漆
庭師と弟子は、その日の作業をもう切り上げて帰っていった。ひどく頭の悪い選択だと思う。その結果、予定は彼らの分も、叔母の分も、私の分も狂わされたのだから。池の水は抜かれなかったが、庭全体の状況は今朝とあまり変わっておらず、これでは目的の状況下における結果を観測できない。
私は誰もいなくなった庭へと再び下りていった。鋏で切られた若葉の香りと、古い水の穏やかに腐った独特の臭いが、どちらもかすかな薄さで混ざり合いながら漂っている。私は庭の地面をぼんやり見下ろした。降り積もった松の枝の隙間から、痩せぎすの夢が一匹ふらりと飛び出すのが分かった。それにつられたように、石や木の枝、あらゆる物陰から、潜んでいた夢が姿を出し始めた。住処を荒らす者がいなくなったのだと把握したのだろう。私はしゃがみ、夢を驚かさないようゆっくりと、池の方から飛んできた乳白色のひとつに向かって手を伸ばす。小さくて鮮やかさに欠ける個体は、捕虫網などなくても容易く捕まる。手の中に閉じ込めたそれを確認しようとしたその時、私はどうも良くない気配を感じ、縁側の方を見ると、予感通りそこにはこちらを苦々しげに見つめる叔母の姿があった。
叔母は突っ掛けを履きと歩いてきた。先程の件での話があるのだろう。だが今は手が離せない。なので、忙しいから後にしてくれ、との旨を叔母に伝えた。しかし叔母はそれを無視し、あろうことか座っている私の腰を蹴り飛ばしたのだ。
「恥知らず!」
叔母が言ったのはそれだけだった。よろけた私は慌てて手の中を確認した。
「何見てるの! 何もいないだろう!」
たしかにそこには何もなかったが、それは叔母のせいだ。叔母に蹴られた衝撃で、私は手のひらで夢を潰してしまっていた。夢の溶ける感触は確かにさっきまであった。
叔母は再び私の腰を蹴った。今度は無言だった。そして呆気にとられている私を置いて、家の中へ引き返していこうとした。
もう駄目だと思った。今までは、叔母は愚かながら人の一部として、法を当てはめ、私もその思考を手段さえあれば理解しようとしていた。だが私が今まで相手していたのは、そんな当たり前のことが通じる者ではなかった。私はようやく確信したのだ。野生の獣や、慈悲もなく屠殺される家畜でさえ、我の衝動だけでは生きていないというのに。
私は賢人になりたかった。自らの魯鈍さが悲しかった。もっと早く夢の研究を完成させることが出来れば、あるいはもっと早く叔母の正体に気づいていれば、叔母共々憎しみという無駄な負担に苦しまなくて済んだのだ。
私は叔母の髪を掴んだ。そして勢いよく引き寄せ、傍らにあった庭石へと頭骨を打ちつけた。叔母は吊るされた子豚のような声をあげたが、あまり大きな衝撃は与えられなかったようで、足をばたつかせ、腕を振り回し、私から逃れようとしていた。しかし無駄というか、これもまた頭の悪い方法で、両手で私の体を突き飛ばすようにするか、両足で地を踏みしめて体が動かされにくくすればいくらかは良くなると思われるものを、そうせずに四肢をしっちゃかめっちゃかに動かすだけで、自分よりも腕力の強い者に捕まっている状況を何とかしようとしているのだ。私は叔母の頭を持ち上げ、もう一度庭石へと振り下ろした。硬い後頭部が少し凹んだ感触がした。これがなんとか致命傷となったのか、悲鳴は止み、叔母の人体はまるで体の半分を潰された草鞋虫のように、指や肘、腰、膝等あらゆる関節をぞわりぞわりとくねらせ、目玉を飛び出しそうなほど見開いたかと思うと、ある一瞬にぱったりと力が抜け、死んだ。
誰だって人を殺めることがどれほどの罪かは知っている。だが、秩序を正しく知る人に、この殺人についてのありのままを説明したならば、必ず理解してくれるだろう。たったひとつ恐れているのは、事情も知らずに癇癪のような嫌悪だけで私を否定し、叔母を哀れむ頭の足りない人たちが、揃えた声を荒げて正しい言葉をねじ伏せてしまうかもしれないということだ。でも私は社会を、人としてあるべき希望を信じる。叔母の髪から手を放すと、玉砂利にその身が音を立てて落ちた。物心ついたころからずっとやかましかった叔母が、物言わぬ死体となった様相を見下ろしている私は、その静けさにひとつの障害がなくなった実感を得つつあった。
暴れていた叔母のせいで物陰に引っ込んでいた夢が、またぽつぽつ姿を現していく。私はこれからどうするべきか考え、まずは叔母の死体を日陰の腐りにくい場所へと移動させようかと思いついた。
その時、意外な音が聞こえてきた。それは車のエンジン音だった。東の方から聞こえてくる。私はまさかと思った。すぐに通り過ぎていけば良いものを、この屋敷の門の前で正確にそれは止まったのだ。
それと同時に私の目が見つけたのは、縁側に置かれている庭師の分厚い帳面だった。
先程もめた様子から察するに、庭師たちは叔母に近い考えの者なのだろう。この状況を見たならば、どんなに理由を説明したとしても、私を私利私欲の人殺しと同等に扱い、何があっても私を悪と世に思わせようとする。そうなってしまっては私の行った研究によって豊かになる社会は失われてしまう。とにかく、今のこの現場だけはどうにかしなければならない。私は死体の髪を掴み上げた。帳面さえ返せば帰ってくれると思いたいのだが、この庭に来ないとも限らない。
「○さん、ちょっと失礼していいですか!」
玄関の方から声が聞こえる。
「○さん」
戸が叩かれている。
そう、死体が庭師の視界に入りさえしなければ良いのだ。ならば、と一時しのぎに過ぎないが、良い隠し場所を私は見つけた。この澱んだ庭池だ。
私は池の淵まで死体を引きずった。大きな水音を立てないよう、頭の方から慎重に死体を沈めていく。
「○さん!」
庭師は呼び続けている。こちらの都合を考えないものか。私は焦らないように作業を進める。藍色の着物が水を吸い、さほど深くない池の中に、叔母の体はすっと沈み、おどみの奥へと隠れていった。上手くできたかと思ったが、すぐに無意味な行動であったと気づく。
「○さん、何かあったんですか、○さん!」
白い玉石の上に、池へと続く血の川ができている。これでは何かの死骸を池に隠したのが分かってしまう。
余計なことをしていないで、庭師に帰ってもらうことだけを考えるべきであった。私はすぐに縁側にある庭師の帳面を拾う。そして玄関まで走り、引き戸を急いで開けた。
叔母ではなく私が現れたことに、庭師は大げさに驚いた。しゃっくりのような声をあげ、大きく後ずさり、何か言いたげに口を動かしている。私は革張りの分厚い帳面を差し出した。庭師は受け取らず、私を凝視し続けた。そしてようやく声を上げたかと思うとそれは、
「○さんは……」
という一言だけだった。その直後、私は庭師に体当りされた。よろけた私を横切って、庭師は土足のままで屋敷に駆け上がった。
私は庭師を追いかけた。庭師は○さん、と叫びながら廊下を走り回っていた。まるで狂ったようだった。それでも私は恐れずに彼を捕まえようと努めた。
縁側まで来た時に、庭師はいきなり立ち止まった。私はその隙に服か腕を掴もうとした。だが中庭へと飛び降りた庭師に一瞬だけ追いつけない。庭師は一直線に池の方へと走っていた。縁側から見ると赤い血痕はさらに目立って見えた。
私は庭師が水しぶきをあげて池に飛び込んだであろう音を聞きながら、玄関の方へと走っていた。靴も履かず、石畳を駆けて門を出る。そのすぐ左手にエンジンをかけたまま停まっていた三輪トラックの扉を開けた。運転席に座っていた弟子を道路へと引きずり出す。おそらく彼は私よりも力が強いと思うのだが、意表を突かれたようで簡単に退かすことができた。私は空いた席へと乗り込む。素早く扉を閉めると弟子の腕を挟んだ。うめき声があがる。私は扉を少し開け、弟子を蹴り出し、再度閉めた。運転の方法は知っている。近所の農作業を手伝うくらいはできるようにと昔叔母から教えられたのだ。
どこへ逃げるべきか、そもそも何故こうも懸命に逃げなければならないのか、分からないまま私は車を走らせた。とりあえず都会の方へと行くべきだろうか。建物も少ない一本道をひたすら進んでいるが、この道がどこへと続いているのかは知らない。もしかすると何もない方向へ行っているのではないだろうか。私はとにかく、私の話をまともに聞いてくれる普通の人間がいる場所に着ければそれで良いのだが。
淡々と、いくらかの車とすれ違いながら走っていると、徐々に冷静な気持ちが取り戻されてくる。何も焦ることはないのだ。……山奥でガス欠なんかにならないよう気をつけて、いずれどこかの街へと行ければ……目に入る人家の数は増えてきている。これなら大丈夫だ。この先に見えるトンネルを通った先くらいからは標識などで現在地をよく確認しながら走るようにしたい。
ガソリンは充分にある。前方では舶来品らしき黒い奇妙な車が走っている。あれを追いかけていけばおかしな所へ迷い込んだりはしないだろう。助手席では電源が点いたままのラジオが浮かれた歌謡曲を奏でている。私はどうにもその声が耳障りだったので、右手でハンドルを握ったまま、ラジオの電源を切るべく手を伸ばそうとした。
そこには人が座っていた。
記憶にある像と同じ、朧ろな姿で母が私を見ていた。
私は車を運転しているのも忘れてその姿に見入った。真っ白とも、虹色ともとれる色の肌は優しそうにうつろい、目玉だけが唯ただ黒く、見つめている私の顔さえ映さない闇に染まっていた。
あの夏と何ひとつ変わらない姿だった。
「母さん」
私の口から言葉が出たのは、感極まったから、というよりは、もはや私の存在を超えた何かに突き動かされたから、なのだろう。
「母さんのところへ行きたいの?」
流水のように清らかな声が囁いた。私はうなずいた。
途端、母の目が釣り上がる。顔は皺寄り、歪んだかと思うとぼろぼろ崩れ始めた。何かいけないことを言っただろうか、と私は思った。
雷を目と鼻の先に落とされたかのような轟音が響いたが、私はそれよりも崩れていく母に何を言おうか考えるのに必死だった。しかし今まで走ってきた道のずっと後方から、また違う人物の悲鳴が聞こえてきた。それは先ほど聞いたばかりの声……叔母の断末魔だった。私は恐ろしくなって母にすがりつこうとしたが、背中の方から伸びてきた濁った水のような色の腕に引きずられ、目隠しされ、その姿に触れることは叶わなかった。
水夢の澱 ファラ崎士元 @pharaohmi_aru
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