第三詩章 踊る少女に 光は降り注ぐ

 彼女の凍りついた棺の上にはこう刻まれていた。

「二〇三二年、十月十三日、ルネット、ここに眠る。

 しかし、この子は死んでいるのではありません。この子は生まれつき、目も見えず、耳も聞こえず、左半身不随でした。この哀れな子は、十四の年になるまでさまざまの治療を受けましたが、少しもよくならず、現在の医学では直すことができないといわれました。一方、点字を覚え、多くのことを知るに従い、彼女は多くのことを見たがり聞きたがりました。そして、自分の足と手で踊ることを望みました。彼女の心は大地を駆けめぐりたかったのに、彼女の魂は美しい海を泳ぎたがったのに、彼女はいつも暗黒の世界の真ん中から一歩も外へふみだせなかったのです。この子は、いつからか、ただ静かに涙を流すことを覚えました。

 今年になって人工冬眠法が発明されました。

 この哀れな子は、自分を人工冬眠させてほしいと申しました。そうして、自分の病気を治せる時代まで待っていたいというのです。

 私たちは反対でした。なぜなら、この子が目覚めるころは、この子の知り合いは誰もいなくなっているだろうからです。それに何より、私たちにとって娘との別れは娘の死と同じくらいの苦しみでした。

 しかし、この子の決心は固いものでした。私たちも、ついに決心せざるを得なくなりました。この子は今でも闇の世界で孤独です。だったら、たとえ孤独でも、光を見、音を聞くことができたほうが、この子のためにはきっといいと思うことにしたのです。

 これが、この子が眠り続けている理由です。二十五世紀、三十世紀、あるいは、百世紀のみなさん、もしこの子の病気が直せる時代が来たなら、この哀れな子を救ってやってください。この子の輝かしい命を光のもとに引き出してやってください。父レネ母マリエ」

「棺」は薄暗い照明の下で神秘的な色彩を放っていた。

 岩みたいに頑丈で床にへばりついたような真っ黒の管理装置は、軽いブーンという音を、かすかに発していた。

 そこからでている多くの線はまるで血管のようだった。

 一団の人間たちが、銀色の棺を囲んでいた。棺から反射する光が、照明の光と打ち消しあって、彼らの姿をはっきりしないものにしていた。棺だけが妙に輝いていた。

「三二年十月十三日か……」とひとりがつぶやいた。

「最後の平和な時代だな」

「そうだな」と別のひとりが言った。「三三年には局地的戦争が起こっている」

「それから大西洋大地震が二〇三七年に起きている」

 と、また別のひとり。

「いや、確か三八年でしたよ。その翌年、三九年に、あの『魔の三〇分戦争』が起きたんだから」

「うん、そうだ。あれは、三〇分で央上最高の死者を出したんだったね」

「今、思えば、あれが最終戦争の予行演習みたいなものだった。使われた核は、保有量の百分の一に過ぎないとか、千分の一だとかいう説もありましたが」

「その時の放射能のせいで後の小永河期と呼ばれた気象異変がやってきたというものもおる。あの時の全世界的な飢餓は歴史を大きく変えたな」

「確かに、遠因の一つではあるでしょうね。でも、あのころから今にいたる破滅の道のりには何か見えない推進力が働いていたような気がする」

「坂道をころがる雪だるまのようにね」

「そう。奈落へ直通の、あまりにも急な板道をね」

「あの時は追い打ちをかけるように、天変地異が続いたからね。火山の噴火や大地震も多く、津波もひどいものだった。地形さえずいぶん変わったからね」

「自然なんて弱いですね。ちょっとバランスが崩れるだけで、悪循環の連続でガタガタになってしまう」

「それはどうかな。結局は、人間にとっての自然が弱いということじゃないかな。人間が自然界の法則を破って増えすぎたといえるんじゃないか。自然はいつでもバランスを大切にしてきた。千年ぐらいの時間は自然にとっはあっという間だし、このぐらいの変化は大きな部類には属さない。人間の文明がすべて滅んだ後も、自然は大いなる復活力を発押して、荒廃した大地を緑で満たすことだろう」

「しかし、自然も永遠ではありませんよ、博士。自然にも始まりがあって終わりがあるんです。地球が生まれ、死ぬまでの、自然の必然の変化、あるいは、偶然の変化というべきかもしれませんが」

「いや、地球が滅びても、空にはまだ星が輝いておる。生まれる星もある。ひとりの人間が死んでも、また生まるものもおるようにな」

「お言葉ですが、少なくとも人間については、それは間違ってますね。何しろ、今まさに滅びようとしているんですからね」

「だが、大宇宙は滅びない」

「そうでしょうか」

「やめていただけませんか。答えの出る問題じゃなさそうですし」

 思いがけなく沈黙が訪れた。一度訪れてしまうと、それはもはや動かしがたい沈黙のように思われた。無理もない。この深い地下室の外はこの世で最も大いなる沈黙に支配されていたのだ。死という沈黙。

 時が音もなく流れる。

 ズ―ンという鈍い音が遠くから聞こえた。

 朽ち果てたビルでも倒れた音だろうか。

 だれも、もはやそれを気にとめるものはない。

 ひとりが声を上げた。

「どうしようか」

「そうだ、まったく、どうしようか」

 声はどこか空虚で、闇の中に吸い込まれていきそうな感じだった。それをなんとかつかまえようとするかのように別の声が答えた。

「現代の医学で治るんですか」

「というよりは、問題は、今ここでなおせるかだな」

「なおらんでどうする。わしはこの種の病気にかけちゃ世界的な権威じゃ」

「カルテはお読みになりましたの」

「むろんじゃ。必要な道具も全部ある」

「しかし、生き返らせるべきなんだろうか」

「そう。問題はそこだ。私は生き返らせるべきではないと思いますね。今や人類は滅びつつあります。草木は枯れ、土地は割れ、建物はくずれています。水も食料も残り少なく、大気の放射能汚染は生きとし生けるものの命をことごとく奪い去りました。人間の誇った機械も今はがらくたの山。われわれ以外に生き残った人間がいるとしても、われわれと同様、間近に迫った自分の死を見つめることしかできない。人間は運命の前にあまりに無力です。もはや悲しみさえわれわれを見捨ててしまいました。こんな状態の中に、再び生き返ったとして、幸せでしようか。ただ苦しむために、自分の命のむなしさを知るだけじゃありませんか」

「ぼくは生き返らせるべきだと思います。それがたとえ死ぬためだとしても。そのう、なんというか。彼女が人間である以上、人間として死ぬことを望むんじゃないでしょうか」

「だが、そういう君はどうかね。死と追いかけっこしながら生きてきて、今は逃げ道もなくなろうとしている。こんな時代に生まれてきたことを残念には思わないかね。いっそ生まれなかった方がよかったとは思わないかね」

「ぼくは、思いません。少なくとも、ぼくはまだ死に追いつかれてはいませんから」

「しかし、死だって悪くはないぜ。少なくとも現実の苦しみよりはな、死は長い眠りと同じだ。人間が死を恐れながら、平気で眠れるっていうのは不思議じゃないか。一日中寝ていたがるやつだっている。また起きられる、そう思うから平気で眠れるっていうだけだ、畢竟、死っていうものは誰もが怖がっていて、その実、推もが熱望しているものなのかもしれんぞ」

「だが。少なくとも死者は夢を見ないんじゃないだろうか」

「死者はそのとおりよ。でも氷の棺のお姫様は、夢を見てるかもしれないっていうことでしょ。私は彼女を醜い現実の前に引き出すより、美しい棺の中で楽しい夢を見きせておく方がいいと思う、彼女は何十年、何百年、何千年の間、冷たい氷の中で夢を見続けるの、人類が滅んでも彼女の魂だけは未来永劫美しい夢の中にある。すばらしいじゃありせんか」

「だけど一億年が一秒にすぎないこともある。十億年に匹敵することもね。彼女が何億年生きようとそれは彼女にとつて枯れ葉が落ちるよりもっと短い時間かもしれません」

「それに、この棺が彼女にとっておとぎの国とは限るまい。あるいは光と音のない暗い孤独の世界かもしれん」

「確かにそうかもしれない。でも、彼女をここから出しても、待っているのは、私たちと同じ苦しみと死よ」

「死なんか何でもありません。彼女は光と音と自由と、そして無限の広がりとを求めて、すべてを賭けたんですよ。彼女にとって死などなんでもありません」

「なるほど。だが、生き返れば、彼女は本当に望んだものを手に入れられるのだろうか?」

 やや沈黙があって暗がりから声がした。

「あるいは、何も。しかし、望むものが手に入らなければ、生きる意味はないのだろうか?」

「おや、神父さん。あなたはどうお考えですか。彼女を生き返らせるべきだと思いますか?」

「私にはわかりません。おそらく誰にもわからないでしょう。神がお決めになることです」

「神ですか」

「そう言って悪ければ人間以外のものといってもよい。たとえば、石にしてみれば彼女が生きようが死のうがした開題ではない。ちょうどわれわれにとって、石が左にころがろうが右にころがろうが大した問題ではないのと同じように」

「だが、われわれにとっては重大問題だ」

「そうです。だから決着がつかないのです。たとえば、われわれが歩く時、右足を先にすべきか左足を先にすべきかなどという問題を考え始めたとしたら、いくら考えても正しい結論なんかでない。この間題もそういったものなのですよ。ただ問題が重大なのでわれわれには決めかねているわけです」

「なるほど、そういうことなら、多教決にでも」

「いや、ちょっと待った。だったら。棺の中の独女に決めてもらったらどうです」

「しかし、彼女に聞くことはできません。いったん、冬眠を解いてしまったら、もう戻すことはできないんですよ」

「彼女が微笑んでいるかどうかを見るんです。もし微笑んでいたら。彼女は期待に胸ふくらませて、つまり、眼が見え、耳が聞こえる喜びを信じて、微笑んで眠りについたわけだから、冬眠を解いて手術する。彼女の望んだものを手に入れられるように。もし微笑んでいなかったら。彼女は期待もさることながら、目覚めた時どんなに世界が変わっているかということに不安を抱いていたわけだから、彼女を眠ったままにしておく。彼女の不安を現実のものとしないために。どうです。この考えは」

「いいと思います」

「なんか、理想論的な気がしますが、二者沢一なのですから、それもよいかもしれませんね」

 みなはそれほど熱心でなかったが、この考えに賛成した。そして、銀色の棺のふたが取られた。

 その瞬間、誰もが息をのんだ。

 少女は冷たく透きとおった氷の中に、何一つ身にまとわず、金色の長い髪を背に、あおむけに浮かんでいた。肌は透き通るように白く、手は祈っているかのようにふくらみかけた乳房の上に組まれていた。

 足は動かなかったとは信じられないほど、すんなりとカモシカのようだった。

 そして、あこがれをそのまま結晶させたような、若々しい顔には、みまごうかたなき微笑みが浮かんでいた。

 一瞬、誰もが、自分の体も自分を取り巻く世界のすべてをどこかへ起き忘れたような気持ちでその微笑みに見入っていた。人間というものがこれほど美しいものであろうとは、誰もその時まで知らなかったような気がした。そこには明るさ、信頼、希望、清らかさ、やさしさ、暖かさ、調和、今はこの世から失われた、人の知るありとある良いものが一つの美として結晶していた。

 その瞬間、誰もが、この美しさを永道に残しておきたいと考えた。

 だが、誰も口には出さなかった。やがて、彼らはただ静かに手術の準備を始めた。ただ従うしかない運命に動かされているかのように。

 少女だけが、今まさによみがえらんとしていることを知っているかのように、暗がりに動き回っている人々に希望に満ちた柔らかな微笑みを送っていた。

 手術は成功だった。病院の地下室だったので道具も薬も完璧にそろっていた。冬眠中だったので、血を流すこともなく、現代医学は、手術の傷口をほとんどもと通りにし、しかも、短い時間で彼女の運動機能を健康人に近い形にまで回復させることができるほどに進んでいた。

 あとは氷が解けるのを持つだけだった。

 さらに数時間が流れた。

 少女の目が静かに開いた。

 最初に薄暗い照明が目に入ったのだろう。まばゆそうに目をしばたいた。それから、目を見開いて周りを見回し、試すようにゆっくりと起き上がった。彼女を見つめるいくつかの顔は彼女の目には映ったはずだが、彼女にはそれは何の意味も持たない色と形でしかないはずだった。

 それから使ったことのない左手がゆっくり動いた。目の見えない人がするように、あたりを探り、棺のふちに触れると、今度は足を曲げ、棺の外へ出すと、彼女は二本の足で床にゆっくりと降り立った。棺につかまりながら、なえた足はそれでも彼女をなんとか支えていた。彼女の指は、目に見えたものを試すように、棺や自分の髪や手や胸や足をさまよっていた。

 目に映る世界は彼女にとってはまったく未知のものだった。彼女の目にとっては、おそらくすべては、何一つ意味を持たない強烈な光の印象に過ぎなかった。耳に聞こえる世界も同じだった。耳に響くものは、彼女にとって音でさえなかった。被女自身の口から出る声、それですら何ものでもない。しかし、同時に彼女の見間かれた瞳が間違いなく見ていることも、貝殻のような耳が聞いていることも確かなのだ。

 彼女は歩き出そうとする。だが、すぐに、彼女はつまずいた。生まれたばかりの体は、一度バランスをくずした自分自身を支えることはできなかった。ほとんど倒れかかった彼女の体をひとりの男が支えた。暖かく大きな手だった。そこで初めて、彼女はそこに自分以外の人間がいるのを知ったのだった。

「大丈夫か」と。その男は言った。しかし、それは彼女にとって風のそよぎに過ぎなかった。

「何を言ってもわからんでしょう」と別のひとりが言った。「彼女が見たものが何であるかを知り、聞いたことを理解できるほどの時間はわれわれには残されていない」

「あと、何時間生きられるか」

「放射能で死ぬのが先か、飢えて死ぬのが先か」

「あるいはこのシュルターがつぶれるかもしれん」

 不意に照明が暗くかげった。みなが一瞬ぎくりとした。

 けれど、少女だけは我を取り戻したかのようにまた歩き始めた。信じられないことではあるが、彼女の歩みはもはやしっかりしたものになっていた。彼女の目は、何が理解できるというのだろうか、きょろきょろとあたりを見回していた。両手を前にだして、手探りしながら歩き回り、目に飛び込むものに触れてみるのだった。

 彼女以外の人々は、壁に貼りついたかのように身動きもせず、彼女を見守っていた。

 やがて彼女は扉を見つけた。それは外へ進じる扉だった。ゆっくりと、ごくゆっくりと彼女はその重い間を開く。ふいに一陣の風が、扉の向こうからやってきて彼女の顔をなで、長い髪を舞いあげた。その大きな瞳をいっそう見開いて、彼女は眼を上げた。彼女は風を見た。

 風の息づかいを聞いた。彼女はいきなり走り出した。光あふれる外へ、そして、放射能のうずまく外へ。

「いけない、外へ行っては。死んでしまうぞ」

 はっとひとりが我に返り、彼女を追った。その声にみなが続いた。地下室から外へ出る階段は長かったが一本道だった。彼女は風のように走っていた。追う者たちは一瞬、世界が逆さになって、はるか下の星のように見える光=外へ、彼女が落ち込んでいく、いや吸い込まれていくのではないかという錯覚にとらわれた。だが、それは誤りだった。ふいに、明らかな光が、すべてを明らかに照らし出した。少女と、その観客は外に出ていた。

「おお、明るい」

 一人がつぶやいた。天上高い太陽からふってくる光は、滅びたビルを、朽ち果てた道を、枯れ果てた樹木を、色の見えぬほどの明るさで照らしていた。

「この明るさはどうだ」別の誰かがいった。

 気まぐれな風が、ビルの残骸や鳥の死骸や裂けたアスファルトの上を吹き抜け、ほこりを舞いあげていた。

 少女は走り続けていた。

 いや、そうではない。

 少女は踊っているのだ。少女はその舞台がいかなるものか知らない。自分の足もとの死体の意味を知らない。世界を支配する沈黙の意味を知らない。自分の足音を知らない。自分の口から発せられる声が自分のものであることを知らない。自分の手が、足が、髪が、彼女に属するすべてのものが、自分のものであるとさえ知らない。

 だが、意味など彼女にはいらなかった。

 この世の何もかもがすべて彼女のものだった。もはや氷の中の美しさはない。何度もころんだせいで、手も顔も体も汚れ、足からは血も出ていた。だが、それは、彼女の生命の輝きにはいっそうふさわしいものだった。今、少女はまばゆく輝いていた。

 いや、少女は輝きそのものだった。

 踊る輝き。

「生きるとは……生きることとは……」

 と一人が言いかけたが、それ以上、言葉が見つからなかった。誰もが少女の輝きに目がくらんだかのように、ただ、呆然と立ちつくしていた。

 太陽は分けへだてなくすべてに光を投げかけていた。

 少女にも、それを見ている人間たちにも。

「疲れた」

 ひとりがそう言ってかたわらの石に腰をおろした。他のものは無言のままそれにならった。この風景を見ていると、現在というものが、過去や未来につながっているものとは、とうてい思えなかった。

 絵のようだ。とひとりは思う。機細に書きこまれたペン画のようだ。廃墟を舞台に踊る少女、それを見ている彼ら、そして地球の何億倍もある太陽があんなに小さく見えるほど長い旅をして地球に降り立つ光と。

 少女はもうかなり遠く、その小さい姿は、くずれた建物の間に見え隠れしていた。

 突然、一陣の風が彼らをかすめて通りすぎた。

 その時、彼らは見た。不意に視界にあらわれた少女が、今まさに光の中に舞い上がらんとする姿を。

 そして、彼らは聞いた。砂時計の砂の最後の一粒が、今まさに落ちんとする音を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三つの詩章 @hasumiruka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る