エピローグ 再会

 長い夢を見ていた。

 しかし、どういうわけか内容を思い出せない。

 夢はいつだって気紛れだ。現実では有り得ない事象を体験させ、人の情感を刺激する。誰かから聞いた話では、人間は覚えていないだけで毎日夢を見ているという。感情を揺さぶるだけ揺さぶっておいて記憶にも残らないなんて、なんと都合のいいことだろうか。

 これが現実だったらと切に願う素敵な夢から、自ら死を選びたくなるような怖い夢まで、その内容は時によって千差万別だ。

 悪夢ならば忘れたほうが幸甚だろう。でも、幸せな夢だったらどうだろうか。気の合う友垣と出会い、恋人ができたりなんてしたら記憶に刻みたいものだろうか。

 否、そんなはずはない。どうせ実在しない空虚な夢ならば、忘れてしまったほうが幸せだろう。如何なる内容であろうとも、夢の中での出来事なんて現実では何の役にも立たないのだから。

 しかしそうは言いつつも、僕は見ていた夢について気になって仕方がない。

 僕は一体どんな夢を見ていたのだろうか。何か大事なことを忘れているような気がする。その夢が楽しかったのか、苦しかったのか、夢に戻りたいのか、夢から覚めたかったのか。今となっては知る由もないが、思い出さなければならない――そんな気がしている。

 しかし目的を成し遂げたような達成感が心を満たし、どういうわけか清々しい気持ちだ。でも、何かをやり残したような気もしている。相反する思いが去来し、強く胸を締め付けてくる。

 何だか頭がズキズキと痛む。とりあえず寝よう。ゆっくり休もう。僕はもう疲れた。明日になれば、こんな感情だって消え失せているはずだ。

 夢とはそういうものなのだ。過ぎ去っていく刻の波には抗えない。あっさりと記憶を上書きされ、そうして日常は続いていく。何も変わらない。いつも通りに学校へ行き、教師の目を盗んで机で眠る。そうして僕は生きてきたじゃないか。

 …………………………。

 ……あれ? 教師って誰だ? 学校に教師がいたか? どうして僕は決まって授業中に眠っていた? 一体、何のために?

 …………………………。

 ……断片的にだが、夢について思い出したことがある。

 僕には友達がいた。学校に――ではない。とある街の小さな宿屋で出会った少女だ。ずっと友達がいなかった僕だが、彼女とは打ち解けることができた。

 それに、友達は彼女だけではない。たくさんの仲間に恵まれ、かけがえのない日々を送ってきた。

 夢って何でも有りなんだなと、しみじみ思う。僕と仲良くできる物好きなんているはずがないというのに、夢の中では信頼できる朋友がいたと記憶している。

 それにしても楽しかったな。皆、元気でやっているだろうか。夢の中とはいえ、せっかく仲良くなったんだ。また会って話がしたいな。

 ……えっと、それで結局、どんな夢だっけ。

 壮大な物語があったような気がしているが、考えるほどに友達のことしか出てこない。思い出したいけれど、その先の記憶には靄がかかっているようだ。考えるほど深淵に呑まれ、自分の居場所がわからなくなっていく。

 ……ああ、そうか、僕はまだ夢の中なのだ。

 道理で自由に身体が動かせないはずだ。目が覚めたら、また考えるとしよう。

 早く朝がこないかな。またいつか、同じ夢を見られたらいいな。

 そうしてまた、友達と一緒に遊びたいな。


    ◇


「…………んっ…………」

 ゆっくりと瞼を開けると、暈けた視界には見慣れない天井が映し出されている。

 白い板を張り合わせたような天井材。あまり見たことがない意匠だ。どうやらここは自宅ではない。学校でもなさそうだ。まだ僕は夢の中なのだろうか。

「ここは……?」

 身体を起こし、辺りを見渡した。ここは病院であるようだ。腕には点滴が繋がれている。しかし、どうして自分が病院にいるのかを思い出せない。

 身体に怪我はなさそうだが、日課の登山が祟ったのだろうか。記憶が定かではないが、知らない内に遭難でもして誰かに救助されたのだろうか。

 山がいかに危険と隣り合わせであるかを、改めて痛感させられる。

 命が助かったことが救いだが、素直には喜べない。こうして他人に迷惑をかけているようでは、登山者として失格だ。

 それはそうと、一緒に山を登った友達は無事だろうか。霊峰の奥地は、登山に慣れた僕でも大きな危険を伴う。皆の安否が、何よりも気掛かりだ。

「…………友達…………?」

 すると、頭の中を通り過ぎた『友達』という言葉が、朦朧としていた僕の意識を覚醒させた。失われていた記憶が嵐のように押し寄せてくる。

「俺……生きている……? アルンに病院なんてできたのか!?」

 何よりも、自身に意識が残っていることに驚いた。どうやら死は免れたようだ。

 ここは剣と魔術の幻想世界――フィヨルディア。僕はある者の働きによって現実から切り離され、このゲームの世界に閉じ込められた。

 見渡す限り広がる仮想空間を隅々まで探索し、僕は世界のことわりを知った。美しい大自然を有する地には、とんでもない秘密が隠されていたのだ。

 人類を脅かす魔獣の王。奴らは人々を襲い、虐殺の限りを尽くしていた。だがそんな魔獣の王も、黒幕に操られていただけに過ぎない。

 その裏で異界から地上を鳥瞰する、根源たる魔王の存在があった。かつては敵対した魔獣の王と手を組み、僕はその巨悪に立ち向かったのだ。

 僕は死力を尽くして巨魁に抗い、その戦いの末に死んだはずだった。敵と相打ちのような形となったが悔いはなかった。フィヨルディアには平和が訪れ、新たなる時代の暁鐘が鳴り響いたのだから。

「アイ……」

 仲間に会いたい。僕の生存を知らせたい。会って今すぐにでも抱き締めたい。

 立ち上がろうと腕に力を込めたが、身体が言うことをきかなかった。腕を上げてみると、枯れ枝のように酷く痩せ細っている。今となって、神凪から毒を受けたことを思い出した。毒による作用か、思うように身体を動かすことができない。

「――英太、目を覚ましたのか!」

「――え?」

 突然投げ掛けられた言葉によって、僕は我に返った。

 目を凝らし、ベッドの傍に座る二つの人影の存在を認識した。僕はもう元の世界には戻れない。もし神がいるなら、粋な計らいをしてくれたものだ。

 なんと僕のベッドの傍らにいたのは、現実世界の両親の姿だった。

 夢か幻か。いずれにしても、最期に肉親に会えたことはありがたい。

「母さん……父さん……ごめん……俺、死んじゃったよ……」

 僕は言葉を発したが、喉を上手く使えず声にはならなかった。喉がつかえて上手く喋れない。僕は仮想世界での声の出し方を必死で思い出していた。

「英太! 生きているのね! よかった!」

 母さんは泣きながら僕を力強く抱き締め、隣で座る父さんも珍しく涙を流している。ここが現実世界であったなら、このような情景があったのだろうと推測できる。しかしこれは現実ではなく、僕の心を描写した幻影に過ぎないのだ。

 短い人生だったが、両親には本当に感謝している。僕は衰弱しきった身体をなんとか稼働させ、縋り付く母の背に手を回した。

「……………………あれ?」

 鼻孔を刺す消毒剤の匂い、電灯の眩しさ、空気の密度、そして、母の手の温もり。仮想世界とは異なる外的刺激を感じ取り、僕の五感は違和感を覚えていた。

 初めてフィヨルディアに降り立った時に感じた、言葉にはできない不思議な感覚。現実に近いなどと仮想現実を称賛したことがあるが、実際に体験するとこうも違うのかと実感させられる。仮想現実に慣れた僕の身体にとって、当然ながら本物の現実は刺激が強かった。

「もう……心配をかけて……」

「母さん……?」

 徐々にではあるが、混濁する僕の脳が状況を把握し始めていた。

 ここは『現実』だ。フィヨルディアではない。

 どうやら、僕は元の世界に戻れたようだ。



 僕がフィヨルディアで死亡してから、現実世界では一年間の昏睡状態にあったらしい。生きていることが不思議なくらい身体は衰弱し、魘されていたという。

 僕がしばらく高校に登校していないことで親に通知が届き、両親は急いで海外旅行から帰国した。両親が病院に入れてくれたことで、僕は一命を取り留めたのだ。両親に知らせを送ったAIの判断にも、僕は感謝をしなければならない。

 聞いた話によると、世界中の労働を担っていたAIが地球上から忽然と姿を消したという。仲間達はアルン城の地下牢を破壊し、現実世界に囚われていた人々を無事に解放したのだ。

 AIという労働力を失った世界中の企業は、急遽採用活動を開始した。国勢にも大打撃を与えたことにより、日本を含め諸各国では基本所得制ベーシックインカムが廃止されていた。よって人間が自らの手で労働に従事し、日銭を稼ぐことが必要な世界となったのだ。思惑通り、時代を逆行する方向に世界の在り方が大きく変わっていた。

 地球上で唯一のAI生産企業だった神凪商事は、代表の神凪が失踪したことより倒産していた。神凪は七箇月間も行方を晦ませていたが、突然姿を現したという。神凪も僕と同様に昏睡状態にあったが、僕よりも早く目を覚ましたようだ。

 世界中から非難を受けることとなった神凪は、僕に対する殺害予告をネット上にばら撒き、敢えなく逮捕されたらしい。

 神凪らしい末路だ。もう関わることはないだろう。


   ◇


 三箇月間のリハビリを経て、僕は自宅に戻ることができた。

 フィヨルディアを解放したことで地球上は労働を求められる世界となり、退院するとすぐに進学か就職かの選択に迫られた。

 僕は進学することを選び、夏からでも間に合う偏差値の大学を志望校に定めた。性根を入れて、これから約半年間を勉強に費やそうと思う。

 昏睡とリハビリ期間のお陰で、僕は浪人生という扱いだ。

「まったく……フィヨルディアでは英雄だっていうのに……」

 フィヨルディアでの体験を他人に話しても、誰一人として信じてはくれないことだろう。一年前まで社会の中枢を担っていたAIの正体を知る者はいない。AIが意思を持つなど、まるで御伽話だ。

 もう遠い過去のように感じる。あまりに現実離れをした出来事の連続で、あの壮絶な動乱は夢だったのかとすら考えるようになっていた。

 小川のせせらぎ、水田から聞こえる蛙の合唱、道路を行き交う車両の唸り――。

 フィヨルディアには存在しなかった音がして、本当に元の世界に帰ってきたんだなと実感していた。嬉しいような寂しいような、何だか不思議な感覚だ。仮想世界よりもリアルなこの地球で、僕はこれから生きていくのだ。

「……………………」

 特に意識することなく部屋を見渡すと、ふと目に入ってしまった。目が合ってしまった。部屋の隅でこちらを凝視している者がいる。視線を合わせた先には、発掘された遺物のように埃を被ったゲーム機が鎮座している。

 実に懐かしい。ゲーム機にはフィヨルディアのソフトが入っているはずだ。

「久々にやってみるか、フィヨルディア!」

 平然を装って呟いた言葉が上擦っていた。

 誰もいない自室は、しんと静まり返っている。

「いやー懐かしいな。電源ボタンは……ええと、ここだっけ?」

 自分を落ち着かせるために、わざわざ独り言を呟きながらゲーム機に触れた。

 するとゲームを起動しようと運ばれた指が、電源ボタンを前にピタリと止まった。指が震え、動悸が止まらない。

 わかっているんだ。その先には絶望が待ち受けていることを。だが僕は確かめなければならない。まだ、そうと決まったわけではないのだ。

「…………」

 電源をつけると、モニターにログイン画面が映し出された。

 その光景を見て、僕は大きく肩を落とした。表示された画面には、ログインを示すカーソルが消えている。

 その事実を認識すると同時に、眩暈と吐き気が同時に襲い掛かってきた。期待を打ち砕かれ、僕は意識を失ったように崩れ落ちた。神凪商事が倒産したことにより、フィヨルディアと繋がる手段は完全に潰えたのだ。

 こうなることを予想はしていた。夢は覚めるものだ。いつか終わりはきてしまう。なるべくリハビリ期間は考えないようにしていた。現実を受け入れるのが怖かったから。懸念が確定してしまうと、立ち直れないと確信していたから――。

 もう手立てはない。突き付けられた現実を受け止めるしかない。

 サービスを終えたオンラインゲームの末路とは、こういうものなのだ。世界に関する全てが浄化され、この世から完全に抹消される。特に珍しいことではなく、これまでも数多の仮想世界が犠牲となってきた。生み出されては終焉を迎え、人々の記憶からも次第に失われていく。

 だが僕にとってはフィヨルディアこそが現実であり、ただの幻ではなかった。

 アイ、フウカ、ライハ、ホムラ、セツナ。見知らぬ者にとって、少女達はただのNPCでしかないことだろう。しかし、彼女達は確かに生きていた。残酷な目的で創造された檻の中で、挫けることなく精一杯に生きていた。

 僕はフィヨルディアを知る最後の一人だ。命を懸けて神に抗った戦士達の存在を、僕は決して忘れない。彼女達の武勲は未来永劫、僕の中で生き続ける。

 思い返すと、宿の縁側で抱き締めたアイの身体は温かかった。幻想の肉体であるアイに宿っていた熱は、心の温度だったんだなと今になって思う。アイの心の温もりは、今でも僕の心を熱くしている。

 なんと儚いことだろうか。僕にとって彼女達は、唯一無二の盟友だったのだ。

 当たり前のように隣にいた友達は、もうこの世にいない。二度と会うことはできない。これからの人生、僕はアイのいない世界を生きていかなければならない。

 仲間達と過ごした何気ない日常は、永遠に続くものだと思っていた。夢を夢で終わらせたくないという気持ちは、虫のいい話なのだろうか。

 納得などできるはずがない。頭の整理などつくはずがない。失って初めて友愛の重みに気付かされ、行き場のない悲哀が胸を抉った。

 瞳の奥が熱くなる。視界がぼやけ、ぽたぽたと零れる滴が畳に吸い込まれていく。止め処なく溢れる涙を拭うことなく、僕は悄然と立ち尽くしていた。



 ――すると、思い掛けないことが起こった。

「え……?」

 落胆していたのも束の間、僕の左耳が熱を帯びていく。

 装着されたままだった転送機ラズハに、起動を示す緑色のランプが点灯した。

「ま……まさか……」

 再びモニターに目を移すと、フィヨルディアのログインカーソルが復活している。まるで僕を呼んでいるかのように、遊標がキラキラと輝いている。

「まさか……行けるというのか!? もう一度……フィヨルディアへ!」

 急いでログインを試みたが、僕にはもうアカウントがなかった。レベル九九九のアカウントを失った喪失感は計り知れないが、もう強さは無用だ。エイタという存在がいなくなっても、皆の元気な姿を見ることができるなら本望だ。

「アカウント作成……身長……体重……年齢……名前……よし!」

 顔の形状はラズハによって読み取られ、実際の顔がゲームに反映される仕組みになっている。手が震えて時間を要したが、アカウントの作成が完了した。

 いよいよログインだ。期待と不安を胸に抱き、僕は布団に潜り込んだ。

 受験勉強は、また明日にしよう――。


    ◇


 目を開けると、目に映る見慣れた光景に心が躍った。

 この世界で死ぬ度にお世話になった、僕にとっては馴染みの教会だ。街の教会には似合わない立派なステンドグラスは、変わらずに謎の主張を続けている。

 心のどこかで諦めていたことだが、この世界と再び繋がることができたのだ。

「あれ……君は……?」

「お久し振りです。神父さん!」

 神父の味気ない姿も、あの時と何一つ変わっていない。

「…………はて?」

「いえ、何でもないです! 失礼しました!」

 新たなアカウントでログインしている現在、僕は駆け出しの冒険者だ。当然だが知られているはずがない。神父の訝る視線を尻目に、僕は教会を後にした。



 教会を出ると、そこには美しい世界が広がっていた。

 稠密で瀟洒な日本風の街並みと、整備された石畳の道路。壊れた建物は修繕され、新たに作られた建造物も多く確認できる。

 神凪との戦いで壊滅的な被害を受けた街は、著しい変化を遂げていた。

 ここはもはやゲームではなくなっている。完全に現実と切り離されながらも、神凪が創設した監獄は楽園となっていたのだ。

 人口密度が明らかに高く、賑々しい目抜き通りは立錐の余地もない。五度にも渡る災厄により囚われていた――数十万人にも上る人々が自由を勝ち取ったのだ。

「復興……できたんだな……!」

 自然と涙が込み上げてきた。皆の努力が一目でわかった。行き交う通行人の表情に、不安や絶望は感じられない。誰も彼も、希望に満ちた顔をしている。

「お兄ちゃん、どうして泣いているの? 悲しいことでもあったの……?」

「……え?」

 声を掛けられて振り返ると、声の主は見知らぬ女の子だった。同じ年齢ぐらいの男の子と手を繋いでいる。二人連れの子どもは、心配したような面持ちで僕の顔を見上げている。

 僕は涙を拭い、笑顔で子ども達に向き合った。

「悲しいことは何もないよ。人々の幸せそうな顔が嬉しくてね!」

「そっか! 嬉し涙ならよかったね!」

 天真爛漫な少女は、僕の返答に満面の笑みを見せていた。

 この愛らしい笑顔も、仲間達の奮闘による賜物だ。

 片割れの少年はペコリと頭を下げ、少女の手を引いて去っていった。


    ◇


 僕は悠然と街を練り歩き、アルン北東の商店通りに向かった。

 かつてのアルンとは建物の配置や数が変わり、明らかに活気が増している。

「早うせんか! 工期はあと五日しかないのじゃぞ! 徹夜したいのか!」

「流石に無理ですよ……せめて、あと二週間は欲しいです……」

「喧しい! つべこべ言わんと手を動かさんかー!」

 すると何やら可愛らしい声の怒号が、街角の建設現場から聞こえてきた。

「この声……まさか……」

 遠目から覗くと、黄色のヘルメットを被った金髪の少女が作業員に指示を出している。古めかしい口調には似合わない、幼い少女の声。やはり、声の主はライハだった。現場監督でもやっているのだろうか。

 見たところ、木造の住宅を建築しているようだ。この世界で採れる資材といえば、木材か石材ぐらいだから妥当な設計だ。コンクリートを造る技術はなさそうだが、建物の基礎はどうしているのだろうか。ここがゲームの世界だと忘れてしまうほどに、作業員による木材の加工技術が見事だった。

 こういった技術力は、現実世界で培ったものなのだろうか。フィヨルディアが解放される以前は、こうして働いていた者が少なからずいるはずである。地球上を席巻していたありとあらゆる業界に精通する技術者がフィヨルディアに集まっていることを考えると、街を彩る驚異の発展にも納得がいくというものだ。

 ライハはプリプリと怒りを露わにして、作業員に詰め寄っている。なかなか厳しい職場のように見えるが、実際は良い環境なのだろう。ライハの口調がキツいのはいつものことだ。怒るライハを窘める作業員の表情をみると、少女を可愛がるように笑顔で応対しているのが確認できる。元四天獣であるライハも、すっかりアルンの住人に受け入れられているようだ。



「運送屋さーん! ここですよー! 下の玄関前に置いてくださーい!」

 商店通りを越えて名もなき路地を歩いていると、一軒家の二階から声が聞こえてきた。目を移すと、青髪の少女が窓から顔を出している。

 妖婉な声音。予見していた通り、声の主はセツナだ。もう昼時なのに寝起きなのか、セツナは眠そうに目を擦っている。身に纏うのは可愛らしい水色の寝間着だ。そしてご丁寧に、先端にポンポンの付いた三角帽子まで被っている。

 家の表札を見ると、《セツナ》と可愛らしい字で書かれている。家を買って平穏に暮らすという夢を叶えたようだ。

 配達員がドスンと音を立てて、段ボールらしき配達物をセツナの家の前に置いた。どうやらアルンには、置き配というサービスがあるようだ。

 文明が進み、意外にも現実世界に近しい進化を遂げている。しかしこの世界には乗り物が存在しないので、配達は手運びとなる。大変な仕事だ。

 よく見ると表札の下に、《占い一回――七百リオ》――との記載があった。あまりに法外な料金設定に驚き、僕はしばらく表記を注視して固まってしまった。



 しばらく歩くと、茅葺屋根でできた平屋の建物があった。周囲の建物とは明らかにかけ離れた意匠だ。施主の趣味なのだろうか。表札には、《フウカの転送屋》と書かれている。皆がそれぞれ、お金を稼ぐ方法を編み出しているようだ。

 ふと見ると、扉の横にメニュー表が貼られている。《霊峰ロルヴィスの麓――十リオ》、《霊峰ロルヴィスの山頂――二十リオ》――といったように、それぞれ各霊峰の行先が書き綴られている。更に、《ナルバク――十リオ》、《ランベル――十リオ》――といった、聞いたことのない街の名称も記されている。アルン以外にも街があるというのだろうか。そしてメニュー表の最終行、それ以上に目を引くものがあった。《城塞都市アジール――三十リオ》。

「城塞都市だって!? アジールまで開拓しているのか……? 城塞って……もしかしてアルンよりも大きいのか……?」

 アジールにも手を広げていたことには驚かされた。復興と発展の速度が異様に早い。彼らは既に現実世界の手から離れ、新たな社会を築き上げている。

 すると、男女の二人組がフウカの家の戸を叩いていた。どうやらインターホンはないようだ。ノックの音を聞いて、すぐに銀髪の少女が家から顔を出した。

「はいはい、ご依頼ですか? どちらまで?」

 フウカも怠惰な生活を送っているようだ。寝癖がついた髪はボサボサで、猫耳も出したままだった。この少女が魔獣の王だったなんて誰が信じられようか。

「ナルバクへ二名、お願いできますか?」

「はいよ、二名で二十リオだよ。街の裏手にある霊峰には近付かないようにね。魔獣がいて危ないからさ。《転送の札》を二枚渡しておくから、用が終わったらそれで帰ってきてね。それじゃ、そこに並んで――」

 そう言ってフウカが異能を発動する。《転送》の魔法陣が足元に展開され、二人連れの客は立ち上る風と共に姿を消した。

 なるほど、これはフウカにしかできない商売だ。帰路を考慮して《転送の札》をサービスしていることも評価できる。《転送》に掛かる料金も、セツナの占いとは違って良心的だ。

 だが可哀想なことに、この商売は近い将来に破綻すると断言できる。一枚十リオで購入できる《転送の札》は過去に訪れた場所へ瞬間移動できる効果を持っており、一度でも目的地を訪れたならフウカを頼る必要はなくなってしまうのだ。四天獣が支配権を失ったことで霊峰への《転送》はフウカにしか行えないが、一般人が魔獣の巣窟に足を踏み入れることはないだろう。つまり札の物価が上がらない限り、フウカの異能に優位性は存在しない。このことは黙っておこう。



 アルン城の様子を見に行くと、門前で掃除をしている少女の姿があった。箒で通りを掃きながら通行人と挨拶を交わしているのは、赤髪の少女――ホムラだ。

 アルン城は観光地となっているらしい。パンフレットのようなものを片手に大勢の人が曲輪を歩き、立派な城郭を眺めて喜んでいる。

 ――すると上空から巨大な鷙鳥しちょうが飛来し、アルン城の中庭に着地した。

 紅蓮の翼――あれは恐らく、以前にアルンを襲った煌凰だ。身体に炎を纏わせていないので、一見その正体に気付きにくい。

 アルン城を見に来た客は、歓声を上げて煌凰を迎え入れている。観光地のアイドルなのか、神として祀られているのかは不明だが、どうやら今の煌凰は敵ではない様子だ。煌凰は大人しく羽を伸ばし、アルン城の広い庭で寛いでいる。

 しかしホムラが近付くと、煌凰は固まって動かなくなった。怯えているようにも見える。そんな煌凰の挙措を気にすることなく、ホムラは嘴を優しく撫でている。

 あろうことかあの地獄の使者を、ホムラは懐柔してしまったようだ。


    ◇


 ルイエが経営している――旅寓アイアイ。ここならアイの居場所が掴めるかもしれない。中の様子は変わらず、僕がアイに贈った花が出窓に飾られている。

 現在は日中であり、客が来ない時間帯なのだろう。受付台には誰もいない。奥ではドタバタと物音が聞こえる。チェックアウト後の部屋の清掃中だろうか。

 訪ねると迷惑かと考えていると、ルイエがひょっこりと顔を出した。

「あ、お客様? ご予約ですか?」

「いえ、人を探していまして」

「人を? どんな人ですか?」

「アイという名の少女です。見た目は――」

「――アイさん! アイさんにお客様よ!」

「ええ!? いるの!?」

 ルイエは宿屋の奥の廊下に向かって、アイの名を叫んだ。

 するとすぐ、大きな足音と共にアイが現れた。ルイエと同じく、アイは宿屋の制服を着ている。懐かしい紺色の着物姿。ここでルイエと共に働いているようだ。

 アイの姿を見て涙が出そうになったが、僕は必死に堪えていた。アカウントを失った現在、僕は名もなき冒険者だ。フィヨルディアを救った英雄ではない。

 僕はアイに会いたい一心でここまで来たが、何から話せばいいのかわからなくなっていた。アイの姿を見られただけでも、僕にとっては感慨無量であった。

 するとアイは、目から大粒の涙を流していた。

「エ……エイタ……なの……?」

「アイ……! 俺がわかるのか……!?」

 アイは猛然と走り出し、僕に突撃した。

 アイは一目見ただけで、僕に気が付いたのだ。

「エイタ! おかえり! また会えるなんて夢みたい!」

 ゲーム上での姿は、顔に関していえば現実世界と同様のものが映し出されている。つまり今の僕は、前回のアカウントと同じ顔になっているのだ。

 とはいえ、僕は死亡したはずの人間だ。戸惑いもあるだろうに、アイは迷うことなく飛びついてきた。

「また会えて嬉しいよ。アイ、ただいま!」

 僕達は再会を喜び、力いっぱいに抱き合った。



 ――すると背後で、弾けるように大きな音を立てて扉が開いた。

 振り返ると、そこにはかつて命を預け合い、共に戦った仲間の姿があった。

 開いた扉から陽光が差し込み、その姿は後光が差したように輝いてみえた。

「――やはりお主であったか。エイタ、余はまた会えて嬉しいぞ」

「エイタ、あたしの家を通り過ぎただろ! 何で会いに来ないんだ! 馬鹿!」

「あなたが再びフィヨルディアに来ることはわかっていたわ。実際はそこまで詳しく《予知》できないけれど、何か嬉しいことが起こる気がしたの」

「エイタ様、再びお会いできて光栄です。この時を待ち望んでおりました」

 フウカ、ライハ、ホムラ、セツナ。四天獣の少女達は僕の存在を見抜いていた。

 僕がフィヨルディアを離れていた一年間で、フィヨルディアは驚くほどに独自の発展を遂げている。少女達は囚われていた人々を長きに渡る監禁から解放し、アルンの再興を見事に果たしていた。フィヨルディアの住人は安寧を堪能し、縛られない自由を噛み締めながら、手を取り合って幸せに暮らしてきたのだ。

 僕の涙は止まらない。仲間達、それから、この世界が愛おしくて堪らなかった。

「……また会えて嬉しいよ。皆には……話したいことが山ほどあるんだ……」

「話したいことがあるのは、こっちだっつーの! エイタ、しばらく帰さないぜ!」

 声を震わせる僕に対し、フウカが肘で突いてきた。こういった戯れも懐かしい。

 すると見えない何者かが、力強く僕の肩を抱いた。僕が驚いて肩を竦めると、《霊化》を解除したセツナが姿を現した。この異能を見ることも一年振りで、何だか懐かしい気持ちだ。僕の耳元に唇を近付け、セツナは艶やかな声を発した。

「ウグレはよくやってくれたわよ。ギルドもクエストを撤回し、私達に市民権を与えた。もう私達を縛るものは何もないわ。これも全部、エイタの功績よ」

 続いてホムラが、そっと僕の右手を両手で包み込んだ。ホムラの体温が、冷えた僕の手に移っていく。いつも皆を護ってくれた、優しい少女の温かい手だ。

「エイタ様、是非フィヨルディアを隅々まで見てください。かつての面影がないほどに、世界が変わっているはずです。皆、頑張ったのですよ!」

 ホムラの目にも涙の雫が零れていた。僕の右手を握るホムラの手にグッと力が込められ、少女から溢れ出る歓喜の感情が伝わってくる。

 すると五人の少女達は、取り合うように僕の手や腕を掴んだ。少女達の児戯によって四方八方に身体を引かれて、僕はされるが儘に流されていた。

「エイタ、あたしが新しくなったフィヨルディアを案内してやるよ!」

「ライハちゃんが霊峰ロルヴィスの奥地にコテージを建てたのですよ。よく皆でバーベキューをしていまして……。エイタ様も、どうかご一緒に如何ですか?」

「余が一番頑張ったのじゃぞ。毎日現場仕事じゃ。エイタよ、褒めてもよいぞ」

「人気者ね、エイタ。こんな美少女に囲まれて、今どんな気持ち?」

 皆が一斉に話し出すので、僕は何が何だかよくわからず返答に困っていた。

 すると、アイが僕の腕をギュッと強く抱き締めた。

「エイタ! 変わったところはアルンだけじゃないよ! また、わたし達をエイタの冒険に連れて行って!」


    ◇


 大学受験のことをアイに話すと、「フィヨルディアで遊んでいないで勉強をしなさい」と叱られてしまった。温厚なアイが、珍しく真剣な眼差しを見せていた。

 仕方なく、僕はしばらくの間フィヨルディアへ行くことを我慢した。一年間にも上る勉強のブランクを取り戻すことは容易でなかったが、アイの期待には応えたかった。ログインを控えた結果が不合格では、アイに合わす顔がない。大手を振ってフィヨルディアで遊ぶために、僕は受験勉強に集中することにした。

 その甲斐あって、僕は志望大学に合格することができた。仲間達に合格の報告をすると、皆が盛大に喜んでくれた。

 そして合格報告から一週間後、少女達は合格祝いの祝宴を催してくれた。霊峰イスカルドの中腹にあるセツナの別荘に呼ばれると、そこにはなんとルイエ、アレク、スニル、ウグレ、イアンの五人もサプライズで招宴されていた。僕のために皆が腕を振るい、豪華な手料理をご馳走してくれた。

 現実世界ではこういった集いが苦手だったが、フィヨルディアの仲間達となら時が経つのを忘れるほどに楽しかった。集会は夜明けまで続き、翌日の授業に遅刻してしまったことについてはアイに内緒である。

 幸せな日々が続いていた。毎日が楽しかった。大学に入学しても尚、僕はフィヨルディアに入り浸っていた。

 見るに見兼ねたアイは、僕に大学生活を充実させるよう勧めた。僕に現実世界の友達がいないことを心配して、気を遣わせてしまったようだ。

 コミュニケーション能力の乏しい僕は、大学で友達を作ることに苦心していた。

 その苦労話や失敗談を、毎日のように仲間達に聞かせた。アイとホムラは真剣にアドバイスをしてくれたが、フウカとライハとセツナは笑って茶化してくるばかりであった。



 五限目の終わりを告げるチャイムを聞くや否や、僕は急いで大学を出た。講義の後に決まって行われる教授の長話に興味はない。学校が終わると、いつも寄り道をすることなく家路に就いている。

 帰宅すると真っ先に浴室へ直行し、シャワーを浴びた後に軽く食事を取る。人間が生存に必要な行動を一通り終えた後、流れるような動きでゲームを起動させてモニター上のログイン画面を確認すると、迷うことなくベッドの中へ飛び込んだ。左耳に装着されたラズハが緑色に点灯し、次第に熱を帯びていく。

 向かう先は、夢幻の理想郷。地球儀に載っていない、僕だけの秘密基地。

 強く、気高く、素朴で心優しい。でも時には、小憎らしいほどに我儘で不器用。そんな最高の友達に、僕は会いに行くことができる。

 次元を越えて、いつだって――。

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夢幻の灯火 辻 信二朗 @Tsujiroh

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