エピローグ 上空初期値
最終話
路上にまた一つ、花が咲いた。
それは海に住むクラゲのような形をしていて、スクランブル交差点を埋め尽くしている。御茶ノ水の小さな海は色とりどりのクラゲ花で一杯だ。
ぽつぽつと降る小雨が彼らを打つ。その度零れ落ちる水滴が地面を叩き、雨音を象っていく。
わたしも傘を差そう。首筋に突き刺さる冷たさを払って、黒一色の傘を開いた。路上の花が更に一つ増えた。
小料理屋が並ぶ道を歩いていると、食欲を刺激する匂いが充満していた。道行く人の数名は、まだ夕方も早い頃だと言うのに恨めしそうな顔で店を睨んでいる。雨宿りついでに寄っていきたいという欲求を抑え、わたしは更に進んでいく。
雨は人を憂鬱な気分にさせる。それは誰にでも等しく訪れるもので、傘を差していても容赦なく迫って来る。嗚呼憂鬱だ、だって黒のドレススーツやバッグが濡れてしまうんですもの。嗚呼憂鬱だ、だってこんな姿であの人と会わなくちゃいけないんですもの。
傘を伝って落ちる雨粒を見ていると、どうにも儚く思えて仕方がない。こんな風に人の一生もまた、儚い。たかだか十五メートルぽっちの高さから落ちただけで、人は死ぬ。人とはそれだけ脆い生き物で、だからこそ死に物狂いで努力する者程、美しく見えるのだ。
わたしがあの人に惚れたのはきっとそういう理由だ。恥ずかしくて口に出せないけど、いつかあの人に言ってあげたい。あなたの一生懸命な姿が素敵でした、なんて。
傘にぶつかる雨の音は、気づけば無視できないくらい大きくなっていた。足元で跳ね返る雨粒が靴の隙間に入り込んで気持ち悪い。わたしは楽器屋がある通りを抜けて大通りへ出る。
暫く道路沿いに歩いていると一台のタクシーが走っているのが見えた。わたしは迷わず左手を振り、それを呼び止める。
「お客さん、どちらまで?」
「こちらの住所までお願いできますか? なるべく早く着けるとよいのですが」
バッグから取り出したメモ帳に行き先を書いて渡す。年配の運転手はじっとメモを見つめると、白髪混じりの頭を搔いた。
「渋谷の広尾というと、あの豪邸ですか。すぐには着きませんよ、あの辺り、今渋滞なんでさ」
「それでしたら仕方ありません。着けばそれで構いませんから」
外では横殴りの雨が激しい風と共に歩行者を襲っていた。ああなる前に捕まえられてよかった、と心から思った。
静かな駆動音を発してタクシーが動き出す。電気式なのか強い振動を感じさせぬまま、ぐんぐんとスピードを上げて行った。御茶ノ水の街並みが次々と過ぎ去っていき、次第に背の高いビルばかりが視界に映り始める。
「お客さん、あの豪邸に何か用でも? そのドレス、社交界ですか?」
「家族に会いに行くんです。大学の研究発表が終わって、その報告です」
「研究発表の結果を報告というと、反響はよかったんですか?」
「そんなことありませんよ。ボロクソに言われて逃げ帰ってきただけです」
自嘲気味に鼻を鳴らす。
「そうでしたか。ちなみにどんな内容を?」
「話すと長くなりますよ」
「何、渋滞続きですからね。時間はたっぷりあります」
それもそうだ。わたしはバッグから論文を取り出し、そっと微笑む。
この荒唐無稽な話を、きっとこの運転手も笑うに違いない。あの教授共と同じように手を叩いて笑うのだ。それでもいい。わたしはこの論文に誇りを持っているし、この理論が正しいことを誰よりも信じている。
わたしとあの人とで作り上げたこの論文は、きっと何よりも素晴らしいものだから。
スーサイド・シンドローム 富田 @TOM1TA1
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