う午後。例年よりも長い雨が続いた梅雨が明けたばかりで、私達はまるで息を吹き返すように、外で会うことにした。

 でも梅雨と夏の間の空白は存在しないみたいで、散歩がてらの雑貨屋の散策は、早くも中断されていた。じっとりとした空気が、足元から纏わりついてくる。これでまだ真夏でないというのだから、嫌になる。

 すぐに入れそうな飲食店も見当たらなかったので、ひとまず近くの公園の木陰に入った。二人並んでベンチに座ると、ようやくまだ僅かに生き残っている風を感じることができた。

 隣の彼女はペットボトルの水をこくりと一口飲んでから、私を見て、暑いね、と言った。まるで少女のようなその目を、なぜだか私は気が咎めて見ていられなかった。

 曖昧に言葉を漏らして逸らした私の目に、公園の様子が映る。見慣れたデザインの滑り台や、動物の形の遊具。木枠の中の砂場は、実家の私の部屋と同じくらいの大きさだろうか。寂れてはいないけれど、私達が子供の頃にはもう飽きられはじめていたようなものが散らばっている。

 まばらな子供達や通行人の声は、むしろ彼女と私だけの空間を浮かび上がらせているように感じて、気分が良かった。

 彼女の黒髪は、意外と薄い肩を撫でている。このままこの暑さが全身を包む頃には、首の辺りで括ったりするのだろうか。きっと項も白いのだろう。

 久しぶりの暑さに参ってしまったふりをして、言葉を出さないまま俯いてみる。黒々とした蟻が、お気に入りのパンプスをよじ登ろうとしているところだった。靴擦れしなくて、リボンが可愛いから、今日はこれを選んだ。空気をそっと蹴とばすように、蟻を振り落とす。

 懐かしい感じ。

 先に口を開いたのは、彼女の方だったと思う。

 大して気になってもいないくせに、私はそれにどうしてと聞いた。

 彼女は海の味を聞かれたような顔をして、どうしてだろうと返した。

 曰く、あの青の滑り台だとか。

 砂場の片隅のシャベルだとか。

 湿ったような木と青空の、夏の匂いだとか。

 そういうものが、彼女の脳の後ろ辺りに滑り込んでくるのだと。

 分かったような、分からないような、ただ彼女の声を飲み込んでいた私は、なにか同意するようなことを言ったのだと思う。でも、子供の頃の思い出がいつも夏のような気がするのは、大好きだったアニメ映画の影響かもしれないなと、若干外れたことを思った。テレビの中の子供達は、麦わら帽子を被って駆けまわっていた。

 それよりも、淡々と話す彼女の横顔が知らない少女のように見えてくることが空恐ろしくて、意味のある言葉を口にできなかった。

 そしてその感覚は、彼女の視線がその場所へ向けられたとき、確かに私の喉に一欠片の氷を流し込んだのだった。

 彼女は、公園を出ていく親子を見ていた。少しの間。もしくはしばらく。母と娘が手を繋ぎ、合わさったそれを前後に振りながら歩いていくところを、見えなくなるまで見ていた。

 隣に座る彼女に、私はこの時初めて会った。私の知らない表情をした、あどけない彼女。一時間ほど前、店でプラムのグロスを選んでいた彼女ではなかった。

 色付いた唇の少女は、親子が消えた先に目を向けたまま、ぽつりと話しだした。


「この前ね、夢を見たの」


 小学生の時の通学路。ここと同じ匂いがしてたの。

 私は子供で、妹と手を繋いでた。私よりももっと子供の、可愛いあの子。

 学校から帰ってたのかな。まだちゃんと明るい道を、二人で歩いてた。水路の魚を見て、お地蔵様にテストで良い点取れるようにお願いして、小石を順番に蹴っとばして。

 家で冷やし中華を食べるの、楽しみにしてた。多分お昼ご飯だったから、学校は午前中だけだったのかも。

 それでね、途中で困ってる人がいたの。自転車の籠に買い物の荷物を積んで、でも落としちゃったおばさん。足元に蜜柑が転がってきたんじゃなかったかな。私はそれを拾った。

 私と妹はあちこちに落ちちゃった荷物を集めて、おばさんに渡した。すごくお礼を言われて、頭を下げられて、褒められた。ぜひ家でご飯食べてって、なんて。

 私、嫌だった。だってなんか、怖いっていうか、変な感じがしたの。髪とかぼさぼさで、みすぼらしいっていうか。笑顔もこう、にぃーって感じで。

 失礼すぎるよね、私。おばさんとか言って。

 でも、子供ってそういうところあるでしょ。ほら、その時私子供だから。

 妹は違うの。私の妹だとは思えないくらい、明るくて、素直で、可愛くて。天真爛漫って言葉が似合う子。だからその時も、にこにこしながらおばさんについて行っちゃった。私の手を握ってね。だから私も一緒に行くことになったんだ。


 おばさんの家はね、多分一軒家だったと思う。古い家って感じ。お邪魔しますって言って、手を洗うために洗面所を借りようとしたら、おばさんが言ったんだ。

 ご飯作るの、手伝ってあげてって。

 それきり襖の奥に引っ込んじゃった。私達はそのまま台所に行ったの。

 そこに、子供達がいた。私と同じくらいの背丈の子が多かった。でも妹くらいの子もいたよ。人数は分からないけど、入れ替わり立ち替わり、色んな子が台所に出入りして、ご飯を作ってた。

 でも全然似てないの。その子達。顔だけじゃなくて、空気、みたいな。色んな家からかき集めてきたみたいに。

 ほうれん草を切っている男の子は、お味噌汁係だったのかな。あの、油揚げも入った、定番って感じのお味噌汁。うちのおばあちゃんのがそうだから。

 すぐ分かったよ。私達はこの子達を手伝えばいいんだなって。妹なんてもう初めて会う子達に話しかけたくてたまらないみたいだった。

 私、手を離しちゃったんだ。

 妹はその場所に入っていって、すぐに溶け込んだの。その広くもない台所の中で、他の子供と見分けがつかないくらい。会って三〇分も経っていないのに、もう仲良くふざけあってて、本当にすごい子だよね。

 私は駄目だった。この家への違和感もあったけど、そもそもそういう、順応っていうのかな、苦手なんだ。何していいか分からないし、手を出すのって、ほら、勇気いるよね。隅の方で、邪魔にならないようにしてたと思う。

 ご飯ができて、私以外の子がお皿を居間の机に運びはじめた時、あのおばさんが出てきたの。どんな顔だったか覚えていないけど、私を見た。

「この子はいらない。家に帰んな」

 ちょっと恥ずかしかった。妹と違って、私だけ馴染めなくて、そんなこと言われて。

 でもそこで、なぜだか分かっちゃった。

 このままここでご飯を食べたら、帰れなくなるって。

 ヨモツヘグイだっけ。この場合は同じ釜の飯、かな。

 これが最後の機会。逃しちゃ駄目。それなら妹も連れていかなきゃって。

 あの子のこと、見つけられなかった。変だよね。でも、本当に分からないの。奥の方にいたのかもしれない。新しい友達に夢中で、私の声に気付かなかったのかもしれない。そうなのかもしれないけど、妹がどの子か分からなかった。

 そのうちだんだん景色が薄くなっていく気がして、私はいつの間にか外に立ってた。

 隣には誰もいないの。私だけ。

 あのおばさんの家があった場所、公民館だった。もちろん見た目は違うし、子供達もいない。いつもどおりの、小さくて、つまんなくて、扉が閉まってる建物。

 でも分かるの。いつもと違うこと。

 もう皆、あの子のことを知らないんだって。

 こういうの、夢って感じするよね。でも分かるんだよ。

 私は一人で家に帰った。やっぱり誰も、妹を覚えてなかった。私に妹なんていないって。一人っ子だって。

 お父さんだけ、信じてくれた。お父さんも覚えてなかったけど。

 お父さんも子供の頃、同じ家に行ったんだって。それでやっぱり、自分だけ帰ってきちゃったって。

 お姉ちゃんがいたんだって。

 でも誰も、家族も、お姉ちゃんのことを覚えてなくて、そのままお父さんは大人になった。時々、お父さんも、お姉ちゃんのことを忘れそうになるんだって。頑張っているけど、もう顔も名前も思い出せないみたい。

 きっとあの家にいたんだと思う。どの子か分からないけど。

 お父さんの子供は私だけ。でも、私には確かに妹がいるの。

 明るくて、素直な、可愛い子。これからずっと子供のままで、いなくなったお父さんのお姉ちゃんと、他のたくさんの子供達と、家族になった。

 私の大事な、小さなあの子。


「そういう、夢」

 虚ろ、あるいは恍惚。そんな顔をして。永い眠りにつくみたいに、息を吐いて。

 彼女は子供じゃなくなっていた。黒くて長い髪。同じくらい黒くて分厚い睫毛と、プラムの唇。彼女は確かに私の隣にいた。

 私は安堵しながらも、まだ絡みつく余韻を振り払おうとした。

「今、あなたの妹は何をしているの」

 答えなんてどうでも良かった。そういう言葉を重ねて、幼い彼女の面影を薄めようとしたのだと思う。

 よく空気を含ませた私の言葉は、木の上に届くことなく叩き落とされた。

 彼女は笑ったのだ。私のよく知る綺麗な顔と、知らない声で。


「妹、いないの」


 それは確かに夢の話だった。

 私の知る彼女に、妹はいない。彼女のことで、知らないことなんてあってはいけない。だから私は、彼女がただ一人娘であることを忘れていない。はじめから分かっていた。

 でも彼女の言葉を、私は疑わない。例え破いた日記帳で作った冠だとしても、望めば彼女は女王になるのだ。

 私は彼女の言葉を追うだけだから、何も言わずにいた。

「お父さんにはお姉さんがいる。私に妹はいない。名前も無い。それでも」

 あのちっちゃな手を、なぜだか覚えているの。

 あの可愛い子。

 私だけの、小さなあの子。

 ボールみたいに浅く弾ませた言葉でも、彼女は焦がれている。私なら分かる。

 だってまた、知らない顔をしようとしている。

 だから今度は私が叩き落とすのだ。

「怖い夢を見たね」

 あなたに妹はいないのだと。私の知らないあなたはいないのだと。

 彼女の全てを私が知るまで、言い続けるのだ。

 それは確かに夢の話だと。

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夢の話 雨吐流 @rain_99

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