嘔吐
僕は佐々木の腕を自分の肩にのせて、タクシーを拾った。
タクシーの車内、彼はずっと気持ち悪そうでなんとか持ち堪えている様子だった。
彼の家の鍵を開け、トイレまで連れて行き、背中をさすってやった。佐々木は繰り返しずっと「ごめんなさい……ごめんなさい」と言って泣いていた。
佐々木はそれからしばらくして眠ってしまった。佐々木の寝ているすぐ隣には、本が大量に積まれていた。僕はその中からサルトルの『嘔吐』を手に取った。佐々木はこういう哲学とか文学とかが好きなのかもしれない。このほかにも部屋にはたくさん本が積まれていた。
「嘔吐、俺もそれは読んだことがあるな。文学部の先輩が勧めてくれて。難しかったけど」と白川が言った。
「どういう話なの?」
僕はページをパラパラとめくりながら、白川に問いかけた。すると、佐々木が急に声を発した。
「触れないで」
「佐々木?」と僕は言った。
佐々木は答えなかった。話を聞かれていたのだろうか。僕はとりあえずその本を元の場所に積み直した。
しかし、その直後から佐々木はいびきをかき始めた。多分、もう流石に寝ている。
「佐々木どうしたんだろうな」と白川は言った。僕もそれをあまり気に留めず、「どうしたんだろうね」と返した。
そして僕は付け加えて「もう帰る?」と白川に聞いた。
すると、白川が言った。
「ねえ、明日休み?」
「そうだけど、どっか行くの」
「そうじゃなくて、このままここで寝ちゃわない?」
僕は驚いた。白川もだいぶ酔っているのだとここで改めて気づいた。
「流石に迷惑でしょ。もう、帰ろうよ」
「嫌だなあ。せっかく佐々木の顔を拝めたのに。俺、ほんと心配だったんだよ、佐々木が。だから、会えただけでもよかったんだけどさあ」
僕は黙って白川の顔を見ていた。恵まれた、充実した人間のもつ特有の活力をその顔から感じた。
「お願いだよ。明日また佐々木と何か話せるかもしれないでしょう? こんなチャンスもうないよ」
「わかった。じゃあ、酔ったふりしてここで寝たことにする」
「ありがとう!」と白川は嬉しそうに言う。そして彼はこう付け加えた。
「でも、酔ってるのは嘘じゃないでしょう」
「確かにね。でも、確かにそうだけどさ」と私は言った。
白川はわかりやすく首を傾げた。
「酔っているかシラフかなんて、法律とか医学とかで定義するのは簡単だけどさ。酒がそうさせたとか、自分の意思がそうさせたとか、本来はもっと曖昧で、もっと複雑なんじゃないかなって。それに、酔っている人間が正常な判断を下せないとは僕は思わない。むしろ……彼らにしか見えない大切なものがあるんじゃないかとも思う。酔っていたって、いやむしろ酔っているからこそ見える真理があるんじゃないかな」
僕は言った後になって、何か、自分は変なことを言ったんじゃないかと思った。白川は、不思議そうにして、こう言った。
「やっぱり、藤村くんも酔っているんじゃないか? 酔ったことにすると言ったのは君でしょう」
「ごめん……そうだったね」
「でも、面白い考えだと思う。それも、酔っているからこそ見えたことかもな」
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