雪解けは死体の温度
凩雪衣
手は、解かされた
「死体は、氷みたいだった」
少女は平然と、呟くだけだった。
❅ ❅ ❅
「うっっっわ」
佇んでいた、佇んでいた。少女は白色と赤色で、佇んでいた。
空気の澄んだ寒い冬空のもっと奥深く、死体のような冷たさが残る中で、佇んでいた。
そんな少女を出迎えたからか、少年の頬は見事に引き攣っていた。光の漏れる薄い扉から出てきた少年が変わり果てた少女を見て、それ以外の言葉を無理やり腹の奥底にしまい込んだことを、少女は見逃さなかった。
その少年の行動には、真っ当な理由がある。佇んでいる少女の本来の髪や肌は、雪原景色のように純白だったからだ。少女専用の藍色染めの
だけれど、今日は違った。少女は、真っ赤だった。
少女を構成する素材は全て白い。にも関わらず、おそらく数時間前、迸発された赤い液体のせいで、共に暮らしている少年でさえも元の姿が分からなくなるほど、塗れていた。
血、と呼ばれる、人間を構成している液体に。
「………ただいま、氷月」
「おかえり、玲。いつも以上に血塗れだな。風呂湧いてるから、すぐ入っちゃえよ」
「うん」
少女―――
玲と氷月が住んでいるこのアパートは、玄関から入ってすぐ隣の部屋がバスルームになっていた。おんぼろとも言えるような古家だが、設備はしっかりとしているようで、どれだけ寒い環境下でもお湯くらいなら出る。
玲は血にまみれた服を素早く脱ぐと、洗面台に落とし込んだ。
「ごめん………冬なのに、返り血塗れで………手、荒れない?」
血は冷たい水でなければ落ちにくい。
にも関わらず、今の季節はどんな生き物でも眠りについてしまう真冬。
手はかじかんで、ひび割れて、きっと氷月の手を荒野のように傷つけてしまう。
申し訳なく口を開いた玲に、氷月は表情の一つも変えずに、平然と返した。
「いやもう慣れたわ。今年で七回目の冬だし、あと少しで春になるしな。もうちょっとの辛抱だろ。それよりちゃんと浸かれよ? それと上がったら髪は絶対乾かせ。去年はそれで風邪ひいてんだから」
「わ、わかってるよ………」
まるで母親のように、氷月はいつもながら玲に指示した。
氷月の歳は玲の二個上であり、今年で七年目の付き合いになる。
また、見た目は玲とは全くの正反対で、髪は短いし黒いし、背も高くて器用で、口は悪い癖にどんな出来事も冷静に対処してしまう。真っ白で長い髪に低身長、感情的で不器用で文字すら読めず書けずの玲とは、共通点を見つける方が難題と言っても過言ではないほど、真っ反対だ。
ただ最近は、少し似てきたところがある。氷月が髪のところどころを、銀色に染め始めたのだ。どうかしたのか、と尋ねてみても、『イメチェンだよイメチェン、それ以上聞くな』の言葉で済まされてしまうから、理由は知らないけれど。
なんてことを考えて、お風呂に浸かること十五分。
そろそろ氷月にも怒られない程度の時間だろう、とお風呂から上がり、素早く寝巻きに着替えた。髪も乾かさなければお母さんこと氷月が怒るので、二十分程度かけて丁寧にドライヤーで髪を乾かす。
全てが終わったあとには洗面所の換気扇を付けて、氷月がいるはずの居間に移動した。
「お風呂、ご馳走様でした」
「ん。ちゃんと髪乾かしてるな」
「もちろん」
和室づくりの、六畳間の居間。小さな部屋だけれど、七年間の思い出がところどころに詰まっている。
そんな部屋の中央にある机に氷月は向かって座り、一枚の紙を見ていた。
氷月の反対側に座った玲は、純粋な疑問を氷月に投げつける。
「なにみてるの?」
「殺しのリスト。そろそろ、取り締まらなくていい、犯罪者の子孫が多くなって来たからな。その報告」
その言葉だけで、玲の目も、心も、身体も、全て。
全て、冷たい氷で包まれていくような感覚に、陥った。
今現在、玲と氷月が暮らしているのは、X区と呼ばれる、地下に作られた街だった。
X区は過去に犯罪を犯してきた罪人を閉じ込めるための地区であり、陽の光すらも届かない監獄。
そんな監獄にいる犯罪者、または過去にX区に閉じ込められた重犯罪者の子孫を暗殺するのが、玲と氷月の仕事だった。
「あー………未成年多すぎだろ」
「そんなこと言ってる私達も、未成年だけどね」
「確かに。まあでも、俺あと少しで成人だからな。玲はあと二年待たなきゃなんねぇの、かわいそー」
「棒読みすぎるでしょ………」
暗殺の組織に加入してから、約十と数年。
ここのところ犯罪者やその子孫の数も減ってきて、それに連なるように仕事の量も少なくなった。
それでも、心の奥底にある、息苦しさは、消えてはくれない。
今日の仕事だって―――………とても、とても、冷たくて、苦しかった。
「………どした? 浮かねぇ顔して」
「あっ………あぁ、いや………うん、ちょっと………」
歯切れの悪い返事をする玲に、氷月が眉を寄せた。
その様子に言い逃れできないと堪忍し、渋々と口を開く。
「………今日、久しぶりに………死亡確認のために、死体に触ったんだけど………」
「死体………氷みたいだったな………って」
―――時は、一時間も前に、遡る。
あーめあーめ ふーれふーれ
ぐ
ちゃ。
かーあさーんがー
ぐしゃ。
じゃーのめで おーむかーえ
ぐ ちゃ。
うーれしーいな
しゃ。
ぐ
ピッチピッチ
ぐちゃぐちゃ
ちゃっぷちゃっぷ
ぐしゃぐしゃ
「らん、らん、らん………」
―――だっけ?
冷たい地下の路地裏で。本日のターゲットを殺害していた玲は、ふと、歌を歌っていた。
ターゲットは同い年くらいの少年だった。服はまるでボロきれのようなものを着ていて、爪には血が滲みこんでいる。
少年は犯罪者の子孫だ。確か祖父の代が人を殺したとか何とかで、家族諸共地下へと放り込まれた。
つまり少年は被害者であり、本当の罪は持っていなかったのだ。
家族の尻拭いを、させられただけで………―――
―――では、人を殺している玲は? なぜ、罪を重ねているのだろうか。
「………私………なんで、こんなことしてるんだろう………」
なぜ、誰のせいで、こんなことに。
問われても、本当の悪が誰なのか、玲は知らない。
母は娼婦だった。X区に送られてきた罪人の子孫である母は、女だからと夜の仕事をさせられていた。夜、といってもX区には空がないから、正確な夜はこないのだけれど。
そんな中、母は客との子供、玲を産んだ。秘密裏に育て上げようとしていたのだろうが、店を営んでいた組織に見つかり、母は殺された。まだ三歳だった玲には温情がかけられ、殺されない代わりに組織へと所属し、殺しを強いられた。
それから、七年。人を殺すことだけの訓練を積み重ね、十歳になると同時に、一人前の殺し屋としてX区の住人を殺し始めた。
また、氷月が借金返済のため、組織に売りつけられたのも、ちょうどこの時期だった。
それからまた七年。氷月とともに二人三脚で、殺し屋を続けてきたのが、今に繋がる。
「う………」
「………!」
殺したはずの死体からの呻き声で、玲は強制的に現実へと引き戻された。
少し焦り混じりに死体へと駆け寄れば、唸り声の他にも、何やら、声が、聞こえて―――
「………こん………な………とこで………しに………た、く、な………」
「つめたいよ………」
その言葉を最後に、死体は事切れた。
生死を確認するため、死体の首元に触れて、脈を確認する。
じわり、と、手に血が滲んだ。
死体は、真っ暗な地下と、冬の寒さで、既に氷と化していた。
「………つめたい、ね」
いつも、思う。この冷たさを忘れられたのならば、どれほど楽なのか、と。
いつも、思う。この冷たさに謝罪の一つでもかけられれば、救われるのではないか、と。
がむしゃらに、生きたい。何者にも支配されず、何者にも邪魔されず、何も考えずに本能のまま、生きていたい。
それが、どれほど身勝手で、罪深くても。
唯一、生きて楽になれる方法ならば。
「………楽に、なりたい………」
けれどそれは、一つの
『契約として。この組織から抜けたければ、死で償うこと。楽になる方法は、それのみだ』
今でも鮮明に覚えている。
十歳の時、氷月とともに組織の長老から言われた言葉だ。
生きるために楽になることは、到底許さない、が。
楽になるために死ぬのならば、勝手にしろ、と。
「人殺しが………それで、楽になるわけ………ないのに」
初めは、人を殺すのが怖かった。
殺すときの感触が、気持ち悪かった。呻き声も、肉を切り裂く音も、血が迸発される音も、何もかもが嫌で、全てを吐き出したことを覚えている。
そんな時、氷月から言われた。
『人を殺すのが辛い? あー………じゃあ、歌うたってみるのは?』
『歌?』
『あぁ。気が紛れるような歌。俺も、人殺す感触に慣れるまではよくやってた』
『歌………私、歌聞いたことないかも………』
『まじ? じゃあ俺が教えやるよ。何がいーかなぁ………あっ、子守唄は?』
『子守唄?』
『お母さんが赤ちゃん寝かしつける時に、歌う唄』
『え、はっ!? 私は赤ちゃんじゃないんだけど!?』
何気ない日常が、何よりも至福だった。
『氷月! そんなに笑うなら、私が歌上手くなるまで死んじゃダメだから!』
『ふっ………ははっ! りょーかい』
そうやって、暖かい色を灯した電灯みたいに氷月が笑ってから、七年の歳月が経った。
何百、何千もの犯罪者を殺した。殺して、遺体を破棄して、組織の上層部に報告して、家に帰って、寝て、起きて、また殺して………その繰り返し。
十歳から七年間。普通の法律ならば、あと二年と少しで成人するはずなのに、玲は教育を受けて外から来た氷月とは違い、刀は振るえど文字すら書けない。
普通のことを、普通と認識出来ず。当たり前のことを、当たり前に出来ず。異常を、異常として受け止めきれなくなっている。
なんという、気狂いと無駄という言葉が似合う、十数年だったのだろうか。
「お前と俺が、組織で殺し屋になってから七年………ほとんどの奴らは、政府の役人に殺されたり、暴動に巻き込まれて死んだ。………残ってんのは、幹部数人と、豆鉄砲の俺達だけだな」
哀愁漂う声で、氷月は告げる。その声に、玲は俯いていた顔を上げた。
氷月の言う通り、ここ数年で同胞はほとんど眠って、楽になってしまった。
その事について恨みこそはないが、少しの羨ましさと、同胞が殺された時、その場に居合わせて助けてやれなかった後悔が募る。
「まぁ、リストの標的も残りは数人だし、あと少し頑張れば………まぁ頑張なくても、幹部が残ってたらあの人達に任せりゃいいしな」
氷月が自分で入れたであろうコーヒーを口にし、大人っぽくはにかんだ。
「あとは手ぇ抜いていいだろ。気ままにやろうぜ」
その笑顔には、余裕の笑みが込められていた。
そして、その笑みを見て、思った。思ってしまった。
ずっと、吐き貯めていた言葉を、心が侵食する。
「氷月、私………」
―――羨ましい。
と。
「………もう」
余裕なんてものは、どこかに捨ててしまった。
「もう、疲れたの」
「人を殺すの、疲れた」
空気が、冷たくなる感覚がした。
吐き出した言葉は、冷たい空気よりも重く、消えてくれることはなかったようで。今の言葉は本当に、玲の口から吐き出された言葉だと理解するのに、十分だった。
そんな玲に、ため息混じりに氷月は言う。
「お前、生きるために人、殺してきたんじゃねぇの?」
「そうだよ」
「なのに、殺すの疲れたってか?」
「うん」
「それって―――」
そこから導き出される答えは、もう、一つしかない。
「もう、生きなくていい、ってことか?」
鋭い眼光が、玲を貫く。
「うん」
その言葉に、温度はなかった。
その代わり、胸にチクリと小さな痛みが走って、毒のようにゆっくりと広がる、重く苦しい感覚だけが、身体の中に残る。
そんな心に背を向けて、玲は続けた。
「リストが消えれば、私の存在価値は無くなる。氷月も、やっと自由になれる。借金、返し終わるんでしょ?」
「………そうだな」
「でも、私はお母さんを殺された瞬間から、殺し屋になった。………けど、心までは、そうはいかなかった」
人を殺す時は、心を殺せばいい。
組織の上層部が口癖のように言い聞かせてきた言葉だ。けれどそれは、玲の為にはならなかった。
文字すらも書けない不器用な奴が、心を殺す?
そんなことは、できなかった。
「心が疲れた………だから、もう………」
涙すらも流さなくなった、こんな心なんて―――
「玲。なんで法律が、人を殺しちゃいけないって定めてるか、わかるか?」
―――へ?
氷月の唐突な質問に、玲は馬鹿みたいにあんぐりと口を開けた。辛うじて声は出さなかったものの、声まで出していたらどれだけ暗い雰囲気にも関わらず、氷月は盛大にこちらをおちょくっていただろう。
とりあえず答えなければ、きっと氷月はこのまま話を終わらせてしまう。
ならば、なんでもいいから早く答えないと。
足りない頭で導き出した玲は、必死に言葉を紡いだ。
「こ………根本的にっ、悪いこと………だから?」
「んー、まぁ、それもあるだろうけど」
まるで、今までの話が嘘だったかのように、氷月はいつも通りの温度で続ける。
「一番は、その人が唯一自由に使えるはずの、時間を奪ってるからだと思う」
「………じかん………」
「うん。これは自論なんだけど、俺は時間さえあれば、なんでも出来ると思ってる。こんな狭い空間に閉じ込められてっから、なんとも言えねぇけどさ………」
まるで、憐れむように。寂しさ混じりに、氷月は音も立てずに笑う。
「時間さえあれば、金が稼げる。勉強が出来る。好きなだけ寝て、好きな時間に起きれて………」
あぁ、それはまるで、誰もが望む理想郷のようで………―――
「好きな奴と、好きなだけ、一緒に居れる」
そして、酷く残酷で、一生懸けても叶わぬ、幻想だった。
「人を殺すってのは、人生っていう時間を奪ってる。普通じゃ他人が操作しちゃいけねぇもんを、無理矢理動かして、縛り付けてる。だから人を殺すことは到底、許されねぇことだ」
まあ、俺が言えたことでは無いけど。
なんて皮肉混じりに、氷月は玲に笑いかける。
「だからこの国は、生きて償わせるんだろうな。逆に人を殺すことを快楽だと思う奴は、生きて殺すことが一番の幸せだろうから、その場で殺すのが一番の苦しみだろうし」
氷月は短く息を吐いた。
吐き終わると、眩しいほど強く、真っ直ぐに、玲を見つめて。口を、開いた。
「玲。お前にとっては、人を殺すことは当たり前になっちまっただろうけど………もし、まだ起きてられるんなら………」
くしゃり、と。
氷月が、リストの紙を消した。
「生きて償うのも、一つの選択肢だと思うよ」
………嗚呼、救いの手だ。
振り払ってしまったら、一生、手に取れない、最初で最後の………生きて、償えと。生きて、償っていいと言ってくれている、唯一の救い。
とった瞬間に、今までにないほどの苦しさが込み上げてくるけれど、生きがいすらも感じられる、救いの手………―――
―――でも、だからこそ、その手は振り払わなくてはならない。
「………もう少し、考えるよ。でも、今日は遅いから、もう寝ようよ」
罪からは、逃れられない。
どれだけ取り繕うが、一度生きるために人を殺した者は、もう元には戻れない。
死で、償うしかないのだ。
「だな。寝るか。あ、薬飲み忘れんなよ」
「うん」
机の上に置かれた薬を一粒、握りしめる。
日々の仕事のストレスで眠れなくなった玲のために、氷月が作ってくれた睡眠薬だ。最近は使いすぎで効き目が薄くなってきている。だから、この薬がなければ、もう眠れない。
けれどその薬は、もう、飲まなくていい。
「氷月」
「ん?」
「寝るまで、一緒に居てくれない? 久しぶりに………子守唄、歌ってほしくて」
「………わかった。寝るまでだけだからな」
久しぶりに居間に布団をひいた。
小さい布団に二人で、子供に戻ったみたいに寝転んで、向かい合って、玲は氷月の袖を引く。
「………氷月」
「んー」
氷月は目を合わせてはくれなかった。
少し恥ずかしそうにそっぽを向いていて、耳が少し赤かった。
「氷月は、私よりも遅く寝てね。早く………寝ちゃ、だめだよ」
「はぁ……わかってるよ。ったく、玲は相変わらずわがままだなぁ」
この言葉を、氷月がどう解釈したのかは分からない。
けれど、頭のいい氷月ならば、きっとすぐ、その真意に気がつくはずだ。
玲は歌に身を任せるように、瞳を閉じた。
「………ねーんねん………ころーりーよ………おこーろーりーよ………」
ぼーうーやーは
よいーこーだ
ねんねーしーなー
『この組織から抜けたければ、死で償うこと』
わかってる。自分が成すべきこと。背負わなければいけない責任。
逃げるつもりはない。
償いという名の死から、逃げるつもりは、一切ない。
「ひづき」
あなたに出逢えたことだけが、生きてきた中で唯一の、幸せだったから。
「いままで、ありがとう」
玲の世界の時間は、その言葉を最後に、崩れ落ちた。
❅ ❅ ❅
「………馬鹿だなぁ、お前。生きて償う………そういや、助けてやれたのに………」
もう、二度と起きないであろう少女に、割れ物を触るかのように触れる。
声は、無意識のうちに震えていた。
伸ばした手が届かなかったこと。止められなかったこと。真実を、言えなかったということが、頭を揺さぶる。
気がついた時には遅かった。何かがおかしいと、そう気がついた時には、もう全て手遅れだった。
この眠り方からして、きっと、玲は薬を飲んでいる。組織の上層部が準備した、自決用の―――即効性では無い、より苦しみを与え、己を食い散らかす
いくら自発的に寝たからといって、その痛みと苦しみを知らずに死ねることなどない。そういう風に組織が作った薬だ。それを、玲もわかっている。
「………せめて、苦しまずに………寝てくれ、よ」
七年間、ずっと、ずっと。この少女が傷ついていくところを、一番近くで見ていた。痛みも、苦しみも、辛さも分かち合い、分かり合えるほどには、近くにいた。
………だから。最後くらいは、楽になって欲しい。
その願いを込めて、氷月は隠し持っていた『嘘つき』の道具を、玲の頭に押し当てた。
パンッ―――
乾いた音。その音のすぐ後に、迸発された液体が飛び散る音が、部屋に響いた。
音の余韻が消えると共に、氷月はテーブルに置きっぱなしの携帯を掴み取り、六桁のパスワードを素早く解除する。そのまま受話器が描かれたアイコンをタップし、『主任』という文字が刻まれた行先へと発信した。
その間、氷月は何も見ず、呼吸すら、していなかった。
『もしもし』
「………もしもし、主任?」
時刻は午前四時だと言うにもかかわらず、発信してからコール音が五回程度で、素早く声が帰ってきた。
画面の先の主は相当長くこの話を待っていたらしい。
『氷月か? お前が電話をかけてくるということは………そういうことだな?』
最後の鉄砲玉を、殺した、と。
「………あぁ、終わったよ。七年もかかっちまったけどな。あとは、幹部を殺せば、このX区は取り壊しにできるはずだ」
『そうか。七年間に渡る、潜入捜査………ご苦労だった』
真相。氷月は、政府から派遣された諜報員だった。組織に所属している
目には見えないX区で暴れ回っている殺し屋の組織は、政府の管轄下の組織だった。初めのうちは犯罪者を殺し回るだけで、政府への貢献度も大きかった。が、何年も経てば犯罪者の数は減り、かといって政府ですら制御出来なくなった、人を殺してきた組織の人間を地上に出せるわけもなく、政府は人殺しの組織の処分に悩んでいた。
そこで、怪しまれずに潜入捜査ができそうな人間―――当時まだ十二歳であり、生活保護を受けて暮らしていた氷月を、組織へと売り飛ばした。裏切りでもしたら、母親を殺すとの条件付きで。
余程切羽詰まった状況だったのだろう。一か八かで、国の平穏を守るために子供一人を犠牲にする。途中から、というか、最終手段で卑劣極まりない行為をするくらいなら、最初からX区なんてもの、作らなければ良かったのに。
まあ、そのおかげで、地上の犯罪は減っていったのだが。
だから、この任務………玲を殺す、という任務を完遂すれば、一生遊んで暮らせるような大金が手に入る。
そのための、死に物狂いの七年間だった。
―――はず、なんだけどなぁ………
『すぐに迎えを手配する。X区の中央付近に―――………』
「いや、その必要はねぇよ」
今までにないほど、冷えきった声で告げていた。
ここまで生きてこれたのは、政府のおかげでも、組織のほんの少しの温情のおかげでも、ましてや自分自身のおかげでもない。
『ひづき』
母親の顔も、主任の顔も、地上の景色すら思い出せはしない。
頭の中に広がるのは、純白で、目を奪われるほど美しくて、愛おしい、雪原景色だけだ。
心の中で、その景色をゆっくりと噛み締めながら、氷月は告げた。
「俺、もうこの仕事辞めるからよ。捨ておいてくれて構わねぇ。………いや、仕事辞める、は、嘘だな」
やめよう。
これ以上、あの少女を裏切る行為は、したくない。
少女は、自分自身の立場を自覚して死んだ。もし、まだ同じ土俵に上がりたいと思うのならば、やるべき事は一つだ。
「………俺は、殉職した」
『待て、どういう―――』
これ以上話していても、気分が害されるだけだ。憎むことすら贅沢になった存在と、会話をすべきことは何も無い。
罪からは、逃れられない。
たった一人の幼い少女を騙し、裏切り、殺した。その罪からは、到底、逃げられない。
例え、諜報員という仕方の無い立場を捨てた後に死んだとしても、生きたとしても、罪は消えない。
ならばもう、そのまま『裏切り者』を肩書きに背負おう。少しでも罪を重くして、少しでも、あの少女に近づけるように。
「………悪ぃな、玲。約束、守れそうにねぇわ」
玲は、怒るだろうか。いや、怒るに決まっている。
眠りにつく間際、もっと遅く来いなんてことを言うものだし、玲の性格上、会った途端に殺しにかかってきても驚きやしない。
それでもいいと、気がついてしまったのは―――
少女のいない世界に、もう、未練はなかったから。
「もうすぐ、寝るよ」
利用されるだけの人生に、初めて存在と、価値を見出してくれた君は、この真っ暗な世界で、唯一の光だった。
見捨てられた自分に、手を差し伸べてくれた。
―――今度もまた………その手が、欲しい、なんて。
おこがましい、申し出だ。普通なら許されない。
けれどきっと、優しい君は、次は裏切るなよなんて悪態をつきながらも、受け入れてくれるんだろうな。
もしも、また生まれ変わって、君と出会えたのなら―――
パン、―――と、乾いた音が、室内に響き渡った。
―――今度こそは………手を、解かさねぇって………いうんだ………―――
青年は、雪のような手を握り、ゆっくりと、瞼を閉じた。
雪解けは死体の温度 凩雪衣 @setsui-kogarashi
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