悲しみにさよならを告げる夏の日

朝霧 藍

悲しみにさよならを告げる夏の日

 花桐はなぎり そう 様


 初めまして。僕は雪平ゆきひら千冬ちふゆと申します。

 まずは、お誕生日おめでとうございます。花桐さんにとって良い一年になることを、心から願っています。

 僕が花桐さんのファンになったきっかけとなった曲は、『救済法』です。僕は当時、とても辛いことがあり、死んだように生きていました。

 でも、たまたま動画投稿サイトで、花桐さんの『救済法』を聴き、僕の心は救われました。こんな僕でも生きていていいんだと言ってくれて、こんな僕の存在を認めてくれました。気づいたら僕は、ボロボロと泣いていました。

 それから僕は、花桐さんのおかげで生きられています。辛くても、苦しくても、花桐さんの曲を聴けば、あと1日だけは、頑張って生きようと思えるのです。崖っぷちだけど、『もう1日だけ』を繰り返しながら、僕はこの心臓を動かしています。

 言葉にするよりも思いが先にいき、なにから書けばいいか分かりません。でも僕は、本当にあなたに救われたんです。真っ暗だった僕の世界に一筋の光を与えてくれたのはあなたの曲なんです。

 これからも、僕は死ぬまでずっとずっと応援しています。死んでからも応援するもしれません(笑)

 暑さが続きますが、体調には気をつけてお元気にお過ごし下さい。僕は花桐さんが、花桐さんの曲が大好きです。



                     20XX年 8月 12日  雪平千冬



            


「おはよう、千冬」


 玄関から出てきた人物に、俺は家の前から声をかけた。

 

「夏生、おはよう。相変わらず時間ピッタリだね」


 その人物は、目を細めて笑った。


「まあ、家隣だしな」


「そうだね」

 

 なんじゃそりゃ。

 じゃあ言う必要なかっただろ、というツッコミは直前で飲み込み、俺は家の鍵をかける千冬を待った。その後ろ姿を眺める。俺と違ってサラサラで、耳の上で切り揃えられた髪。シワ1つ無いワイシャツとスラックス。相変わらず身なりが整っている。

 

「おけ。じゃ行こ」


 千冬はそう言うとくるりと振り返り、俺の方に駆け寄ってきた。そして横並びになり歩き始める。


 雪平千冬は、俺の幼馴染だ。4歳の頃から、もうかれこれ13年ほどの付き合いになる。4歳の時に千冬が隣の家に引っ越してきて、同じ歳ということもあり、俺たちはすぐに仲良くなった。小さい頃はよくどちらかの家で遊んでいて、本当にずっと一緒にいた。大きくなるにつれ、遊ぶようなことはほとんどなくなったが、それでも一緒に勉強したりはする。朝の登校もほぼ一緒だし、もはや家族同然なのだ。


「夏生、今日部活?」


「あー、今日はないかな」


「最近練習ないよね」


「まあ、俺軽音楽部の2軍部員だしな」


「ふっ、何それ。じゃあ帰りに本屋寄ってもいい?」


「りょーかい」


 見慣れた通学路を歩く。朝だというのにすでに元気な太陽が、俺の背中をジリジリを照りつける。夏は登校の時点で汗が吹き出してくるからどうも好きになれない。俺の名前に入っているからと言って相思相愛だなんて思うなよ、太陽め。


「ふんふふーん♪」

 

 なぜかご機嫌な千冬を傍目に、俺は太陽への変な八つ当たりをつらつらと並べていた。


「……え?」


 だから気がつかなかった。いや、耳馴染みがありすぎて気づけなかったのかも知れない。

 流れる景色が止まる。それは俺の足が止まったからだと時間差で認識した。 

 

「夏生? どうしたの?」


 1歩先で立ち止まった千冬が振り返る。


「その曲……」


 なんとか絞り出した、聞こえるかどうかも分からない声量だったが、千冬はその言葉を聞き取り、即座に目の色を変えた。

 

「え! 『存在論』知ってる? 花桐奏の」


 久々に千冬のキラキラした瞳を見れて、内心ほっとした。が、そんな場合ではない。なんて答えるのが正解なんだ。心臓がばくばくと脈打ち、喜びと焦りといろんな感情が入り混じる中、それでも高速で脳内を回転させた挙句、俺が出した結論は……

 

「ごめん、知らないわ。花桐奏?」


 動揺を隠すのに精一杯になりながら俺は答えた。


「なんだ知らないのかー……。まだマイナーなアーティストさんなんだけど、めっちゃいいんだよ」


 千冬はそう語りながら身を翻し再び歩き始めた。俺はその後を行く。正直、今は横並びにはなれなかった。今の俺はきっと変な笑顔になっているだろうから。千冬には見せられない。


「あ、そうだ」


 だが先を行く千冬がいきなり足を止めたので、俺はぶつかってしまった。


「ちょ、急に止まらないでよ」


「歩きスマホは良くないからね……ほらこの人」


 再び俺の方を振り向いた千冬が俺に見せてきたのは、動画配信サイトのプロフィール画面。そこにあったのは薄紫色の花の中に四分音符が描いてあるアイコンと目立つように大きく書かれた、花桐奏の文字だった。

 

「ぜひ一曲は聴いてほしい! 僕のオススメは『存在論』もいいし、『未完成』もいいんだけど……やっぱり原点である『救済法』かな!」


 嬉々として語る千冬に、俺は小さい頃の千冬の面影を感じ、自然と笑みがこぼれた。


「はいはい、後で聞くから。遅刻するぞ」


「分かった! あとで感想聞かせてね」




 元々余裕を持って家を出てるので、遅刻とはならず、いつもより少し遅れて学校に着いた。高校では千冬とはクラスが離れてしまったので、クラスの前で千冬と別れる。

 席に着いたら、俺はイヤホンを取り出し、耳に挿した。スマホを取り出して先ほど千冬に見せてもらったページに飛ぶ。しばらく下にスクロールしてから『救済法』のサムネイルを見つけ、タップする。

 イヤホンから流れてくるのはピアノの音色。少ししてからギターのサウンドとドラムのフォービートが聞こえてくる。聞き慣れたメロディーにうんざりしてしまい、1分も経たないうちに俺はイヤホンを外してしまった。プロフィール画面にもう一度戻る。

 ……届いたんだな。


「よかったな、花桐奏」


 誰にも届かないその言葉は、何も残さず空気中に消えていく。

 俺は電源ボタンを押し、ポケットにスマホをしまった。

 

「海野ー!」


 それと同時に、どこからか俺を呼ぶ声が聞こえた。声がした方向へと顔を向けると、そこにいたのは、クラスメイトの櫻井だった。


「今日の放課後委員会なんだけど、俺補習入っちゃってさー。去年委員だった海野に出て欲しいんだけど……」


 顔の前で手を合わせ祈るポーズをする櫻井。

 こういうのは、本当に断れない。逆に断れる人がいたら見てみたいもんだ。どういう心持ちで断ればいいのか俺に教えて欲しい。


「ああ、いいよ」


「ありがとう海野様! ジュースぐらい奢るからさ!」

 

 ジュース1本と千冬との時間、対等な交換ではないな。

 意味のない思考はすぐにかき消されてしまった。




「ただいまー」


 意外と長かった委員会を終え、家に着いた。千冬には謝罪の連絡をしておいたが、一応明日の朝も面と向かって謝っておこう。


「あら、夏生おかえり。帰って来たところ悪いんだけど、これ千冬くんに届けてきてくれる?」


 勢いよくソファに腰掛けたところで、母さんがタッパーを渡してきた。中身は肉じゃがだ。


「はいはい」


 今日一日の疲労でソファから立ち上がるのに少しのためらいはあったものの、ちょうど千冬に謝りたいと思っていたところなので、おおかた快く引き受けた。

 徒歩10秒で千冬の家に辿り着き、インターホンを鳴らす。すぐに千冬は出てきた。

 だが、どこか千冬の様子がおかしかった。心なしか表情が暗い。目にハイライトを入れ忘れたように。だけど、気をつけて見なければ分からないほどわずかな違和感だ。


「大丈夫か?」


「え? ああうん」


「そう……これ、肉じゃが」


 タッパーを手渡す。

 ……このまま返してはダメな気がする。

 謝罪なんか二の次で、今は俺の危機感知センターが真っ赤に反応していた。


「ありがとう。おばさんにもいつも感謝してるって言っといて」


 いつもは爽やかな千冬の笑みが、今はぎこちなかった。

 どうしよう。何か、何か救う方法を。今の彼に、手を差し伸べなくては。


「っあのさ……夏休み、どっか遊びに行こうよ!」


 一度言葉が出てくると、いくらでもあふれてくる。


「千冬の行きたいところ、どこでもいいからさ! カラオケでもボーリングでも、遊園地でも。お金なら俺が出すし!」


 当の本人は、目をまんまるにしている。これはちょっと暴走しすぎたか……。


「……どこでも?」


「っ! 世界中どこでも! あ、海外はパスポートいるからちょっと無理か」


「海外には行かないよ」


 そう言い千冬は微笑んだ。大丈夫だ。いつも通り、とはいかないけど、少し明るさを取り戻している。


「ちょっと待ってて」


 千冬は急に一言残して家の中に戻ってしまった。家の中から駆け足の足音が聞こえる。そして再びドアが開いた。

 彼が手にしていたのは何かの雑誌。表紙は灯台の写真だった。


「ここ、行きたいんだ」


 千冬は表紙の灯台を指差して、俺の瞳をまっすぐ見つめた。少し照れ臭くなって俺は視線を表紙に移す。どうやら旅行雑誌のようだ。


「ふーん、ここから電車で1時間ぐらいのところか……いいよ、行こう。でも、なんでここに?」


「……母さんが、生きていた時、3人で最期に行った海から、見えたんだ。今日たまたま本屋で見つけて……。1人では、どうにも行けなさそうでさ」


 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉を、俺は一語一句逃さないように聞いていた。同時に、寂しそうに笑う千冬の顔からは絶対に目を離さなかった。

 聞いたことを後悔するつもりはない。千冬の悲しみに背を向けることは絶対したくないから。どんな時でも寄り添うと決めたから。 


「そっか。日程はー……あとで連絡でいい?」


 今日は、これでお開きにすることにした。立ち話もなんだし。


「わかった。あ、お金は自分で出すからね」


 真面目だな。ドアが閉まるのを待ってから、息を吐くように笑った。

 夏休みは、もうそこだ。

 




 来たる8月10日。俺たちのひと夏の冒険が始まる。と言っても小1時間ほど電車に揺られて海辺に遊びにいくだけだが。


「ていうか夏生、荷物多くない……?」


 無事電車に乗り込み座席を確保したところで、千冬が口を開いた。


「あー、まあ、ちょっとね」


 俺は下手くそなウインクをキメる。

 とはいえ確かに、多かったかも知れない。リュックはパンパンで、千冬のために計画したサプライズで必要なは飛び出していた。

 電車に乗るのも、遠出するのも久しぶりで、だいぶワクワクしていた。昨日なんてあんまり寝れなかった。まるで遠足前日の小学生みたいのように。

 夏休みということもあり、駅に着くたび人が立ち替わり入れ替わりで電車を乗り降りしている。その光景を俺はぼんやりと眺めていた。家族連れや恋人たち、いろんな人がいて見ていて飽きない。

 

「楽しみだなー!」


右隣に座る千冬に声をかけた。


「なんか、僕以上に夏生のがテンション高くない?」


 千冬はくすくすと笑った。


「なんか、自然多くなってきたね」


「本当だ」


 向かい側の窓に流れる景色に焦点を当てる。いつの間にか家やビルはほとんどなくなっていて、緑の割合が多くなっていた。

 俺たちは電車に揺られながら、ずっと喋っていた。小テストが難しかったとか、最近見たテレビが面白かったとか、些細なことばっかりひたすらに。それが俺にとってすごく楽しくて、目的地に着く前にこんなに満足しちゃっていいのかななんて思ったほどだ。


「あっ!」


 俺が担任の愚痴を言っていた途中、不意に千冬が驚きの声を漏らした。

 窓の向こうを眺める千冬の視線を追うと、俺も思わず声が出た。


「海だ……!」


 ちょうど電車は海沿いを走っていた。窓一枚に詰められた砂浜と海と、空。日常とはかけ離れているその景色に、俺も千冬も昂っていた。


「すっご! 青い!」


「あおー!」

 

 首を回すタイミングが同じで、目が合う。俺たちは同時に吹き出した。

 次は目的の駅だというアナウンスを聞き下車する準備をする。心臓の高鳴りを、確かに感じていた。






「ついたー!!」


 雑誌を掲げ、現在地の景色と見比べる。目の前に広がる海と空。そして2時の方向の崖の上に立つ真っ白な灯台。間違いない、ここだ。

 思ったよりも人が少なく、2、3組ほどしか人がいなかった。というのも、ここはどうやら海水浴場ではないらしい。

 目を瞑ると、波の音と磯の香りを鮮明に感じた。海に来たって感じだ。


「広いなぁ……」


 目を開くと、隣で千冬はどこまでも広がる青を、瞳に映していた。その姿は様になっていて、まるで映画のワンシーンのようだった。俺は指でフレームを作り、その中から千冬の姿を覗く。潮風が吹き、髪の毛がふわりと揺れた。これが本物のカメラだったら、今この瞬間、間違いなくシャッターを押していただろう。俺はこの目に映る景色を一生忘れまいと、心に刻み込んだ。

 

「もー、何してんの」


 千冬はこちらを向き、少し頬を膨らました。


「写真撮ってた」


「なにそれ」


 俺はおとなしく手を下ろした。


「そうだ、やりたいことがあるんだよね」


 そして背負っていたリュックを下ろし、を取り出した。


「じゃーん! バドミントンでーす!」


「そのラケット、朝から気になってたんだよね」

 

 千冬は、やれやれ顔を浮かべた。だがその後キョトンとした顔に変わった。


「え、ここでやるの? 」


 ここ、とは砂浜を指しているのだろう。もちろん、そのつもりで来たんだから当たり前だろう。


「ビーチバレーがあるんだし、ビーチバドミントンだってあってよくない?」


「うーん、一理ある。いいよ、やろう! でも、夏生は僕に勝てないと思うなぁー」


「おっ、元バドミントン部の血が騒いじゃう感じ?」


「それ僕のセリフなんだけど」


 ラケットを一つ渡し、五メートルほど離れて位置についた。サーブは千冬からなので、俺はラケットを構える。


「いくよー。よっ」


 千冬の打ったシャトルは俺の位置から少し左に逸れた方向へと飛んで行ったので、左にズレるために一歩踏み出した。


「あ」


 が、足場はぐにゃりと崩れ、俺はそのまま砂浜へダイブした。

 

「っぷ……ははははは!」


 体の左半分を砂に埋めながら、俺は大爆笑している千冬にクレームをつける。


「そんなに笑うことないだろ」


「いや、ふふ、ごめん。だって、夏生下手すぎるから……ふふっ」


 気を取り直して立ち上がり、砂浜の上に虚しく落ちていたシャトルを拾う。


「おっしゃー、いくぞ! えい!」


 だが、俺の打ったシャトルは大きく右側に逸れる。

 千冬は慌てて駆け出すも砂が衝撃を吸収してしまい、うまく走れなかったようで、シャトルはポトリと落ちてしまった。


「ごめーん!」


「やっぱり、夏生下手じゃん!」


「下手じゃない! ちょっとバドミントンと相性が合わないだけなんだ!」


「はは、変な言い訳」


 それから10分ほどビーチバドミントンを続けたが、俺がバドミントンと相性が合わなすぎるのと、照りつける太陽ですぐに汗だくになってしまったことによりやめてしまった。


「あー、あっついー」

 

 俺が持参したビニールシートの上で、二人で休憩する。だが日差しを遮るものがなく、やっぱり暑い。


「いやー、入っちゃいますか? 千冬くん」


「入っちゃいましょうか、夏生くん」


 俺たちは顔を見合わせる。



「はあー気持ちいいー」


「やっぱ海に来たからには入らないとねー!」


 足の裏から、ズボンを捲り上げた足首までを、潮水が冷やす。ゆらゆらとたゆたう水面の境目が、少しくすぐったい。

 屈んで水を掬い上げる。ちゃぷんと音をたてて手のひらに収まるそれは、キラキラと太陽の光を反射し、眩しかった。


「やっぱ、広いなあ」


 隣で、俺より1歩前にでた千冬がつぶやく。


「それ、さっきも言ってた」


「うん……なんかさ、自分のちっぽけさを感じるんだよね」


「そうか? まあ海に比べたら確かに人間どもは小さいけどさ」


 掬い上げた水を海へと帰し、俺は腰を伸ばした。


「人間どもって何目線」


「俺目線だよ」


 振り返った千冬に俺はイタズラな笑顔を向けた。

 千冬は微笑み返し再び海の遠くを見つめる。


「……人間はさ、いつ死ぬかはきっと生まれた瞬間に決まってると思うんだ。だから、悲しみたくないし、悲しんでほしくないと思うんだよね」


 今、千冬の瞳には何が映っているのだろうか。母親か、父親か、はたまたどっちもなのか。あいにく、俺には寂しそうな背中しか見えなかった。


「そうだといいいな」


 もっと寄り添える言葉が見つからない。





 帰りの電車にて。 

 千冬は発車して5分足らずして寝てしまった。隣ですやすやと寝息を立てている。俺はというと、寝ることができなかった。さっき、千冬が言った言葉が頭から離れないのだ。

 あれは……自分への言葉だったのか。俺にはどうもそうは思えない。どこか他人事な感じがしたからだ。


「父さん……」


 急に千冬が小さく発した。俺の心臓はドクンと跳ね上がる。俺の思考を読まれたのかと、一瞬錯覚した。


 千冬は、12歳の時に母親を亡くしている。どうやら、重めの病気だったらしい。千冬の母親はとにかく優しい人で、いつも口角が上がっていた。小さい頃から俺もお世話になっていたし、家族ぐるみで仲が良かったから、相当悲しかった記憶がある。でも、それ以上に辛かったのは千冬と千冬のお父さんだろう。あれから、少し千冬に影が落ちた。それでも、人前ではそんなこと感じさせなかったし、本当に少し、だった。だから、千冬が明確に変わってしまったのは──

 

 父親を亡くしてからだ。


 千冬の父親は、14歳の時に不慮の事故で死んだ。仕事中に、トラックに撥ねられたらしい。当時の、訃報の電話をとった母さんの真っ青な顔も、そのことを聞いた時の頭を殴られたような衝撃も今も鮮明に残っている。

 それからは、千冬の表情は変わってしまった。笑っていても、喜んでいても、無表情でも、必ずどこかに寂しさと、悲しみが含まれている。おそらく、10年以上の付き合いがある俺にしか分からない。でも、俺には全て分かってしまう。

 そして千冬はバドミントン部を辞めた。千冬は部の中でも群を抜いて上手で、順調に県大会まで進んでいたのに、それすらも棄権してしまった。


 だから今日は良かった。久々に千冬がはしゃいでいた。相変わらず100%の笑顔は見れなかったけれど。

 それでも、今日という日が千冬にとって少しでも楽しめる日になったら、それはもう願ったり叶ったりだ。





 あの日から1週間が経った。俺は宿題をやったり、寝たり、いろんな作業したり、夏休みを満喫している。

 今日は何しようか。夏休みにしては珍しく8時に起きて現在8時半。俺は考える。意外と夏休みも暇なのである。もちろん宿題をやらなくてはならないが、やる気が出ない日だってたまにはあるのだ。2日に1日の頻度で。だから夏休みを何度も経験して夏休み玄人になっても、宿題は溜まってしまうのだろう。

 そうだ、千冬に手伝ってもらおう! 

 名案を思いついた俺はスマホを手に取る。千冬は頭がいいので、色々教えて貰えばすぐ終わるはずだ。

 コールボタンをタップし、呼び出し音が鳴る。だが、10回以上鳴っても出なかった。まだ寝ているかもと思い、切ろうとしたその時だった。


『もしもしっ、どなたですか!?』


 聞こえてきたのは、知らない女性の声だった。その焦るような声色に何か良くない予感がし、ざわざわと胸騒ぎがする。


「海野夏生と申しますけど……そちらは?」


『こちらは⚪︎×病院のものです。もしかして、雪平千冬さんのお友達ですか!?』


 病院。病院と言った。千冬に何があった? 頭が真っ白になる。


『雪平千冬さんが……亡くなりました』


 呼吸が荒くなる。言葉の意味なんて考えていられなかった。ただ、あの日とあの日と同じ言葉をまた聞いて、俺の中に残っていた衝撃がぶり返す。そうしてようやく理解する。千冬が、死んだ?




 ありえない。ありえないありえないありえない。

 自宅を飛び出し、自転車で病院へと向かう。かつてないほどの速さでペダルを漕ぐ。汗が止まらなかった。

 そう、ありえないのだ。千冬が死ぬなんて。だって1週間前はあんなに元気だったのだ。


「っはは、ありえないんだよ、ばか」


 誰に向けたか定かでない毒を吐くことしか、俺を冷静にさせる術がなかった。

 




「千冬のっ! 雪平千冬の病室はどこですかっ!?」


 病院へ駆け込み、俺は一直線にナースセンターへ向かう。酸素が足りなくて、もう今にも倒れ込みそうだったが、俺自身がそれを許さなかった。


「え、えーっと、雪平さんですね……」


 目の前のナースさんは少し怯むそぶりを見せたが、すぐにキーボードの音を鳴らした。だがディスプレイに表示された文字を見て、その表情に影が落ちる。


「雪平さんは、レイアンシツです……」


  ……ああ、だめだ。頭が回らない。耳から入ってきたその言葉の当てはまる漢字がどうしても分からなかった。


「それ、どこにありますかっ?」


 ナースさんは丁寧に経路を教えてくれた。短く感謝を告げ、俺はすぐそこに向かう。

 千冬は生きているはずだ。おそらく、さっきの電話は早とちりか何か。そうだ、多分千冬がドッキリを仕掛けたんだ。俺から電話が来た時に、ナースさんに嘘をついてほしいとお願いしたんだろう。なんだよ、もう。変なイタズラしやがって。千冬を見たら、すぐに文句を言ってやる。ばかなことやるんじゃないって。そしたらきっと千冬は白い歯を見せてごめんってば、って笑うだろう。

 いつの間にか案内された部屋の前まで来ていた。汗が頬を伝う。なんで急に緊張してんだよ、俺。嫌な感情は振り払い、ドアノブに手をかける。異常に震えた手は、見ていないことにした。

 深く深呼吸をする。そして俺は、扉を横にスライドした。





 真っ白だった。真ん中に置かれたのは白いベットのようなもの。だがベットほど幅が広くなかった。その向こう側にはどこか見覚えがある夫婦がいた。俺はその光景を見て頭を殴られたかのような衝撃を受ける。立っているのが精一杯で、もう何も、考えられなかった。

 ベットの上に横たわっていたのは、顔以外を包帯でぐるぐる巻きにされた、千冬だった。

 ──雪平さんは、霊安室です……──

 耳の奥でエコーがかかったように響くその言葉。意味を理解するには遅すぎた。





 もう、どれくらい経ったのだろうか。隣で啜り泣く音を聞きながら、俺は千冬を見つめていた。眠っているようなその表情から、どうしても目が離せなかった。今にも息を吹き返しそうで、でももう起きないんだと俺は知っている。夢だったらいいのになんて、今更どうしようもないくせに願ってしまうのだ。

 気がつくと両親もそこにいた。母さんは目に涙を浮かべ、父さんは瞳を閉じていた。とりあえず俺と両親は霊安室から出て、部屋の前にあった椅子に腰掛けた。

 千冬は交通事故で死んだ。昨日の深夜のことだったらしい。千冬がコンビニへ出かけ、帰り際にトラックで轢かれたのだと。母さんは冷静に、でも震えた声でそう教えてくれた。

 俺はその事実をすんなり受けいれていた。いや、受けいれてはいなかったのかもしれない。人ごとのようにただ受け止めていたのだ。

 




 それから2日後、千冬の葬式が執り行われた。そういえば、あの時霊安室で会ったのは、千冬の遠い親戚だった。千冬の父親が亡くなってから、うちに挨拶に来ていたからどうも見覚えがあったのだろう。その2人が行ってくれた。

 制服に身を包み、俺は両親と共に参列した。もう、俺は空っぽだ。花々に囲まれた遺影を見ても、棺に入れられた千冬を見ても、何も思えなかった。こんなのは、親友失格だ。あんなに一緒にいたのに、たくさんの日々を共に重ねたのに、涙ひとつも流れなかった。今は悲しみ以上に、喪失感の方が大きいのだ。


「にしても、本当残念よね。お父さんと同じ事故で亡くなるなんて」


 葬式場の給湯室前をたまたま通りかかった時に、そんな声を聞いた。思わず足が止まる。扉は閉まっていたが、はっきりと会話は聞こえた。


「それにどうやら、歩きスマホが原因らしいの。道にスマホも落ちてたって聞いたわ」


「不運よねー」


 だれだか知らないが、俺は沸々と怒りが湧き上がってきた。まるで何も分かってない。千冬が歩きスマホなんてするわけないだろ。勝手に語りやがって。何も知らないくせに。千冬のことも、千冬のお父さんのことも。

 俺はこの人たちの近くに居たくないと思い、その場からすぐ離れた。

 それでも、どうしてもその会話が頭から離れなかった。歩きながら考える。スマホが落ちていたというのは本当なのだろうか。そういえば、千冬は深夜にコンビニに行ったとか教えてもらった。でも、千冬が深夜に出歩くなんてどうも考えづらい。何かおかしい。行動が千冬らしくないのだ。だけど、千冬の死は事故以上の何ものではないはずだ。世間一般的に、いつ発生してもおかしくない交通事故。……そこが大事なのか。

 頭をよぎるのは最悪の展開。いや、そんなはずはない。

 ……千冬が、事故に見せかけて、自ら死を選ぶなんて。

 真実は誰も知らない。知りたいなんて思えない。俺はいつの間にか止まってしまった足を無理やり動かす。額の汗を手の甲で乱暴に拭った。



 千冬の時間が止まっても、俺には明日がやってきた。再び日は昇る。でも、何も手につかなかった。時間感覚も狂う。朝起きたと思ったら、外は茜色に染まっていたり、夜中に目が覚めてしまったりすることが何日も続いた。夏休みはもう残り少ない。だけど、夏休みが明けても、俺はこの部屋から出れる自信がなかった。朝が訪れても、いつもと同じ時間に千冬の家に行っても、そこからは誰も出てこないのだ。当たり前の日常は、もうそこにはない。

 無駄に頭が冴えている深夜2時。外は暗くて、まるで俺の心を映しているようだ。

不意に、ピコン、とスマホがなった。こんな時間に誰だろうか。無意識にスマホへと手を伸ばす。


『夏生くん、明日(というかもう今日)事務所来れるかな? ファンレターたくさん届いてるよ』


 その人からの連絡に、素直に了承することはできなかった。でも、もうこの活動は意味を為さなくなったのだ。やめるって、伝えに行かなくてはならない。





 重いドアを押し開ける。久々に出てきた街は騒々しく、苦しかった。何度も引き返そうとは思ったが、勝手に動く足が俺をいつの間にか事務所まで運んでしまった。

 

「お疲れ様です」


 入口の正面に置かれた大きめの丸い机に、奥には普通の会社のように並べられたデスク。久々に来たけど、何も変わっていなかった。

 今日は10人ほどしかいなかった。俺が声をかけると4人ほどがこちらを向き挨拶を返してくれた。他の人たちはそれぞれ作業に没頭していて、気づいていない。


「お疲れ様、夏生くん。色々大変だったよね……こんな時に呼び出してごめん」


 夜中に連絡してきたその男性、萩野はぎのさんが浮かない顔をしながら俺の元へ駆け寄ってきた。


「いや、いいんです。今日は俺、言わなきゃいけないことが、」


「あ、ファンレター! 届いているけど読んでく?」


 萩野さんは俺の言葉を遮った。おそらく、俺が何を言おうとしたのか勘付いたんだろう。かれこれ三年ほどの付き合いがあるが、萩野さんはこういうところが面倒だ。

 萩野さんは丸い机に置かれた段ボールの元へ俺を連れて行った。


「いっぱい来てるよ」


 ニコニコな表情に少しイラッとする。もう、やる気なんてないのに。でも俺はダンボールの中から一番上の手紙を手に取ってしまった。


『花桐 奏様』


 見たくない、その名前がどうしても目に入る。


「怪しそうなものは特になかったから安心して」


 萩野さんは椅子を引いて俺を座らせようとする。俺は長居するつもりなんてなかったのに、促されるまま座ってしまった。今向き合う勇気なんてないのに、もう帰路は断たれた。


 仕方なく段ボールを漁る。カラフルなレターセットの集まりが今は鬱陶しかった。その中で俺はある一通だけが視界に入った。その一通を手に取る。


『花桐 奏様』


見慣れた筆跡。俺はその手紙をゆっくりと裏返した。


『雪平 千冬』


 息をのむ。こんなところで会うとは思わなかった。血が、身体中をくまなく巡るのを感じた。バクバクと心臓が早鐘を打つ。


「萩野さん、空いてる部屋ってありますか?」


 俺は思わず立ち上がり萩野さんに声をかける。椅子はガタンと音を立てた。


「え? ああ、隣の部屋なら空いてると思うけど……」

 

 その言葉を聞き、俺は一通の手紙を手にしたまま部屋を出た。そして隣の部屋へと足を踏み入れる。扉を閉めた瞬間、俺の足からは力が抜け、しゃがみ込んだ。

 

「千冬」


 名前を口にしたのはかなり久しぶりだ。

 手にした手紙を見つめる。薄紫色の無地のレターセット。千冬のことだから、こだわって決めたのだろう。そして俺は、はやる気持ちを抑え、慎重に封を開けた。入っていたのは1枚の紙。意を決して折り畳まれたそれを開く。




花桐 奏 様


 初めまして。僕は雪平千冬と申します。

 まずは、お誕生日おめでとうございます。花桐さんにとって良い一年になることを、心から願っています。

 僕が花桐さんのファンになったきっかけとなった曲は、『救済法』です。僕は当時、とても辛いことがあり、死んだように生きていました。

 でも、たまたま動画投稿サイトで、花桐さんの『救済法』を聴き、僕の心は救われました。こんな僕でも生きていていいんだと言ってくれて、こんな僕の存在を認めてくれました。気づいたら僕は、ボロボロと泣いていました。

 それから僕は、花桐さんのおかげで生きられています。辛くても、苦しくても、花桐さんの曲を聴けば、あと1日だけは、頑張って生きようと思えるのです。崖っぷちだけど、『もう1日だけ』を繰り返しながら、僕はこの心臓を動かしています。

 言葉にするよりも思いが先にいき、なにから書けばいいか分かりません。でも僕は、本当にあなたに救われたんです。真っ暗だった僕の世界に一筋の光を与えてくれたのはあなたの曲なんです。

 これからも、僕は死ぬまでずっとずっと応援しています。死んでからも応援するもしれません(笑)

 暑さが続きますが、体調には気をつけてお元気にお過ごし下さい。僕は花桐さんが、花桐さんの曲が大好きです。



                   20XX年 8月 12日  雪平千冬





 不意に、手紙に液体が落ちる。それはじんわりと丸く広がる。2滴3滴と、続いて落ちた。

 俺は涙を流していた。そう気づいたら、もう止まらなかった。瞳の中の何かが決壊し、どんどんあふれてくる。


「うっ、うう」


 声にもならない嗚咽は、誰もいない部屋に響き渡る。

 かろうじて残った意識は、この手紙を濡らしたくないと叫び、俺は手紙を地面に置く。そして俺は体育座りした膝に、顔を押し付ける。まっ黒が世界を覆った。


 届いたのに、千冬の元に俺の思いは届いたのに、救えなかった。


 俺が『花桐奏』と名乗り音楽活動を始めたのは千冬の父親が死んですぐのことだった。

 千冬は誰かに頼ろうとしないところがあった。。全て自分で解決しようとする。でも俺にはそれが嫌で、だからせめて、密かに心の支えになればいいななんて思っていた。そうは言いつつも、俺には平凡な音楽しか作れないから、人気もないし実際に千冬に届くなんて思ってもいなかった。今思えば、ただの自己満足だったのだろう。

 でも、神のいたずらか、届いたんだ。あの日の嬉々として語る千冬の表情は今でも鮮明に思い出すことができる。それだけで俺は幸せだった。

 別名、花桐草であるアキメネスの花言葉は『あなたを救う』。

 俺は確かに、千冬を救った。


 ──人間はさ、いつ死ぬかはきっと生まれた瞬間に決まってると思うんだ。だから、悲しみたくないし、悲しんでほしくないと思うんだよね──


 あの太陽が異様に眩しかった日。どこまでも続く海を眺めながら千冬がつぶやいた言葉の真意を、俺はやっと理解する。

 あの場所で千冬は死ぬことを決めたんだ。

 その言葉は、俺にあてた言葉。


「ばか」


 悲しむな、なんて無理だ。俺にとっては千冬が何よりも大事だったのに。何年も一緒に生きてきて、これからも当たり前に隣にいると思っていたのに。

 千冬を救ったのが花桐奏なら、千冬を死に追いやったのは、海野夏生なんだろう。

 そんなのは、あまりにも残酷だ。





 泣いた。一生分ほどの涙を流した気がする。顔を上げてカピカピになった頬を両手で叩く。 

 体はマラソンを完走した後のように疲れ切っていた。でも俺は冷静だった。やっと気持ちの整理がついたのだ。

 千冬はきっと、前を向きながら死んだ。彼にとってこの死は英断であったのだろう。

 悲しんでほしくないのが彼の願いなら、俺はもう泣かない。それでもきっと無意識に涙が流れる夜はあると思う。そしたら俺はこの思いを音楽にぶつける。きっと、千冬ならどんなに離れていても必ず聴いてくれるだろう。

 驚いているかな、花桐奏が俺だと知って。

 ちゃんと、千冬の応援は届いたよ。

 

 立ち上がり俺は誰もいない部屋を出る。そのまま萩野さんの元へ行こうと思ったが、今の俺の顔はきっと涙のあとでぐちゃぐちゃになっている。そう思いとどまり、先にトイレに向かう。洗面所で冷たい水を顔に押し当てる。ひんやりしていて気持ちよかった。顔を上げるとそこには鏡に映った俺がいた。俺は口角を上げる。


「良かったな、俺」


 不恰好な笑みに、千冬の吹き出す声が聞こえたような気がした。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲しみにさよならを告げる夏の日 朝霧 藍 @Kamekichi-2525

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ