猫の手。

末人

猫の手。

『こんばんは。二〇二四年四月二十八日、午後のニュースです。今日昼頃、大阪府華時市で暴走した車が―。容疑者はこうれ―。アクセルととブレーキをふみ―』。

 毎日たくさんの人が死んでいく。その埋め合わせの様に毎日たくさんの産声が上がる。そんな世界を今、俺はもがきながら生きている。

 三回目のスマホのアラームでようやく目を覚ました。四月二五日。七時一一分。

「ああああ!寝坊した!」

破竹の勢いで布団をどけ、急いで洗顔する。朝の水はまるで子供の遊び声を連想させるように飛び交い、俺に活気を与える。

「凪―?朝ごはん机にあるから食べといて」

「はーい。ありが…ごぶごぶ」。リビングから聞こえる母の言葉に、水の中で応答する。水分を含んだ俺の肌は朝日を反射する。食道にパンと麦茶を流し込む。

「いってきます」。そういって家に鍵をかける。

 陽光は炎々と赤く、昨夜雨が降ったのかマンションに植えられた若葉にはしずくが点々とついている。

俺、猫宮凪はいつものように群衆の流れに押され改札を通る。府内の高校にいつものように通う。いつものようにプラットホームの黄色い点字ブロックの凹凸をかみしめて歩いていく。すると一光の光が俺の網膜に近づいてくる。

 俺の足先にはいつしか凹凸の感覚はない。

 何もかもが身体から離脱していく。ふわっと飛んでいる感覚だ。

俺は、プラットホームから転落していた。


 鳥のさえずりが聞こえる。体と周囲が同化したように温かい。心臓の鼓動が普段よりせわしなく素早く動き、必死にもがき苦しんでいるのが如実に分かる。

 そして何よりも、さっきから顎の下をこちょこちょされるのがなによりも鬱陶しい。誰だ?誰かが俺の顎の下を触り続ける。目を開けようとするも頭が重く、睡魔が勝った。俺は眠り続けた。

 幾分時間が経っただろうか。気温は温かいというよりももはや暑い。体温と外の温度が乖離していくのが分かる。今なら目を開けられる。すると目の前には何もなかった。あるのは数メートル離れた見慣れない壁だけだ。  

寝てたのか。俺。いつもの手つきで布団をあげようとする。が、あげるものがない。布団がないことに今になって気が付く。

あれ?何が起こっている?第一、姿勢がおかしい。なぜか腹が下を向いている。加えて足元が妙にモフモフしていて不安定だ。

 状況が把握しきれないまま俺は立ち上がる。思ったより背が伸びないことに驚く。

 嫌な予感がし、ふと下を見た。俺は背筋が凍った。奈落の底が下には広がり、そこにはカーペットらしきものが敷かれている。信じられないことに俺はキャットタワ―の頂上に鎮座していた。

 俺は必死に今ある情報をつかむために周囲をくまなく目視していく。ふと奥の方から誰かが歩いてくる。

「あ。チャチャやっとおきたか。もう子供たち幼稚園いったぞ?お見送りくらいしてくれてもいいんじゃね?まあ、お前に言っても分からんだろうがさ」。

 チャチャ?もしかして俺は誰かと入れ替わっているのかもしれない。呼び方からにするに幼いのであろうか。おそらく今話しかけてきている男はチャチャと呼ばれる人物の親と思われる。俺は自身の理解力に驚くばかりだ。

「じゃ、俺も行ってくるわー」。ひとまず俺はその男を追うために急いでキャットタワーから降りていく。なんだか背中に翼が生えたように体が軽い。ふと右手に全身鏡を通り過ぎた。目に映った自身の姿は一秒ほどだったが俺は目に映ったものが何であるかよく分からず、鏡のもとに立ち返る。よく見ると、この鏡は全身鏡にしてもあまりにデカすぎることに今気づいた。俺の全身の何倍もの大きさだ。

目の前にはなんだかモフモフした生物が映し出されている。後部では長いヘビのようなものが優雅に揺れ動いている。なんだこの猫?俺は思わず右手をだした。すると即座に目の前の猫も右手を差し出し、俺の手に近づけてくる。左手を出しても同様にこちらに肉球を差し出してくる。よくしつけのされた猫だなと感心すること実に三秒。その間ねこもピタッと止まっている。俺は気づいてしまった。


この猫は俺である!!


俺はすべてを理解してしまった。俺は猫になってしまったのだ!その間、鏡の向こうの猫も目からうろこが出るように驚いた顔をしていた。

 猫猫猫猫…。脳の整理が追い付かず海馬がパンクしそうだ。俺はさっきからこの言葉を十回ゲームのように連呼していた。もちろん口には「にゃー」としか出せないが。

「ただいまー。あー誰もいないか」。子供たちの母と思われる人物が帰ってきた。園児の送り迎えだったのだろうか。何もない壁一点を見つつ「にやー」と連呼する猫こと俺を不気味に思うまなざしで見ているのが肌身に分かる。

 さて、どうしようか。この体を元の姿に戻したい。毛は暑苦しいし、尻尾は邪魔。服は着ていないわけだから恥ずかしい。

 頭を抱え熟考していると、目の前に銀色の皿がおかれた。ステンレススチールのコンという音がフロアに響く。そこにどさどさと気味の悪い色の汚物が入れられていく。

「ほい」。当たり前の様に俺の前足の二ミリ先にキャットフードを置いてきた。これを食えというか!食えるはずがない!「にゃあああ!」と抵抗の意を示すも伝わらない。しかし何も食わないと死んでしまう。さっきから腸が腹が減ったと訴えてくる。おそるおそる二粒食ってみた。風味、触感は壊滅的で、舌にあった細胞が死滅した音がした。俺は心を流れる水のようにし、何とか飲み込んでいく。それでも半分程度しか食べれなかった。

 猫になると本当にすることがない。強いて言えば、あくびをかくことが仕事だ。仕方ない、暇だしこの家の探険でもしよう。

どうやらこの家は二階建てっぽい。階段を目前にすると段差の大きさに恐怖する。手に入れた脚力を用い、ゆっくり上がっていく。二階には部屋が中央の廊下から左右に四部屋ほどあり、そのうちの左の部屋を一つ開けてみた。そこには小さな遊具と(猫の俺からするとそこそこの大きさだが)積み木が散乱している。

「にゃあ… (はあ…) 」これではケガをするではないか、しっかり片づけてほしいものだと猫ながらにため息をつく。しかし、仮にも俺は居候の身なのだから、と四本の足と尻尾を駆使し、きれいに片付けをすることにした。片付けの途中、壁を見上げるとクレヨンで書かれた何枚もの絵を目にする。子供が書いたものだろう。そこには家族で手をつないでいるもの、どこかで昼食をみんなで食べているものがある。仲のいい家族なんだなあ、とほっこりしていると前足で持っていた三角錐の積み木が滑り落ち、後ろ足に落下した。突起部分が見事に命中し痛い思いをした。

なんとか片付けが終わった。猫の身でするのはきわめて大変だ。ものを握れないので一つ一つ両手の肉球の摩擦力に頼り、運ぶしかない。ここであるものが目に入った。プラスチックでできた小さな滑り台だ。普段の俺なら全くもってどうでもいいのに猫になった今ではどうしても滑りたい気分である。猫の体で滑ったらどんな感じなんだろうという好奇心は止まらず、滑ってみることにした。

 いざまいる!

 ぴょんっと乗ってみると、尻が斜面に吸い取られていく。なにがなんでも楽しく、爽快感にかられる。こんな新鮮な感覚は久しぶりであった。体毛のおかげでよく滑りどんどん加速していく。みるみるうちに地面が近づいてくる。が、すぐに問題に気付く。どうあがいても止まらない。スピードは加速するばかりである。必死に爪でプラスチックをひっかいても全く無意味。

ガチャンッ!!!

 大きな物音とともに、俺はつい二十秒前に自分で片づけた積み木の箱に正面激突した。積み木は散乱し、俺の努力は水の泡になった。絶望からただその現状を見ることしかできなかった。猫の手も借りたい気分である。

 もう今日はさんざんである。猫にはなるし、片づけた積み木はまた散らかるし。もう、何もやる気がでず、積み木は放置してその場を去った。もともと散らかってたんだからまあよいであろう。

 部屋をでて向かいのドアを開けるとそこは寝室であった。ふかふかのベットがある。正直、例のキャットタワーは寝心地が悪く肩がこる。猫が人間の布団で寝てはいけないなどという法律はないのだからここで寝てもいいだろう、などと考えているといつの間にか寝ていた。

 幾分時間が経ったであろう。すっかり日は落ち、寝室は涼しい空気で満ちている。すると下の階から子供の声が聞こえる。帰ってきたのだろう。流石に顔合わせしておかないとなと思い階段を不器用にも降りていく。登りよりも下りの方がはるかに難しい。五段ぐらい降りた時、急に腹に違和感を覚えた。

 ギュルルルル。

 腹が痛すぎる。絶対にあのキャットフードせいだと思いながら急いでトイレを探す。どこだっ、どこにあるんだ!猫になって漏らすのは死んでも嫌だ!台所、ふろ場、トイレを順に全速力で駆け回り、くまなく探す。あった!玄関にそれらしきオレンジ色のボックスがある!俺はその箱に放たれた矢のごとく突撃した。

 危機一髪であった。危うく俺の猫ライフが初日から終わるところだった。ところで、さっきからトイレットペーパ―を探しているのだがそれらしきものがない。あるのは砂利だけ。俺は現実を受け止められない。嘘…だろ。

 もう人間に戻りたい。さっきから尻が匂う。至極不愉快である。この世の猫諸君には同情するばかりだ。トボトボといい匂いがする方へ無意識に歩いているといつしかリビングについた。家族四人が仲良く夕食をたべ団らんしている。俺は夕食が何であるか確認するべく、急いでキャットタワーを登る(いつの間にか上りなれていた自分が怖い)。見下げてみると焼肉であった。油ののった肉がじゅうじゅうと音をあげ、その周囲には宝石のような白米の入った茶碗とソースが四つ。久しぶりに人間の飯を見たきがし、いつしか涙とよだれがでていた。ところで、母親が父親にスマホを見せている。よく見てみるとスクリーンには布団をかぶりあたかも人間の様に爆睡している猫が映し出されている。どうやら俺が寝ている間に盗撮されたらしい。けっこう萌えている写真だなと自分でも思う。

 話を戻す。現在、俺はあの肉をどうしても食べたい。あんなキャットフードはもうこりごりだ。また腹をこわす。俺は静かにキャットタワーを下山し、テーブルの下に隠れ、前足を卓上あげた。机の上には迷子になった猫の一手がゆっくり探りをいれている。探りを入れること三秒。肉球に何かが触れた。柔らかい。これは肉に違いない!ゆっくりと自分のほうへ手繰り寄せていく。ある程度引っ張っていくと突如動かなくなった。あれ?と思い机の上をみてみる。それは練習用の箸を握った子供の手だった。

「ちゃーだ!!」

 子供が新しいおもちゃを見つけたように声をあげる。見つかってしまった。まさか肉だと思ったものが子供の手だったとは、穴があったら入りたい。新しいおもちゃを採掘した子供がじっとしているわけもなく即座に椅子から降り、幼さがある走り方で俺を追いかけてきた。相手はニコニコと楽しそうに追いかけてくるがこっちは一切楽しくない。人(猫)の命がかかっていた肉は手に入れられないし、追いかけられるしで本当についてない。

「たくやー、座りなさい!ごはんまだ残ってるでしょ!」

「えー」

「ほら、さくらはしっかり食べてるわよ」

母に呼び止められたたくやはしぶしぶまた椅子に座る。危うく捕まり何をされるか分からないところであった。チャチャ、ごめんねー、

といい、母が頭をなでてくれる。メンタルがぼろぼろになっていた俺にそっと寄り添ってくれる女神に見える。猫ながらに心にじーんときてしまう。

「チャチャの分はこれね」

 恐怖の呪文とともに例のものが足の一ミリ先に置かれた。前言撤回。この母は女神ではなく鬼である。


 昨日のことは覚えていない。寝落ちしたのか、気絶したのか記憶がなく、目が覚めると、リビングの床に眩しい陽光がさしていた。首を精一杯持ち上げて何とか時計を見る。六時四二分。人間の頃よりも起きるのが早くなっている。

「チャチャおはよー」

パイナップル頭でだらけたTシャツを着た母親がキッチンでコーヒーを擦っている。

「にゃー」と返答する。なんて行儀正しい猫なのだろう。猫界隈の東大には余裕で合格できるであろうと勝手に自信を持つ。自身を持つことはタダなのだから猫でももって当たり前だ。不愉快な行為をしたあと、糞をまき散らす気分で子供が寝ている部屋に入ってみる。

寝顔を見てみると案外かわいい。

 手洗い場に行くとなにかぶつぶつ言いながら白シャツ姿の父親が顔を洗っている。サラリーマン臭が朝からでも匂う。まあ、何よりも臭いのは風呂になかなか入れない俺自身だろうけど。

 七時〇五分。子供二人も目を擦りながら、ぼちぼち降りてきた。

「おはよー」と父親が言うが、子供に無視される。

そこからは自然体で朝ごはんをみんな食い始める。みんなスマホを見たり、テレビを見たり違う世界にいるようにみえてしまう。なんだか寂しい。ちなみに俺の飯はなく、忘却の彼方だ。仕方ない。俺の出番だ。俺には一発ギャグの才能がある。中学では「クラスで面白い人ランキング一位」をもらった。ゆえ、渾身のネタをお見舞いしてやることにした。

「にゃにゃー!」といい、お辞儀をする。当たり前かのように突如、二足歩行を始める猫にみんな目を丸くする。すこし緊張する。しかしもう後には戻れない。

「ズズ、ズズズーッ(ラーメンをすする音のまね)」

ここで自身の猫の手を箸に見立てるという高テクニックを披露。

「にゃにゃにゃんにゃあ!(熱い熱い!)」

必死に舌をやけどして騒ぎ立てる演技をする。

「にゃ、にゃにゃっにゃにゃ!(これやったらほんまもんの猫舌やないかい!)」肉球を口内にむけ、聴衆の反応をうかがう。家族一同はしばらく俺を凝視し続けている。とても時間を長く感じる。やらなければよかったと今になって後悔の波が押し寄せる。

「ぶっ、はははは!」

笑い声が聞こえた。すると感染するように母、続いて子供が大笑いする。

「チャチャなんだよその芸w」

「ちゃーおもしろい!もっかいやって!」なんだかよく分からんがかなりウケたっぽい。やっぱり俺才能あるんだな。冷や汗はいつしか蒸発し、相手が笑っているのを見るとこっちまで嬉しくなる。幸せが感染していく。これほどやさしい感染症はない。このままこの家の猫でもいいかなと思い始めている自分がいる。こんな生活を続けてみたい自分がいる。

「あ!チャチャのごはん忘れてたわ」

いつものようにキャットフードが足の二ミリ先に置かれる。ただ今日は驚くべきことにゼリーが入っている!ギャグのご褒美だろうか。であれば毎朝一発ギャグをしよう、と小さな朝に思うのであった。

 さて、家族がぞくぞくと家から出ていく時間が来た。

「たくや、テレビ見てないで行く準備できたー?さくらもはやくしてよねー」。玄関のほうから聞こえる声が聞こえないかのようにたくやはスマホを見ている。孤立したテレビではダイエットのコマーシャルが流れている。まあ、この世で最も減量に成功したのは猫に変貌した俺だろうけどな。

「ママ待って。あとちょっと!」洗面所の方に行くと目を疑う光景があった。顔に長いまつ毛を慣れた手つきでつけてる鏡に映る。なんと、小さな体の子供が台に立ち懸命にメイクをしている。え?今どきの子って幼稚園児でさえもメイクするの…?俺はいつしか猫もメイクする時代も来るのかなと考える。

 紆余曲折してようやく出発の時が来た。ここまで来たら俺もこの子たちの幼稚園に行ってみたくなってきた。だから、母の目をかいくぐり、密かに車の後方座席に身を潜めている現在だ。隣で喧嘩している二人は俺の存在に気付いているが何も言わない。俺の意思を読み取り黙っていてくれているのか、どうでもいいのかは分からない。

 車を十分ほど走らせるとドアが開いた。着いたっぽい。いってきますの声とともに俺もひょいっと当たり前かの様に車内からでる。

「え?チャチャ?」。

あ。母にばれた。急いで俺を捕獲しようと試みるが二分ほど逃げていると母はもうバテている。

「チャチャ!ちゃんと帰ってきなさいよ!夕方にはまた来るから!」

「にゃーにゃー!」と返事をしておく。母に勝った上機嫌な俺が尻尾を揺らしていると突然目の前が影となった。あれ?と思い見上げてみると俺は不特定多数の幼稚園児に周囲を囲まれていた。そこからはもう大変である。とある者には尻尾を踏まれ、とある者には食われそうになった。俺は逃げて、逃げて、逃げ回る。ようやく人気のないところを見つけるとそこは階段の裏であった。上では園児が俺を探し回る足音が絶え間なく響いている。

 するとチャーと呼ばれた気がした。ついに疲れのあまり幻聴がするようになったかと思う矢先に尻尾をなでられた。一瞬ビクッとなるがよく見ると馴染みあるさくらだった。

「これあげる」というと何かを俺の首元にかけてきた。それはシロツメクサでできた首輪であった。胸が熱くなり今にでも心臓が蒸発しそうになる。身体と心が分離していく。徳政令が出されたように今までの嫌なこと全てを今は忘れられる気がした。そうだった、ここ数日俺は疲れきっていた。そんな疲弊した俺の心にこのシロツメクサがそっと寄り添ってくれる気がした。ありがとうという言葉で俺の体が飽和していく。あふれていく。今、にゃーではなくありがとうと伝えられればどれだけ嬉しかっただろうか。届かない気持ち。そこには幾千幾億もの壁がある。

 春の風が毛を持ち上げ、ふと夢から覚めた気分で周囲をみると誰もいない。さくらはすでにどこかに行っていた。そういえばさっきまで鳴り響いていた子供の声が聞こえない。教室にいるのだろうか。

 歌を歌うクラス、読み聞かせが行われているクラス、色塗りをしているクラス。廊下を王になった気分で歩いていると十人十色のクラスが目に移っていく。そんな中よく知る顔が見えた。たくやがいる。なぜだか先生の前に立ち、隣にはもう一人の男児がいる。もしかしてあいつ怒られてるのか?もはや家族である俺は親のような責任感を感じ、いてもたってもおられず教室のドアに耳を傾ける。

「こいつが悪いんだ。こいつ、チャーの尻尾を踏んづけたんだ」

「わざとじゃねえ!」

「それでもたくや君。人をたたくのはダメでしょう?つかさ君も踏もうとして踏んだわけじゃないんだし」

 何やらたくやが俺の尻尾を踏んだ奴を殴ったらしい。そこに先生が仲介に入っている。他の園児は爪をみたり、寝ていたり興味がなさそうだ。うちのたくやがすいませんと必死に謝りたい気分に襲われる。ただそんなあいつを俺は見捨てることができなかった。

「にゃー!」気づけば俺の喉から今まで出したことがないほどの大きな声が出ていた。俺は何も考えずたくやの方に走る。ただ走る。

「ちゃー!」たくやが必死に俺を抱きしめる。

クラス中がどっと高揚しているのが分かる。ねこ、ねこがいる!さっきのやつだ!と声が聞こえる。座りなさい!と先生が必死に落ち着かせようとする。けどもうそんなのどうでも良かった。今この世界には俺とあいつしかいない。

「ちゃー、大丈夫だった?」。俺は何度も頷く。言葉が通じずとも心が通じている。俺は汗と涙とシロツメクサの香りに包まれている。

 その後、不本意ながら俺は先生に捕獲され、職員室のよくわからんゲージにいれられている。

「天月幼稚園の後藤ですが―。」すいません、すいませんと何度も謝る声が電話越しに聞こえる。電話は三分ぐらいで終わった。どうやらお迎えがくることになったらしい。その後、俺の昼食としてキャットフードが出されたがたいそう美味だった。やっぱり家のやつは賞費期限が切れているのではないかと疑わしい。

 昼食後、俺はゲージから出され園の門まで連れ垂れた。そこには幾度も相手側の親に頭を下げ続ける母の姿がある。謝ってくれる人がいる。もしかするとこれほど恵まれた環境はないのかもしれないとのほほんと考える。よく見ると大きなカメラを担いだ四人組がいる。巨大猫じゃらしのようなものが頭上にはあり、飛びつきたくなるが我慢。我慢。腕には「お昼の関西ニュース!」と書かれている。あれ?もしかして今回の騒動で地元テレビ来た感じ?俺って有名人ならぬ有名猫になっちゃった感じ?さりげなくかごの中からカメラにピースしておいた。

 「たくや何やってんのよー。というかもとはといえばチャチャが―」とぐちぐち言いながら母が運転している。子供二人はすやすやと他人事かのように寝ている。

 しばらくして、思い出したかのようにコンソールにおいてあるスマホをとり、盗み見したパスワードでロック画面を解除した。肉球を起用に使い、シロツメクサについて調べてみる。ここまで花に興味を持ったことは人生で初めてかもしれない。マメ科ジャクソウ属、一年あるいは―などなど数多の情報がでてくる。花言葉は幸運、約束、私を思って、《復讐》であった。車内は絶えず揺れている。

 

ふと目を覚ますと朝だった。昨日のその後はほぼ覚えていない。疲れ切っていたのでいつの間にか寝ていた。猫になってからすぐに寝られるようになった。日々健康になっていく。時計を見ると十時なのに子供の声が聞こえる。その声でああ、今日は土曜日なのかと理解する。

「お母さんはやくー!」さくらが玄関の前でじたばたしている。桜色の長袖のトップスと手のひら(人間時)ほどの小さな靴がぴょんぴょん跳ね回る。たくやはさほど興味がなさそうにソファでゲームをしている。なんでも今日は家族総出で博物館に行くらしい。

「たくやー、家出るぞー」

「はーい」

 鍵をかける音がガチャンとする。なぜだろう、きっぱりこの家と離別したような気分になる。ちなみに俺は今普通に外にでている。ドアが開いた瞬間にとっさに出てきてやった。すたすたと当然のようにたくやの隣を歩いていく。両親のいい加減にしろよとぐったりとした顔が背中からでもわかる。しかし、一日中家にいては体がなまってしまう。仕方あるまいと勝手に納得する。博物館と家は歩いて二十分ほどの距離らしくみんなで歩いていく。母はさくらの手を握り、さくらの手のひらは軽くたくやをにぎっている。父親は荷物持ちで何かと大変そうだ。それにしてもコンクリートの灼熱が顔を覆い、さっきからきわめて暑い。ほんとこれだから人間は…と考える。そんなことを考えると自分が人間をやめているようで恐怖を感じる。それにしてもこの辺結構都会なんだなと改めて知った。ビルを見るには猫の身長では苦渋の努力で首をあげなくてはいけないから大変だ。

 周囲を必死に見上げているとたくやの歩くスピードが急にあがった。

「信号変わっちゃう!いそげー!」チカチカと青色の信号が光る。たくやにひっぱられさくら、母が紐ずる上に走り出す。

「たくや、ひっぱらないでよ!この服伸びちゃうじゃん!」荷物持ちの父も必死に追いかける。俺は出遅れた。家族は俺の三メートルほど前を走っていく。その距離はまるで俺と家族の距離を表しているようで怖い。必死に追いつこうとする。そんな時だった。

「こけるなよ!」。父が注意をする声がヴオオオーーーン!!!という音にかき消される。言葉で表せぬほどの惨く、気持ち悪く、恐ろしい音が鳴り響く。俺はその瞬間、脳内のすべての血液が停止したような感触に落ちる。

 目の前には多量の血と分断された何かがちらばっている。ガシャン!と大きな音がする。見てみると車がコンビニに追突している。車体のあちこちが凹み、ボンネットの形はもうない。扉が空き、中かから出てきた七〇歳ぐらいの白髪の老人が地面に倒れこんだ。だがもうそんなことはどうでも良かった。俺は目の前の惨状に思考が追い付かない。三秒前に三メートルさきにいた家族の姿はもうどこにもない。残されたのは一匹の猫だけである。きゃー!、救急車を!などといろいろな声が四方八方から聞こえていることに数十秒して気が付いた。周囲には人が集まり大ごとになっている。俺は何もできず、ただただ無力であった。

 救急車、警察が次々にくる。人だった何かはどこかに運ばれ、ブルーシートで何も見えなくなる。張り巡らされた規制線にまるでもう俺が家族と会う資格をはぎ取られたように感じた。何もかもが終わった。夢を覚ませという言葉が俺の脳を殴る。

 そうだ。家に帰ろう。家にはもうみんながいるかもしれない。またまずいご飯が俺を待っているかもしれない。どうして俺はそんな簡単なことも思いつかなかったのだろうか。猫になって馬鹿になっているのかもしれない。そんな発想を思い付いたのは事故が起きてから二時間以上たったほどだった。空気はすっかり午後のものに入れ替わっている。無心に何も考えず家の方へ歩いていく。頭で考えなくても体が勝手に動く。そこに思考はいらない。お帰りのにゃーを言う準備はできている。のどぼとけを震わせている。そこまで利口でなんでもできる俺なのになぜだろうか、さっきから涙が止まらないのは。

 肉球に熱い何かが触れた。太陽の熱を吸収した線路の鉄だった。自分が今踏切にいることすら自覚がなかった。そんな自分に驚くばかりだ。だから電車が来ていることなど一切気が付かなかった。赤い光がピカピカと網膜に映る。キーッとまた嫌な音が聞こえた。さっきとは違い、とても高音だ。緊急停止をしても全くスピードが落ちる気配はなく、鉄の塊がもう目前にある。全ての毛が抜けていく感覚に襲われる。俺は何をしているのだろう…。その瞬間、俺は激痛とともに意識が飛んだ。

 目を覚ますとそこは辺り一面、白くところどころシミがある。死んだのか。俺。俺の頭は疲弊しておりもう回る様子はない。ただ、三途の川という川は目にしなかったなと考える。

「凪!!!」その瞬間風船が割られたように意識を取り戻した。横で涙を流しているのは母であった。

「たくや、さくら、チャチャ!」。見渡してもそこに俺が欲している人物の面影はなく、ただただ安堵し、急いで看護師に連絡する母の影がある。

「ここは…。俺…電車にはねられたんじゃ」

「そうよ。けど、電車が減速していたタイミングだから何とか助かったのよ。ここはシロツメ病院よ。すぐに先生が来るから待ってなさい」。

 聞くとことによると、俺は本当に奇跡的に軽傷で左手の骨折と足の打撲で済んだそうだ。あとは淡々と母がどれだけ心配したかという話とともに時間が過ぎていく。

 『こんにちは。四月二十七日。お昼の関西ニュース!の時間です。今日未明―』病室では母のさえずりと並行してテレビの音が流れていることに気がついた。そこで俺は目を疑った。三秒前、四月二十七と言わなかったか?俺が猫だった時間は三日間。つまりあの家族が死んだのは二十八日と記憶している。何が起きている。やはり夢だったのだろうか。俺は何をしていたんだろうと途方に暮れる。

ガタン!!「おお!!!猫田くん大丈夫かい!!!」破竹の勢いでドアを開け、先生と思われる人物が入ってきた。白衣が生きているようにひらひらと舞っている。

「先生のおかげです!!本当にありがとうございます!!この恩はかえしきれません!あと猫宮です!」

「ああ!そうだそうだ。すまんね。いやいや、治ってくれてよかったよ!俺の治療がすごいって?先生のおかげだって?いやあ、それほどでも…あるかな?アハハハハ!!」。母、医者、看護師全員がまるで優勝したかのように喜んでいる。対し、無言の俺。さっきから温度差がすごい。確かに生きているのはうれしいのだが、俺が体験したあれは本当に夢だったのか、ずっと考え込んでしまっている。今の俺にできることはただただぼーっとテレビを見ることだけだ。

「ほら、凪もお礼を―」あれ?なんだ母の声が途切れた。いや違う。俺の集中が極度にテレビにすいこまれ、自ら脳が音を遮断したのだ。目の前のテレビには驚くべき映像がながれている。

『ご覧ください。こちらが逃走していた猫ちゃんです。』そこにはあの鏡で見た猫の片手をあげた(ピースしている)姿がある。隣にはずっと頭を下げている女性と向こうからは二人の幼稚園児が連れられてきている。俺は硬直するしかなかった。対照的に頭はかつてないほどにフル回転している。いまここに一つの真実が示された。あれは夢じゃない!!!

「ほら、凪!お礼を!」現実世界にもどされた。「あ、ありがとうございました」

「軽い言い方ねえ。本当に思ってるのかしら。先生ごめんなさいねえ」。

「いえいえ」

 「凪!大丈夫か!」音が増えた。ぜえぜえハアハア言っている。父親が急いできたようだ。病室はどんどん賑やかになっている。

 俺は何をすべきか。さっきからずっとそのことを考えている。病室には夕焼けが差し込んでいる。さっきからその赤はあの時の血を連想させてしまう。みんな数十分前には帰り、俺はあと数日は入院しなくてはいけないそうだ。ただ、分かる。そんなことをしてる場合ではないと。運命は俺に動けと言っている。もしかしたら明日あの家族は死んでしまうかもしれない。もしかしたらただの夢かもしれない。ただ、あの現場にはいかなくてはいかない。この夜、俺はそう考え続け、堂々巡りに思考した。猫の時の様に早く眠りに落ちたかった。

 体が温かい。起きてすぐに自分の体を確認する。人間であった。ただ鏡に映ったその顔には涙が流れた痕が残っていた。今日、自分が一体何をするべきか分からない。しかし、あの場所、あの現場にはいかなくてはならない。俺の体がそういっている。早歩きで病院を抜け出す。幸いに足は動く。ところどころ痛むがそんなの気にしていられない。歩く。歩く。あの場所へ。何人もの人を追い越し、たくさんの人と肩がぶつかった。チッと舌打ちもされたがそんなものあの惨劇さに比べればゴミだ。

 ビルが開けたところにあの場所はあった。俺はしばらく立ち尽くすことしかできなかった。あの時の恐怖で足が小刻みに痙攣しているように震える。日光で熱せられたコンクリートはまるで生きているようで醜く思えた。猫の時よりも距離を感じる。自分がするべきことをずっと考えていた。手元のスマホを見る。今は十一時二十三分。まだ事故は起きていない。そうだ、確か車が来たのは南西の方だった。そう思い足を進める。俺は何を期待しているのだろう。何をしたいのだろう。心の奥底では分かっている。あの怒りをあの老人に。百五十メートルほど進んだところにガソリンスタンドがあった。あいつだ。そこにあの日、あの時に見た、あの老人が給油している。はっきりと鮮明に姿が映し出される。次の瞬間、老人は俺の目の前にいた。いつの間にか俺はあの人の方に歩いていたようだ。驚いた様子でこっちを見てくる。次に目を開けるとその老人は倒れてうずくまっている。ああ。俺はやってしまったのだ。手には気味の悪い感触が残っている。俺は殴ったんだ。ただの右手で武力により懲らしめれてしまう自分に恐怖する。俺の理性は既に破綻している。怒りに任せ、次の一撃を加えるところだった。ちょっとちょっと!!聞きなれた声であった。振り返ると生きているあの四人の姿があった。苗字すら知らないあの家族。母親が怯えた幼児二人を引き連れ急いでその場から離れ、父親が近づいてくる。その見たことのある手で老人を抱きかかえる。「大丈夫ですか!!」。目の前で俺が一番見たくなかった光景が広がっている。そして父は言った。「なんてことをするんだ!」その一声は俺の心臓を突き破った。だって、だって、そいつは…。言いたかった。そいつはあなたたちを―!!!。言えなかった。いったところで理解してもらえるわけがない。なぜか視界がぼやけてきた。光が拡散し、おぼろげになる。顎が震える。俺はその場で泣くことしかできず、また無力であった。

 しばらくして警察と救急車が来た。いつの時かと同じように赤い光が網膜にピカピカ映る。それはあの時の様子が重なり合い、俺は自分がした愚かさに溺れそうだ。俺はやってしまったのだ。加害者になったのだ。あの気持ち悪い右手の感触がそれを証明している。俺はあんなことをしたかったんじゃないのに。もし、今俺が猫で、もっと無力であればこんなことには。いや、違う。もう逃げてはならない。

 警察署であやまる母の姿はあの母親と同じものだった―。

 今日もいつものようにたくさんのニュースが流れる。『こんばんは。二〇二四年四月二十八日、午後のニュースです。今日昼頃、大阪府華時市で十六歳の男子高校生が暴行を―。被害者は軽傷で―』。俺はこんな世界でもがき、今日も生きていく。

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