私は二階の窓から庭師の仕事を眺めていた。彼らは私が見ているのを知っている。いつものように、注意した通りやってくれるはずだ。私は翌日の観測結果を楽しみに思いながら、庭の草木が剪定されていくのを確かめていた。

 だが、午前の仕事が終わるより早く、庭師が縁側から屋敷に入っていくのが見えた。弟子は地面に落ちた琵琶の葉を掻き集め続けている。

 私は少し嫌な予感がしたので、階段をそっと下りて一階の様子を見に行った。予定では、階段のすぐ側にあり、応接間と隣接している仏間に身を潜めるつもりだった。しかし、応接間から人の気配はしない。

 よくよく耳を澄ましてみれば、庭師と、それから叔母の声が客間の方から聞こえてくるのが分かった。私はその襖に耳を当て、二人の話す言葉を聞き取ろうとした。だがどうも声が遠い。縁側の方にいるのだろうか。

 私は客間の襖をわずかに開けてみた。案の定その先に見えたのは、薄暗く誰もいない客間と、男女の影を映す障子だった。

 さらに叔母と庭師の声は、ここから聞き耳を立てる私が思うに、人に聞かれるのを明らかにはばかるような小声であった。私は客間の襖をそっと開け、物音を立てないよう慎重に、声が聞き取れる位置まで近づいた。立って行っては私の影が二人の目に入ってしまうので、着物の裾を持って、しゃがみながら移動した。

「……私も恐ろしいのです。どうなることか分かりませんから」

「こっちだって、こればかりは済ませておきたいと思ってるんです。奥さん、なんとか言い訳できないでしょうか」

「あの子は私が蚊で死にかけたことを知っていて、それでもそんな事を言いつけたのでしょう? もう、何を考えているのか理解できませんし、言葉も通じないような頭ですもの。そちらだって、あの子が何するか分からないのが怖くて断れなかったのでしょう」

「いや、まあ……」

「ああ……すみません、つい、嫌な感じで言ってしまって」

「いいえ、私たちこそしっかり断りきれなくて申し訳ない」

 庭師はあの件を叔母に話してはいけないと約束をしたことを忘れたのだろうか? 私は呆れた。こんな簡単なことを守れないような輩に今まで頼っていたなんて。

 だがその後の言葉に、私は今以上の衝撃を受ける。

「はこべや松を触らないくらいなら、私だって特に困らないのだけど。どうして今回はよりによって庭池を……」

「なんだか今回は、いつもよりきつい剣幕で言いつけに来ましたよ。頼まれたのを忘れた、なんて言分じゃ通じないように思います」

「困りましたねえ……あの子のいう通りにするわけにも行かないし」

 気がつくと、私は唇を血が滲む程噛み締めていた。怒りの由来は庭師の裏切りだけではない。叔母が私を騙していたこと、いや、私が今まで行ってきた庭師への指示について、叔母が気づかないふりを「してやって」いた、その傲慢さに、私個人の感情を超えた、人類の高潔を無下にされたような瞋恚を覚えた。

「そうだ。今日のところは汲み換えをせずに、後日家を空ける時にでもさせていただきましょうか。代金はいつも通り、今回支払ってもらう分だけで結構ですので」

「あら、そうしていただけますか。それは助かります。その時には気持ちだけでもお礼させてください。では、日にちは早めに決めておいた方が……」

 私は障子を開けた。

 叔母と庭師が動きを止めた。

 自分たちがしていたことが如何に下種であるか、はたと気づいたようだった。私はあくまで真摯に、彼女らを窘めなければならない立場であるのだが、人間として当然の言葉や態度で意思を交わし、理解を求めることができる相手ばかりではないのだと、こと叔母によっては嫌ほど思い知らされている。どうすれば彼女らに、自らの卑しさを教え、反省させることができるだろうか? 私はひたむきに考えながら、憎いながらも哀れな叔母の、形だけは丁寧に整えられている白髪の生え際を睨んでいた。

「奥さん!」

 庭師は突然叫んで、両手を広げ、私と叔母の前に割り込んだ。叔母は鳳仙花の古びた房が触れられたかのように体を跳ねさせ、靴も履かずに庭へと走った。

 何のつもりだか理解ができなかった。ただ、逃げるということはつまり、やましい覚えがあり、またそれについて省みるつもりがないという意味だと、私にはとても良く分かった。なので、私は叔母を逃がしてはいけないと思った。庭師を突き飛ばして、私も裸足で庭に下りた。小股で慌ただしげに走る叔母を掴まえるのは容易だったが、庭師の弟子が走ってきて、私を叔母から引き剥がそうとしたのには困った。

 弟子は、落ちついて、暴力はやめなさい、等といった言葉を繰り返していたが、全く見当はずれな説得である。私は冷静だし、暴力なんて野蛮な手段で物事を解決しようと思ったことは一度もない。その言葉はそっくり、叔母に伝えるべきである。私に着物と二の腕を掴まれ、きいきいと猿のように喚き暴れる叔母が、彼の目には入っていないのだろうか。

 とりあえず、私は自分が叔母に手を上げるつもりはないこと、叔母が逃げるかもしれないこと、反省させずに逃がしては今後の改善にならないことを、庭師とその弟子に教えた。それでも彼らは、とにかく叔母から手を離せ、としか言わなかった。この状況のままではまともな会話が不可能なので、私は仕方なく叔母を放した。どうせ逃げると思ったが、叔母は思ったよりも大人しくその場に座り込んだ。

 その後、私は彼らに、私に対する裏切りについての理由を話すよう問いただしたが、充分に納得のできる答えを得ることはできなかった。他人の目を見て話そうとせず、汗を流し、握った拳を震わせながら、支離滅裂なことばかりを呟く二人に私は嫌悪感と失望を覚えたが、彼らの立場に立って考えてみれば、これは無理もないことなのかもしれない。今まで自分たちが信用してきた叔母が蛮人であり、裏切ってきた私がまともな人間であると知れば、その後悔と混乱に思考が止まってしまうのも仕方ない。

 庭師はひたすら、申し訳ない、許してくれ、といった漠然とした謝罪だけを並べ続けていた。弟子は、どうしましょう、ええっと、のような場をつなぐ無意味な言葉をぽつりぽつりと口にしていた。

 別に私は謝ってもらいたくはない。欲しいのは説明だ。裏切りは人として許されない行為であるが、そこに真っ当な理由さえあれば、結果的に全体を良くするものとして私たちは受け入れられる。けれども、そういった論理によってなる思考は今の二人には無理だと判断したので、もういいから言える時が来たら教えてくれ、と告げて私は足袋の土を払い、二階の部屋へと戻ったのだった。

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