第二詩章 ノート
やあ、これがぼくの鉛筆。これがぼくのノート、そして、ぼくの書いた書きかけの小説だ。
いったい人間ってなんなんだろう。
食べ、飲み、眠るだけの動物に過ぎないのだろうか。
ナポレオンだって、ベートーベンだって、聖徳太子だって、徳川家康だって、結局はそれだけのことじゃあないだろうか。石が、ヒトラーに踏まれたからと言って怒るだろうか。山がモーツァルトに感動するだろうか。偉人は、しょせん、人の間の偉人に過ぎない。
そして、死んでしまえば、もはやこの世にいない。
ぼくは時々、生物の死滅した地球を思う。そこには見渡すかぎり緑がない。ただ透明な育空と赤茶けた廃墟がいつまでも続くだけだ。聞こえるのは風の口笛と、家の朽ち果てる音ぐらいのもの。それも、ただ静けさをいや増すだけだ。
倒れた建物の隙間からいろいろなものが見える。
もはや誰も時間など気にせぬ世界で、十一時五分前を指したまま眠っている時計。
ほこりだらけのダイヤモンド。
二度とどんな音楽を奏でることもないグランドピアノ。
その上に乗ったバッハの平均律クラヴィーア曲集も、今は無意味な記号の羅列でしかない。無邪気な風が時折ベージをめくるだけだ。
本もテーブルも冷蔵庫もスリッパもテレビもバソコンも、もう意味を持たない。あるのは、何物でもない何かだけだ。
永遠に残るといわれた芸術品ももはやただの石ころと何の区別もない。
人間の存在ってなんて空しいのだろう?
そして、このぼくだ。
ぼくは、有名でもなければ才能もない。これまでの人生で何をなしえたわけでもない。これはどうだ?
いかに空しかろうと芸術品は人間が生きているかぎり残るだろう。本人が死んでも、偉人の残した業績は人の賞賛を受けて残るだろう。あるいは、だれ知らずとも、自分の本分を立派に果たした満足を残して逝った人もいるだろう。
だが、このぼくときたら、時間に追われるままに、何もしなかったではないか。
ある時は、レストランで昼食をとった。
またある時は、学校で友人と笑い合った。
必死で試験勉強をしたこともある。
だが、自分自身で満足のいくものを何か残したろうか。
何もない。
だが、もう、今のぼくにできることは何もない。ぼくの存在はあまりにむなしい。
もはや、ぼくには悲しむべき心さえない。
ただ事実をそのまま眺めるだけだ。これがぼくの鉛筆。これがぼくのノ―ト。そしてこれが……
扉を聞けて、お母さんが入ってきた。
「変ねえ。まだ帰ってこないのかしら、あの子ったら」
ひとりつぶやいてぼくの机をちらっと見る。それから何も言わずに、床に脱ぎ敵らかした衣類を片付け始める。
ぼくの靴下、ぼくのパジャマ。
まぎれもないぼくの持ち物だ。いかに存在が希薄だろうと、ぼくは間違いなくそこに生きていた。
ノートの字は、まぎれもなくぼくが書いたものだし、ぼく以外の誰も書けなかったはずのものだ。ぼくがいなければ、このノートは真っ白だったろうし、鉛筆も長いままだったろう。靴下もパジャマも、ぼくがいなければそこになかったはずだし、なにより、お母さんは、ぼくの帰りが遅いことを心配することなどなかったろう。
いかにちっぽけであろうと、この「ぼく」という存在がそこにあったのだ。それはベートーベンがこの世にいたのと同じだ。誰も知らないかもしれない。歴史に無関係かもしれない。だがそれでも、ぼくという存在は生きていた。ここに明白な証拠がある。ぼくの鉛筆、ぼくのノート、そして……
お母さんは時計を見やる。七時半。
「遅いわねぇ」と少し不安そうにつぶやく。
ああ、お母さん、お母さん、いくら待っても帰ってくるはずのないぼくなのですよ。
ぼくは学校の裏の古井戸の底に、あこがれるような空を見上げて、死んでいるのですよ。ここにいるのは、ぼくという記憶が、なつかしさにつられてやってきたのに過ぎないのです。ぼくが自分というものを感覚することをやめてしまえば消えてしまうのです。
ぼくからは、お母さんがこんなにはっきり見えるというのに、お母さんからはぼくが見えないというのは、なんて悲しいことでしょう。せめてぼくの声だけでも届くなら……
一通り片付けると、お母さんは、部屋を出ていこうとする。ぼくは思わず聞こえない声で呼びかけた。
「お母さん!」
お母さんはふりむく。
けれど、そこには、だれもいない。
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