夏時雨

榊琉那@屋根の上の猫部

忘れられない幻想の夏

 マサルにとって夏は好きな季節ではない。特に嫌なのはジメジメした夏で、汗をかいてそのままでいる時など不快感しか感じない。元々は寒い冬が好きなので、暑い夏の時期は憂鬱である。

 更にマサルは元々肌が弱く色白なので、強い日差しに当たるとすぐに日焼けをしてしまう。それだけならまだしも、油断したら水膨れが出来てしまう程だ。中学、高校と運動部に所属していたが、夏の暑い日にランニングをさせられて倒れそうな事も何度も経験している。その当時は部活中は必要以上に水を飲むなとも言われていたから、どれだけ辛かった事か。今となっては思い出の一コマに過ぎないが。


 そんな夏には、いい思い出なんて無いと思っているマサルであるが、たった一つだけ忘れられない思い出がある。小学生の頃に体験した出来事。まるで幻想の世界の事のように感じられる、甘酸っぱい出来事。あの人はやはり幻だったのだろうか?


 ……………………


「マサル、今度の週末、山の中の別荘に行ってみないか?」

 突然、父親から言われた言葉。時は小学校低学年の頃だった。


 まだ夏休みの真っ最中。時々は友人と一緒に遊びに出かけたりもしていたが、基本的には家でアニメの再放送を見ていたり、ゴロゴロとしていて昼寝をしていたりと、退屈な日々を過ごしていた。因みに山のように出されていた宿題は、一部を除いて手付かずだ。恐らく両親の血筋だろう。親も尻に火が付かないとやる気の出ないタイプだから。去年もギリギリになって両親も一緒になって必死に宿題をやったのを忘れたかのようだ。まぁ今年も似たような感じになるのだろうが。

 そんな中での誘いだ。山の中の別荘というのがどういうものかはわからないが、暇つぶしにはなるだろうと思っていた。


 両親の話によれば、遠い親戚の人が僻地の山の中に別荘を持っているのだとか。本来なら別の親戚の人が管理をしているのだが、体調を悪くしているとかで、様子見と掃除等を兼ねて行ってきてほしいと話が来たらしい。うちの家族以外にも、顔も見た事のない様な遠い親戚の家族が2組ほど一緒に行動する予定との事だった。子供はマサル一人だけらしい。


「何か遊ぶところってあるの?」

「いや遊ぶところはないぞ。でも自然が奇麗な所だからな」


 ……、どうやらつまらなそうな匂いがプンプンしている。でも一人で留守番も出来ないからなぁ。仕方なく嫌々ながらマサルは同行したのだった。



「ねぇ、まだ着かないの?」

 家を出てから数時間、車は未だに山道を走り続けている。マサルは車酔いした感じで気分が悪かった。吐くまでではなかったが、途中休み休みながらの運転だったので、余計に時間がかかっていた。カーブばかりの山道。道は狭いままで伸びている。周りを見渡しても山ばかり。カモシカや猪が現れてもおかしくはないような、そんな風景が続いている。この単調なものが永遠と続くのではないかと思っているうちに、ようやく目的の場所に近づいてきた様だった。しかしながら、ここから目的地までは、碌に舗装もされていない道を走らなければならなかった。マサルは、げんなりとした表情を見せていた。そうこうしているうちに、やっと別荘の姿らしきものが見えてきた。

「……」

 見えてきたのは、予想していたよりも遥かに古臭い、お洒落の欠片もない家であった。ポツンと一軒だけ立っている家。こんな何もないような田舎にあるのだから、期待はしていなかった。本当にここで楽しめるのだろうか?


「マサル、着いた早々に悪いけど、まずは別荘の掃除を手伝ってくれ」

 確かにこの別荘は、暫く使われていなかったので埃まみれだ。掃除しないと寛げないだろう。仕方ない、掃除を手伝おうかな。マサルは掃除用具がないか探してみる。そのうちに、他の参加者もぼちぼち合流してくる。残念ながら今回は、子供はマサルのみだ。話を出来そうな人がいないので、ちょっと寂しさを感じていた。

 結局、今回参加するのは、自分の家族とは殆ど交流のないような遠い親戚みたいな人達と、父親の古い友人家族、そして自分達の3組だ。正直、遠い親戚の人とは馴染みが無いので、マサルとしてはどう接していいかわからない。


 そんな中で声を掛けてくれた人がいる。マサルの名前を呼んでくれた人の声は、とても澄んでいて綺麗だと感じた。

「君がマサル君ね。私はミオ。他に若い人はいないから、仲良くしましょ」

 マサルが見上げると、そこには若い女性の姿が視界に入って来た。緑の黒髪というのが相応しい様な、つやのあるロングヘアが印象的な美女だった。そして白いワンピース姿が、清楚な感じを一層引き立てているように感じられた。年齢は20代ぐらいに思えたが、夏という季節に相応しい様な爽やかさだった。マサルはどうしたらいいのかわからず、ドギマギとしてしまう。

「そんなに固くならなくてもいいのよ。リラックス、リラックス」

 ミオはマサルに向けて手を差し出す。マサルはオドオドしながら手を出そうとしていたら、ミオに強引に手を握られた。マサルは女の子と握手もまともにした事がないから、ドキドキしっぱなしだった。そして、とても柔らかかったのを覚えている。

「掃除が終わったら、向こうの川で水遊びしましょ」

「……」

 マサルは返事も出来なかった。クラスの女の子となら多少は話は出来るけれど、やはり仲の良い男の子同士で遊ぶ事が圧倒的に多いから、マサルは戸惑いを隠しきれなかった。とりあえず、ミオと一緒に拭き掃除を頑張る事にした。


「え?ここって電気もガスもないの?」

 マサルは驚きを隠せなかった。いくら田舎とはいえ、電気やガスがないとは思っていなかったので。辛うじてあるのは水道だけだった。じゃあ食事とかはどうするのかと思っていたが、キャンプの要領で今晩はバーベキューにするらしい。父親は本格的な登山の経験もあるので、そういったキャンプ用品は持っていたのだ。大きなクーラーボックスが幾つか用意されていたが、その中には食料や水が沢山入っていたのだった。もっとも、大人たちが飲むビールの量も多かったのだけれど。電気に関しては、ポータブルタイプの発電機を用意してあったので、ちょっとした照明には困らなかった。流石に用意周到だ。

「ミオさんは食事の準備、手伝わなくていいの?」

「うん、私って不器用だから。気にしなくていいから、早く行きましょ?」

 またしてもミオに強引に手を繋がれて、マサルは一緒に川辺へと向かっていった。手が汗ばんでいたのは仕方のない事だろう。



 どれくらい歩いたのだろうか。どこからか川のせせらぎが聞こえてくる。

「奇麗な川でしょう。これだけ澄んだ水の川ってなかなか無いのよ。私のお気に入りの場所なの」

 確かに綺麗な川だった。街中では見る事の出来ない美しい景色。まだ子供のマサルにとって、この良さはわからないものだ。それでも吹いてくる風は心地よかった。真夏なのに暑さを感じない。その点は嬉しかった。


「ねえ、一緒に川に入ろうよ。水が冷たくて気持ちいいから」

 いつの間にかサンダルも靴下も脱いで、ミオが川の中に入っていった。水深はそれ程でもないようだ。マサルも靴と靴下を脱いで、ミオの所に向かった。

「それ!」

 ミオは奇麗な川の水をマサル目掛けて浴びせかけた。マサルの上半身は水浸しだ。

「どう?冷たくて気持ちいいでしょ?」

「ミオさん、酷いよ」

「遠慮しなくていいのよ。濡れてもすぐ乾くから」

 マサルも川に入ってみる。信じられない位に水が冷たい。最初はちょっと遠慮しながら、ミオに向けて水を掛けてみる。

「そんなんじゃここまで届かないよ」

 ミオも思いっきり、マサルに向けてさらに水を浴びせていく。油断していたマサルは、頭から水を被ってしまう。でも何だか心地よい。

「えいっ!」

 マサルは今度は思いっきり水を掛けてみる。ミオもマサルと同様に水浸しだ。

「気持ちいいわよね」

 ミオは更にお返しとばかりにマサルに水を掛ける。マサルも負けじと水を掛ける。水を掛けられることで、マサルの中にあったモヤモヤのようなものが流されていくように感じられた。


「マサル君、どうしたの?」

 何時しかマサルはミオの事を凝視する事が出来ないでいた。

「あの……、透けてますよ……」

 マサルは真っ赤になって俯いている。ミオの白いワンピースは水浸しになっていて、下に着ているものが透けて見えていた。

「あ、これ?大丈夫よ、水着だから」

 そう言うなり、ミオはワンピースを脱いだのだった。下着ではなかった事に安心したのだが、それでもその時、小学生だったマサルにとっては、白のビキニ姿は眩しすぎた。直視など出来はしなかった。

 マサルも来ていたTシャツを脱ぎ、上半身は裸になる。こんな事になるとは思っていなかったから、水着までは用意していなかった。ミオさん、最初からここで遊ぶつもりで水着を着てきたのかなと。そして暫くの間、水の掛け合いが続くのだった。



「マサル君、少し休まない?」

 流石にずっと水の掛け合いをしていたら疲れてしまうのも当然だった。二人は休憩することにしたが、河原では休む場所などない。どうするのかと思っていたら、ミオさんはレジャーシートを持参していた。用意のいい事で。

「この辺りでいいかな。一緒に寝ころびましょうか」

 適当な場所にレジャーシートを引くと、ミオは仰向けに寝っ転がった。マサルは遠慮して端の方で体育座りをしていた。

「遠慮しなくていいのよ。さあ、こっちにどうぞ」

 ミオはマサルを無理やり引き寄せて自分の横に寝かせた。マサルはドキドキのしっぱなしだった。ただでさえ美人のミオなのに、裸に近いビキニ姿で自分の隣で横になっている。そして女性のいい匂いを感じられる。こんな時はどうすればいいんだろう?

「……」

 やはりミオを直視出来ない。マサルは横を向いて目を瞑っていた。そして何時しかマサルは眠ってしまうのだった。周りから聞こえてくるのは、ヒグラシの鳴き声。カナカナカナと響いている。他にも名も知れぬ鳥の鳴き声も。吹いてくるのは穏やかな涼しい風。木々の鮮やかな緑色。とてもリラックス出来たのか、マサルもミオも熟睡したのだった。


「マサル君、もう夕方に近いわよ。そろそろ戻りましょう」

「……、あれ?もうこんな時間?」

 どれくらい眠っていたのだろうか?辺りはいつの間にか夕暮れに近い感じとなっていた。何か不思議な感じがしていた。会ったばかりの人、それも美人の側で熟睡するなんて。余程疲れていたのか、それとも安心出来たのか。まぁそんな事はどうでもよかったが。ミオから差し出された手を自然に握り、手を繋いだまま別荘へと戻っていったのだった。


「何処に行ってたの?バーベキューの準備、手伝ってくれる?」

 のんびりと雑談をしながら歩き、別荘に到着するころには、辺りが暗くなり始めるころだった。男性陣は、バーベキューの調理用具を揃えたり、発電機の準備をしたりした。ある程度、準備が整うと今度は女性陣の出番だ。野菜や肉を切ったりしている。集まっている人数は10人近くなので、用意するのもかなりの量だ。ミオも一緒に手伝っているが、どうも包丁捌きが危なっかしい。やっぱり料理は苦手なのかな?マサルは何も手伝えそうにないので、料理を待つ大人たちと一緒にいることにした。大人たちと一緒にいるのは、どうにも居心地は悪かったが。


 バーベキューの準備が出来ると、男性陣は楽しみにしていたビールを飲みだす。外で飲むビールはまた格別なのだ。女性陣が焼いていく肉や野菜は、瞬く間に無くなっていく。大人しい普段とは違う、ハキハキとした父親の姿。マサルは、こんな一面もあるんだと感心したのだった。

「ミオさんは食べないの?」

「私はそんなに食べれないし、お酒も飲めないから。程々でいいの」

 う~ん、やっぱりイメージ通りだな、ミオさんって。マサルはじっとミオの事を見つめていた。どうしても気になってしまうのだ。

「マサル君、子供なんだからしっかり食べないと」

 遠慮がちだったマサルに、女性陣から皿一杯の野菜と肉を押し付けられた。食べきれるかなぁと思いつつ、やはり外で食べる食事は特別なのか、ペロリと平らげるのだった。



(よく寝たけど、今何時だろう?)

 バーベキューが終わってからは、片付けは適当にして早々に就寝した。ビールをしこたま飲んだ男性陣はすぐに眠っていた。電灯もなく夜は暗いので何も出来ないのだ。マサルも早い時間に眠ったので、まだ朝早い時間に目が覚めていた。やる事もないマサルは、周辺を散歩しようと思った。

「おはようマサル君、やっぱり早くに目が覚めたのね」

 気が付けばミオも起きてきたようだ。やる事もないので、昨日行った河原へと向かっていった。流石に山の朝は冷えるので、水遊びは無理そうだ。昨日行けなかった更に上流の方へと向かっていった。

「これはちょっとした滝なのかな?」

 河原から山道のような感じとなっている場所まで歩いていたら、段差のある場所へとたどり着いた。1,5mぐらいの段差だろうか。水量も多く、勢いよく水が流れている。周りの大きな岩には苔がはえていて、滑りやすかった。これ以上の上流には行かない方がいいと思ったので、二人で水の流れる様を眺めていた。ここからオオサンショウウオが現れても違和感がないような豊かな自然。まだ幼いマサルだが、何となく自然の良さが分かったような気がする。


 ザザザザーーーー。


 山の天気は変わりやすいとはいえ、突然大粒の雨が降り出した。雨雲なんて見当たらなかったのに。予想外の雨で二人はびしょ濡れとなってしまう。木陰を見つけて慌てて非難する二人。恐らく通り雨だろう。すぐ止むと思われる。

 しかしながら、夏とはいえ山の朝は気温が低めだ。急な雨に濡れた体は冷えている。

「マサル君、こっちにおいで」

 ミオの姿を見たマサルだったが、すぐに目を背けてしまう。濡れたワンピースの下にはピンクの下着が透けて見えていたからだ。流石にこれは水着ではないだろうと。そしてミオはマサルを捕まえて抱きしめたのだった。柔らかく、いい匂いがして、そしてずぶ濡れだったけれど、ミオの体は暖かかった。こういうのを夢心地っていうんだろうなぁ。どれくらい抱き合っていたのだろうか。いつの間にか雨がやみ、日の光さえ見えていた。

「……、帰ろっか」

 二人は黙ったまま、それでも手を繋いで帰っていった。マサルの手は汗ばんでいたが、雨に濡れたミオの姿が脳に焼き付いて離れなかったのが原因だろう。たとえ年を取って認知症になろうとも、その姿は忘れられずに残っているのではないかと思うくらい、強烈なインパクトを残していた。


 別荘に帰ってみたら、大人たちは、まだのんびりとしていた。男性陣はビールの飲み過ぎで皆、動けなかった。どう考えても飲み過ぎだろう。女性陣も簡単な朝食を用意しても誰も食べに来ないので、少々呆れ気味だった。

 今日の昼過ぎにはここを出ないといけないので、10時半近くになったら手分けをして別荘の掃除をする。昨日のバーベキューの後片付けは、いつの間にか終わっていた。思い返せば本当に短い時間だったが、マサルはこの別荘に来てよかったと思っている。

「マサル君、よかったら来年も一緒に遊びましょう」

 ミオはマサルと指切りをする。また来年にここで会おうと。でも来年まで会えないのがもどかしい、マサルはそんな気持ちだった。そしてミオとさよならをする。また来年も会える事を願いながら。今回はまともな会話は出来なかったけれど、来年は色々な事を話したいなとは思っていた。結局、ミオの事は分からず仕舞いだったから。

 当時はSNSや〇インは勿論、携帯電話さえなかった時代だ。せめて住所だけでも聞いていれば手紙を出したりする事も出来たのだが、その時は恥ずかしくて出来なかった。その些細な事が後に大きな後悔になろうとは、夢にも思わなかった。



 ………………………


 結局、ミオとは二度と会う事はなかった。くだんの別荘は、管理していた人が亡くなり、遺族も維持に否定的だったため、取り壊しとなってしまった。子供の頃に一度出かけただけの場所、それも何もない様な田舎だから、どの辺りにあったのかもわからない。今のスマホのマップ機能が当時にあればと思ったが、それは無理な話だろう。ミオとの事は、記憶の奥底に存在するだけとなっていた。

 もしあの時、住所とかを聞いてミオとの繋がりが切れなかったらと思うと、後悔の念で潰れそうになる。もっとも、ガキだった自分では、ミオの一番になる事など出来ない事はわかっていたが。


 あの夏の出来事以降、マサルの考えに変化がみられた。何も出来ずに後悔するくらいなら、失敗を恐れずに行動する方がいいと。引っ込み思案だったマサルにとっては、いい傾向だったかもしれない。しかしながら落とし穴はあった。素早く結論を出すようになったけれど、物事をしっかり吟味する事を無くしてしまったのだ。

 高校時代に告白された女の子、好みのタイプとは違っていたが、もうチャンスはないかもと思い、付き合う事になった。そして楽しみを感じる事も少ないまま、結婚することになった。ミオと一緒に遊んだ時のような等は、当然感じる事はない。




 そして何回の夏が通り過ぎたのであろうか?今はマサル一人だけである。甘酸っぱい夏の想い出だと思っていたものは、何時しか自分を縛る呪縛のようになっていた。何処で道を間違えたのだろうか?必要以上に暑苦しさを感じる今の夏が来る度に、あの夏の事を思い出すようになってしまった。美しい思い出としてではなく、行動を起こせなかった自分に対する後悔として。こんな憂鬱な気分になるのだから、自分は一生、夏は好きになれないのだろう。



 君思う 思いは遥か 夏時雨

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏時雨 榊琉那@屋根の上の猫部 @4574

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ