魂の自由を取り戻して

「夢と現実の境界がわからなくなることがあるでしょう。僕は、正気と狂気の境界がずっとわからないままなんですよ」


 佐々木の声が聞こえた。久々に彼の声をちゃんと聞いた気がする。中高の頃と違って、敬語で、距離があって、それでいて哀愁があった。僕は、眠くて目を擦った。しかし、なんだか擦った感覚が奇妙だった。そこで、「ああ、これは夢なんだな」と思った。


 僕らは星が見える海辺に座っていた。海は広大で、水平線が見えた。僕は下を向いた。波と砂浜の境界が揺れていた。波に反射した星の光も揺れていた。


「藤村くん?」と佐々木は言った。佐々木は体育座りをしていた。そこから以前のような暗く、重い雰囲気は感じられなかった。しかし、以前より、いっそう危なっかしい、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。佐々木からはやはり死の雰囲気を感じるのだった。


「聞いてる?」


「ああ、ごめん。なんだっけ?」と僕は言った。


「ああ、えっと……あれ? 僕の方まで忘れちゃいましたね」と佐々木は笑った。僕も同じように笑った。


 しばらくの沈黙の後に佐々木は、何かを思い出して、何か言いたげで、だけどそれを憚るような表情を見せてから、申し訳なさそうに言った。


「そういえば、サルトルのことはごめんなさい」


「サルトル?」


「僕が『触れないで』って言ったこと」


「ああ、気にしてなかったけど……むしろ僕らが何か気に障ることをしたかもしれないし」


「あの時は、怖かったんです。自分の解釈が、他の人の解釈と混ざるのが。特に、賢い人の解釈が怖かったんです」


「賢い人?」


「そう、生き方がうまくて、要領良くて、知性がある人。僕は自分にはもしかしたらそういった知性がなくて、真理には辿りつかないんじゃないかって思うことがあるんです。能力的な不可知です。いくら本を読んでも、白川くんみたいに優秀な奴の方が、よっぽど真理に近くて、僕がいくら考えたって無意味なんじゃないかと思ったりもしました」


「白川を見ると、僕もそう思うことがあるな……その気持ちの片鱗くらいは、僕にも理解できるかもしれない」


「いや、正直に言うと、今言ったよりももっと、グロテスクで、汚くて、愚かな感情かもしれません。僕が思っていたのはこうです。恵まれた人間は、自分の努力と責任、知性と権利に絶対的な自信を持ってる。彼らは自身に真実を摘発する知性と権利があるのだと信じている。その権利を僕に行使して、僕を哀れだと決めつけられるんじゃないかという怖さ。一方で、僕の真理は彼らの真理には叶わないんじゃないかという怖さ。白川くんには申し訳ないけれど、やはり彼にも同じように感じてしまった。そういう怖さが、あの瞬間も訪れました。馬鹿らしいですけどね」


「その不安は馬鹿らしいものじゃないと思う。そういう不安こそ、僕も時々襲われることがある」


「藤村くんも、そういうこと考えるんですね」


「そうだね……ただ、それを考え出したらやっていられないからな。自分の敵わない知性は実際あるし、絶対わからないこともあるけれど、それでも、自分の知性を信じないとこんなに苦しい学問も、競争も、やってられないよ。それに第一、自分の主観から出発しないといろんな真理が歪んでしまうと思う。真理の判断が自分の外に置かれた時、僕は混乱してしまって、何が正しいのか、何が間違っているのか、何もわからなくなると思う」


「『我思う、故に我あり』とデカルトは言いました。彼は、自分の主観から全てを出発させて真理を見つけようとした。僕も思います。主観に、真理の萌芽があるのだと」


 僕は佐々木の目を見ていた。星の光が彼の横顔を照らしていた。


「同時にね。僕、病んでからずっと自分の考えは狂ってるんじゃないかって悩んでたんです。常人とは違う、異質な考えとか、妄想とかしかできないんじゃないかって。だから、自分の判断したことに自信持てなくて。それと同時に、自分の脳がずっと退化しているような感覚というか、妄想もあって、自分の中で真理が揺らいでいたというか。フーコーはかつて、正常な人間と、狂気的な人間とを区別した精神病院の制度や近代の価値観を批判しました。僕は小さい頃からずっと、正常とか、異常とか、まともとか、狂ってるとか、そういう判断を下されないためにはどうすればいいんだろうって考えて生きてきました。『正しいこと』とか『まともなこと』とかがすごく気持ち悪かったんです。だから、藤村くんが言ってくれたでしょう? 『酔っている人間が正常な判断を下せないとは思わない』『酔っているからこそ見える真理がある』って。僕、あの言葉がすごく嬉しかったんですよ」


「聞いてたんだね」と僕は笑って言った。


 佐々木は、水平線に目をやった。

 彼は手に持っていたサルトルに目線を落とし、その表紙を指で撫でた。


「僕は、そうやって悩む時、哲学に救いを求めていたんです。なんで哲学だったのかはわからないけど。しかし、読んでいてずっと難しいし、体力も集中ももたないし、哲学が遠くにある感覚がしていました。いつまで経っても哲学は僕を救ってはくれない……ニーチェも、ショーペンハウエルも、ヒルティも、僕を救ってくれるわけじゃなかった。そこで思ったんです。哲学も結局は賢い人たちのものなんじゃないか、って」


 佐々木はページをめくった。彼の目線が文字列を緩やかに撫でて、その後に本は閉じられた。


「そうか、哲学はこういう弱者を救ってはくれないのだ、と思いました……僕でさえ、恵まれている方だと思うんです。そのはずなのに、世の中にはもっと恵まれている人がいて、もっと恵まれてない人がいる。教養や知性、教育環境という特権の上に成り立った救い、特権的な救いだったんだと思いました。あんなに時間をかけて、読み続けていたけどね、一向にわからないんです。それは専門家だってわからないことの方が多いかもしれないけど」


それは、佐々木にとっては死ぬより辛いことだったんだろうと思った。主観の外に真理があって、それに届かないということが、どれだけ苦しいことか。中学校のグラウンドで、彼自身が語ってくれたように。


「でも僕は久しぶりに『確信』できたんです。『こんなのは知識人たちの特権的地位を守るための知的ゲームでしかないからなんだ。きっとそうに違いない』のだと。だから、これからすることは僕がやっと自由に、自分の意思で確信できた結果なんです。人生で最初で最後の世界への抗議なんです。だから、今から僕がすることを藤村くんには許して欲しいと思います」


 僕は言った。


「え……どういうこと?」


「抗議するんですよ。哲学とか、世界とか、いろんなものに対して」


「ちょっと待って。え? 佐々木くん、君何するつもりなの」


「わざわざ言うつもりはないですが、なんとなくわかるでしょう」


「そんなの……馬鹿馬鹿しいよ。あまりに子供じみている。幼稚な発想だ。自分勝手じゃないか!」


「これは自分で決めたことなんです。賢い人たちにいくら間違ってるって言われても、僕は自分の間違いに殉死します」


「おかしいじゃないか。まだそんなに哲学をわかってもないのに、そうやって決めつけたり、自分の知性をみくびったり。白川だって、君の知性を認めているんだよ。僕だって君には十分すぎるほどに真理を追求できる力があると思う。哲学も、もっと勉強すればいい! いくらでも勉強すればいい! 大学にだって今からでも行ける。行かなくたって勉強はできる。それに、ようやくまた再会できたじゃないか!」


「藤村くん。ようやく『確信』できたんですよ。それが、間違っているとか、愚かだとか、そんなことはもはや関係なくて、これは僕が自由を獲得した証なんです」


 海の波は止まって、もう揺らいでいなかった。星の光も揺らいでいなかった。周りの景色が絵画みたいに固まって、確定された感じがした。


 僕は言うべきだった。「目の前の真理に飛びついてはいけない。苦しくても、考え続けなければならない。真理に到達しなくても、考え続けなければならない」と。しかし、そんなことは佐々木が一番わかっていた。考え続けることがもう嫌になってしまった彼に、それを言うだけの責任を僕は背負えなかった。僕は、黙り込んでしまった。


「ごめんなさい。醜いこと、汚いことを話してしまったかもしれません。でも、なんだか吐き出せてよかった」


「じゃあ、藤村くん、今日はありがとう。また会いましょう」


 佐々木は、波の止まった海に入って行った。

 僕はそれをただ見ているだけだった。やがて、佐々木が見えなくなると、僕は地面の砂を掴んで、静かに泣き続けていた。


 吐瀉物とも言うべき佐々木の吐いた言葉と僕の吐いた言葉。その悲哀が、まだ空間に余韻を残していた。


 *


 僕は目覚めた。涙を袖で拭った。白川が隣で寝ている。佐々木の姿はなかった。


 佐々木が寝ていたところには、積まれていた本が崩れていた。その横には、真っ二つに破かれたサルトルの『嘔吐』があった。

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魂の自由を取り戻して 福田 @owl_120

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