第2話 カタリナたんは僕のもの

「チェックメイト」


 相手のキングを狙ったクイーンの駒をチェスボード上で移動させ、カタリナは告げた。

 その凛とした声の反応が、観客で溢れる会場内でさざなみのように広がって行く。場内は緊張感から静まり返っており、幾人かのごくり、という喉元の音さえも聞こえるかのようだ。


 カタリナの目の前に座っていた少女はハッと動きを止め、しばし盤を見つめ――諦めたように小さく溜息をつく。

 そして「参りました」と眉を下げた。


 チェス大会若年女子部門の準決勝を、固唾を呑んで見守っていた観客たちはわっと歓声を上げ、両者に惜しみ無く拍手を贈る。

 カタリナがすっと右手を差し出すと、その敗者の少女は頬を薄らと赤くし、目の前の手を両手で柔らかく包み込む。

 二人に程近い席に陣取っていた観客には、その少女の両手は少しばかり震えているように感じられた。彼女は恐らくカタリナの熱烈なファンのひとりなのであろう。勝負を敗したというのに嬉しそうに瞳を輝かせ、名残惜しそうに両手を離したのを観客たちは微笑ましく見守った。憧れの人と対局し握手までしてもらったこの少女は、今日という日をきっと忘れることはできないだろう、そう思いながら。


 そんな、興奮しつつも頬を弛ませている多くの観客の中。


 密かに、ある男が脳内で高らかに叫んでいた。



(……っ女神ィィィィ!!!)


(神々しいあの姿……眩しすぎて今にも失明してしまいそうだっ)


(ハァ……僕のカタリナたんは今日も実に麗しいぃぃ……今すぐ手を引き、家に連れて帰りたくなるほど愛しい。いや、そこはお姫様抱っこか? ウヒィ)



 周囲に気取られぬようにひとり興奮しているこの男は、ぶっちゃけチェス大会などどうでもよかった。この後自身も若年男子部門へ参加することになっているのに、だ。

 勿論、自らのゲームが始まればそこは真剣勝負の場として気合が入ると言うものだが、若年男子部門の開催は明日。つまり出場選手としてならば、とりあえず今この場にいる必要はない。勿論、チェス大会の花形であり最も人気の高い、この若年女子部門は誰もが見る価値を感じるものではあるのだが。


 この国を挙げてのチェス大会は今回で9回目になる。回を上げる程人気は高まり、結果、今現在チケットの申し込みは一人につき当人分一席限りと決まっている。また、申し込みの申請は本人の直筆でなくてはならない。申請自体も一人につき一回のみである。貴族だろうと王族であろうと優遇は一切ない。申し込みがされると、番号が送り返されるのだが、これは一般公開で行われる抽選の番号だ。くじを引くのは前回大会の一般部門でグランプリに輝いたものと決められており、それ自体も大変イベント性が高い。


 男は当選したと聞き、心底安堵した記憶を反芻した。神よ、本当にありがとう、と。

 男が神に祈るのは年に一回この時だけだ。そしてこの数年、その願いは聞き届けられている。明日の若年男子部門は自分も出るから良いとして、その後の一般部門も更にグランプリ決定戦も全っっっ然どうでも良い。若年女子部門の一日だけ、だだその一日だけチケットを確保できれば良いのだ。なぜならそこに女神カタリナがいるから。

 


 ともあれ、男がここにいる目的はただ一つ、カタリナである。

 男も周囲の熱気を帯びた観客達と同様、休憩を挟んで開催が予定されている、この後の若年女子部門決勝を胸を高鳴らせながら待っている。しつこいようだが決勝戦自体を待っているわけではない。そこに登場し、必ず優勝するであろう最愛カタリナを己の目にしっかりくっきりはっきり焼き付けること、ただそれだけをひたすらに、じっと待っているのだ。

 とは言え、男は見た目だけは平静を装い、涼しい顔をしてこの準決勝も見守っていた。誰も一見しただけでは彼の頭の中が隅から隅まで隙間無くカタリナ一色であるとは気付くまい。


 彼は自身の父親から、このチェス大会には毎回必ず参加するよう申し渡されていた。というのも今現在この国ではチェスが貴族の嗜みとして途轍もなく重要視されている。自然、いずれは政治の中枢に置かれるであろう、或いは実際すでに要職に就いている人物も参加者の中にちらほら見られる。つまり将来有望な者がこの大会の選手として集まっていくのは不思議でもなんでもない。

 このチェス大会に出場していることが入会の条件であるコミュニティもある。もちろん、そのコミュニティには国の頭脳と呼ばれている様な人物ばかりが集まり、そこに在籍しないと言うことは国の役に立つ人物ではないと言うことと同義ともなりつつある。当然この男も、またカタリナやカタリナの決勝の対戦相手となるフランシスカも、そのコミュニティに参加している。

 彼はそんな流れでカタリナを認識し、雷に打たれた。生まれて初めて一目惚れというものを経験したのである。そして、カタリナを強く激しくロックオンするに至った。婚約しているとは聞いていたが、そんなものはどうでも良い。というか、どうにかしてみせると考えていたのだ。



「カタリナ嬢、今日も美しいよなぁ」

 ふと、男は近くの観客が溜息混じりに言葉を漏らすのを耳にとらえる。耳を震わせるその言葉に、男は(そうだろう、そうだろう)と満足げに目を細めた。

 カタリナの佇まいは深層の令嬢のそれであり、慎ましやかでありながら、ここ最近では香り立つような大人の魅力も備わってきたと評判だ。先日まで婚約者であった第二王子は、婚約が結ばれてからずっとカタリナを妻に得られるその幸運を揶揄されることが多かったという。


 言葉を発した人物は、自身の知り合いであるらしい隣の男に尋ねる。

「そう言えば、カタリナ嬢の婚約者だった第二王子は王位継承権を剥奪されたんだってな」

「ああ、噂によるとフランシスカ嬢を見初めて騒ぎを起こしたらしいぞ。振られたけど」

「フランシスカ嬢も別嬪さんだもんなぁ。気持ちはわかるけど、バカだよなぁ」

「だよなぁ」


(そうそう、あいつバカだよなぁ。こんなにも美しい、この世のものとは思えないほど神々しいカタリナたんを手放すなんて! 目ん玉が本気の節穴でうっかりダイヤモンドの原石を見逃しちゃった(テヘペロ)ならまだしも、磨かれて光を放つまでになっている貴石を振りかぶって道端に捨てるようなことをするなんてキングオブバカだよな……フフッ)

 と、男は耳を高性能な集音器並みに拡大しつつ、彼らの雑談に激しく(脳内で)向首していた。何なら会話に加わりたかったのだが、それは自粛した。


(まあ、誰がどうしようと、何と言おうと、カタリナたんは僕のものにするんだけどねぇぇグフフゥ)


 男は、心の中で大きく鼻息を吹き出した。勿論、表情には全く、一切、出さぬようにだ。中身は完全にストーカーのそれである。


「ちょ、お前、声を小さくしておけよ。誰が聞いてるかわからないぞ。今日は王弟殿下がいらっしゃるそうだし」

「王弟殿下って……あの?」

「そうだ。数多いる美しい女性たちには見向きもせず、有能かつ冷徹で明日の若年男子部門優勝者候補の一人でもある、あの沈黙の貴公子と名高い王弟殿下だ」

「え? 男子大会は明日……だよな?」

「まあ、視察として出向かれているのだろうが……そうそう、どうやら、カタリナ嬢の新しい婚約者になられたという噂だ。それも理由の一つかも知れないな」

「ええ!? ……王弟殿下って御何歳だっただろうか」

「国王陛下とはかなり年齢が離れていて、確か王太子殿下より2歳ほど年上だった筈だ」

「そうなると、今20歳くらいか?」

「だったかな。若年部門の年齢は20歳までだが、王弟殿下は今年が最後と聞いた気がする」


 コホン、と彼らの近くで軽い咳払いが聞こえた。

 見ると、輝くブロンドの髪を後ろに流した高貴な身分を思わせる佇まいの男と、その従者と見られる黒髪の男が彼らの真後ろにいる。

 目の前にたった今噂をしていた王弟を認め、会話をしていた男二人は慌てふためきながらそそくさと移動して行った。



「それにしても、すごい人ですね」

 従者は王弟に声をかけた。うむ、と同意が返ってきた方に目を向けると、王弟は壁のポスターを見つめていた。それはこのチェス大会の掲示で、大会名やスケジュールなどが記されているのだが、その背景に二人の女性が対局している美しい絵柄が紙一杯に描かれている。その姿がカタリナとフランシスカにまるでそっくりであるのは、もちろんなのだろう。そしてその絵に被るように、“二人の闘いは、まるで美しい二羽の蝶が舞っているかのようだ”という言葉が小さく記されており、それぞれの女性たちが駒を持つ手の辺りにごく薄く蝶の透かしが入っていた。


「良い出来の貼り出しだな」


 王弟はその大会開催の掲示が気に入ったのだろう。従者は後で運営に数枚進呈するよう伝えなければと、脳内にリマインドした。

 王弟は控えめな性質で余り自身の感情を表に出さない。沈黙の貴公子と呼ばれる所以である。この従者を含む周囲側近は王弟殿下の少ない言葉の一つ一つ、小さな動作を見逃さず先回りして対応する事が求められている。

 王弟殿下の意図を完璧に理解しているのは自身であると自負しているこの従者は思った。運営には、念のためこの絵師の氏名も聞いておこう、と。


✴︎


「只今より、第9回チェス大会、若年女子部門決勝戦を執り行います」


 白髪混じりの審判長が高らかに決勝戦の始まりを告げ、つい今しがたまで賑わいを見せていた会場に漸く静寂が訪れる。そして会場内の観客達は、浮き足だった様子で出入り口の扉に視線を送った。

 その両開きの扉の左右に一人ずつ居た係員が恭しくノブに手をかけ、ゆっくりと扉が開かれる。

 その向こうには二人の少女、この決勝戦の主役であるカタリナとフランシスカが凛とした様子で佇んでおり、扉が開き切ると二人はドレスの裾を摘み、優雅に身体を屈める。その美しい様子に、勝負が始まってもいないのに小さな溜息が聞こえてくる。


 件の男も、唇は微笑みの形を取りながら、その目は異常なほどに爛々とさせカタリナを凝視していた。

 視線に気付いたのか偶然なのか、カタリナが一瞬男に視線を送り、通り過ぎていく。

 男は思った。


(カタリナたん! いまっ、君の愛をしっかり受け取ったよ!!!)


 そして(ああ、相思相愛すぎて辛い)などと思いながら、男は壇に上がって行くカタリナの後ろ姿を穴が開くほど見つめている。



「お美しいわねぇ……」

 観客の中のある婦人が誰に聞かせるでもなく吐息と共にひそりと呟いた。すると、近くにいた別の婦人が頷き答える。

「本当に。あの佇まい。御令息の皆様もライバルの多さに戦々恐々ですわね」

 二人の声が耳に届いている周囲の人々も、薄らと同意の様子を見せる。

「そう言えば、確かカタリナ様は王弟殿下とご婚約とか……やはり然るべき方のところへ嫁がれますのね」

「まあ、沈黙の貴公子と誉高い王弟殿下と……流石ですわね。さぞかし華やかなお二人となることでしょうね」

「ええ、お似合いですわよね」


 丁度、カタリナとフランシスカがゆっくりと、雛壇に整えられたチェス盤を挟んで対面する動きを見せている所であった。


 が、その時。

 突然、対局前の緊張感がありつつも和やかな会場の空気を、男の甲高い叫び声が切り裂いたのである。



「嘘だ! 彼女は! カタリナ嬢は、僕の恋人だ!!」



 観客は驚き、声の発せられた方に目を向けると、先程からカタリナと王弟についてのお喋りを楽しんでいたご婦人二人を見下ろすように、一人の男が立ち上がっていた。気の毒なご婦人二人は青ざめ、突然のことに怯えて身を寄せ合っていた。

 予想していなかった展開に、会場内は騒然としている。


 観客達と同様に驚き、叫んだ男に視線を向けたフランシスカは思った。


(あーっ、あの人知ってる知ってるぅ! あまりお勉強が出来なくて、お話しすると頭がお花畑と学園女子の間で評判の方だわ!)


(こんな所で悪目立ちするなんて……やっぱり噂は本当なのねえ。はー、火のないところに煙は立たないと言いますものねえ)


 フランシスカは表情には出さないように、心中で納得した。

 一方で、観客たちは未だ考えが追いつかない様子を見せていた。すると、更に一人、別の男が立ち上がる。


「ハァ? 君、何を言っているんだ? カタリナ嬢は私の恋人だ!」


 ええ、なんか増えたぞ……と観客達の視線は最初の男と今立ち上がった男の間を行き来している。


 そんな様子を壇上から眺めて、フランシスカは思った。


(やだっこの人も知ってる! 確か身分は高いけど高慢で有名で、偶に争いの中心になっている方じゃない! 怖! こっわ!)


 フランシスカはたった今立ち上がった男を見て薄く眉間に皺を寄せる。


 すると、小さな咳払いと椅子を引く音が聞こえた。更に更に、もう一人別の男が立ち上がったのだ。


「待ってくれたまえ。カタリナ嬢はわたしの恋人だ。君たちは一体何を言っているのだ?」


 フランシスカは最後に立ち上がった三人目の男をちらりと見た。


(えぇ……この方、女性にもお金にもだらしないって噂の方じゃない……やだ、どうなってるの? しかもなんか奇妙な立ち方をしているわ)


 三人目の男は耳目を集めていることに気をよくしているのか、カタリナを愛しげに見上げ、不自然に体をくねらせている。理解はできないが、恐らくこの男の決めポーズなのだろう。


 やがて唖然としている場内の人々を置いてけぼりにして、男三人は争い始めた。それぞれの位置で立ち上がったまま言い争っていたため、その周囲から訝しい目を向けられているのにお構いなしだ。

 ややあって、あまりの出来事に思考停止していた審判長が辛うじて意識を取り戻したらしく、扉付近の係員に目配せした。何が起こっているのか思考停止していた係員も本来の仕事を思い出し、扉の向こうの衛兵に声を掛ける。


 小走りに会場に入ってきた衛兵は、丁重でありながら三人の男達を捉えて会場外へ促した。


「……っ、離せ! 僕たちは思い合っているんだ! 誰も邪魔するな! カタリナ!」



――



 会場内はざわざわと『カタリナ?(ぷっ)』『て(笑)』『カタリナ(いいね!)』などとさざめいている。

 フランシスカも(「」とか笑う)と密かに毒付いていた。


 そしてふと、観客達は思った。「そう言えば、カタリナ嬢はどんな様子なのだろうか」と。そして遠慮がちに方々からカタリナへとじわじわ視線が集まる。


 カタリナは、チェス盤の程近い位置に佇み、まるで牧歌的な風景を眺めてでもいるかのようなふわりとした視線で、騒ぎの付近を眺めていた。一瞬、自身が関わっている話ではないと思っているのかと感じられたのだが、瞳は感情がなく、状況把握を放棄していると言うのが正しいのかもしれない、と観客たちはカタリナの心情を察した。大事な勝負の前に何をしてくれてんのかと言いたいところではあるが、令嬢として事を荒立てるのは間違いなく得策ではない。

 それから、ハッとしたカタリナが、パタ、パタ、パタ、とゆっくり扇を開き、その小さな顔の下半分をそーっと覆い隠す。観客たちは常に冷静沈着なカタリナの一面を覗き見た気持ちになり、その様子を微笑ましく思った。



 カタリナはちらりと視線を流してフランシスカを確認した。彼女はなんとかして半笑いを抑えるべく、つやりとした唇を不自然に歪めていた。

 だから、そういう時に扇を使うのですのに――とカタリナは思う。とは言え、ほんの少し前に自らも扇の存在を失念し、今慌てて広げたのだが。


 三人の男を捉えている衛兵がカタリナへ語りかけた。

「こちらの皆様はお知り合いでしょうか?」

 カタリナは瞑目し、首をゆっくりと左右に振って「……いいえ」と答えた。


「「「そんな! カタリナたん!!」」」


 カタリナの言葉を聞いて瞬間的に動き出そうとした男達を抑えるために、衛兵は力を込め直す。三人とも「カタリナたん」「カタリナたん」「カタリナたん」と煩いくらいに叫んでいる。


「恥ずかしがらなくていいんだカタリナたん! いつも、いつだって、僕に微笑みかけてくれたじゃないか!」

「いやっ、それは私だ! 私にこそ、カタリナたんはいつも聖女のように微笑みかけてくれるのだ! あの愛情溢れる笑みは私だけのものだ! 断じて貴殿などにではない!」

「それらの微笑みは全てまやかしだ。このわたしにこそカタリナたんの真の微笑みは与えられていたのだ!」


 待ちに待ったイベントをぶった斬って三人の男達が言い争う、そんな地獄のような風景を眺めながら聴衆達は思った。『よくわからんがお前らちょっと落ち着けよ』と。『それただの会釈じゃねえの?』と。


 と思うと、男三人のやり取りを聞いて、フランシスカが「はぁい」と右手を挙げて口を挟む。


「カタリナ様、わたくしにも微笑みかけてくれますけど? そういう意味では、先程対戦された方だって微笑まれているし試合後にしっかり握手までされてますけど?」

 見ると、先ほどの対戦者も会場の隅におり、憤っているのか顔を赤く染めながらフランシスカの言葉に激しく向首していた。


 観衆は一斉に声の主フランシスカに注目する。そしてそれぞれに近くの観客達とウムウムと点頭し、『そう言えば私にも微笑みかけてくれるぞ』『わたくしにもですわ!』『僕も……』と若干嬉しそうでもある密やかな声が幾つも聞こえてきた。


 男たちは反応のざわめきを聞き、揃って頭をブンブンと強く左右に振り叫んだ。

「違う違う違う! 君たちと僕とでは全然違う! カタリナたんは僕にだけ特別に微笑みをくれる! 僕の、僕だけのものだぁ!!」

「だから違う! 私のカタリナたんだ!」

「わたしのカタリナたんだと言っているだろう!」


 男達の言い分を聞いた観客たちが『やっべー勘違い野郎どもだ衛兵早くしょっぴいちゃいなよ!』と、益々生温かい雰囲気を醸し出し始めた、その時。


 いつの間にか壇に上がっていた王弟がスッとカタリナに近づき、その細い腰を引き寄せた。その様子に気付いた観客の女性たちから、羨望の黄色い声が小さく上がる。また、他方で「おお……」と感嘆の低い声も聞こえて来た。


 そして王弟は、様子を見て争いを止め、瞠目している男たちに、


「残念だね。カタリナ嬢は国王陛下が僕の婚約者と認めておいでだ。この意味はわかるかな?」


と周囲の温度を下げるかのように冷たく微笑んだ。


 男たちは目を見開いたまま俯き、「でも」「だって」などと呟いている。王弟は近くの従者に目配せをし、従者は衛兵に連れていくよう指示を出した。

 男三人は最早抜け殻のような状態で、声にならない呟きを吐き出しながらあっという間に外に出された。



 会場内が平静を取り戻すと、漸くチェス盤を挟んでカタリナとフランシスカは対面の形を取った。


 緊迫した空気が漂う中、開始が告げられ、フランシスカは白いポーンを優雅に摘み上げる。その駒が一つ前に進むと、カタリナは黒いナイトを自分のポーン達の前へ進めた――


✴︎


「チェックメイト」


 カタリナが、ビジョップをコトリと盤に置き宣言する。

 フランシスカは一瞬眉間を寄せたあと瞼を閉じ、「……参りました」と発した。途中のアクシデントを物ともせず、終始冷静だったカタリナが勝利したのだった。


(当事者のカタリナよりむしろ、わたしの方が影響されたわ! くっそあいつら、グーで殴りたい……)とフランシスカは唇を突き出した。

(とは言え……誰かのせいにしてはいけないわね。わたくしもまだまだ勉強しなければいけないわ)と、少し眉毛を下げる。


「次回は負けませんわ」

 と、立ち上がったフランシスカはカタリナに右手を差し出す。ほほ、と微笑みながら同じく立ち上がったカタリナはその手に自身の右手を寄せ、そこに左手も添えて握りしめた。フランシスカも更に左手を重ね、二人で満遍なく観客に笑顔を見せる。

 観衆は二人の美しさをうっとりと眺めつつ、賞賛の拍手を贈る。その表情は、アクシデントはありながらも良い試合だったと満足げだ。少し離れたところで、絵描きが急いで筆記具を走らせているのが見て取れる。棋譜と共に後日の新聞に掲載するのであろう。



(さっすが僕のカタリナたんだな!!)



 男は熱のこもった瞳をカタリナに向け、拍手を贈り続ける。


(いっやー、さっきは勘違いした奴がいてびっくりしたけど、カタリナたんは女神だから皆に好かれるのは仕方が無いよねぇ! 大丈夫! 僕が守るからね! それにしても、カタリナたんは僕のものに決まってるじゃないかーやだなー。うっかりあの中身が入ってなさそうな脳天から、股まで真っ二つにぶった斬るところだったよ! 三人纏めてね! あはは!)


(何度でも言う。カタリナたんはね、この僕の、僕だけのものなんだよぅ!!! 会場の中心で愛を叫んじゃおうかなぁ!)


 男は握った拳に力を込めた。


 カタリナとフランシスカは一通り観客たちに目を配ると、チェス盤から離れ退場の準備を始めた。興奮冷めやらぬ観客たちは近隣と試合の感想を興奮気味に語り合いつつ、去りゆく二人に改めて拍手を贈っていた。

 その様子を見た件の男は、椅子から立ち上がる。


(カタリナたんへ最初に「おめでとう」と声をかけるのは僕だ)と、歩を進め――





 ある所から発せられたカタリナへの呼びかけに、場内は再び静まり返った。


 賑わっていた観客は、一斉にその声が発せられた場所へ瞳だけを向ける。


 その声を発した人物は観客の目など気にせず、たった今勝者となり控え室に向かおうとしていたカタリナただ一人を、潤んだ瞳で見つめていた。


 そこにいたのは、ブロンドの高貴な佇まいの男。王弟であった。


 その場にいた全ての人々が動きを止めた。まるで会場の時が止まってしまったかのようである。


 そして観客たちは思った。


(あれ? 自分たちさっき『カタリナとかウケる』とか思ってたけど、もしかしてカタリナ嬢は「カタリナたん」と呼ぶことが正しいのだろうか?)と。


 もしや、そう呼ばない事こそが不敬なのでは?……だって、だって、さっきの三人だけでなく、王弟殿下まで「カタリナたん」って言ってるじゃん!? そういうこと!? 流行り!? などと混乱、いや錯乱する者もいたようだ。


 その時、観客の誰かが流されて、ついうっかり「カタリナたん……」と呟いてしまった。


 するとそれを聞きつけた件の高貴な人物、カタリナの新しい婚約者である王弟が、ものっすごい速さでその声の主を特定し、ぎりりと刺されるような青い鋭い瞳を向けた。心なしか美しいブロンドヘアーが逆だっているようにも感じられる。


「ヒッ」という怯えた声が上がった事で、その他の観客たちは(ああ、違う。「カタリナたん」と呼んで良いのは王弟殿下だけ(確定))と理解した。ついでに泡を拭きそうに震え上がる男に、(そこの人身御供よありがとう。お陰で確認の手間が省けたぜ、合掌)とも思った。


 王弟が、座していた大会会場の最奥からカタリナに向かって行ったことに気付いた従者は、王弟の後を追って来ていた。そして空気を変えるように「ん゛ん゛っ」と濁点混じりの咳払いをし、爽やかな声色で「……ささ、一旦控え室に戻りましょう! そう致しましょう!!」と上擦り気味な声をあげてカタリナと王弟を促した。王弟は「うむ」と改めて自身の前方、カタリナの方に目を向け、まるでスキップの様な、ふわふわとした足取りでカタリナに追従する。


(ああ、僕の女神ィ。甥のあいつが見る目のないアホでよかったよ! 婚約解消を知って猛ダッシュで裏から手を回した甲斐があったよねぇ! もー絶対離さないんだー! グフフゥ。待ってぇ~カタリナたんっ)


 王弟の足取りが限りなく軽いことを、その会場の誰もが認識し『あ、そういう感じの方だったのね』と微妙な笑みをしつつ見つめていた。


 そんなカタリナと王弟、そして続く焦り気味の従者の背を眺めていたフランシスカは、見るからに嬉しそうにカタリナの後を追う王弟が一瞬全力で尻尾を振る大型犬に見えて、「やだ幻影が」と軽く目を擦った。


 そして(……前の第二王子あいつよりはマシだけど……)と溜息をつく。

 もしかしてちょっと残念な方なのでは、と思ったところで、いつの間にか近くに控えていた自身の侍女に「お嬢様、お言葉」と嗜められ、ついでに扇子を渡された。うっかり言葉にしていたらしい。

 カタリナは折角渡されたし、と扇子で口元を隠してみる。それから(そう言えば、この間ニッポンとかいう異世界から来たとか言ってた聖女ちゃんが『わたしの国では微妙な男性からばっかり好かれる女子のことを“ダメンズホイホイ”というのですぅ』と真面目くさった顔で言ってたな……)と思い出し、カタリナに注意するよう伝えた方がいいか思案した。


(いや待て、何をどう注意しろと言うんだ? あなたはダメな男を引き寄せるようですよ、か? アホか! 友情を失うわ!)


 まあ、今度聖女ちゃんに詳しく聞いてみよう――と考えていると、フランシスカはふと視線を感じて顔を上げる。すると目線の先に、ド派手なスカーフを被った見覚えのある少女を見て、動きを止めた。


(やだ。あの子何やってんの?)


 目が合ったその少女を見、カタリナは言葉を出さないよう扇の内側で唇を引き結んだ。

 庶民に変装した聖女が、唇の端からちらりと舌を出しつつフランシスカにウインクをしているのを見つけたのだった。


 その表情は『見た? あれよあれ! ダメンズホイホイ!』と言いたい様だ。


 フランシスカは溜息をひとつつき、(聖女サマがそんな顔していいんかい……って言うか、何アンタ奇妙な変装してんのよ)と憮然としながらも、カタリナの行く末をしばし案じるのであった。

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カタリナとフランシスカ 〜チェスでつながる令嬢二名の日常〜 佐藤或都來 @Azuki_sth

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